第10話

 あれから何日経ったんだっけ、とスマホのカレンダーに目をやる。肝心の、ああなってしまった日が何日なのかはっきりしない。練習を見に行ったのが日曜日だから、月曜日にあれが起きた。今日の日付を見ると金曜とあるから、すでに世間の単位じゃ今週が終わろうとしていることに気づく。学校に行っていたころと違い、日を重ねることがあまりに容易だ。夏休みの終わりに、ふと我に返った瞬間の罪悪感に似ていると思った。何か、もっとできたんじゃないか。でも夏休みに部屋で寝ころんでいた私と同じで、また日付を見なかったことにしてしまう。

 悪いことに、イラストの依頼も尽きている。依頼が無いなら無いで、何かアクションを起こさないといけない。依頼が多いイラストレーターはそれがステイタスになり、また依頼が殺到する。一方で、依頼が途絶えている状況は依頼する側の不信感となり、ますます依頼が来なくなる。この悪循環を断ち切るには、マメに自己紹介文を更新したり期間限定の値引きをしてみたり、なんとか依頼主の目に留まる涙ぐましい努力をするほかない。と、頭では分かりきっていてもどうにもパソコンを起動させる気になれなかった。

 このままお金もなくなって、机に突っ伏したまま飢え死にするのが相応しいんじゃないか。実家にいるくせしてそう思う。想像する。何日も部屋から出てこない私を心配して、部屋に入ってきた姉が見つけたのは、白骨になった私。の、だいぶ手前で実際には見つけられてしまうだろう。そもそも、その間トイレはどうしたらいいのか。座ったまま垂れ流す勇気はさすがにない。観念して顔を上げ気づいた。今日は起きてから何も食べていない。スマホの十四時という表示に促されて、渋々食べ物を確保しにリビングへ向かう。

「なに、今日も喫茶店行ってたの?」

 主になったように姉がソファーを占領していた。三人掛けのうえに目いっぱい足を投げ出し、テレビを見ていたらしい。

「行ってない。ずっと部屋にいたよ」

「うそでしょ? 朝からずっと出てたんじゃないの?」

「出てない。ねえ、お昼どうしたの?」

「食べたよ、とっくに」

 当たり前でしょ、と不思議そうにまばたきをする。今日はアルコールは入っていないらしく、常識人かのような顔をしていた。

「たまには姉ちゃんの手料理でも食べる?」

「いいよ別に」

 目についた、朝食用の食パンをトースターにセットする。

「ちゃんとしたもん食べないとお肌がボロボロになっちゃうよ」

「自分はカップラーメンのくせに」

 ゴミ箱の中に捨てられた容器が見えた。入れ方が雑なせいで、袋に散った汁から匂いが発生している。

「私は自己責任。分かってやってるからいいの。あんたが何も知らずにそうするのとは違うの」

 よく分からない理屈で言い切る。マネしたくない図々しさ。ふと、意地の悪いアイディアに支配される。やり返しも込めた、姉へのささやかな八つ当たり。

「お姉ちゃん、イケメンの人紹介しようか?」

「なに、あんたに紹介できるような知り合いがいるの?」

 姉の反応は、期待したものと違った。色めき立つ姉をからかってやろうという目論見は簡単に外れる。イケメンという響きよりも、私の交友関係によほど驚いたらしい。

「いるよ。ゲイだけど」

 自分が吐いた言葉の響きに驚く。月人が言った同性愛者という響きよりもはるかに、迫真めいたものがあった。映画やドラマの中でなく、まさか自分が口にする日がくるなど思ってもみなかった。

「あんたねえ。どうやったらゲイの知り合いができるわけ?」

 呆れと苦笑交じりに姉が声を裏返らせた。そんなこと、こっちが聞きたかった。なぜ数少ない知り合いに同性愛者がいて、よりによって私にだけ告げるのか。

 焼き上がったトーストにバターを塗りながら、姉に投げかけてみる。

「私にだったら言えるってどういうこと。そんな大事なこと、他に言う人がいるはずでしょ」

 何を思ったか姉は立ち上がり、二個のグラスにオレンジジュースを注いだ。

「とりあえず、順を追って話してみなさいよ」

 ソファーに座るよう促す姉が、一人楽しそうにグラスを掲げてみせる。



 ひと通りを聞き終えた姉の第一声は、予想外のものだった。

「あやが何に怒ってるのか、全然理解できない」

 からかうでもなく、彼女の頭の中で本当に想像がついていないのだと分かる顔。半開きになった口で、笑おうか迷っている様子だった。

「なんで? そんな大事なこと一方的に言われたら、お姉ちゃんだって困るでしょ?」

「困る、かあ? どうだろう。でももし困ったとしても、怒る必要なんかないじゃん。いいじゃん。お人形さんみたいに、その子が望むように聞いてあげれば」

 姉が言葉を続けようとしていることを承知で割り込む。

「私は、好きで黙って聞いてるんじゃない」

 言わずにいられなかった。

 珍しく姉が押し黙る。姉は気づいたんだろうか。私はまだまだ言い足りなくて、溢れ始めた水を堰き止められそうにないことを。気づくような姉とも思えないけど、とにかく私は続けた。

「それを聞いて私はどうしたらいいの? 言葉をかけてあげることすらできないんだよ。私の答えは必要ないっていうの? じゃあ大好きな人形にでも話してたらいいじゃない。もう聞いちゃったから、ミューズやマスターやお母さんに隠してないといけないんだよ?」

 ポケットに入れていたスマホからメッセージの受信音が鳴る。ミューズからだ。

『月人となんかあった?』

『なんにもない』

 突き動かされるように返信して、電源を切った。

 注がれる姉の視線から逃れるよう、言葉を続ける。

「とにかく、私にはそんな大事な秘密を知る資格なんかないの。月人は間違ってる」

 なずなで席を立った時の自分が蘇ってくる。あの時と違って言葉に出せる分、姉に当たることができる分、私は逃げ出さないで済んでいる。

 憤る私など見えていないように、姉は気の抜けた声を出した。ふーん、なるほどねえ、と。何ひとつ理解していないような顔で言ってのける。

「なんとなく分かった、なんであんたが怒ってるのか。あやは私と真逆ってことだ」

「真逆?」

「私なら、友達が秘密を話してくれたら嬉しいからさ。話す相手に私を選んでくれたってことでしょ? あやはその真逆。なんで私なんか選んだの、ってずっとふて腐れてる」

 選んでくれた。その言葉を反芻する。確かに姉は喜びそうだ。でも私が選ばれるとしたら、姉や世の中の人とは全く違う意味だ。

「月人は、私なら何を言っても否定しないと思って言ったんだよ」

「それって重要なの?」

 姉が残りわずかになっていたオレンジジュースを飲み干す。考えてみれば、最近ゆっくり話をする時は決まってアルコールが入っていた。久しぶりの素面の姉は、いつになく大人しい気がした。私の知っている姉はもっと、批判的で聞く耳をもってくれなかったような。

「重要でしょ」

「なんで?」

「なんで、って」

 とオウム返しにしたところで言葉に詰まる。それって説明が必要なことなんだろうか。虚しさが一番だった。情けなさが二番。

「まあいいんだけどさ。それで? あやちゃんはどうしたいの? 愛の力で月人くんを女に目覚めさせる?」

「やめてよ」

「そう? それぐらいの意気込みがあっても、姉としてはいいんじゃないかって思うけど」

 わざとらしくちゃん付けして子ども扱い。私の悩みは、そんなに些末でくだらないものなんだろうか。二つしか違わないくせに、絶対的な差のようなものを感じて嫌になることがある。

「お姉ちゃんみたいに単純じゃないから」

 本当は分かっている。経験値の差が実際に超えようのないほど積み重なっているのだ。だって私は、姉みたいに友達が多いわけでも恋人がいるわけでもない。本当に差があるからこそ、認めたくなくて姉を責める。対等でありたがる。

「私から言わせれば、単純なのはあやの方だよ」

 指摘をしながらも、姉は穏やかな笑みを添えている。どうしようもなく実感する。姉は至って冷静で、未熟な私とまた差が広がったのだ。できれば、声を荒げて欲しかった。醜いケンカを買って出てほしかった。

「なんで私が単純なの」

 仕方なく、姉の言葉の先を促す。

「あんたは、この世に二種類の人間しかいないと思ってる」

「なに、いきなり」

 私の戸惑いなどお構いなしのように、姉は続けた。

「どういうことか、知りたい?」

 ややあって頷く。姉の決めつけを聞いてやろう。的外れのことなら、意地悪に笑い飛ばしてやろうとした。

「教えない」

「ちょっと、そこまで言っておいてずるいよ」

「教えたって納得しないでしょ」

「そんなの分かんないじゃん。やめて、モヤモヤする」

「あやが思うものを言ってみてよ。合ってたら教えてあげる」

 よほど自分の考えに確証があるのか、クイズの答えのように言ってのける。言ってみてと促したくせに、私の反応を待たず姉は続けた。

「まああんたのことはいい。まずは本人にちゃんと話を聞いてみたら? なんで今まで誰も言ってこなかったことをあやに話したのか。あんた、ろくに話も聞かないで逃げたんだろうから」

「言ってるでしょ。本人が言ったの。私なら話せると思った、誰かにずっと言いたかった、って」

 姉は分かりやすく息を吐き、項垂れて見せた。心情を表現するには十分すぎる仕草だ。気を入れ直すように、氷が回転するだけのグラスに口を付けてから言う。

「世の中あやが思ってるほど、シンプルじゃないから。みんなもっと、意外なことを考えてたりする。だから、一人で考えてても一生分からないよ」

「じゃあきっと、私には一生分からないんだよ」

 自分でも投げやりな言葉だと思った。でも、これからもずっと一人で考えていく私の姿は容易にイメージができてしまった。姉の言う、意外な考えとやらも知りたいと思わない。なら何も問題はないだろう。

「あや」

 姉の声色が変わる。姉の中の、許しがたいラインに触れてしまったと気づく。

「まったく、珍しくあやの口から新しい登場人物が出てきたもんだから優しく言ってやってんのに」

 それでも、姉の口調は抑えられたものだった。意外な気がして、自然とその言葉に耳が傾く。

「私が何よりも気に入らないのはね、その月人って男のことをあんたが何も考えてないってことよ」

 気に入らない、というのは姉が受けた感想の核心部分なんだろう。私が喚いていた時からずっと姉が隠していたのだと思うと、冷たい汗が滲んでくる。

「その人、生まれて初めて人に話したんでしょ? すごく勇気を出したんじゃないの? それを聞いたあんたが逃げ出したら、どんな気持ちになるか考えないの?」

 それは違う。考えるより先に、口が動いていた。

「そんなの分かってるよ。だから私じゃない、誰か別の人に話してほしかった」

「でももう聞いちゃってるんだから、なんとかできるのはあんたしかいないでしょ」

 姉はもう手加減をしないとばかりに、早口で言葉を並べる。

「あんたが言葉を返せないことなんかより、このままここでグチグチ言って終わるのはよっぽど最低だよ。分かるでしょ」

「……分かったよ」

 部屋に戻り、いつ以来かの姉妹喧嘩を思い返す。以前に比べれば、ずいぶん短く静かなケンカだった。分かった、と口にしたのは分かりたくもない話を終わらせたかったから。それはきっと、姉にもバレているだろう。

 パソコンを付け、あてもなくネットニュースの見出しを見る。お目当てのページがあるわけじゃない。ただ、頭の中を新しい情報で埋めないと余計なことばかり考えてしまいそうだった。

 大型テーマパークの移転、野球の試合経過の速報、最新映画の興行収入。どれを選ぶこともなく画面を滑らせた。毒にも薬にもならないような文字列の最中で、私の手は止まった。

『男と女の捉え方の違い、アンケート特集』

 男と女。月人のような存在を考慮すると、このアンケートはどちらでもない性別というのを取り入れた三項にすべきなのかもしれないと考え、すぐに自分の誤りに気づく。同性愛者であっても、月人は男性の分類にはなるだろう。ジェンダーの話題と境がよく分からなくなっていた。どちらにしても、このアンケートの男性と女性という二択は正解とは限らないのかもしれない。そこまで考えて、もしやと思い当たった。

 なんとなく忍び足で、姉の様子をリビングの外から窺う。姉がまだ険しい顔をしているか、背を向けていて分からない。あえて素知らぬ顔で、声をかけてみた。

「ねえ、さっきの話なんだけど」

「なに?」

 姉は、スマホに目をやったまま返事をした。ローテーブルの前で寝そべって、退屈を持て余していますと言いたげな姿。苛立ちを保つ労力を惜しんだような、効率的な生き方で少し羨ましい気さえする。一体いつからそんなに切り替え上手になったんだろう。おかげで私は助かるのだけど。

「私のこと、二種類しか人間がいないって思ってるって言ったでしょ。あれって、男と女しかいないって意味?」

 姉はスマホから顔を上げ、私の目を見た。黒目の奥の、脳みそまで見透かすようにじっくり見てから、笑った。

「ハズレ、残念でした」

 縁日でくじを外した子どもにでも言うように、半ば楽しんでいる顔を傾けた。自信があっただけにコケにされた気分だ。

「でも、発想は近いかも。あとは本人に会って確かめるべし」

「どうしても月人ともう一回会わせたいんだね」

「そりゃそうでしょ。本当は、自分でもこのままじゃいけないって分かってるくせに」

 私はため息をついた。渋々だけど了解、の意。悔しいけどその通り。私だって、このまま終わるのは本意じゃない。姉のありがたいお説教は、理性では分かっているつもりのことばかりだ。月人の気持ちを無視していることも、もう聞いてしまった以上は私が受け止める以外にないことも。でも頭で分かれば行動に移せるなら、私はとっくに人と会話できているだろう。

「なにも、今全部を受け入れられなくてもいいんじゃない?」

 姉が再びスマホを見つめながら言う。さすが姉妹、遺伝子レベルで共鳴しているとしか思えない的確さ。これ以上、私の気持ちを代弁されるのも煩わしいので部屋に退散することにする。

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