第11話

「もう会ってくれないと思ってた」

 そう言ったのは月人だけど、私も同じ感想だった。私と、私に裏切られたと言ってもいい月人は、性懲りもなくなずなのテーブルで向かい合っている。きっかけは二度とないだろうと思っていた月人からの連絡。姉と言い合いをした次の日に、もう一度だけ話ができないかとメッセージが来た。

 本当は、もう一度会うと切り出すのは自分であるべきだったし、何度もスマホを手に取っては逡巡した。その矢先に来たメッセージに、安堵したし少し嫉妬もした。私の振る舞いを憎むどころか、会いたいと願える寛容さ。あるいは鈍感さ? 

 姉に伝えると、復讐されるのかもよ、と含み笑いをされた。それはそれでいいかと思い、またなずなで会う約束をした。

 どうしようもなく気は重い。確かに、月人のしたことに腹は立った。だけど、自分がとった行動の卑怯さが今なら分かる。私はあの場を乗り切る術がなくて、衝動的に去ってしまったのだ。それは姉から指摘を受け冷静になって考えるほど、確証を増していく答えだ。

「月人、お客さんに失礼なことをしたら分かってるんだろうね」

 珍しくコーヒーを運んできてくれたお母さんが、月人を一瞥する。私には横目で視線を送り、こいつやゴマオが何かしたら私にすぐ言いな、と声をかけてくれる。

「何もないよ」

 罰が悪そうに、月人は二人分のコーヒーを受け取りながら首を振った。眉間にしわを寄せるお母さんが気だるいブルドッグみたいで可愛らしくて、私は肩の力を抜くことができた。

「この間、あやちゃんがすぐに去って行ったのを見て怒ってるんだよ。あの子と何があったんだ、って。僕が悪いって説明したんだけど納得しなくてね。ミューズにまでそのことを吹き込んで大騒ぎだよ」

 本当の理由を伝えられず、ごまかすために苦労した気配が滲み出ていた。今回、月人がなずなを指定したのが意外だったが、家族への弁明の意味もあるのかもしれない。

「この間はごめん。一方的にあんな話をして。普通引くよね、あんなこと言われたんじゃ」

 私は首を振った。イエスかノーしか返事ができない私には、もうどちらでもいい話題だった。

「迷惑だろうとは思ったんだ。でも、あのまま終わるのは君に申し訳がない。ごめん。僕に何ができるわけじゃないんだけど、とにかくお詫びがしたかったんだ」

 私はまた首を振る。今度は正直な心境。私は別に、お詫びが聞きたかったわけじゃない。

「それと、もう二度とあの話はしない。だからあやちゃんも、忘れてほしい」

 え、と声を出したくなる。それは絶対、何か違う。私はそんなこと望んでいない。なにより、ずっと誰かに言いたかったと話していたのに。その積年の思いの重要さを、遅すぎたかもしれないけど今は理解できる。反応が遅れたのを繕って慌てて首を振った。

「なんで? あの話をされるのが嫌なんじゃないの?」

 念を押すようにはっきり首を振った。

 月人は何と言おうか迷っている様子だった。そうなんだ、でも、だからって。口の中でまごついて中身の無い言葉を出入りさせる。逡巡して踏ん切りがついたのか、急に顔を上げて

「やっぱり優しいねあやちゃんは」

 と笑った。

 何が優しいのかさっぱりだ。やはり月人は、買いかぶりすぎている。

「ミューズから聞いたよ。あやちゃんが話せないのは病気のせいなんだって」

 月人はコーヒーを手に取り、私にも飲むように勧めてきた。コーヒーの飲み頃は七十度ぐらい。ちょうど今ぐらいだよ、とカップを掲げる。私がコーヒーに口をつける間、月人はそれとなく様子を伺っているように見えた。後ろめたいことがある子どもが、母親の顔色を確かめるような。私は、大半の母親がきっとそうするように気づかないふりでコーヒーを飲んだ。

「全然知らなかった。あやちゃんがそんな難しい病気だっていうことも、そういう病気が存在するっていうことも」

 人から言われて思うけど、病気と呼ばれるとよく効く薬でもあるのではないかという気がしてくる。実際にはあるはずもないので、だから私は障害という分類をされるのかと妙に納得した。

「ねえ、それって例えば、スマホのメッセージみたいな感じで文字を打ってもらえば、あやちゃんの考えも聞けるってことかな」

 私が首を振ると、そんな簡単な話じゃないか、ごめん。と月人が謝る。

 月人の指摘は半分は当たっている。結菜ちゃんと話す時にはスマホの画面を使うこともあった。ただ、それも結菜ちゃんが相手だからなんとか立ち向かうことができていた。家でスマホのメッセージを送るのと、この場でメッセージを打って見せるのとではまるで違う。

『電車で帰ります』

 以前、月人に見せたときだってこの一文だけでも頭がパンクしそうだった。

「あやちゃんがどう思ってるかは分からないけど、これだけは分かってほしい」

 月人の口調が、エンジンをかけ直したように改まる。

「あやちゃんは病気で大変なんだろうけど、それでも僕は君に聞いて欲しかった。君はきっと、僕によく似ているから」

 似ている? 思いもよらない宣告に戸惑いつつ、私は口を挟めない。

「今、僕を見て不自然に感じるところはあるかな?」

 月人の真意が分からないまま、ひとまず首を振る。

「ならよかった。これでも直したんだよ。子どもの頃は、周りから見るとかなり目立つ子だったらしい。悪い意味でね。僕は普通にしているだけなんだけど、先生や友達のお母さんが言ってくるんだよ。もっと男の子らしくした方がいいよって。小学校四年生ぐらいになると、クラスメイトが僕以外でチームを作ったみたいに言ってきた。女子みたいだって笑われてたのが、だんだん勝手にオカマって呼ぶようになって」

 月人は他人事のように、淡々と事実を並べた。

「それでやっと、このままじゃ自分はいけないんだって気づいたんだ。どうしたらみんなみたいに普通になれるのか、勉強をすることにした。座るときは足を開く、肘はできるだけ体から離して手のひらを相手に見せないようにする、驚いたときはもう、じゃなくてオイと言う。とにかく一生懸命クラスの男の子を見て、自分が直すところを探したんだ」

 想像して、心が痛む。四年生といえば私にとっては空白期間のころだ。結菜ちゃんに「早く元気になってね」と声をかけられたのが小学校二年生のころ。月人のように、周りからお節介な揶揄が聞かれるようになったのは中学校に入ってからだった気がする。一番記憶にない小学校中学年ぐらいは、きっと私にとって平和な生活だったんだろう。私はその頃、自分が人と違うだなんて思ってもみなかった。「早く元気になって」という結菜ちゃんの言葉がけも、三者面談の席で母と私にけたたましく警告らしい台詞を発する担任も、何か勘違いをしているんだろうと思っていた。月人は、私が何も考えずに過ごしていた年頃に気づき、直すことを求められたのだ。私の学生時代に、何も考えず暮らせていた安息の時間があったことを初めて思い知った。

「そうやって人のことを見てるとね。分かるようになってきたんだ。僕をオカマって呼ぶ瞬間。まだ誰も声を出していなくても、これから声が飛ぶって分かる。視界に入っていなくたって、気配で分かる。あ、これから僕の後ろに立っているヤツが何か言ってくるぞって。歩き方がいけなかったんだなとか、変な声を出したからだとか」

 自分で飲み頃と勧めたコーヒーにも手をつけず、月人は淡々と続けた。意図して私の顔を見ないようにしている気がした。

「それを繰り返してたら、僕の体は『男らしい』動きと話し方をできるようになった。足が閉じそうになっても、考えるより先に足が開くんだ」

 それがいいことだったのか、良くないことだったのか、月人がどう思っているのかは分からない。でも、それで周りから好き勝手言われなくったのなら、得たものがあったと言っていいのか。

「それで、いじめが無くなったと思う?」

 恐らく月人が避けてきたいじめという言葉が出た瞬間、私はつばを飲んでいた。月人と同じく、私も頭の中でいじめという言葉を避けていた。

「残念ながら、無くならなかった。僕の振る舞いが変わったところで、一度ついたあだ名は消えなかった。ついでに、からかいもね」

 ま、小学生なんてそんなものだよね。と、力ない月人の声が漏れる。ようやく月人が一口コーヒーを飲み、私もつられて口をつけた。テーブルとコーヒーカップが当たる音が、一際大きく聞こえた。

「あやちゃんも、そうだったんじゃないかって思ったんだ。ただ、あやちゃんは僕とは順番が逆だったんだろうけど」

 月人のその後が気になりながらも、続きに聞き入る。変わらず目は合わない。

「あやちゃんは、きっと人のことが誰よりも分かるんだよ。常にアンテナが立ってて、誰が何を考えているかを拾ってる。だから周りが気になって気になって、自分は話さなくなったんじゃないかって。もし相手を傷つけたらとか、怒らせたらとか、そうやって考えているうちに聞く専門になったのかもしれない。初めてあやちゃんに会ったときに話していて、そう思ったんだ。僕も、人のことばかり気にしていた頃は言葉を発したくなかったから。じっと黙って動かずにいたら、誰にもバカにされないんだって思っていた時期だってある。もっとも、これは勝手な僕の想像、いや、妄想かな。あやちゃんが病気で話せないっていうことも、まるで知らなかったんだし」

 頭の中で、月人が多数の視線にさらされ怯えている姿が浮かぶ。いくつもの目から進む矢印が月人の体にぶつかり、矢印が作る繭の中で彼は動けなくなった。

 彼の想像と違い、月人の方が私よりよほど深刻で理不尽な境遇のように思えた。なにせ私には、月人が言うような立派な理由はない。生まれて気づいたら話していなかったし、周りの人のことを理解するアンテナなんていうものも持ち合わせてなどいない。

「だから僕は、あやちゃんに話したいと思ったんだ。同性愛とか、オカマとか、そんな言葉に惑わされずに聞いてくれる人にようやく出会えたって、だから、勝手に」

 君のことを全く考えずに話してしまった。と、消え入りそうな声とともに俯く。今この瞬間も後悔していると、言葉に出したも同然の態度だった。

 ようやく分かった気がした。姉が話していたこと。

「あんたは、この世に二種類の人間しかいないと思ってる」

 言葉が話せるか話せないか、私はその二択でしか自分と他人を捉えていなかった。月人が自分を選んだのは、お人形同然に話せないからという理由以外に無いと思い込んでいた。独りよがりに決めつけて、勝手に月人を責めた。

 涙が出そうになって、コーヒーを飲むふりでごまかす。一瞬なんの涙か分からなかったけど、情けなさによるものだと思い当たる。月人がどんな思いで私に話をしたのか、何も分かっていなかった。誰よりも人のことが分かる、という私の評価の的外れぶりが、情けなさをより際立たせた。

 私はスマホを手に取った。何か考えると怯んでしまいそうで、とにかく指を動かす。この思いが逃げないうちに、打ちきって手渡してしまえと自分を奮い立たせる。

『ごめんなさい。あなたは悪くない』

 散々文字を打っては消して、結局残ったのはこれだけ。放り投げるように月人に託す。見ていいのか確かめようとする月人の視線を感じるが、私の視界には自分の足元しか入らなかった。許して下さい、お願いします。拳を握って、誰に向けてかも分からず祈った。

「そうか」

 彼の第一声が聞こえた。間が空く。読み取れる感情はなかった。私は自分の浅はかさを呪う。スマホでメッセージを打つという月人の提案を拒んでおいてこれだ。結局、私が話せないなんていう障害もウソなのではないかと思えてくる。もしかしたら、月人だってそう思うのではないか。

 月人の次の言葉はなかなか出てこなかった。足元から視線を外せない私には様子を伺う術もない。ひとつ息が吐かれ、私は身構えた。

「ところでさ、僕の予想は当たってる?」

 気の抜けるような、軽い調子で月人が尋ねた。様子を確かめるか迷っていると、月人が言葉を重ねた。

「あやちゃんが、誰よりも人のことをよく分かっている人だって予想」

 恐る恐る顔を上げると、月人は薄く笑っているように見えた。

 私ははっきり首を振る。

「そうか、そもそも自分で認める人もいないだろうしね」

 今度は間違いなく笑みを浮かべた。遠慮がちで寂しそうな笑顔は、私が一緒に笑うことができればもっと確かな顔になるのだろうか。

「少し、明るい話をしよう」

 いかにも気を取り直して、といった調子で彼は顔を上げた。僕の話でいいかな? と確認を求めてくる。私は正直にうなずいた。

「こんな僕にも、得意なことがあってよかったっていう話なんだけどね。もうバレちゃってるから面白くもないだろうけど、野球では誰にも負けなかったんだ。僕は小さいころから野球をやっていたけど、全然好きじゃなかった。今だって別に好きってわけじゃない。だって野球よりも女の子と遊ぶ方が楽しかったから」

 本当は人形が欲しかったクリスマスの話を思い出す。今まで月人が諦めたものは、一体どれほどあるんだろう。

「五年生になって、リトルリーグのチームに入団することになってね。僕の希望じゃないよ。ただ、気づいたら話が決まってた。今になって思えば、僕が男らしくなったことが、親から見ても嬉しかったんじゃないかな」

 親という言葉に、思わず月人の向こう側にあるカウンターに目が向く。ちょうどお父さんがコーヒーを淹れようとしているが、疲れているのか目頭を押さえたりギュッと目を閉じたりしている。勝手に家庭内の事情にまで踏み入っている気がして、後ろめたさで見るのを止めた。

「気づいたらエースで四番ってやつになってね。そうしたら、僕のことをからかっていた奴らが何も言わなくなったんだ。あっという間のことだったよ。あれは何だったんだろうって、嬉しいとかよりも不思議な気持ちの方が強かったかな」

 奇しくも、道筋は違えど同じ不思議さを味わったことがある。ミューズの攻撃的な態度があっさり消えたときだ。もっとも、月人と違って私はなんの努力もしていないけど。 

「どうかな、数少ない僕のサクセスストーリーってところ。そのあとはといえば、僕の人生でいいことなんか何ひとつ無かったんだけどね」

 明るい話、と切り出したものが最後は自嘲気味な苦笑で締めくくられた。その矛盾を振り払うように、彼は身を乗り出す。

「でも僕は、このまま終わっちゃいけないと思う」 

 指す意味は分からずとも、そこに固い意志があるに違いないと思えた。私が月人にスマホを託したのと同じように、月人も自分を奮い立たせているのだろう。

「僕は、自分のことを家族に話そうと思ってる。同性愛者だということも含めて僕なんだって。もう隠したくないんだ」

 私は、真剣に話す月人から必死に目を逸らさないようにした。それ以上、どうしたらいいのか分からなかった。賛成して応援するべきなのか、考え直すよう促すのが正しいのか。ただ、分からないなりにその決意から逃げたくない。食いしばる頭の片隅で、消せない引っかかりを感じる。微かによぎる、「やめた方がいいんじゃないか」という自分の声。言って、受け入れられなかったら月人はどうなってしまうのだろう。お父さんやおかあさんやミューズは、どう思うのだろう。知らないでいいこともあるのではないか。応援したい気持ちよりも、不安が上回っているのだ。自分の本音に気づくと、心臓の鼓動を強く感じた。

「僕がどうして今も野球を続けていると思う? 好きでもないし、もういじめてくる相手もいないのに」

 まだ何も答えを返せていないのに。後ろ髪を引かれながら、私はひとまず首を振った。

「正確には、ずっと続けていたんじゃない。僕は中学は野球部に入ったけど、高校からは野球からさっぱり離れていたんだ。高校生にもなったんだから、好きな部活を選んで何も問題はないでしょ?」

 ゴマ君の話を思い出した。初めて月人を見たとき、高校の経歴が全くないことに驚いたという。その謎がゴマ君を惹きつけたからこそ、なずなに居座るゴマ君という景色が出来上がった。

「本当は中学生の頃から、野球部が苦痛で仕方なかったんだ。野球自体じゃなくて、合宿や着替えが嫌だった。一人でお風呂に入ることなんて許されないからね。目のやり場に困るし」

 続きを言いかけて、私と目が合う。顔を伏せ、自分の言葉に焦った様子で言い直した。

「そんなこと気にしすぎだって思うかもしれないけど、想像してみてほしい。自分が異性に囲まれて風呂に入ったり着替えたりする日々が続くことを」

 ああ、それは嫌かも。というか、絶対嫌だ。

「いやちょっとこの喩えは違うな。女性が男性とお風呂に入るのは身の危険や羞恥心が大きいだろうけど、そういうんじゃないんだ」

 私の思考が追いつく前に月人はあれこれと思案し、説明の言葉を探して唸った。し

「とにかく、何かと困るんだ。だから僕はプロにならない。アマチュアならまだしも、プロになったらお風呂が嫌だから辞めるなんて通じないからね」

 私は頷いて、無言の肯定を示す。

「高校は茶道部だったんだよ。家族には不評だったけど、僕は毎日楽しかった」

 話の隙間の一瞬、月人の指先が楽しそうにタップを刻む。テーブルの上で躍らせ、思い出を噛みしめているようだった。

「そのまま野球のことなんて忘れていた。大掃除のときなんかに久々にグローブを目にすると、もう一生使わないんだなって思っていた。でも」

 月人が言葉を探して間が空くと、お客さんを相手にしているらしいお母さんの声がよく聞こえる。きっと外国の人が相手でも、語気だけで元気づけられる声。

「でも、いざ大学を卒業して、いよいよ学生じゃなくなるって時に思ったんだ。卒業したら、一生ひとりぼっちになるんじゃないかってね。大学にいる間は友達も多かったし、毎日楽しかったはずなんだけど、急に現実を突き付けられたような気がしてさ。家族も友達も、本当に僕のことを分かってくれている人は実は一人もいなかったんじゃないかって」

 少なくともミューズやご両親があなたにはいるじゃない、と声をかけることが一般的な正解なのだろうか。もし話す力があるとしたら、私はどう返していただろう。どうにもできそうにない気がして、勝手に無力感にやられそうになる。

「気づいたら野球を頼っていた。野球チームがあることを条件に就職先を選んだんだ」

 そうして選んだという就職先が、ミライスポーツ。運動という行為の対極に生きている私でさえ、名前とロゴぐらいはすぐに思い出せる大手のスポーツ用品店だ。

「僕はね、必要とされたかったんだ。野球をやれば僕を頼ってくれる人がいる。それだけが頼みの綱で今日ここまでやってきた。馬鹿みたいだと思うよ。本当はやりたくないのにね」

 月人は思い出したように顔を上げ、首を振った。

「だめだ、気づいたらまた暗い話だ。ごめんね、訳が分からないことばかりを話して」

 私は手元のコーヒーカップを見つめたまま、月人も言葉を止めたまま。

 次に自分が動く時は、とてつもなく大それたことを意味するような気がした。月人にバレないよう、テーブルの下の拳を握って確かめる。手の中の湿り気と、指先の軽い痺れとともに、間違いのない意思があった。

 私は月人に伝えたいことがある。せり上がる衝動。私はひたすらに願っていた。今にも何か発するかもしれない月人の口が、もう少しだけ待ってくれることを。私がスマホを取り、言葉を打ち込み終えるまで猶予があることを、自分でも大げさと思うほど願っていた。

 傍から見れば、私のちっぽけな葛藤など気づきようもないだろう。月人も次の話題を求め、言葉を切り出そうとしている。私の願いは到底及ばないまま、月人が口を開いてしまう。

「もし」

 何かを言いかけた月人の手を取った。テーブルの上に投げ出されていた悩まし気な指を、思わず掴んでいた。なんだか思っていた以上に大それたことになっている気がする。月人が途中まで開けた口のまま止まっている。何事かと私の行動を待っているのだろうが、私にだって何事か分からない。止める方法が他に思いつかず、咄嗟に手を取っただけだ。

 私は月人の手を取ったまま、目を合わせた。目を見るには勇気が必要だったけど、見ないでおく方が怖かった。自分が生み出した結果があまりに異様でこの世に馴染まなくて、店内中の視線が自分に注がれている気になる。

 私は月人の手を放り捨てた。もう、月人の顔を確認している余裕もなかった。とにかくスマホを取って、弁解と説明とお詫びを含めた魔法のような言葉を探す。

『分かります。私も、必要とされたくてここにいるから』

 絶望的な気分でスマホを月人に突き出した。バカだ。全然意味が分からないし、説明やお詫びはどこにいってしまったのか。もう何も考えられそうになかった。

「あやちゃんも、必要とされたかった? 僕と同じってこと?」

 月人の言葉に、私は何度も頷いていた。そうだ、それが言いたかった。必要とされたかったという月人の言葉を聞いて、居ても立っても居られなかった。突き動かされるように指が文字を連ねる。

『私は、お父さんのために絵が描きたいから』

「お父さんのために来てるって……どういうこと? ごめん、ちょっと待って考えるから」

 月人が考え込む。慌てて私は月人のお父さん、つまりはこのお店の店主に向けて指先を立てて示した。月人はひとつ間を置いてから、ようやく状況を飲み込む。

「もしかして、うちの親のこと?」

 まさか、と言いたげな目。私は静かにうなずき、これ以上月人が混乱しないよう文字を加えた。

『お父さんが描いた看板の絵、私なら手伝えると思う』

 月人のお父さん、と打とうとしたけど、月人と呼んでいいものか迷ってそこは避けることにした。

 二人して、見るともなく目がレジ横の黒板へと向かう。入り口側を向いていてこの席からは見えないけど、失敗作なのか斬新なデザインなのかすら分からないあの絵は姿を消していたはずだ。今では文字だけで本日のランチメニューが記されている。

 あからさまに言葉に詰まっている私を見かねたのか、月人が自分から話し始めた。

「ああいうのはミューズが得意なんだけどね。絵の学校に行きたがっていたぐらい絵が好きで、真剣に描いていた時期もあったんだ。それが、どういうわけか急に普通の大学に行くって言い出して。僕からすれば、好きなことを勉強できる学校に行けるなんて羨ましくて仕方なかったのに。行けばよかったんだよ、あいつは」

 でもよく考えたらさ、と小さく漏らして続ける。

「僕と似たようなもんか。僕だって周りから見たら、なんで野球を辞めたんだって散々思われたんだろうし。なんだか嫌なところが似た兄妹だ」

 苦笑する顔すら整っていて、人によっては嫌味に見えるかもしれない。不思議なのは同性愛の話を聞いたからか、以前と変わらないはずの月人の顔立ちが中性的で頼りなく見える気がした。

「でももし、あやちゃんが本当に手伝いたいっていうのなら、親父たちは喜ぶと思うよ。今からでも、どう?」

 月人がお父さんへ指を向ける。今から声をかけようということらしい。一気に話が核心に近づいて、私はまた月人の手を取りかけてやめた。今度は首を振って伝える。

「どうして?」

 純粋な疑問をもらう。観念して私は三度スマホを手に取った。何度か指を彷徨わせて、ようやく文を作る。

『心の準備がまだできていません』

 機械翻訳のようなセリフができた。何をどう打ったって自分の言葉じゃないような気がして嫌になる。

 月人が画面を見て口に手を当てる。何か言いたげで、また考えて。待っている身としてはずっと居心地が悪くて逃げ出したい。

「大丈夫だよ、僕も一緒に話すから」

 力をこめるでもなく、当然のごとく言う。私と月人の、認識の開きそのままの温度の違いがあった。

 私はすがるように首を振る。それでも月人が止まらなければ手を掴もうと思っていた。幸い、月人は席に留まっている。

「心の準備、か。じゃあできたら教えてよ。何か手助けできることがあるかもしれないからさ」

 私は頷き、背もたれに思いきり体を預けた、つもりだったけど実際にはほとんど身動きしていなかった。ぬるくなったコーヒーの温度が、今の私にはちょうどよかった。

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