第9話
「練習を見に来るならそう教えてくれればよかったのに。あいつときたら」
私というより、この場にいないミューズへの愚痴らしい。初めて月人と引き合わされたときと同じ、なずなの一番奥まった席に私たちはいた。三人で練習を見た日の晩、月人からメッセージが来た。急に来たので驚いたことと、足を運んできてくれたことへのお礼。はい、という二文字だけの私の返事と、今度こそ会って話したいことがあるという月人のメッセージ。私は『なずなでなら』とだけ返した。話したいと言っている相手を無碍にするのもどうかという気持ちと、また食事代をすべて出そうとするのではという疑念からなずなを選んだ。なずななら、コーヒーチケットを出せば受け取ってもらうことはできるだろう。
「ところで、あやちゃんって呼んでいいかな?」
急な問いかけに、自分で瞬きが増えたのが分かる。どう受け取ったのか、月人は説明を加えた
「戸村さんってすごく堅い感じがするでしょ。クセみたいなもんなんだけど、僕は女の子はいつも下の名前で呼んで仲良くなるんだ。だから、もし嫌じゃなかったら下の名前で呼ばせてほしい」
私はうなずいた。といっても、同意のうなずきとは違う。二回目に会う冒頭で、下の名前で呼んでいいかと許可をとる。呼び名ってそういうものだったろうか。そういえばゴマ君は勝手に名前で呼んでいて自然なのに、許可を求められると戸惑うから不思議だ。ただ、私の返事を待つ時間が続くことに耐えかねてうなずいた。
「ありがとう、あやちゃん」
整った薄い顔立ちの口端が持ち上がる。両頬を上げた微笑みは、大口を開けて笑うミューズとは真逆のものに見えた。
「なにせね、僕は小さいころから女の子とばかり遊んでいたんだ。僕は小学生のころからだと思ってるけど、両親が言うには三歳ぐらいのときにはすでにそうだったらしい。物心ついたときにはすでに、女の子とおままごとや人形遊びをしているのが好きだったって」
タコスの店で聞いた話を思い出した。ミューズの人形が羨ましかった話。両親が望んだのは、人形遊びよりも野球をする月人だと。諦めたと言った瞬間の、余裕が消えた笑みが思い浮かぶ。
「もしも、僕が今もそう思っているとしたら、あやちゃんならどう思う?」
今の月人は余裕があるままだ。余裕のある笑みのまま、不条理な質問をする。私はうまく頭が働かずに、その顔を見ていた。
「笑う? 変だと思う?」
よく分からず首を振った。変なのだろうか。少し変かもしれない。でも笑うつもりもない。
「じゃあ、気持ち悪い?」
首を振る。
「軽蔑する?」
首を振る。
「嘘だと思う?」
首を振る。だんだん、自分の意思とは関係なく首を振っている。それが、今自分に与えられた役割に思えてただ首を振る。
質問が止まる。月人は口元に手を当て、何やら思案する。細い指先に似合わず、野球でできたのだろういびつに固まった手の質感が分かる。その手の先で、月人が小さく息を吐く。
「ありがとう、嫌わないでいてくれて。これが、僕がずっと言いたかったことだよ」
置かれたままだったコーヒーに手をつけ、カップを置いた月人は満足そうだった。
わざわざもう一度会ってまで言いたかったことと思えず、私一人が腑に落ちない。
「僕はね、同性愛者だ。女の子は仲良くする相手であっても、恋愛の対象としては見ることができない。ずっと、誰かに言いたかったんだ」
え、と声に出せない自分が恨めしかった。
「君になら、言えるんじゃないかって思ったんだ。前に会ったときも思ったけど、今、僕の男らしくない趣味を聞いても笑わない君を見て間違いないって思った」
それは、違う。背筋が冷たく、体温がさあっと遠ざかっていく感触がする。
「誰も知らないんだ。僕の友達も、同僚も先輩も後輩も」
月人は焦っていた。私という相手を選んだ以上、降りかかるのは目に見えていたはずの沈黙を恐れている。焦って言葉を並び立てるほど、私との温度差が明確になる。次の一言は、私が何より聞きたくない言葉だった。
「家族も」
月人の過ちを決定的にする一言。家族も知らない秘密を、彼は私に話してしまった。
私になら言えると思った? 聞いてしまった私はどうすればいいのだろう。どんな顔で、ミューズやマスターやおかあさんに会えばいいんだろう。
彼に、どんな反応を返せばいいんだろう。
彼が私を選んだのは、とんでもない失敗だ。買いかぶりすぎだ。それで報われることなんて、何一つないのに。もう戻れない。
「こんな僕のこと、嫌いになった?」
卑怯な手だと思う。私がイエスと言えないことを分かっている。お人形さんのように何でも聞いてくれる私は、その質問に頷くはずもない。そう思ったからこそ、出会って間もない私に重大な秘密を聞かせた。勝手で自己満足な選択。
私は立ち上がった。立って、見下ろした月人は吹けば飛びそうなほど存在感が薄く見えた。
目と目が合っている。月人の瞳が揺れているのが分かる。怯えと、目を逸らしてはいけないという虚勢が混ざった目。ああ、私は今どんな顔をしてしまっているんだろう。立ち上がってどうしようというんだろう。「嫌いになってないよ」とただ首を振ればよかったのに。もうこの場にいられなかった。
「ごめん」
私の背中に、月人の声が縋り付いてくる。続く言葉はなくて、私はまっすぐ前だけ見て逃げた。残されたわずかな理性で、ちぎったコーヒーチケットをレジに残していった。
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