第12話
私だって冒険したくなるときはある。
洋食屋のメニューでも同じものしか選ばないと結菜ちゃんから揶揄され、姉からはあやの話から発見するものが何もないと嘆かれたとしても。幾度となく言われたことなのでどちらも具体的な場面は思い出せない。それでも確実に言葉と感情は頭に残っているんだから、人間の脳って便利なんだか不便なんだか分からない。
この日の私は気分が昂っていた。いつもなら眠りたいだけ寝て、もうこれ以上寝るのが辛いと思ったころにようやく布団から抜け出すのだけど、今日は朝方で目が覚めて、布団に戻るのがもったいない気がした。パソコンを置いているデスクに向かい、昨夜からメールの一通も増えていないことを確認し、頭はまったく別のことを考えていた。
なぜ、こんなにやる気に満ちているんだっけ。答えはすぐに見つかった。さっきまで見ていた夢だ。夢の中で私は、月人と喋っていた。スマホを使わず、自分の言葉で話し、時には月人をからかって談笑する。こんな夢を見てしまうと、危うく自分が月人に好意を抱いているんじゃないかと疑いそうだったけど、幸い月人は同性愛者なので心配ない。私は特に血迷ったわけでもなく、友人として心置きなく話している場面ということなんだろう。
夢なんて、覚えていると見せかけて実際はほとんど覚えていない。どこで話しているのか、そもそも相手は本当に月人だったのか。会話の内容なんてもっと覚えていない。
ただ確かなのは、私の今の気分はなんとも微妙な位置取りにあるということだ。何かに似た気分、と思い起こす。ものすごく感動的な映画を見た時。あるいは、何年もかけて連載を追っていた漫画が、めでたくハッピーエンドを迎えた時。
この作品に出会えてよかった、という充実感から間もなく、私の現実は何も変わっていないことに気づく。主人公たちの、その後の幸せを祈りつつ、では私の現実はどうしてくれるのと途方に暮れる。
メールも見るものがなく、新しい仕事もない私はすぐに起きている目的を失った。横目で、這い出たばかりのまだ私の体温を保った布団を見る。
ぎゅっと目を閉じ、視界から布団を消した。今日は、冒険をするのだ。久しぶりに人と関わっているなずなでの出来事や、知らない世界だったタコスの味が、枯れたと思っていた私の好奇心を刺激してくれているらしい。
しかし、冒険といっても具体的にどうしたらいいのかは分からない。パソコンで検索をしてみる。
『冒険 女性』
世界中の女性冒険家の紹介ページが表れる。スケール感を間違えたことに気づき、検索ワードを調整していく。
『身近な冒険 女性』
『新発見 休日』
『一人でできる冒険 女性』
『初体験 女性』
ここまで調べて分かったことは二つ。女性と冒険で検索するとやたらと映画か旅行の話題が出てくること。また、女性と初体験というワードを結びつけた検索結果は、パソコンの画面がいかがわしい単語で埋まるということ。
ただでさえ何度も単語の組み合わせを変えては検索し、当てが外れるという繰り返しをしていた私には、オーガズムがどうとかいう歓迎しない結果は心を折るのに十分だった。サイトは覗いてみたけど、志した冒険が危うくアダルト情報巡りで終わりかねないので早々に脱出する。
悩んだ挙句、私はサンフレッシュに出かけた。出かけて、帰って来た。初めて結菜ちゃんとの約束もないのに訪れたサンフレッシュは、服を買うにも本を買うにもお金が足りず、マッチ売りの少女になった気分でさまようばかりだった。せめて、景色のいい公園とか海辺とかを目的地にすればお金が無くともなんとかなったのではないか、そう思いついたのは帰り道でのことなので今さらどうしようもない。
不思議と気分は悪くなかった。ほとんどとんぼ返りになった電車のシートに揺られながら、心地のよい疲労感に浸る。シートがいつもより温かく、目に入る視界も違うように感じた。たかだか一時間かそこらでも、一人でサンフレッシュを探索したという初体験をちゃんと終えたのだ。下世話なウェブサイトの管理者と読者には分からないこの優越感は、今の私だけが味わえる。そんなことを考えながら、目を閉じていた。
「恐れ入ります、切符を拝見させて下さい」
私に向けられた男の人の声は、またしても夢なのだろう。なにせ、この路線で駅員に声をかけられたことなど一度もない。そもそもスマホを自動改札にかざして入場しているのだから、見せる切符も持ち合わせていない。不敵に腕を組んでいたところ、肩を軽く叩かれただけで飛び上がりそうになった。見開かれた駅員さんの目と私の目がばっちり合う。
「すみません、切符を拝見したいのですが」
拝見も何も、切符など持っていない。ならスマホを見せればいいのだろうかとカバンに手をかけたところで、自分の間抜けさに気づく。指定席だ。
今乗っている電車は私にとっては数駅区間を往復するだけだけど、先は空港に続いている。そのためか旅行客を対象とした特別車両が設置されているのだ。湯冷めのような寒気のする頭をフル回転させると、どう考えたって目に映る光景は見慣れた一般車両ではなかった。なぜ気づかないのか自分でも不思議なほど、座席は木目のフレームで温かみがあって、レッドカーペットを思わせるようなシートは日常の交通機関には似合わない。
選べる選択肢は多くない。ただ、過程に幅があったとしても最終的には謝って席を移るしかない。問題はその伝え方だ。スマホで文字を打つにしたって身振り手振りで説明するにしたって、その姿は異様そのものだろう。
どこかでこんな状況の話を聞いたことがある、と思ったらそれはいつか姉が貸してくれた本の中にあった。姉が好きな芸能人のエッセイで、外国で駅員に呼び止められ、説明に難渋したという話。そこに打開するヒントは見い出せそうもない。自分の生まれた国で何をしているんだろうと惨めな気持ちがよぎるだけだった。
駅員さんは優しい性格なのか、苛立つことよりも心配と戸惑いを浮かべ、眉を寄せる。それがまた申し訳ないやらで、ああでもないこうでもないと建設性のない繰り返しを起こす。もう限界で、盛大にウソ泣きでもしてしまおうかという域に至ったところでぴたりと混乱が収まった。
不思議だった。でも、当たり前にも思えた。そこから先は、考えることもなかった。
「すみません、ここ、指定席券がいるんでしたっけ」
ずいぶん間の外れた返事に、駅員さんの方が慌てた顔をする。
「え、ええ。申し訳ありませんが。指定席切符はお持ちですか」
「すみません、間違えました。あの、料金を支払った方がいいですよね」
「そうでしたか。そういうことなら今回は、席を移って頂ければそれで問題ありませんよ」
そう微笑む駅員さんの方が、私よりも安堵しているように見えた。よほど私が不審だったのか、それとも心配をかけたのか。いたずらに惑わせたことを心の中でお詫びし、駅員さんに頭を下げて立ち去った。
一つ車両を移っただけで、鉄色とつり革広告の見慣れた空間だ。ドア近くの手すりにもたれかかって、我が家に帰ったような気持ちになる。目を閉じ、駅員さんとのやり取りを思い出す。意外なほど淀みなく、私は喋っていた。家族以外には、結菜ちゃんにもできなかったことだ。覚えている限り、二十一年間まともにできなかったことが、あっさりできてしまった。予期せず、頑張りもせず訪れた瞬間。自分でもどうやってやったのか分からない、と思うと同時にその感想は少し違うと気づく。
なぜ今までできなかったのかが分からない。
この表現がより正確だと思った。感慨などなく、狐につままれたような、心底ワケが分からない衝撃に頭が揺れる。妙なことに、衝撃が最初に起き、次に来たのはどうしよう、という焦りだった。どうしよう、どうしよう。何がかは分からない。何に対してかは分からないが、焦っていることは間違いない。どうしよう。
焦りの次は、スマホから伝わる振動に急かされる。止まらない振動が、電話の着信だと主張する。出たことも出る気もないくせに、罪滅ぼしのように画面の確認だけはする。画面にはミューズの名前が写っていた。一体なぜ、電話? 疑問とともにたまらなく嫌な予感がする。
私に電話をする目的はなんだろう。雑談もできない私への電話は、何か必然性があることなのだ。恐らく急を要する何か。文字を打つのも煩わしいほどの、差し迫った事情。
頭では分かっていても、私は電話に出なかった。だって、今は電車の中だもの。結菜ちゃんだって、電車の中で鳴った電話は切っていた。それが社会のルールだ。スマホを握りしめ、画面から目を逸らす。本当は気づいていた。電車の中にいる時でよかったと安心している自分に。電話に出たくないことを、社会のルールのせいにしただけ。
車掌さんと話終えた後の焦燥と、電話を無視した罪悪感とでまた指に力がこもる。ミューズからの電話が気になるのに、向き合うことを頭が拒否している。なんのことはない、私は今日もやっぱり最低だった。何かが変わるような気がしたけど、何も変わってはいない。
再びスマホが震えた。今度はすぐに止まり、ミューズからのメッセージが写った。
「今うちの店に来れる? 月人が大変なの!」
嫌な予感を裏付けるような一行。何が起きているのか、今すぐにでも知りたい。通話ボタン一つ押せない自分が憎かった。
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