第20話
通常、周囲の雑音というのは気に留めることもなく認識することもない。本当は飛行機が飛んでいたり、壁が軋んだり、時計が進んだりとひっきりなしに音が鳴っていても自然にやり過ごしている。なのになぜ、あの姉が動く音というのはこうも頭に飛び込んでくるのだろう。私は見ていなくても正確に実況中継ができる。さあ玄関を開けて帰って来た姉が向かうのはリビングのソファーか、おっと立ち止まった踵を返して向かうのは冷蔵庫。何度目のトライでしょうか、今日もアルコールを浴びてしまうのか姉選手。
バタン。姉が冷蔵庫を閉じたのと同時に、私は何も描かれていないままのスケッチブックを閉じた。集中力の限界だった。かれこれ昼から二時間近くは机に向かっていたのだと、スマホを見て気が付いた。その間私がしたことといえば、無我の境地に入ったお坊さんみたいに一点を見つめていただけ。
こともあろうか煩悩界の頂点にいそうな姉に救いを求め、私はリビングに向かった。何気ない振りを装って、姉に声をかけてみる。
「私って変わったかな?」
すっかり指定席のソファーから姉が見上げてくる。目をいくらか瞬かせただけで、ひとまず質問に答えてくれる素直さは少しだけ尊敬している。
「変わってない」
適当に私が欲しそうな答えを返さないところも、ほんの少しだけ尊敬している。同時に、適当に私が欲していない答えをしているんじゃないかと心配になるけど。
「昔っから頑固で臆病で、変なとこでムキになって。あんたは昔っからのあんたのまんま。いいじゃんそれで」
どうやら私の質問の真意は伝わっていたらしい。
月人のホームランをミューズ達と一緒に見られたこと、私は少しずつだけど家族以外と会話ができるようになってきていること。先日お話したこれらの件を踏まえて、私は変わったのでしょうか? と、本来あるべき前置きが省略されたとは思えない明瞭な返事だった。
「私は変わりたいと思ったんだけど」
姉の前のテーブルには、何も置かれていなかった。てっきりお酒かお菓子があると予想していたのだけど、初めてと言っていいほど姉の前の空間は片付いていた。
「どっちでもいいじゃん。変わっても、変わらなくても」
不貞腐れた私の声を、姉はいとも爽やかに受け流した。姉がふっと笑った鼻息で、私の抗議などどこかへ軽々飛ばされていってしまった。
私はといえばただ、むくれてみていた。人生において、むくれるという所作を使った記憶はなかったけど、思いつく限りの分かりやすさでむくれてみた。姉は年の離れた姪の駄々を見るような目で、ふっと噴きだした。
「変わったかはともかく、頑張ったんじゃない?」
むくれを萎ませ、私は息をつく。頑張った、か。初めてもらった姉からの敢闘賞。考えてみれば、ここまで長いようで短かった。永劫に続くと思われていた私と病との付き合いは、なずなと出会ってから瞬く間に終わりが見えてきている。
「なずなの皆のおかげだよ」
「今度、連れてってね。その喫茶店。イケメンくんとやらも見てみたいしそれに」
組んだ右足を猫のしっぽのように遊ばせながら、何やら名案を思いついたように姉が顔を上げた。
「嬉しいときに食べるデザートもいいもんだよ」
嫌なことがあったときこそ、美味しいものを食べるんだ。
結菜ちゃんの受け売りだった言葉を思い出した。そんな事細かに姉に話しただろうか、と思いを巡らせると確かに話していた。言わずにいられないほどなずなのチョコレートは美味しくて、それをお父さんに伝えられないこともミューズとの再会も全てが忌々しかった。
嬉しいときのデザート。未だ体験したことのないその味は、姉と一緒に楽しもう。
そうだね、と呟いて約束した。微笑ましそうに私を見つめる姉に、どこからか言いたいことが浮かんできた。
「お姉ちゃんも頑張れ、って思った。なんとなく」
私には自由奔放で無敵に見えていても、いつかの姉いわく酒に任せて解放感に浸りたいときがあるらしい。彼氏とケンカして飛び出してきて、飲んで寝て飲んで寝て。もしかしたら彼女は、私の知らないところでずっと戦いの中にいたのかもしれない。
「生意気にも私を応援しようというのなら、たまには私の愚痴をとことん聞いてからにしてもらおうか」
姉は微笑み、テーブルの向かいを指さして私に着席を求めた。
「聞かせてよ。でも今はやることがあるから、夜にでも」
「相変わらず頑固で我が道を行くのね、あやちゃんは」
「そうそう。私はどうせ変わってないからね」
二人して小さく笑った。こうやって二人で一緒に笑うと、私たちはけっこう似た笑い方をしていると思った。
本当は姉の愚痴とやらを聞いてみたいとも思ったけど、誘惑を断ち切って私は再び自分の部屋に戻った。
月人がホームランを打ったあの日から何度か、机と向き合い私なりの挑戦を試みている。大抵目の前にあるのは白紙で、たまに二本、三本と線を入れてみるのだけど、どう世界が転んだって私の思惑を映してくれそうにない。
はあ、と息をついてはデッサンの専門書を手に取り解決策を探すふりをしてみる。パラパラとめくるけど、ハナから頭では違うことを考えているので内容が頭に入るはずもなく、専門書を閉じた。一応私の部屋では、本の特等席にあたるブックスタンドへ戻って頂く。テレビの前で寝転んでいるだけの、家族から総すかん親父みたいな存在だったくせに。最近は私がよく頼るものだから仁王像のような貫禄すら感じて困る。
ようやく儂の必要さが分かったか。と睨みを利かせられている気がしたけど、そういう問題じゃないんですよ仁王さん、と内心ではやっぱり頼りない存在として認識している。
一週間経ってもなお、私の脳裏にはあの光景が焼き付いていた。空を舞い上がる一筋の白。何も聞こえなくなる一瞬。疑いから興奮に顔を変えつつある、一面の人。私たちは一個のボールを介して同じ時間を共有し、一人の選手を称えた。
私がやりたいのは、それを一枚の紙に収めること。正直、難しいことだとは思っていなかった。写実的な絵なんて何年も描いていなかったけど、中学の授業で描いた風景画はノープランでも様になっていたし。そもそも絵に正解なんてないのだから、絵画を難しいと感じたことがなかった。それが、今はこのザマだ。
なにせ今描きたい絵には正解がある。あの心揺さぶられた感覚を、なんとか再現できないものか。家族も友人もファンも、見知らぬ敵も、疑念も悪意も、すべて真っ白に塗り替えた魔法。それを私は、描こうとしている。
どうしたらいいでしょう仁王様、と再度ブックスタン ドの神様に頼ってみる。人物デッサン辞典、と肌色にくすんでしまった背表紙に、だんだん仁王様の顔が浮かんできた気がした。
「まずはもっと身近な世界を描くべきじゃない?」
意外にも優しい口調で仁王様は諭した。そうですよね、分かりきったことをお聞きしました。私は反省して、身支度を始める。残りの枚数が分かりやすいよう、パソコンのモニターに貼り付けてあるコーヒーチケットも忘れずに。なずなの店名に、すっかり短くなった短冊の最後の一枚がくっついていた。
このチケットが無くなるまでに、なずなの絵を描く。誰かに必要とされたいと願った私が、自分で誓ったこと。そしてもう一つ思い出した、このチケットに込められた願い。
『ミューズちゃんはね、きっと仲直りがしたいんだよ』
ゴマ君の言葉が蘇る。ミューズがコーヒーチケットをくれた後で口にした、勝手な推測だ。今となっては、真偽はどっちでもよかった。
私は、私のしたいように動くだけ。
日曜日のお昼時。意外にもなずなは客足が途絶える時間帯だ。日曜日は朝からコーヒーを楽しむ優雅派と、午後に仲間内で長居するカジュアル派で分かれるらしい。昼時はちょうどその合間で、入り口から見えたのはサンドウィッチと新聞を交互に眺める男性客客ぐらいだった。
「いらっしゃい。カウンターに座る?」
「ううん。あっちでいいよ」
私の返事は聞こえなかったらしい。ミューズは私の視線に反応して、テーブル席へ促してくれた。
あれから、私は少しずつ口で喋っている。月人がホームランを打ったあの日も、試合を見ながらポツリ、ポツリとだが声で返事をするようにしてみた。ゴマ君が「かわいい声だなあ」と頬を緩ませると、ミューズが応援用のメガホンで頭を叩く。それを繰り返しているうちにゴマ君からも私自身からも、私が話しているという非日常感が薄れていった。
まだ大きな声や長い文章での会話はしないようにしている。本当はできるのかもしれないけど、なにせブランクが長い上に、ズレたことを言ったらどうしようという不安もモヤのように頭を重くしている。今はリハビリ期間、ということで許してもらいたい。
今日はゴマ君は来ていないらしい。お母さんも見当たらず、店はミューズとお父さんの二人で営業しているようだ。注文したコーヒーを持ってきてくれたミューズに声をかけていいものか迷ったが、ミューズは当然のように私の向かいに腰かけた。
「あれからさ、月人のファンが増えてるよ」
そう言って笑った。おとうとおかあがホームランを見れなくて悔しがっている、とも。詳しい話がなくても、素直に月人の活躍を祝う二人の姿が思い浮かんだ。
「よかった」
作らなくても、顔が勝手に喜ぶ。私とミューズは同じようなにやけ顔で、感情を分け合った。
「あのね」
久しぶりに外で話すと、鼻から息が抜ける感じがする。家ではそんなことないんだけど、声を出す力加減が分からなくなる。自分でも不思議だ。
「あれ」
私は黒板を指さした。もう一か月以上、お父さんの意図とは違った使われ方の板。今日も絵はなく、季節限定かき氷の文字がトゲで囲まれていた。強調のつもりなのだろうけど、線の先がところどころ尖りきっていなくて不気味なアメーバみたいな見た目になっている。
ミューズは不思議そうに黒板から私に目を戻した。
「一緒に描こうよ」
絵、得意なんでしょ、とまで言おうか迷って止めた。ミューズは瞬きをして、懸命に推測を利かせているようだった。中学の頃に思い至ったのか、あ、と声を出す。
「そういえば戸村、絵が好きだったね」
当然なんだろうけど、ミューズにとっては遠い過去の出来事でしかない。高校生になっても絵を描き、本当は学校で絵を勉強したかったことなど、知るはずもない。
「今も好きだよ」
ミューズがバツの悪そうな顔になる。そんな顔をする必要はないのに。ミューズが専門学校に行きたがったがために私が進路を変えたことなど、知りようがないことなのだから。ただ、ミューズが何かを察したのは確からしかった。
「ねえ」
続きを口にすることをためらう。なんで専門学校に行かなかったの? 聞いてもしょうがないと分かっているのに、続ける必要があるのか。知らないフリをして、ただ和気あいあいとあの黒板を仕上げたって、私たちは悪くない関係といえるだろう。でも。
「ねえ」
やはり、聞いておきたかった。だって今聞かないと、私はきっと、今後何度でも同じ疑問に苛まれる。
「なんで」
先を言えば、また何かが壊れてしまうだろうという脈絡のない予感がする。間が空く。ミューズが何か言うべきか迷っているのが分かる。どうやらまだ、自由に伝えたいことを伝えられる世界までは遠い。そりゃそうか。二十一年も付き合ってきた障害だもんなと妙に納得し、自分に呆れもした。
馬鹿だなあ。まだ私はミューズを信じることができないなんて。こんな質問ひとつで、関係が壊れるような相手ではないと分かっているはずなのに。
こんな私の言葉を、ミューズはまだ待ってくれている。恐らく彼女自身もどうすべきか定まらないまま、自分の口にブレーキをかけている。残念なことに、私はその期待に応えられそうになかった。声にしようとすればするほど、胸が押し迫っている感覚がする。心臓麻痺で苦しむ人みたいに、自分の胸元をかきむしってやりたくなる。思わずスマホに伸ばしかけた手を止めた。いつか、ミューズの前で無理やり声を出そうとしたときのことが思い浮かんだからだ。治りたいんだったら道具を使わない方がいい、それが彼女の提案だった。
「スマホ、使いなよ。無理しなくていい」
私の考えを読んだみたいに、彼女は過去の自分の提案を覆した。頷いて、私はスマホに打ち込む。
『なんで絵の専門学校に行かなかったの?』
前よりも迷わず打てるようになったのは、リハビリの成果だろうか。スマホを手渡すと、嘘のように息がしやすくなった。
「知ってたんだ」
ある程度予想していたのか、あるいは本当に意外だったのか。どちらとも悟られないまいとしたのか、静かに言った。
「私だって行きたかったよ。けどさ」
なぜかミューズは店内を見渡し、何を探すこともなく私に視線を戻した。
「月人を治したかったから」
「それって」
覚えたての相づちを入れると、ミューズは小さく頷いた。
「月人がミライスポーツに就職が決まってさ。おまけに野球をやるって言い始めて。もしかしたら、カッコいい月人が戻ってくるんじゃないかって思った。そしたら女の人の恋人ができたりさ。月人自身、そうなりたいと思ってるんだって勝手に勘違いして。そんな大事な時だからこそ、私はできるだけ家にいて月人を助けたいと思った」
私は早くも相づちを忘れる。頭の中で、高校三年生の頃のミューズを必死に思い出していた。
「でも今思えば、月人は小さい頃から男らしくはなかったのにね。生まれてからずっとああいうヤツで、死ぬまで変わらないって、そんな簡単なことに気づかなかった」
別に変わらなくてもいいのにね、と最後にミューズは付け足し、二人で五体並んだ人形の方へ目を向けた。初めて見た時も今も変わらず、縁から足を投げ出している姿は遊んでいるようにも見える。
「変わったこともあると思うよ」
ミューズの目が私に向けられる。私は人形を見ていた方が言える気がして、そのまま続けた。
「家族やファンのために頑張ったり、とか」
「なるほど」
私は横目でミューズの表情を確かめずにいられなかった。なぜだか、中学の頃のホース片手に蔑むミューズが重なる。私が会話をすることと、ミューズとの過去とになんの関連もないのに。理不尽さに潰されそうな瞬間が時々混ざる。
「戸村はどう? 変わった?」
そう尋ねるミューズからは、何の敵意も感じられなかった。憑きものが剥がれるように、ホースを構える姿もどこかへ消える。
「変わってないらしいよ」
咄嗟にそう答えた。らしい、というのはありがたい姉から頂いた意見なので。姉に言わせれば私は所詮、あんたってそういうところがあるよね、の範囲の中で生きている人間らしい。意外性も成長もない、それが私。
「こんなに喋れるようになったのに?」
「うん。お姉ちゃんから見れば、私は何も変わってないんだってさ」
「そっか」
口を尖らせ、ミューズは何やら考えている。自分の求める答えが落ちていないか、小さく唸って顔を上げた。
「戸村が変えたのは、世界かもね」
「世界?」
「そう。ついでに月人もね。戸村が声を上げて、月人がホームランを打った瞬間に世界を変えた」
大げさな言葉。身の丈に合わない言葉がくすぐったくて、思わず苦笑した。
「おかげでさ。少なくとも私は変われそうだもん。絵、描くよ」
ミューズはテーブルの上に身を乗り出し、耳打ちのポーズをした。視線の先に、お父さんが作業するカウンターがある。聞こえるはずもない距離だけど、私は耳を差し出した。
「私、絵を描くのが嫌になったって親に言ってあるの。だけど嘘なんだよね。自分を納得させるために、絵を嫌いになったって言い張ってただけ」
耳元から離れるとともに、本音らしき言葉を吐いた。
「だって悔しいじゃん。月人のために絵を諦めるなんて」
どこかの席で、陶器が落ちたような音がする。ミューズがいち早く顔を向けた先を追うと、男性客が立ち上がって足元の惨事を見つめていた。床にコーヒーが広がって、カップはおもちゃみたいに取っ手と本体ですっかり別れてしまっている。
「あーあ、百田のおっちゃんがやらかしたー」
からかうようにミューズが大きな声を上げる。百田のおっちゃん、と呼ばれた男性はなぜかテーブルからスポーツ新聞を手に取り、また置き直した。焦っているらしい。
「冗談だよ。ちょっと待ってて」
ひと仕事、と気合を入れるようにミューズが背中のエプロン紐に手をかける。向かう前で、急ブレーキをかけるように私に振り返る。
「今度、店が閉まった後でみんなでご飯食べるから。日にちをまた相談させてね」
「みんなって?」
私が尋ねると、ミューズは不思議そうに首を傾げた。
「みんなはみんなでしょ」
言い残し、罪悪感で固まる百田のおっちゃんとやらを助けに行ってしまった。よほど落ち着かないのか、男性は一旦座ってまた意味なく立ち上がった。ミューズがどう見ても汚れていない腿の辺りを、おしぼりでバンバン叩く。出た、持田家のおしぼり技。私はその光景を楽しみながら、残りのコーヒーを頂いた。
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