第18話

 一旦家を出てから、数歩でトンボ返りをすることになった。カレンダーが九月に入ったことで、揚々と長袖のブラウスを着て出たのが大きな間違いだ。残暑というよりも新しくピークを迎えたような、まっすぐな日差し。半袖のシャツに着替え直して、数年ぶりの帽子でも合わせようかと鏡の前に立つ。結局帽子は置いていくことにして、陽炎に溶かされそうなアスファルトを睨んだ。

 テレビで見た、高校野球の映像が思い浮かぶ。永島さんから月人と高校野球のスター選手との対戦案があって以来、自然と目が向くようになっていた。来る日も来る日も暑そうで、球児たちの白いユニフォームと同じ色のアイスを食べている自分が贅沢者に思えた。でもきっとテレビの向こうの彼らは、アイスなんかより泥にまみれていく白と焦げそうな黒い肌が勲章なんだろう。

 高校球児にとっての天啓のような空の下、月人は球児に立ち向かう。きっと逆境だらけだっただろう、月人の生き様を象徴しているような気がした。

 今日、私には私の戦いがある。

 苛立ちを抑え、月人と会ったあの日。

 相も変わらず、月人は私にだけ重要なことを漏らしていった。どうして欲しいというわけでもなく、ただ隠していた秘密を吐露した。

 いつからか、私は心の中のどこかで月人を責めずにいられないでいる。あなたのせいでミューズが苦しんでいるんじゃないか。あなたが正直に気持ちを伝えるべきなのは、私ではなくミューズなんじゃないか。あなたがミューズとぶつかり合っていれば、私は中学であんな目に合わずに済んだんじゃないか。

 本当は全部、分かっている。私はミューズを責めることができず、かといって昇華もできていない感情を月人に転嫁しているだけ。

 うんざりなんだ。この兄妹に巻き込まれて、私一人で悶々とする日々は。

 月人が主張を貫き通して出場を決めた、始球式の今日。

 身支度をする間も、気づけば眉間にしわがより奥歯を噛みしめた。私は怒っている。何に、と言われれば内緒話ばかりの月人でもなく、意固地で感情的になりやすいミューズでもなく、「あんたそういうところあるよね」と私を見て呆れる姉でもない。

 姉の台詞はつい先ほど、鼻息荒く身支度をしている時にかけらられたばかりの新鮮な言葉だ。

 そういうところってどういうところ、と尋ねると彼女は答えた。変なスイッチが入ると止まらないところ、と。私は言い返せないまま、弾かれるように家を出た。ツカツカとカナで書けそうな足音で駅に向かう。家の前の薬局の角を折れ、大きな通りに出たところでようやく姉に仕向けるべき反論文がまとまる。

『お姉ちゃんに私の何が分かるの』

 できあがってみれば、文というのも大げさな、ありきたりな一言。私は、たとえ相手が姉であっても言葉を十分に扱えていない。だから魔法のように言葉を使う彼女はいつも正しいように見えるけど、私にだって言い分ぐらいある。

 改札を抜けてホームに立つと、野球チームのユニフォームを着た人を見かけた。今まで素通りしてきた景色だけど、今日は嫌でも目に留まる。球場へ向かうだろうおじさんは、持田月人という選手も見ることになるだろう。どんな風に映るのか、想像すると落ち着かない。

 電車に乗り込むと、まずユニフォームの白が目に飛び込んでくる。その視線が全て月人に向けられるところを想像して、気が遠くなりそうになる。弱ったところに重なる姉の声。

「あんたそういうところあるよね」

 うるさい、うるさい。変なスイッチは、私の意思で押しているんだ。くじけそうな自分を奮い立たせるために。私は、自分自身に怒っている。だって今日戦わなければ私の願いは叶わない。止まるな、進め人形ヤロウ。

 球場に向かう人たちを見送り、私はいつもの駅で降りた。なずなへの足取りが重い。いなかったらどうしよう。知っているくせに意味のない仮定をする。いないはずはない。どこかで、いなければいいと思っている自分を叱り飛ばす。甘えるな根暗。

 すっかり見慣れたドアを開け、出迎えたミューズと目が合った。ミューズは当たり前のようにテレビ前の特等席を指さした。

「来ると思ってたよ。あそこ、ゴマ君も約束通り来てる」

 私が一緒にテレビを見に来たと思い込んでいるらしく、ミューズはそのまま去ろうとした。店内に入らず、入り口で止まっている私を不思議そうに見た。

「どうしたの? 座ったら?」

 ミューズの反対を押し切ってまで月人が選んだ晴れ舞台の日に、彼女はここにいる。それが、ミューズの答えだと月人から聞いた。どうしても出るなら勝手にすればいい、私はもう関係ない。それが彼女の導きだした結論。私はまた怒りに燃える。ミューズは、この女は、何度私の前に立ちはだかればいいのか。私にとって、なずなは守りたい数少ない場所になったのだ。またそれをこの女の手で壊されるなんて。許してはいけない。

 喋れなくたって、これが私の言葉だ。

 私は思いをありったけこめて、手をかざした。何事かとミューズが身構える。

 右腕を掴まれたミューズが、呆けたようにこちらを見ている。何か言われるより早く、私はその腕を引っ張った。

「ちょっと、なにすんの」

 ようやくミューズが慌てた声を上げる。私は無視して引っ張った。だんだんミューズの抵抗と声に力がこもる。

「やめてったら、何考えてんの?」

 困惑するミューズの姿に、奇妙な感情が湧いた。私は、楽しんでいる。きっといざミューズに抵抗されたら怯んでしまうだろうと、必死に怒っていると自分に言い聞かせて今日ここまで来た。だけど、その必要はなさそうだ。あのミューズにやり返していることに、爽快さを感じていた。ミューズが困惑と怒りでめまぐるしく顔色を変える様子が、可笑しい。

「ねえ、頭おかしくなったの?」

 言いながら、ミューズはだんだん店の外に引きずり出されている。私の方が細いし背も小さいのに、負ける気がしない。

 私は理解する。これで帳消しなんだ。ミューズが中学生時代に私にしてきた仕打ちは、今日のこの所業で帳消し。降って湧いた話にしては妥当じゃないだろうか。むしろ、私はきっと優しいぐらいだ。相場は知らないけど。

「私は仕事中なんだけど?」

 この台詞で私が引き下がると思ったのだろう。同意を求めるようにミューズは店内を振り返った。私に向き直った顔は、明らかに混乱していた。その拍子にまた前へ進み、ミューズの後ろ手がドアから離れた。

「どういうことなの」

 期待した増援が得られず、信じられないものを見る目で私に無駄な抵抗をしていた。仕事中の娘を無断で連れ出すほど、私は無礼じゃない。月人を通して、お父さんとお母さんに話は通してある。

 もう、ドアを離れてしまえばミューズは大して抵抗しなかった。ぐんぐん進み、時々聞こえるミューズの抗議は一応している、といったぐらい。

「ちょっと戸村、ふざけないでよ」

「ねーえ、聞こえてるの?」

「なんなのよもう」

 だんだん静かになるミューズの後ろから、駆け寄ってくる誰かの気配がする。そうそう、三人で一緒に行かないと。

「待ってよ、僕も行くよ」

 慌てて店を出ただろうゴマ君が追いついてくる。二人三脚のようなスピードの私たちを、うっかり追い抜かしかけて止まった。

「月人くんを見に行くんでしょ?」

 ゴマ君の口ぶりはいくらか弾んでいた。ミューズが行かないならと、なずなに居残る選択をしたゴマ君。試合開始前のイベントなんてテレビじゃ見られないと、当然知っていたはずなのに。

 掴んだままの、ミューズの腕が強張るのを感じた。振り払われる、と掴む手に力を入れかけたけど、ミューズは強張らせたまま動きはしなかった。

「なんで私まで行かないといけないのよ」

「ねえ、あやちゃん。試合のチケットは持ってるの?」

 私は首を傾げた。チケットは球場で買うんじゃないんだろうか。私の考えを見透かし、ゴマ君が答える。

「ダメだよ、日曜日のデーゲームは当日券じゃ入れない。僕が三人分なんとかするから、二人は先に行ってて」

 ゴマ君はスマホを取り出し、手を振って私たちに急ぐよう煽った。有無を言わさぬ勢いで、私たちは駅を向かうよう指示を受けた。

「入り口で混むと厄介だから。まっすぐ球場に向かった方がいい」

 スマホから顔を上げ、離れていく私たちに最後にそう呼びかけた。私は先を急ぎながら、地団駄を踏みたくなる。迂闊だった。チケットが無ければ話にならない。

「ねえ、本気で私を連れていく気なの」

 ヒステリックに怒ってくれた方が、私の決意は揺らがなかっただろう。弱く出られると、つい許してしまいそうになる。それでも私は手を離さなかった。月人と最後に会ったときのことを思い出していた。月人に呼び出されて、久しぶりにタコス料理の店で会った時のこと。

「なんでよ。これって私たち家族の問題でしょ?」

ミューズが急に声色を落とし、私の目を見た。嫌というほど、答えろというメッセージを発している。

 それでも私は手を離さなかった。怯んでいる時間はない。ミューズは何も言わなかった。ため息を漏らし、渋々ながら私の後を付いて来た。ミューズがもう抵抗をしていなくても、腕は掴んだままにしておいた。今日だけは、とことん私の思い通りにさせてもらうつもり。それで私たちの過去は清算される。

 私だって、他人の家庭の問題に土足で踏みこんでしまっていると承知はしている。でも私の権利だってあるはずだ。なずなの客として、平和なお店を求める権利。それと、月人に押し付けられた役割を果たす権利。

 月人から聞かされたのは、月人が初めて付き合った彼氏との顛末だった。ミューズが目の敵にしていた、私と同じ緘黙の男の子。私としては、この期に及んで昔話を始める月人が憎たらしかった。ゴマ君からまっすぐな憧れを受けてもなお彼に大事なことは話さず、こそこそ私を呼んで話を聞いてもらおうなど。だけど、その時ようやく分かった。月人が私にだけ打ち明け話をする理由が。

 電車に乗り込み、四人掛けの席にミューズと向かい合って座ったところで掴んでいた手を離した。

「全くさ、犯罪者じゃないっての」

 ミューズはとげを含んだ言い方をしたけど、本気で怒っているわけではなさそうだった。私は小さく頭を下げて、お詫びのつもり。

 月人と元彼とやらは十五歳から四年間、大学に入って少し経つほどまで付き合っていたそうだ。その間、誰にもバレることはなかったと月人は言い切った。実際には一番身近なミューズに見られてしまっているわけだけど。私は白けた気持ちで聞きながら、ぼんやり隠れキリシタンの生活を連想していた。

「あいつは、死のうとしたんだ」

 突然出た物騒な言葉に負けず、元彼とやらとの終わりはショッキングな話だった。自殺未遂。とはいえ切り裂いたのは手のひらだったらしく、やっぱり変わった人だったのかもしれない。

 私は自分の手のひらを眺めてみる。どう切り刻んだってこれで死ねるという発想にはたどり着きそうにない。第三者から見れば滑稽な話も、当時の月人が受けた衝撃は文字通り食事が喉を通らないほどだったそうだ。

「手、どうかしたの」

 ミューズが心配そうにのぞき込んでくる。今の私は敵と言ってもいい存在なのに、面倒見の良さが上回っている。私はゆっくり首を振って大丈夫、と表す。

「言っておくけど私、月人を見に行くことに納得したわけじゃないから」

 ミューズの言葉に、私は落ち着かない瞬きを繰り返す。

「どうせ今からチケットなんか手に入らないよ。それで二人とも、諦めがつくでしょ?」

 私は首を振った。負けたくない、頭の中はただそれだけだ。窓の外に目をやると、河川敷でキャッチボールをしている親子がいた。願わくば、あの子どもにとって野球が楽しいものでありますように。

 元彼は命を取り留めたものの、直面した問題が二つあった。一つは、元彼に引きづられるようにして月人自身が心を病んだにも関わらず、打ち明けられる相手がだれ一人としていなかったことだ。十九歳にとって、同性愛を打ち明けその恋愛の悩みを相談するなど、途方もない勇気を振り絞るか、人生を捨てるぐらいのヤケになるぐらいの気力が必要だった。そして十九歳にとって、恋愛の悩みを誰にも相談できないことのストレスは耐え難い苦痛だったそうだ。

 もう一つの問題は、相手が自殺未遂に及んだ理由だ。これが十九歳から今日に至るまでの数年間、あるいはこれからもずっと、月人を呪縛して離さない根っことなる。彼は、子どもを作ることができない事実を呪っていた。十九歳なんて、都合の悪い現実はさて置いて、即席麺みたいにお手軽な娯楽で茶を濁しておけばいいのに。彼はずいぶん先回りをして人生に絶望し、子どもを残せないなら生きる価値なんてないと結論づけたそうだ。 

 私は面食らって話を聞いていた。自分は生涯子どもを作ることはないだろうし、わざわざ死ぬつもりもないから、ちゃっかり死ぬまで一人で生きていくものだと思っていた。どちらかと言えば、緘黙症で人とろくに話せない自分こそ、生きる価値がないと思ったことはある。

 今の私より三つ下の緘黙症の彼が積極的に死を選びにいった理由が、子どもを作れないからというのは、なんて前衛的でませた考えなんだろう。当時の月人は、私とは違いもっと単純な衝撃を受けた。自分の恋人が死のうとしたのだから当然だろう。

「後から思えば、本気で死ぬつもりはなかったんだろうね」

 と月人は苦笑した。切ったのが手のひらという辺り、本当は当時でも分かったんじゃないだろうか。それでも彼が起こした抗議行動、やり場のない怒り、自分自身への不信感のようなものに、月人は飲み込まれたんじゃないかと思う。自分たちにはどうしようもできない理不尽な大波を前に、一緒にただ飲まれた。

 これは月人の言葉の端々から私が勝手に想像したことで、確かめようはない。多分、月人自身も当時の自分の真意は掴めていないのではないだろうか。

 私の隣でミューズは、そっぽを向くように通路側を眺めている。チケットさえ手に入れば、ミューズは球場に入ってくれるだろうか。

 月人の考えを説明する術のない私が、こんな強硬手段をとるなんておこがましいことだと思う。月人に面と向かって頼まれたわけでもない。犯人が動機を自白するような明快な説明を受けたわけでもない。 

 それでも私は、正しいと信じている。

 誰よりも人が考えていることを拾っているという、月人がいつか話した称号を信じるしかない。私なりに、あるのかも分からないアンテナとやらを使って考え抜いた結果だ。ミューズも、ゴマ君も、お父さんもお母さんも、月人も。全部の想いを受けて私は選択をし た。

 私はまた、窓の外に視線を移した。家ばかりが続いて、人がいない街並って冗長だと知る。

 大波に飲まれることにした月人は、彼と縁を切った。駆け引きなのか本気なのか分からない彼の主張をすべて受け、別れ、別れたあとも律儀に彼の提起した問題に悩んだ。子どもを残せない自分は、生きる価値がないのかと。

「でも大学時代は意外と楽しかったよ。僕にとっては男も女の子も等しく友達だから。周りの恋愛の悩みが全部他人事で、なんだかみんな僕に相談してくれて。何か助言ができるわけじゃないけど、仲良い相手がたくさんできたのは悪くなかった」

 と、何事もなかったように語っていたけど、つまるところ月人は男性も女性もパートナーを作らないことにしたらしい。

 考え事にふけっていても、耳はきちんと車内アナウンスをとらえた。調べておいた、球場の最寄り駅が繰り返し告げられる。私が顔を上げると、残念と言いたげにミューズがため息をつく。いつの間にか、電車内はユニフォームやグッズを手に持った客が大半を占めていた。一見通りすがりに見えた母子ですら、子どものリュックからメガホンがはみ出している。おかげで球場への道のりに迷うことはない。もはや、人の流れと逆行することが異端に思えるほど決まった方向へ進む。

 私は電車に乗る前と同じように、ミューズの腕を掴んでいた。私がはぐれたくなくてそうしていた。いつの間にかミューズが私の前を進んでいて、名実ともにミューズが先導役になっている。

 まだ駅の構内にいる時点で、球場が目と鼻の先だということは分かった。道が赤いチームカラーで舗装され、どこからか応援歌も聞こえてくる。一歩一歩進むたび、周りの子どもたちは意気が上がり、若い男性の仲間内では勝ちを期待する声が大きくなる。今日はさすがに勝つでしょ、いやどうせ逆転負けだよ。負けを宣言する声まで楽しそうなのだから不思議だ。私はミューズの腕ではなく袖に手を持ち替え、握りしめた。いつ以来だか分からない人口密度が不安を煽った。この高揚と注目を月人が浴びるのかと思うと、眩暈がしてしゃがみこみたくなる。

 いつの間にか地下通路を歩いていたようで、駅の出口は地上へ向かう階段だった。先を行くミューズの首元を抜けて暖かい日が差してくる。眩しいと思う間もなく、お祭りの世界に出迎えられた。両脇を食べ物や応援グッズを売る出店が続き、まっすぐ視線を伸ばせば球場の外壁と、隙間から覗く客席が見えた。

「ちょっと、あの人何やってんの」

 ミューズが訝しげに目を細める先に、人混みの中でそこだけ雰囲気の違う一団があった。パレードの中に物乞いが紛れているような。そばを通る人が、みなその一団の一人に目をやり、一歩離れてから通り過ぎていく。

 ミューズが駆け出した。袖を掴んでいたおかげで私も出遅れずに後に続けた。

 一団といっても、近づいてみれば四人だけだった。去ろうとする女性三人に、何やら縋り付いている男が一人。聞こえてくるゴマ君の声は、知らない人が聞けばそれは関わりたくないと思っただろう。それぐらい、なりふり構わず必死なようだった。

「頼むから、君たちしかもう頼れる人はいないんだよ」

 相手の女の子たちは若くて、私やミューズと同い年ぐらいに見えた。無視して進む姿は完全に不審者への接し方で、日曜日の団欒から完全に浮いている。

「なあ、ちょっと待ってくれよ」

「ゴマ君、やめなよ」

 ミューズに声をかけられ、ゴマ君はようやくこちらに気づいたらしい。その隙に三人が加速し、ゴマ君が慌てて一人の肩に手をかける。

「ちょっと、いい加減にしてよ」

 手をかけられた女の子が振り向き、残りの二人がミューズを見て何かささやき合っている。

「ねえ、この人の連れ?」

 すぐに一人がミューズに向かって声をかけてきた。

「連れっていえば連れかも」

「連れの人、ヤバイよ。何回断ってもチケットくれってしつこいの。やるわけないじゃん」

「くれって言ってないだろ。倍の値段を出すって言ってるじゃないか」

 ゴマ君が割り込んで異を唱える。ミューズは女の子に答えずまっすぐゴマ君に向かっていった。

「行くよ」

 暗い声。ゴマ君は食い下がろうと一言二言口を開いたけど、ミューズは続けることを許さなかった。もう一度「行くよ」と呟いて返事を待たず背を向ける。女の子たちはすぐさま球場の方へと去っていった。

「あれ、この前練習を見に行ったときに月人の応援をしてた子たちでしょ」

 ミューズの言葉でようやく気付いた。月人が登場すると、ミーハーな声を上げていた三人組。距離があったから印象ははっきりしないけど、確かに似ていた気がする。

「マナーがなってないファンって馬鹿にしてたじゃん。今のゴマ君の方がマナーなんて言えた口じゃないよ」

「他にもう手が無いんだよ」

 首を振るゴマ君は、おもちゃを取り上られた子どもみたいな顔をしていた。

「ネットの売買情報も調べたし、知り合いのチケット屋もあたったけどダメだった。あとはSNSを辿ってあの子たちを頼るぐらいしか方法がなかった」

 言いながら、ゴマ君はもう三人を追って駆け出すところだ。

「しっかりしてよ。どう見たって無理だよ。プライドないわけ?」

 ふらふらと足取りは三人を追いつつ、ゴマ君は振り返った。

「ある」

 ミューズは表情を変えず、腕を組んで立っている。

「あやちゃんがここまでしてるんだよ。僕は物分かりがいいような顔だけしてミューズちゃんに何も言わなかったけど、あやちゃんは諦めなかった。引きずってでもミューズちゃんに月人くんの姿を見てもらいたいんでしょ。すごいよ。そんなすごい姿を見たら、何をしてでも実現しなきゃって思うのが僕のプライドだよ。約束通り、チケットは僕が何とかする」

 ミューズが一瞬こちらを見た。お前が余計なことをするから、と睨まれるかと思ったけどそうじゃなかった。一度見ただけでまたゴマ君を見据えている。

「何とかするって、あてはないんでしょ」

「だからもう一度、あのトラトラトラトリオに頼んでくる」

 不思議だけど、このときのミューズのため息は笑っているようにも思えた。怒り散らしていたお年寄りの口から、飛び出た入れ歯を見て耐える感じ。

「はいはい、もう降参しました。私の負けですよ」 

 ミューズが脇に抱えていたエプロンを広げ、ポケットの辺りを手で探り始めた。何事かと私とゴマ君は顔を見合わせる。ポケットから出てきた手に、私たちの視線はすっかり奪われた。高々と掲げられた手には、お札ぐらいの大きさの紙が三枚広げて握られている。

「私は出場者の家族だよ? そりゃチケットぐらいもらう権利があるでしょ」

 自分の頬にチケットを当て、憎らしいぐらい明るく笑って見せた。

「はあ?」

 ようやくゴマ君から、素っ頓狂な声が上がる。我が目を疑うとはこのことなんだろうけど、ゴマ君が疑っているのはチケットと笑顔のミューズのどちらだろう。私は理解が追いついていないけど、ミューズはそれなりに罪深い気がする。

「あの残念な広報さんが、家族三人分のチケットを事前にくれました。お節介と思ったけど、今となっちゃギリ結果オーライかな」

 ミューズが得意げに話すたび、チケットがはためく。

「なんっで最初に言わないの」

 ゴマ君が声を裏返らせる。そりゃそうだ。

「私は行くつもりなかったもん」

「じゃあなんで仕事中もポケットに入れてるの」

「それはまあ、なんでだっけかな。いつかポケットに入れて忘れたんでしょ」

 からかうように笑みを浮かべ、球場に向けて走り出した。

「せっかく来た以上は、楽しもうよ」

 こちらを振り返るミューズを、我に返ったゴマ君が追う。慌てたものだから、大柄な男の人にぶつかって頭を下げながらミューズを追った。遅れて駆け出す私に、前を行くミューズが振り返って止まる。

「そうそう戸村」

 私を見て、何やら含み笑い。

「戸村がムリに連れて来てくれたおかげで、私財布がないの。今日のご飯代やジュース代、戸村のおごりね」

 私は思わず目を見開く。それは困るとか、あなたが過去にした仕打ちも含めて五分五分じゃない? とか。いろいろな気持ちで。

「冗談だよ。でも、お金貸して」

 財布にいくら入っているか思い浮かべながら、ひとまず頷く。そして実感する。三人で月人の晴れ舞台を見るところまで、こぎつけられたのだ。私の役目はここで終わりのはず。あとは、月人を見守るだけ。なんといっても、私とゴマ君のチケットは本当はお父さんとお母さんのチケットなのだ。二人だって、見たいに決まってる。本当はお店を休んででも来たかったのかもしれないけど、ミューズを差し置いて来るわけにもいかなかっただろう。ともかく、そのチケットを引き受けた以上、できるのは月人の姿を目に焼き付けることだ。焼き付けて、どれだけ立派だったかを二人に話す。それを想像するだけで、苦労した甲斐があった気がした。

 頑張れ月人。私にそっくりな、大切なときに言葉を使えない人。あなたの思いの半分は私が届けたよ。

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