第8話
車と、電車とバスは何が違うんだろう。背中をシートに預けているのが嫌になって、そんなことを考えていた。体を起こすと、背中から湿度の塊が抜けていくのが分かる。
前方からはハンドルに片手を投げ出しているゴマ君と、助手席であくびを噛み殺すミューズの声が続く。途中から会話を追えなくなった私から見ても、二人は渋滞を前に意気が下がっていた。目的地は、きっとまだ遠い。
「この時間はこんなに混むんだなあ。やっぱり八時には出ておくべきだったかな」
「勘弁してよ。それじゃあ一限行くのと変わらない時間じゃん。私の日曜日をなんだと思ってるの?」
「そうは言っても。ヘタしたら月人くんのいいところ、見逃しちゃうし」
「練習は午後もやってるんでしょ? なんとかなる、なる」
スマホに目を落とすと、もう十二時が近くなっていた。車に乗って一時間以上経っていると知ると、一段と身体が重くなった。ドア側にもたれたつもりが顔から触れて、頬が窓に張り付く。冷たくて、熱が出たときの氷枕を思い出した。この車内で初めて見つけた快適ポイント。目を閉じて、疑問の続きを考える。
車と、電車とバスの違い。つまり、なぜ車はこうも居心地が悪いのかだ。差し当たって思いつくのは、狭さと匂いと景色だ。立ち上がるスペースが無いことも、ゴマ君が振りまいただろうお香のような匂いも、機嫌悪そうな車に囲まれた車外と、大小不揃いのマスコットが窓を囲む車内の景色も、全てが原因な気がしてきた。
私が体験している不快さは、車酔いというやつで間違いない。気だるくて、頭が痛い。自分が車酔いする体質だとは思ってもみなかった。電車やバスで酔ったことがなくても、車だけ酔うこと。生涯忘れず教訓とすると誓いながら、顔を窓ガラスにうずめる。
「どうしよう。ほんとに昼ご飯食べてから行った方がいい時間かも?」
「いやー、今食べるとそれこそ、到着したら午前の練習終わってた、なんてことになりそうだなあ」
「戸村はどう? お腹すいてる?」
ミューズの声が自分に向けられているものだと、気づく余地もなかった。
「ちょっと、なんか顔白い! 大丈夫?」
答えなくてもいいや。だって私はこんなに辛いんだもの。目を閉じ意識が消えていくのが心地いい。周りの車も狭さもどうでもよくて、あとはこの偽物の森みたいな匂いが無くなればいいのに。最後にそう思った。
曖昧になっていく意識の中、なぜだか何度となく思い返してきた記憶が割り込んでいた。拒むほどの気力もなくて、見せつけられるがまま浮かぶ光景に身を委ねる。
記憶の中の私は、着慣れないお上品な服と忙しない大人たちの様子に浮足立って、いつもにも増して顔を伏せていた。淡い黄緑色のワンピースに、左肩には片手で余るぐらい大きなバラの飾りつき。あれは多分、小学校に入る前ぐらいの年齢だったんじゃないかと思う。
私の前で姉は、ほとんど同じデザインの桜色ワンピースに身を包んでいた。母の妹の結婚式。朝早くから準備をして、いつ式が始まるのか、何が行われるのかもよく分からず退屈を持て余していた時間だった。
何やら慌てた様子の大人がやってきて、母に耳打ちをする。姉が当たり前のように母の隣で腕を掴み、私は声が聞こえない位置でその様子を眺めていた。大人が姉と母を交互に窺い、姉が力強く頷く。大丈夫だよ、としっかり者の声が聞こえる。この辺りの記憶はかなり曖昧だ。もしかしたら後から補完した部分があるのかもしれないし、案外その通りなのかもしれない。確かめようもない朧気な断片なのだけど、次の場面ははっきり覚えている。
私の前に現れた姉は、子ども心に目を見張るほど可愛らしく、プロの手によるコーディネートが為されていた。透き通るように白いくせに、控えめに入ったライン状のラメがきちんとドレスの煌びやかさを引き立てる。ふわふわのスカートは姉の動きに合わせ、漂うように揺れていた。何より私が羨ましかったのは頭の上に乗せられた花冠だ。フラワーティアラというのが正式な名前らしいけどとにかく、姉の頭を取り巻くピンクの花々が鮮烈だった。
後から知ったことだけど、姉は急遽欠席となった子どもに代わってフラワーガールという大役を仰せつかっていた。ヴァージンロードに花を撒き、新婦を先導する姉。私は聞いていないやら羨ましいやらで、呆然としていたんじゃないかと思う。
この記憶は、いつも罪悪感と居た堪れなさとともに終わる。決まって最後に思い出すのは、私が手のひらサイズの熊のぬいぐるみの毛を毟り取っているところだ。まだ披露宴の最中、ごちそうが並ぶ純白のテーブルクロスの下で熊をいじめる。私は足をバタつかせて、無表情のままその作業に没頭した。
なぜ私の手元に収まったのかは覚えていないけど、それは姉が貰うはずのぬいぐるみだった。フラワーガール役の子へのお礼の品。ぎゅっと掴んだ拍子に毛が抜けて、なんだか自分の気持ちが少し晴れた気がした。何度も毛を抜いていくのだけど、簡単に抜ける部分はさほど無かった。毛が長い部分以外は抜けず、面白くなかった。不満を露わに熊をテーブルの角に打ち付ける。急激に苛立ちがこみ上げ、二度、三度と続けた。
反動でテーブルの上のジュースグラスが転がり落ちて、母が私の手の中で歪な毛並みになった熊を見つける。
「どうしてこんなことするの」
ジュースを拭き、散らばった毛を集めながら母が声を荒げる。私の方が聞きたかった。どうしてこんなことをしてしまったんだろう。この感情は、なんという名前なんだろう。
家族になら口で話すことはできたわけだけど、そういう問題じゃなかった。説明する言葉が見つからない。ただ確かに覚えているのは、この時の私は姉よりも大人たちを恨んでいた。フラワーガールをしないかと、どうして私にも声をかけてくれなかったのか。
きっと私のことだから、いざ打診を受けたら怖気づいて断っていただろうと理解はしている。その分際で、自分が選択肢にも入っていなかったことにショックを受けていた。私だって、頑張ればできたかもしれないのに。
肩に何かが触れ、私は目を見開いた。助手席からこちらを伺うミューズの手が慌てて引っ込む。多分、お互い同じぐらい驚いた。
「お、起きてたの?」
私は首を振った。自分がどこにいたのかも分からなくなるぐらい眠っていた。
「いやー、ずいぶん時間がかかったよ。世間様はどこへ行くんだか、道が激混みでさ」
運転席からゴマ君が呆れ声で言う。だんだん、状況が飲み込めてきた。月人が野球をしているところを見ようと、ミューズの呼びかけで球場に向かっている車内だった。断るほどの理由もなくてついて来た私と、運転手要員で連れて来られたゴマ君。
「戸村、ごめんね。戸村の分も一緒にお弁当買って来ちゃった。あんまりすやすや寝てるから、起こすのかわいそうでさ」
人前で寝るなんて、修学旅行ぐらいでしか記憶にない。しまった、と動きそうになる口元を引き結んだ。どんな姿を見られたのだろうと思うと、恥ずかしさでミューズの方に顔を向けられなくなる。
「残念なことに、結局午前の練習にはぜんぜん間に合わなくてね。あと三十分もすれば午後の練習が始まるから、ベンチでお弁当でも食べて待ってよう、という僕のナイスなプランだよ」
私の様子に気づくことなく、ゴマ君が胸を張る。では早速行こうか、と車から降りた。ミューズに次いで、私も置いて行かれないようドアを開けた。
出て、知った。空気が広い。
砂地の駐車場にいる他の車は離れ小島みたいで、視界を遮るものがほとんどない。駐車場と道路を区切るのは連なる木と緑で、さらにその遠くに見える道も、どこまでいっても緑が続いて見えた。立っているだけで新しい空気が胸に入ってきて、車内でしていた呼吸と同じ行為には思えなかった。いつもは煩わしいまっすぐな陽の熱が、柔らかで仄かに思えた。
伸びをしながら進み出る二人の後につく。意図せず駆け出したくなるような感覚。似た経験を思い出すと、浮かんできたのが中学の林間学校で驚いた。随分遡らないと、私はろくに木々に近づいてすらいない。
ゴマ君はさすがは月人を追いかけていたというだけあって、分かりきったように進んでいく。途中、現在地を示した看板があって、テニスコートやジョギングコースの文字が見えた。視界の緑の先も、だだっ広い敷地の一部分なのだと知る。私たちが進む道はジョギングコースの一部なのか、背筋を伸ばして走る女性や同じジャージの学生集団などがすれ違っていった。
「ねえ、この辺いいんじゃない?」
ミューズが前を行くゴマ君に声をかける。指さす先にベンチと、フェンス越しの黒板色のスコアボードが見えた。その存在で初めて、いつの間にか野球場の周囲を歩いていたと知った。
「ダメダメ、そこじゃ月人くんが遠いでしょ。月人くんがショートを守る以上、三塁側から見ないと」
「うそでしょ、三塁側って完全に反対側じゃん。あっちまで行くの?」
「大げさだなあ。いつも立ち仕事なんだから余裕でしょ」
「私のお腹が早くしてって言ってるの。ねえ、どこで見たって一緒だってば」
繰り返し訴えるミューズを、ゴマ君は生返事であしらい続けた。私はといえばミューズの言う「向こう側」までの距離も実感が湧かなくて、時々木を見上げながらただ歩いた。車の中で縮こまっていたせいか、もう少し歩いてもいいと思えた。
とうとうミューズの反対を押し切って、球場の周りを半周したところでゴマ君が足を止めた。ここが最高の場所なんだよ。ゴマ君が言い終わる前にミューズはベンチに座ってお弁当を広げ始めていた。手招きされて、ミューズの隣に座る。座ってしまうのが惜しい気がしたけど、座っても木はいい匂いで温かくて、来てよかったな、なんて思う。さっきまで車酔いに苦しんでいたことなんてきれいに忘れていた。三人で座るには窮屈そうで、ゴマ君は隣のベンチに腰掛けた。
ゴマ君いわく公園名物という弁当を食べながら、フェンスの向こう側へ目を向ける。野球場というと芝生のイメージがあったけど、ほとんどの部分は土のグラウンドだった。隅っこのあたりに、わずかだけど頼りない色と密度の草が点々としているエリアがあった。あれが芝生? それとも雑草? 目を凝らす。
「ああやってね、選手によっては早めに出てくるんだ。クラブチームといっても部活とは違うからね。熱心に体を動かすのも休憩時間はしっかり休むのも、自主的に考えなきゃ試合に出れないってわけ」
ゴマ君が解説してくれたのは、私が目を凝らしていた足元の上を踏み鳴らして通る選手たちのことだ。上下白に水色のラインが入ったユニフォームを、揃って身に着けた四人が走っている。ゴマ君は弁当を抱えたまま、グラウンド全体を見ようと立ち上がった。
「それで、月人はもういる?」
卵焼きを頬張りながら、ミューズが尋ねる。なずなで見る身軽さと違い、ベンチに貼りついたままだ。ゴマ君を差し置いて座ったままの姿が、なずなのお母さんそっくりな気がして笑いそうになる。
「いや、まだいないね。大体いつも最後に出てくるから。どちらにせよもう二時になるし、すぐだよ」
あ、とミューズが短く声をあげた。多分、月人を見つけたと言おうとしたのだろうけど、その先はかき消された。
「月人さーん」
「月人ー」
「がんばってー」
一斉に上がった声の先に、若い女性の三人組がいた。彼女たちの視線の先をたどると、今姿を現したらしい月人の姿があった。遠目から見ても、戸惑っているのが分かる。軽く帽子に手を当て、ストレッチをしている選手たちの輪に入っていった。
「あれ本気? ゴマ君以外にもファンがいるの?」
「なんだかね。最近ネットで人気が出てるんだよ。SNSってやつ。月人のプレーじゃなく、イケメンってことで注目が集まってるのが腹立たしいけど」
ほら、あの辺もみんなそうだよ。とゴマ君が指したあたりには、他にも何組か月人に視線を注ぐ集まりがあった。大抵が若い女性だけど、たまに男の人の姿もある。
「バックネット裏であんなに騒いだら選手たちの邪魔になっちゃうよ。ああいうのと、同じファンだってくくられたくないね」
肩をすくめたゴマ君の後ろで、ふーんとミューズが声を漏らす。珍しいものを見た顔で
「ゴマ君、意外とストイックなんだ」
と呟いた。
「ストイック? むしろ、ファンってそういうものでしょう。単にあの人たちのマナーがなってないだけで」
「ねえ、なんでゴマ君ってプロ野球よりアマチュアが好きなの?」
「え?」
予想外の質問だったのか、ゴマ君はぴたりと言葉を止めた。
「だってさ。プロ野球が好きって人はたくさんいるけど、クラブチームまで追っかけるなんて相当マニアックじゃん。何がそんなにいいんだろう、って思って」
「僕はプロ野球もアマチュアも、全部ひっくるめて野球が好きってだけだよ」
「えー、そうかな。てっきりアマチュアの方が好きなんだと思ってた。プロ野球の試合は見に行かないって言ってたしさ。いくら野球好きだからって変わってるよ」
ゴマ君は答えず、思い出したようにベンチに座り直した。弁当に初めて手をつけ、どうだろうねと曖昧に笑う。
なぜだっけ。私はゴマ君の態度にちぐはぐな何かを感じている。違和感の正体が記憶の中にある気がして、綿あめみたいなモヤモヤの糸をたぐり寄せようと頭を働かせる。
「それを言うなら月人くんだって相当変わってるよ。中学で野球を辞めたのに、就職してから野球をやるなんて。しかもリーグのどの選手よりも上手くて華がある。学生から野球を続けていたら、絶対今頃プロでバリバリやってたはずなのに。もったいない」
肩を落とすゴマ君を見て、違和感の正体に気づいた。あれは、なずなで初めてゴマ君を見かけたとき。
『僕レベルにもなると、チームなんてものは超越してますから』
テレビで試合を見るゴマ君は、それが自慢とでもいうようだった。さっきの、ミューズの質問に肩をすくめる姿は、なんとなくだけどゴマ君らしくない気がした。
「月人はね」
名前を出してから、ミューズがペットボトルのお茶を飲む。ゆっくりフタを閉め切ってから口を開いた。
「謎だもん。ま、確かに昔から野球は別に好きそうじゃなかったけど」
「そうなの? もったいないなあ。もったいないお化けが出るよ。才能の塊だよ彼は」
「でもね。好きも才能のうちって言うじゃん。だからゴマ君がいくら言ったって、月人には才能がなかったんだよ。野球、好きじゃないんだもん」
何を合図にしたのか、グラウンドに散らばる選手たちから次々に声が上がる。それぞれが自分の持ち場らしき場所に散っていった。
「じゃあますます意味不明だよ。好きじゃない野球を、なんで就職してから始めるの」
「だから謎なんだって。月人が高校から野球やらないって言い出したとき、家は大荒れだったんだよ? ほんといい迷惑。思い出したくないよ、あの頃は。おとうやおっかあにも理由を言わないし。なんか家の中がギスギスしちゃって、私まで毎日親とケンカしてたし。それに」
ミューズが私を見る。
「戸村に当たり散らしてた時期だし」
「ミューズちゃん、それはもういいんじゃない? こうやって今は仲良くなった、良いことじゃない」
なだめながら、ゴマ君が目の端でこちらに同意を求めてくる。私は曖昧にうなずいた。ミューズが不服そうに息を出したのを最後に、三人とも示し合わせたように黙った。
グラウンドではノックが始まっていた。選手たちが順番にボールを受け、投げ返す。ゴマ君が再び立ち上がり、フェンス前に陣取った。座ったばかりだと思っていたのに、ゴマ君がいた場所には空になった弁当箱が居座っている。
「この弁当、なかなか美味しいよね」
そう言うミューズの顔は、なずなで会う時のように活発さを取り戻していた。私は正直に、うなずいて返す。特別目立つ品があるわけじゃないけど、どれを食べてもおいしくてピクニック気分にぴったりだった。
「前に月人から聞いてたんだ。チームの練習場近くに美味しい弁当屋があるって。でも練習見に来ることなんか無いからさ。戸村がいないときっと一生食べる機会はなかっただろうな。こうして美味しいものに出会えたのは、戸村のおかげ」
どう返すべきか分からなくて、弁当の端を彩るあんみつを食べてごまかした。本当は来る前も、今もずっと、聞きたいことがたくさんあった。月人と会った次の日、ミューズから来たメッセージ。
『週末の月人の練習を見に行こう』
理由を聞きたかったけど、どうやって聞けばいいか分からなかった。嫌がっていると思われたらどうしよう、理由が返ってきたらなんと答えよう。そんな問答を続けているより、行くと返事をする方が楽だった。結局誘われた理由も分からなければ、お礼を言われる理由も分からない。
「ねえ、こうやって私が誘うの、迷惑じゃない?」
首を振る。分からないことは多いけど、今いるこの時間も含め悪い気はしていない。
「そっか、ならよかった。でもね。一つ謝らせて」
何を? と思う前にミューズはもう謝っていた。
「ごめん。私、本当に最低な人間なの」
自分自身に、怒りを通り越して呆れているような頼りなさ。
中学のころの件だろうか? 他に、ミューズが私に謝るような理由があるはずもない。だけど、ミューズは私の身に覚えのない話を続けた。
「全部分かってるの。月人は何も悪くないって、頭じゃ分かってるんだよ。でもそんなに簡単に納得できない」
身を固くするミューズの横で、最後に結菜ちゃんと会ったときのことを思い出した。よく分からない理由で私の前から去った結菜ちゃん。よく分からない理由で謝るミューズ。どうしてこんなにも、説明がされないことばかりなんだろう。きっと、私が尋ねれば済むのだろうけど。
「いつかさ、ちゃんと話すから」
どこか白けた私の気持ちに気づいたのかは分からないけど、ミューズはそうつけ加えた。
「戸村」
私と目が合ったのを確かめるように、唇を結んでから続けた。
「戸村はさ、話せるようになろうって努力したことあるの?」
自然と私もミューズも、箸を持ったままの手を止めていた。私の目はミューズに向けられたまま、その顔の先のどこか遠くへと焦点を移していた。意図の分かるような分からないような問いを、頭の中で繰り返してみたけど相変わらずよく分かりそうにない。
「例えばちょっとでも話すように練習してみる、とか、発声練習とか? それとか病院に行ってみるとか。精神科とか、意外と薬でなんとかなったりしないのかな」
「これでも私なりに考えたんだよ。戸村にとっていい方法が無いのかなって思ってさ。思いついたのがこんなのだった」
「ごめん。私が勝手に、戸村にできる罪滅ぼしを探してるだけなんだ」
私が何の反応も返せないでいるのが気を遣わせたのか、慌てた様子でミューズは次々に言葉を重ねた。その間、私は湧き上がる嫌悪感と戦っていた。じっとり汗ばむ足元から、こもった熱と一緒に噴き出てくるような忌々しさ。ああ、ダメだ。これではまた同じ。結菜ちゃんの時と同じだ。結局、話せない私はいつかこの問いにぶち当たる。私がいくら私を良しとしても、他人からみれば本当は話せる私を望んでいるのだろう。やっぱり私は猫と生きていければいいかな。猫屋敷と化した家を思い浮かべてそんな風に思い、虚しさから目を逸らした。
「ねえ、じゃあ一緒に調べてみようよ。喋れないこと、戸村の病気のこと、スマホで調べてみたら何か方法があるかもしれないじゃん。練習が必要なら付き合うしさ」
私は首を振った。できるだけ感情を悟られないよう、丁重に、ご遠慮させて頂きますと辞退の意だけが伝わるよう首を振った。自然と笑みすら浮かべていたように思う。幸いミューズは私の意図通り受け取ったようで、小さく鼻を鳴らしただけで何も言わず頷いた。
「ほら、月人くんの番だよ」
ゴマ君が手招きする。同時にグラウンドを取り囲む空気も変わるのが分かる。誰もが同じ方向、ショートという位置で構える月人に視線を向けていた。事情を知らない様子の人まで、何事かと注目する。
「行こう、せっかくだから前で見ようよ」
立ち上がるミューズとともに、ゴマ君と同じようにしてフェンス網に手をかけた。
「月人さん、頑張ってー」
月人が登場したときに最初に声を上げた三人組が、見えない誰かと競うように声を張る。
「うるさいぞー」
聞こえてほしいんだかほしくないんだか、声を出すゴマ君は口元を手で隠していた。手で制したミューズが、顔をフェンスの網に押し付ける。
「月人おーっ、いけー!」
「守備の練習の割に、攻めた声援だね」
ゴマ君が苦笑する。容易くボールをさばいた月人が、元の位置に戻る途中で一瞬顔を上げた。すぐに顔を伏せたけど、月人が私たちに気づいたのは明らかだった。
「おーおー、気づかないふりだよあいつ。手ぐらい振ってくれたっていいじゃん」
「シャイだからね月人くんは。それに、こっちだけ手を振ったりしたらあの追っかけさんたちが黙ってないだろうし」
熱心に声援を送り続ける三人組は、ミューズの声に構う様子もなく月人の動きを追い続けている。
「すごいなあ。トラトラトリオ」
ゴマ君の呪文のような言葉に、ミューズがなにそれ? と眉を上げる。
「三人組で勢いがあるからね。野球ファンとしてはバース、掛布、岡田のバックスクリーン三連発トリオが思い浮かぶんだよ。ていうことで、タイガースの三人から取ってトラトラトリオ」
「よく分かんないけど、トラが多くない?」
「その辺は響きを重視してみたよ」
「まあ、なんでもいいけど」
ミューズのため息も何十もの視線も、月人は別の世界のことのように練習を続ける。ボールを追いかけ投げる姿は、誰よりも軽く、強く見えた。ミューズもゴマ君も、遠い世界の住人に見えた。
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