第7話

 未来を真剣に考えているかはともかく、私だって当面のお金を稼ぐ気がないわけじゃない。じゃあ当面のお金というものがいくらで、いつまでに稼ぐべきなのかというと、答えは持ち合わせていない。なにせ一億円稼ごうが〇円という結果に終わろうが、きっと私は母の料理を食べるし服もベッドもパソコンも買い換えないだろう。絵だって、学校から指定された教材を払うぐらいの気概は持ち合わせているつもりだったけど、こうして独力で描く生活では手元にあるツールで十分。パソコンひとつで賄えるのだ。油絵や水彩画は楽しかったけど、一億円手元にあっても手を出すかは分からない地位に収まってしまった。

 いつまで、いくら。私に言わせてみれば、会話ができないことよりも具体的目標がないことが問題な気がする。

 パソコンで絵を描くために両親から借りた五万円を返済しきって以降、私にはこれといったお金を稼ぐ必然性がない。漠然と収入を得て、プラスマイナスが合っているかも分からない日を重ねている。

 今日もイラスト作成の依頼が来るのをインターネット上で待つ。悲しいことに、私が描いた最高にキャラクターの魅力を惹きだしたはずの絵よりも、イラスト作成代行業の方が収入にはなった。

 世の中には、その気になればタダで手に入るイラストやデザインの汎用品が溢れている。似たようなものならスマホ一つで拾える今の時代にも関わらず、定期的に依頼が来た。一番よく来るのはアニメのキャラクターのイラストで、リクエストがくればネットで調べ希望された通りの絵を描いた。たまには、お店のマスコットキャラクターを考えてほしいという依頼が来たりしてデザイナー気分になることもある。

「いつまで、か」

 口に出して考えてみる。曲がりなりにも、私なりに目指すべき目標を考えていたつもりだ。それは嫌でも視界に入るように、パソコンのモニターに貼り付けてある。

 残り七枚になった、なずなのコーヒーチケット。期限は、これが無くなるまで。では一体、期限までに何をするか。

 絵を描きたいと思った。なずなの光景を、温かさを、楽しさを、絵として表現したい。それも、あのお父さんの悲惨な自画像がいる黒板に。いつも黙って挙動不審な私にできる数少ない、なずなへの恩返し。結菜ちゃんに見放された私を受け入れてくれたお店に、お礼がしたい。無論、私なんかの絵で喜んでもらえるかは分からないけど、まずは意思表示をしたい。問題は、どうやって伝えるかだ。

 不意に机が鳴って、私は顔を起こした。久しぶりに鳴った音が、机の上のスマホの振動だと気づけくまでに時間がかかった。考え事をしながらパソコンの前で寝ていたらしい。

「会わせたい人がいるんだけど、お店に来てくれる?」

 持田美柚子からのメッセージ。しばらくそこから目が離せなかった。息を止めて、返事を打っては消してみたり。

「うん、わかった」

 ずいぶん苦労してそれだけ送り返した。私は閃いて、持田美柚子と登録した名前を変えてみることにする。何年経っていようと、持田美柚子という字面は私にとって強烈だった。ミューズちゃん。持田美柚子の他の呼び名を、私はそれしか知らない。ゴマ君がしきりに繰り返す、ミューズちゃん、ミューズちゃんという呼び声。返信と同じように打ったり消したり繰り返して、最後はミューズで落ち着いた。ちゃんを付けなかったのは、十年前の私が今も見張っている気がして言い訳したかったからだ。

 彼女はミューズ、あの頃の持田美柚子とは心を入れ替えた別人かもしれない。仲良くなるわけじゃないけど、少しこの不思議な関わりを続けてみようと思うの、と。



 ミューズは、約束の時間だけでなく席まで決めて私に伝えた。なずなの中でも一番奥、L字の店内の端っこにあり、入り口近くからは見えない位置だ。いつものテレビの下にも、その奥にもゴマ君の姿はない。

 陽の光が差す入り口側の席と違い、出窓もなくカウンターやテレビの音も遠い隅っこ。追いやられた島みたいな席に思えたけど、座ってみると薄暗さがちょうどよくて、むしろ高級感のあるエリアに思えてきた。

 この場に来て、今さら私はことの異様さを考える。ミューズから呼び出される事態までは、まだあり得ることとして。会わせたい人というのはどういうことだろう。人物にも目的にも、心当たりはまるでない。ミューズに事前に聞こうかとも考えたけど、私の指は相変わらず文字を打っては消してを繰り返しただけだった。

 約束の時間三分前、彼女たちは現れた。ミューズと、引き連れられて立つ同年代ぐらいの男の人。白い型紙を貼り合わせたようなワイシャツの清潔感と、その襟から覗く太い首の組み合わせが矛盾している気がした。少しでも汚れることを嫌いそうなのに、汗をかくことは厭わないような感じ。

 見知らぬ人であり、男の人であるという両方に私はたじろぐ。見た目だけは取り繕って、相手のタイミングに合わせて会釈してみる。

「ありがとう、よく来てくれたね。これが、私が会わせたかった人。うちの兄」

 私の向かい、二人がけのソファー席に並んで座りミューズは口を開いた。理解が追いつかないまま、『これ』と称された男性を見る。文句も言わずに座る彼は、私と目が合ったとたん私よりも早く目を逸らした。ミューズと似た力強い目鼻立ち。似ていないのは眉毛で、ミューズよりもお兄さんの方が細くラインを整えた跡があった。

「じゃあ、あとは若い二人に任せて」

 と、早々に立ち去ろうとするミューズに懸命に視線を送った。

 どういうこと? 

 何が何だか分からないよ?

「やっぱり僕は帰る。彼女にも迷惑だ」

 助けを求めたミューズではなく、お兄さんが呟いて立ち上がろうとする。

「なんでよー。話してみてから考えればいいじゃん」

「僕は最初から必要ないって言った」

「ここまで女の子が来てくれたのに、放っておいて帰るわけ?」

「それはそっちが勝手に呼んだからじゃないか。僕だって困るし、彼女も困るに決まってる」

「そうなの? 戸村、困る?」

 急に話を振られて、私はなんとも曖昧な顔をした。困るも何も、話が見えてこないままだ。

「別に困らないって」

 ミューズの言葉に、お兄さんが口をつぐむ。本当に困らないのか、私自身にも分からないのだけど。あ、それが困るという感情か、と今気づいた。

 後は二人にお任せしたよ、頑張って。と、エールらしきものを残してミューズは去って行ってしまった。

 言葉が無くなったことを嫌うように、お兄さんは咳払いをして話し始めた。

「ごめんね、妹に言われて来たんだと思うけど、僕はその、最初に言っておくけどそういうつもりは一切無いんだ」

 そういうつもり? 私は首を傾げる。

「まずは自己紹介をしよう。僕は持田月人。歳はミューズや君より五個上だね」

 ゲット。カタカナの文字列が頭に浮かぶ。同じぐらいの歳に見えたから、五歳上なのは驚いた。

 返事の代わりに私は頷く。頷いて、どうやら月人が私の順番を待っている様子と知る。だからって私が喋ることはない。

「君は戸村あやさん、とても大人しい人だって聞いてるよ」

 そうしてまた私の返事を待つように間を空ける。

「本当に大人しいんだね」

 驚きを隠さず、月人が大きな目をさらに大きくする。だんだん申し訳ない気がしてきて、何度も頷きを繰り返した。

 ごめんなさい、あなたの話が退屈とかじゃないんです。

 心の中で言いながら、惑う。ミューズはなんのためにこの機会を作ったんだろうか。

「ごめん、いいよ、大人しい人の方が僕は好きだ」

 アイライク寿司。彼が言う好きはその類の趣味発表のものか、あるいは社交辞令の嘘か。そうだとしても、はっきり嫌じゃないと表明してくれたのは、いくらかの安心材料にはなった。

「はい、コーヒーお待たせ。盛り上がってるかな?」

 ミューズが明るい声とともに二人の間に立つ。私たちそれぞれの前にコーヒーを並べながら、私と月人の顔を交互に確かめているようだった。

「変なヤツには変なヤツが合うかと思ったんだよね」

 ミューズが楽しそうに笑う。何か言いかけた月人の返事を待たず、ミューズは「あー忙しい」と独り言を残して他のテーブルへ向かっていく。特段、店内が混みあっているようには見えなかった。

「ええと、それで」

 仕切りなおすように、コーヒーをすすった月人が切り出す。少し考えた顔をした後に、

「戸村さんは、ミューズからどういう風に今日のことを聞いてるの?」

 と続けた。

 私は首を横に振って、何も聞いていないと表明する。

「何も?」

 うなずく。

「そ、そうなんだ」

 それきり月人は口をつぐんだ。時々何か言いかけたかと思えば、そうじゃなくて、と独り言のように呟いたり。ミューズへの返信を書いたり消したりしていた自分に似ている気がした。

「えっと、戸村さんはミューズと仲良かったの? 同級生なんだよね」

 頷きや身振りで答えられない問題だ。いよいよスマホを取り出そうかとも思った。文字で打って説明しようと。でも、文字にもできそうになくてやめた。いじめっ子といじめられっ子って。見せられないでしょ。

「ああ仲がいいってわけじゃなかったかな。そうだね、うるさいミューズとじゃキャラが全然違うし」

 無かったことにするように、月人は自分が始めた疑問を早口で終えた。私がうつむいていたせいで、何か気を遣わせたのかもしれない。

「もしかして、いろいろ聞かれるのは嫌かな?」

 私はうつむいたまま、上目遣いで月人を見た。嫌なのかもよく分からない。ただ、質問されても答えられないのは確かだけど。

「じゃあ、僕の話をしてもいいかい?」

 うなずく。いまだによく分からないこの状況は、彼に話してもらうしか成り立ちそうになかった。

「僕は今日は休みだけど、普段はスポーツ用品店に勤めてる。それで……」

 そうやって始まった彼の話は、好きな音楽や映画について当てもなく話しては行き詰って、今度は何を話そうかな、とまた思案する。

 私からすれば、そろそろ頃合いかな、という段階。一定の頻度で登場する、私に懸命に話しかける人が心の折れる頃合い。一人で話し続けることに限界を感じて、お開きを申し出る。二回目がある人はそういない。三回目がある人はまずいない。

「キミはすごいね。こんなに大人しい人は初めて会ったよ。ああごめん、変な意味じゃないんだ。ただ本当に驚いてるんだ」

 月人が置いたコーヒーカップは空になっていた。

 大人しいんじゃなくて病気ですよ。不治の病。

「よかったら晩御飯を一緒にどうかな? その、もう少し話がしたくて」

 私はたぶん、久々に心から驚いた顔をしていたと思う。目を見開いて、その真意を見つけようと月人の顔を隅々まで見る。肉なんて食べたことがなさそうな、混じり気のない肌がやたら綺麗だってことしか分からなかった。

「嫌だったら無理にとは言わないけど」

 と、聞かれて返事をしないといけないことに気づく。私は首を振った。嫌ではないから、それは伝えないといけないと思った。

「よかった。じゃあ、行こう。すぐ近くに美味しいお店があるんだ」

 ミューズがレジで会計を計算しながら、どこ行くの? と囃し立てる。月人はといえば、聞こえないふりでもしているように静かに財布を用意していた。私はその後ろから、自分が飲んだ分のコーヒーチケットを差し出す。

「僕が出すよ。付き合わせてしまったし」

 私は首を振って断る。このコーヒーチケットだってミューズがくれたのに、さらにおごってもらったら何が何だか分からない。

「大丈夫、大したお金じゃないから」

 私は差し出したチケットを、ミューズに突き付ける。構わないから受け取って。

「ミューズ、僕が払うから」

「どっちでもいいから早くしてくんないかな。お客さんが待ってるよ」

 月人が折れたことで、ミューズにチケットを受け取ってもらうことができた。店から逃げ出すように出た月人の後に付いて行く。

 結局、ミューズが私と月人を引き合わせた理由はなんだったんだろう。最後に何か教えてくれないか、ミューズの方を振り返ったけど彼女は店内を見ていて気づく様子がなかった。いつもの明るさはなく、何も考えていないようにどこかを見つめる横顔。それが誰か、私の知らない人のように見えて心細かった。



 月人の言う店は本当に近くて、私に嫌いな食べ物がないか尋ね、どんなお店に行くつもりかを説明してくれている間に着いた。近所にある大学に合わせてか点々と飲食店や居酒屋が続く道中、そこはあった。

 なずなと同じような薄暗い店内だけど、置かれている装飾品のジャンルがまるで違う。東南アジアで買ってきたような木彫りの民芸品が多く、お香の匂いもする。来る途中、月人はタコスとカレーが美味しい謎の店なんだけど、大丈夫? と聞いていた。うなずいてみたものの、タコスがどんな食べ物かはっきり思い出せない。学校か、結菜ちゃんか家族と食べたことがあるものがほとんど全てなんだから、私が知らない食べ物ってけっこうあるんだろう。

 そんなことを考えていたら、奥の四人がけぐらいのソファー席に案内された。なずなや他のお店のソファーと違って座ると深く沈み込む。おまけに布地の生地だから、布団の上に座っているような感覚になった。

 月人に促され、メニューを見回す。タコスの種類が選べて、別の欄にカレーが載っている。私はカレーを指さしかけ、止めた。

 あやちゃんって冒険しないよね。とはいつかの結菜ちゃんの言葉だ。結菜ちゃんは新しいメニューがあるとすぐに頼むのだけど、私の選択基準は知っているか知らないかだ。美味しいと分かっているものがあるのに、他を選ぶ結菜ちゃんの気持ちが理解できなかった。

 私はタコスの中から、アボカド&ツナを指さした。食べたことがないタコスに、アボカドも食べたことがない。これほどの大冒険を、結菜ちゃんに言う気はないけど少しやり返せた気がする。大体、結菜ちゃんだって新しいものに飛びつきすぎてよく失敗していたくせに。

「じゃあ、後は適当に頼んでおくよ。飲み物は?」

 月人がこまめに注文する内容を私に確認して、私はどれにもうなずいた。正直、どれも想像がつかないものばかりだった。

「いきなり付き合わせて、迷惑じゃなかったかな?」

 私は首を傾げる。迷惑というほどではないけど、なんだか言われるがままにたどり着いてしまった。

「実は、キミならもしかして僕のことを分かってもらえるんじゃないかと思って」

 月人は難しそうな顔をして

「いや、僕の一方的な思い込みなのかもしれないけど」

 と逃げるように視線を彷徨わせる。

「キミに、聞いてほしいことがあるんだ」

 喉にガラス玉でも詰まっているような、押し出す声。

「その、なんていうか」

 私は真剣に聴くべき話な気がして、ソファーに沈みかけていた背筋を正す。

「何から話せばいいのかな」

 そうこうしているうちに、飲み物やサラダが運ばれてきて、月人は安心したような悔しがるような苦笑いを浮かべた。

「そうだ、まずは食べよう」

 こう言った時には、安心の方が勝っているようにみえた。

 タコスは、前に結菜ちゃんと食べたクレープに似ているといえば似ていた。中から出てきた熱いソースで口の中がいっぱいになって、もっと慎重に食べればよかったと悔やむ。熱さを我慢していたらぬるい柔らかい生ものの感触があって、なんだか涙目になった。恨めしく覗いたタコスの中には、緑色の塊が詰まっていて、それがアボカドだとようやく分かった。正体を知って食べたアボカドは意外と美味しくて、涙も気づいたら引けていた。

「どう? なかなかいいと思わない?」

 月人が言いながら、他のお皿を差し出してくる。フライドポテトやスープが並んでいて、タコスと比べると安心感のある面々だった。

「戸村さんは不思議だね。なんだかお人形さんみたいだ」

 ポテトが口に入ったまま、中途半端に噛むことを忘れる。どんな顔をするべきなのか、続きを食べていいのかもよく分からなかった。

 月人は私の様子を見て、軽快に笑い飛ばした。

「ごめんごめん。そんなことを言われたら食べにくいか」

 変な意味じゃないんだ、ただ、お行儀よく座って静かだからお人形さんみたいだなって思っちゃったんだ。と付け加えた。

「思い出すな、子どものころのこと。ミューズは僕が五歳の時に生まれたんだ」

 話題が私から逸れたと分かると、自然とポテトの味がよく分かるようになった。スパイスの効いた慣れない味。

「僕はミューズが生まれる前から、女の子とばかり遊んでいてね。親がいくら男の子のグループに入れようとしても、怖いって言って聞かなかったらしい。幼稚園の頃はずっと、女の子とするおままごとやお人形遊びが好きだったんだ。意外かな?」

 頷いてから、考える。今の成人した月人を目の前にすると意外な気がしたけど、子どもの頃の遊びなんてそんなものかもしれない。

 月人はタコスを頬張りながらテーブルを見つめていた。やがて何かに納得したように続ける。

「ミューズが二歳のときのクリスマスプレゼントがね、ミューズの背丈とほとんど変わらないぐらい大きな人形だったんだ。女の子の、着せ替えができたり髪をブラシで梳いてあげたりできるやつ。あれを見たときは本当にうらやましかったな。僕は着せ替え人形どころか、ぬいぐるみももらったことが無かったからね」

 そう嘆く月人は何をもらっていたんだろう? 私の疑問も拾い上げるように、月人の思い出話は続く。

「小学校に入るぐらいまでは不思議だったよ。なんで友達の家と違って僕は、誕生日もクリスマスもお願いしたものがもらえないんだろうって。今でも覚えてる。ミューズが着せ替え人形をもらった年、僕がクリスマスプレゼントでもらったのはグローブとボールだった」

 彼はぎゅっと目を閉じ、俯いた。長い睫毛と高い鼻が、それこそマネキン人形のようだった。目を閉じて記憶を辿っているだろう姿は、幼い日の自分がすぐそばにいて、健気な声に耳を傾けているようにも見えた。

「あの時、僕は諦めたんだ」

 ほんの一瞬、子どもが泣き出す寸前のような、本能的に手を差し伸べたくなる瞬間。私がその変化に気を取られたときにはもう、月人の顔は余裕のある笑みに戻っていた。

「僕が人形遊びをしたがったり、女の子とばかり遊ぶのが好きなのは間違っているんだって。僕が間違っているんだから、お父さんやお母さんが望むように僕は野球をするべきなんだってね」

 ごめんね僕ばかり喋って、と私のせいなのに彼は謝る。せっかくだからどんどん食べてよ、と言われて見たテーブルの上の料理はあまり減っていなかった。言われるがままに、ポテトを手に取る。

「こんな話、つまらないかな」

 私は首を振る。そもそも私には昔から、人の話がつまらないという感覚がよく理解できない。

 以前、姉とそんな話をしたことがある。「あんたは人の話がつまらなくても話題を変えたりできないから不便だね」と言われた。話がつまらないと思ったことがない、と答えると姉は「幸せなのか不幸なのかよく分かんない話だね」と半ばあきれていた。

 私に投げかけられる言葉の全ては、私にとって大事な情報だった。一つ聞けばまたその人のことを知りたくなる。次に出会ったときには、また話しかけてくれるとは限らない。ミューズの言葉を怖いと思うことはあっても、つまらない言葉など私には一つだってなかった。言葉は、いつだって憧れるものだった。

 彼は心から安心したように、冷めかけの料理に手を付け始めた。時々ミューズの話をしたり、自分の話をしたり。その途中でも常にこちらの様子を窺って、自分の言動が私の気に障ることを恐れているようにも見えた。

 私からすれば、不満なことなど一つもなかった。相づちも満足にできない残念な私に、月人は穏やかなまま言葉を続けている。

「僕が人形で遊ぶことを許してくれたのは、ミューズだけなんだ。お父さんとお母さんに隠れてこっそり、一緒に遊ぼうって誘ってくれた」

 それはきっと、幼い頃の他愛もない話。頭ではそう分かっていても、ミューズの可愛らしいエピソードを耳にするのは複雑だ。凶悪犯が幼いころに花を愛でていたような話を、私はどういう気持ちで聞けばいいんだろう。

「なずなに人形が飾ってあるのは知ってる?」

 私は頷く。あのカウンターに並んだ、気の抜けた笑顔が浮かぶ。

「あれはミューズのなんだ。二歳のクリスマスに最初の一体をもらってから、六歳のクリスマスまで毎年ミューズがサンタにお願いをしたんだよ」

 記憶を辿ってみても、五つの人形のひとつひとつはよく思い出せない。五体の人形それぞれに思い入れがあると分かると、不思議ともっとよく見ておけばよかったと後悔した。たとえ思い出の主がミューズであっても。

「でも、僕はそれがずっと不思議だった」

 月人の声の調子が変わり、自然と視線が向かう。

「いくら人形が好きだっていっても、毎年人形をお願いするかな? それに、誕生日はいつも違うものなんだよ。おままごとセットだったり、お絵描きセットの時だってあった」

 月人は口に運びかけたタコスを止めて言う。

「これは僕の勝手な想像だけど。ミューズは人形が欲しかったわけじゃないのかもしれない。ただ、僕があんまり欲しそうにしてたから。かわいそうって思ったんじゃないかな。ミューズが一人で人形遊びをしてた記憶はないんだけど、よく遊んでってせがまれて一緒に遊んでたのは覚えてるんだ」

 ま、僕の妄想かもしれないけどね。と苦笑いとともにタコスを頬張った。

 私はまた、ミューズという人間がよく分からなくなる。兄を思う心優しい幼児。落ち込んでいた私に声をかけ、コーヒーチケットをくれた今。じゃあ一体、私が中学の時に受けた仕打ちはなんだったというのだろう。私が、何かいけないことをしたのだろうか。優しいはずの彼女を狂わせるほどの、何かを。

 ずいぶん時間をかけて料理が無くなったところで、月人は腕時計に目をやった。

「そろそろ出た方がいいね」

 促されて席を立ちかけ、戸惑う。月人は、何か私に言いたいことがあるはずだった。確かめたくて、月人を見る。

「どうかしたの?」

 ただ察してくれることを期待して、待ってみる他なかった。

「あ、ごめんもしかしてトイレとか」

 と、月人が慌てたところで私は諦め首を振った。席を立つと、月人も不思議そうな顔はしていたけど一緒に席を立った。

 月人は私にお金を払わせようとしなかった。少しだけでも払おうと差し出したお金は、頑として突き返される。『話を聞いてもらったお礼』という文言から始まり、途中からは

『僕は働いてるんだから』

『誘った方が払うのがマナー』

 などなど、手を変え品を変えて説得してくるので私の方が折れた。

 参ったのは、店を出たところで帰りのタクシー代まで出すと言い始めたことだ。そもそも、タクシーなんか使わなくても電車で十分たどり着ける場所なのに。

「いくらぐらいかかるの?」

 と問われ、ただ首を振る私に、月人は千円札を何枚か握らせようとしてくる。だんだん言葉少なになってお金を押し付け合う私たちの横を、怪訝そうな目をしたカップルが通り過ぎていく。

 やむなく、私はスマホを取り出した。戸惑った様子の月人を尻目に、私は画面を差し出す。

『今日はありがとうございました。家へは電車で帰ります』

 月人が画面を見ている間、酷く息苦しかった。私の言葉が、人に伝わる。ミューズに手紙を渡したときとも違う、目の前の相手へ今の気持ちを伝えること。どうしようもなく困難で恐ろしいこと。何か変なことを言っていたらどうしよう、気を悪くさせたらどうしよう。その場に崩れ落ちそうな感覚。早く月人の反応を見て安心したいような、永遠に返事がない方がいいような。電車が通り過ぎる音が、やたらとはっきり聞こえていた。

「そう、か。なら電車代だけでも」

 私は激しく首を振った。自分でも過剰だと思う、振り払うような動き。ああ、きっと異様な姿に映っているだろう。どうしていつも、伝わってしまったものは悔やんだところで遅い。

「分かった。ごめんね、本当は僕が出すべきなのに」

 さっきまでと変わらない、穏やかで相手を気遣い続ける口調。彼に変化がない以上に、私自身が彼の様子を知ることを拒否していた。ただただ怖くて、早くこの場から消えてしまいたかった。

「最後に、お願いしてもいいかな?」

 私は頷く。同意というより、立ちすくんで思わずそうしてしまった。早くこの場が過ぎることを、本能で望んでいるみたいだった。

 この呼吸が、震えが、月人にはどう映っているのだろうか。気味が悪い? 関わらない方がいい?

 月人は、電車が通り過ぎるのを待ってから言った。 

「また話がしたいんだ。連絡先を聞いてもいいかな?」

 不思議だった。もう怖くないはずなのにやっぱり膝は浮ついていて、何に対してかも分からず耐えていた。

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