第6話
「ずっと絵ばかり描いてたってしょうがないでしょ」
いつしか母に言われた言葉を、ここにきて酒びたりの姉に言われるとは思わなかった。
姉の話は、道のりは違えど結菜ちゃんと同じ結末を辿る。つまり、就職や結婚はどうするの、だ。私が人と話さないことはさておき、二十一歳で学校に行っているわけでもなく、定職に就いているわけでもないあなたはヤバイのよ、と。
まもなく両親が仕事から帰ってくる時間だ。さっきまではどちらでもいいから早く帰ってきて姉の相手をしてほしかったけど、今は帰って来られると困る。帰ってくるまでに話題を変えておかないと、夕食の時間が私の将来についての会議になったら困る。
「私だっていろいろ考えてるよ」
「いろいろって?」
「いろいろは、いろいろ」
「具体的には何も考えてないってことでしょ」
姉はしたり顔で言うけど、本当はそれも違う。考えはしたんだ。私だって、結菜ちゃんに言われたことが何も響いていないわけじゃない。一応私も考えはした。でも、結論は多分姉が求めているものではない、だから上手く説明できない。
「考えてるよ、うるさいな」
仕方がないので、必要以上に声を荒げてみせた。夕食でその話題は禁句、と一方的なメッセージを乗せて。姉は、あーおっかない、と首をすくめて新しい缶を開けた。
「ねえ、たまには付き合ってよ。一杯ぐらいどう?」
口に持っていきかけたクセに、あからさまな思い付きで私の方へ缶を向けた。
「いらない。何が美味しいの?」
「美味しいっていうか、スカッとする。味なんかなんでもいいのよ。酔えればそれで」
あれ、と何か思い出したように姉が首を傾げる。
「まさかあんた、一度もお酒を飲んだことないの?」
「無いよ。飲みたくないもん」
「あんたどんだけ人生損してんのよ。喋れない分、人の二倍酒を飲む権利があってもいいぐらいでしょ」
「意味わかんない」
姉は返事の代わりに、私に向けていた缶を呷り豪快に喉を鳴らした。
「酔って、それでどうするの?」
「どうするって、そりゃ解放感に浸るでしょ。この世界に生まれてよかったーって感じるでしょ」
でしょと言われても。大体、姉はいつも解放しっぱなしの気がしていたけど間違いなのか。
「そうだ、あんたお酒を飲んで人と会ってみれば? 酔った勢いで喋れるんじゃない?」
姉が懲りずに手の中の缶を差し出してくる。私から見るそれは、もはや麻薬かドーピングか、とにかく禁忌とすべき毒に見えた。
姉が酔いで正体を失って、好き勝手に言葉を垂れ流す姿を思い出す。一瞬でも自分に当てはめてみようとしたことを後悔した。
怖い。私の言葉が、人に伝わることが怖い。伝わって、解釈されることが怖い。私の言葉が誰かに感情を与えるぐらいなら、ずっと無のままの方がいい。私が発しなければ、全てはゼロのままでいい。積み上がらず、失くしもしない。
私は自分の部屋に居場所を移した。早く姉の元から離れないと、こみ上げる震えを知られる気がした。椅子に体を預けて、ようやく少し息がしやすくなる。
「絵を描いても仕方ない、か」
別のことを考えたくて、わざと口に出した。私のなけなしの収入は、インターネット上にアップしたイラストが稼いでくれているんだけど。それだけじゃ食べていけないのも事実だ。
三年前、私がイラストを勉強するための専門学校に行きたいと言った時には、父も母も姉も大いに喜んだ。
大学進学と比べると、あまり世間体が良くない選択だとは百も承知。何日も気をもんだ上で切り出した私にとって、予想と真逆の反応だった。
後から思えば、私は家族から何も期待されていなかったのだろう。家の外で話せない私は、高校を卒業した先の居場所がないと諦められていたのではないか。
小学校の頃に市のコンクールで賞をとった架空の未来都市の絵は、今だって酒浸りの姉の背後に飾ってあるのに。会話ができないというのは、そんな事実も忘れさせるほどの大問題らしい。
「先生見て、戸村さんの絵すごいよ」
中学一年のとき、授業で私が描いた絵を見て同級生が言った。私の席の四方から覗きこむような視線が集まって、波紋が広がる。すごい、同じ絵具で描いたレベルじゃねえ。いつも誰よりも早くはしゃぐ男子の声がした。
私は縮こまり、他に逃げ場もなくて先生の顔を見ていた。気づいた皆が、先生に注目を移す。裁判長の判決を待つような時間。
美術の教師が目を細めて言った。こけた頬でなぜか白いタオルを首にかけ、教室のはずなのに窯焼きを前にした陶芸家みたいだった姿を覚えている。
「戸村はおしゃべりな方じゃないだろ?」
唐突な問い。中学に入って間もなくの、まだ出席番号順の席に座っていたぐらいの頃。クラスメイトは同意してもいいものか迷いを隠せず、半端に頷いたり首を傾げたりした。
「そういう子だけが描ける世界がある」
うわ、山が全部黒くなった。バーカ、色の混ぜすぎでしょ。今度は教室の後方で上がった声に、クラスの関心が移っていく。分かるような分からないような、感情が混ぜこぜになる話より、一瞬で分かち合える失敗の方がきっとみんなは楽しい。笑い声が広がる中で、先生の言葉を思い出すと勇気が出た。私は、私のままここにいていいと思えた。逃げ出したいとき、何度もこのときの光景を思い出した。
高校を卒業したら絵を勉強したいという私の希望は、両親のごく低いハードルを楽々飛び越えた。
『いいんじゃないか、一生懸命好きなことをやるのは』
『学費のことはなんとかなるわ。頑張ってね』
高校の進路指導部から取ってきたパンフレットを軽く眺めて、迷う様子もなく言った。姉にしたって、まだ場面緘黙症というものを知らなくて風当たりが強い時も多かったけど、この時ばかりは賛成してくれた。
わずか数日の後に、専門学校行きを撤回した私は大いに家族を落胆させることになる。いくら理由を尋ねられても答えることはできなかった。持田美柚子が、絵の専門学校に行くらしい。どこからか耳にしたその情報一つで、私は全てを諦めた。同じ学校に行かなければいいとか、そういう次元の話じゃなかった。高校の三年間私のことを忘れたように振舞っていた持田美柚子が、ここでまた私の進む道に被さろうとしてくる。きっと、私が違う方に進めばまた彼女の影も付いて回る。そんな気がして、何もしないことを選んだ。
知りたくもなくても、学校の教室にいるだけで噂話は耳に入ってくる。持田美柚子が美術に何の関係もない大学に受かったと聞いたのは、卒業までの余り時間みたいな日の昼休みだった。
三回目のなずな挑戦も、持田美柚子の姿はなかった。代わりにゴマ君がコーヒーを飲んでいて、なぜか私はゴマ君の指定席まで引っ張り出されてお母さんと三人でテーブルを囲んでいる。店内にお客さんが何組か入って来ても、せっせと迎え出るのはお父さんだった。お父さんとお母さんの労力は十倍は差がありそうだ。
「というわけで、ミューズちゃんの友達なんですよ。あやちゃんっていいます」
散々脱線して私のコーヒーが冷めきったところで、ゴマ君はそんな風に話をまとめ上げた。友達なんです、の紹介にはさすがに抗議したかったけど、母親を相手に否定する勇気はなかった。どういうわけだか、ゴマ君は私が話せないことには触れもしない。
「ミューズの友達でも、別にゴマオの友達じゃないだろう」
お母さんの言葉に、私ははっきり頷く。
「そんな、僕はこうして新たな常連さんと交流を図ろうと思ってですね」
ゴマ君が食い下がる。三回目の来店で常連認定されてしまうとは。それにしても、三回とも同じ席に居座っている彼は何者なんだろう。
「あんた、ゴマオが邪魔くさいだろう」
お母さんが私の目を覗き込んでくる。近くで見るお母さんの目は、ふっくらした顔に沈んだ小さな目だけど潤んでいて優しかった。
私は反応に迷う。確かに邪魔くさいけど、面と向かって肯定するほどでもない。
「ほら、やっぱり嫌がってるじゃないか」
「まだ何の答えも出てませんよ」
「嫌じゃなきゃすぐ否定するだろ」
二人がやり合う横で、私は焦りを感じ始める。このままじゃ、お母さんは返事のない私を無愛想でおかしなヤツだと思うに違いない。
「それにしても、大人しい子だ」
ほら来た。だから、ゴマ君に説明してほしいところだけど。
「そうなんですよ、彼女はすごく大人しいんです。あんまりおかーさんがギャアギャア言うと余計に萎縮しちゃうんですよ」
はあ、っと思わずため息が出る。どう解釈したのか、ゴマ君は「ね?」と再度お母さんを見た。
なんで喋らないの? いつかの持田美柚子が、お母さんに乗り移る気がして怖くなった。
「うるさいのはお前だろう。この子が来なくなったら、間違いなくお前のせいだ。なあ?」
今度はしっかり頷いておいた。お母さんのせいで萎縮なんてとんでもないです、と伝えたかった。
「しかし、ホントに大人しい子だ」
驚いた声のお母さんと目が合ったまま、にらめっこみたいになる。何も返す術がないことが申し訳なくて、私は顔を伏せた。なんとなく三人言葉が無くなって、私のせいでこの店の団欒を壊してしまった気になる。
ふん、と息を吐いたお母さんは、前にも見た肘をつく姿で私を見上げた。
「実はこのゴマオはな、無職なんだ」
何事かと、私は思わず目を見開く。
「ええ、なんですかそれ、急になんなんですか! それに僕は無職じゃないと何度も言って」
「じゃあその仕事とやらを説明してみな」
「だから、このパソコンが僕の商売道具なんですよ。株の売買でちゃんと儲かってるんですってば」
ゴマ君が脇から取り出したのは、商売道具と言ったノートパソコンだ。お母さんはまるで意に介さず
「それのどこが仕事か。株なんてのはギャンブルだよ。うちの親の親戚連中は軒並みそれで退職金を持ってかれたんだから」
「ですから、それはちゃんとやり方があってですね」
言いかけて、ゴマ君はああっと大げさな声を上げた。
「今そんなこと関係ないでしょう。あやちゃんの話をしてたんですよ」
「関係あるんだよ。相変わらず浅いねゴマオは」
お母さんが身を乗り出す。有無を言わせぬ口ぶりに、ゴマ君は完全に勢いを失っていた。
「ど、どういう意味ですか」
「お客さんをもてなすのが私の仕事なんだよ。どうせゴマオのことだから、自己紹介もろくにせずにベラベラ喋るつもりだろう。だから私が変わりにやってやったまでだよ」
「お母さん、僕のこともてなしてくれたことないじゃないですか」
「いつも叱ってやってるだろう。ゴマオが叱ってほしそうな顔をしてるから、そうしているまでなんだよ」
マジすか……と消え入りそうなゴマ君の声を最後に、二人の掛け合いは途切れた。私が想像するもてなしという言葉と、肘をついているお母さんの態度は差がありすぎて可笑しかった。
「分かりましたよ、じゃあ次はおかーさんの紹介っすね。ちなみに僕は無職じゃないけど」
「こんなババの話なんて聞いてどうするんだ。それよりゴマオの話だ」
何か異を唱える気配を見せたゴマ君を、お母さんは目で制して続ける。
「このヒマ男はわざわざ三本園から来てるんだ。なんでそんな遠くから毎日来てるか、気になるだろ?」
三本園、と聞き覚えのある地名の記憶をたぐり寄せる。通学で電車に乗っていた頃が浮かんだ。私が乗る方向と反対側の、どこかで目にしたような名前。距離感は分からなくとも、毎日通う喫茶店にしては遠いことは理解できた。
「こいつはストーカーなんだよ。うちの子のな」
自然に、私とお母さんの視線がゴマ君に向かう。
「ちょっと、ややこしい言い方しないで下さいよ」
置きっぱなしのコーヒーカップを倒しそうなほど身を乗り出したゴマ君と、それを見て意地悪に笑うお母さん。私は気休め程度にゴマ君から体の重心を遠ざける。
「いや、違う、違うからね、あやちゃん」
「何が違うんだ。に付きまとって、実家まで突き止めただろ。世間様はそれをストーカーって言うんだよ」
「女の子を追ってストーカー呼ばわりならまだしも、月人くんを追っかけてストーカーだなんて心外です。彼を応援し、彼の活躍を願う敬虔なファンと言ってもらいたいところです」
月人。てっきり持田美柚子のストーカーだと思った私は、見知らぬ名前の登場に戸惑う。ストーカーでもファンでも、ひとまず私はお母さんの側へいくらか寄ったままでいた。
軽やかなベルの音が鳴る。お母さんが重たそうに顔を上げて、ゴマ君も同じ方を見た。つられた私は、その音が入店時に鳴っていたベルだったと思い出す。
誰の出迎えも待たず、当たり前のように入ってくる持田美柚子がいた。彼女は何よりも、真っ先に私を見つけたような気がした。笑ってはいないけど、不機嫌そうでもない顔をしていた。どこを見るともなく視線を彷徨わせながら、間違いなくこちらへ近寄ってくる。
「ただいまおっかあ、いらっしゃいゴマ君。それと、戸村」
中学の時のことも、泣く私に謝っていたことも、洗い流すような軽い調子の挨拶だった。
それで、私も全てなかったことにするべきなんだろうか。私が受けた仕打ちと、彼女の謝罪が釣り合っているのか、いまいち私には分からない。せめて中学校の頃に謝ってくれたら良かったのかもしれない。
そこまで考えて、ああ、ドラマや映画で見る壮絶な復讐劇の執念はすごいんだ、と関係ないことを思う。何年経っても恨み続けるだけの執念を、私は持ち合わせていない。今の彼女に敵意がないことが分かると、私の体も頭も容易くその情報を受け入れている。それが歯痒い。許すべきじゃないのではと疑問を掲げても、怒りが湧いてこない。
「おっかあ、働いてよ。お客さん待たせてるよ」
「ちょうどいい時に帰って来てくれた。うちの娘はさすがだ」
肩をすくめただけでカウンター裏へ引っ込んだ持田美柚子は、戻って来たときはすでにエプロン姿だった。お母さんの返事は予想済みだったのかもしれない。
嫌な顔をすることもなく、持田美柚子はできたコーヒーをテーブルに運び、しばらく放置されていたテーブルの上の食器を片づけていく。
「相変わらず働き者ですね、ミューズちゃんは」
ゴマ君が感心を漏らす間も、せっせと働いて滞ったお店を正常に戻していた。過去の私の前にいた持田美柚子とは、全く違う姿だ。ぼんやり見つめていて、ようやく私は当初の目的を思い出す。
そもそも、持田美柚子に手紙を渡しに来たのだった。
チケットありがとう。嬉しかったです。
それだけ書いた、手紙というよりメモぐらいのもの。実際は嬉しかったというのは間違いな気がしたけど、あの時の気持ちを表す言葉が見つからなくて、やむなくこんな形になった。
さっき、声をかけられたときに渡してしまえばよかったと後悔する。こんな時、普通に話せたら隙を見て呼び止めて完了だろうか。声を出すことすらままならない私は、じっと相手が近づいてくれるのを待つしかない。
「しょうがない、ちょっと手伝ってやるかね」
お母さんが、ふんっと力を込めて体を起こす。客席のことは持田美柚子に任せたのか、カウンター裏へと消えていった。
「あの、さっきのストーカーってやつ、おかーさんの冗談だからね」
分かるよね? と確認するような上目遣い。そんなことよりも、なぜ私が話せないことをお母さんに説明してくれなかったのか尋ねたいところだ。私が曖昧な顔をしていると、ゴマ君は身振り手振りを交えて慌てた。
「本当なんだよ。参ったな。ええとね、月人くんっていうミューズちゃんのお兄さんがいてね。彼はもう、すごいんだ。センスの塊だ。長らく野球を見てきた僕の目は確かだよ」
そういえば、初めてこの店に来たときもこの前も、ゴマ君とお母さんは野球の試合を見ていた。持田美柚子のお兄さんは、プロ野球選手なんだろうか。聞きたいことは浮かぶけど、私に聞く手段はないしゴマ君も止まらない。
「プロでも通用するって僕は言い続けてるのに、本人にその気がないんだ。だから、家族に説得してもらうしかないと思って、それが僕がここに来たきっかけなんだ」
持田美柚子の方をチラチラ窺いながら、やむなくゴマ君の話を聞いていた。ゴマ君は空になったコーヒーカップを恨めしそうに眺めては、思い出したように水を飲む。
彼の話からすると、月人という持田美柚子の兄とゴマ君は二年前に出会ったそうだ。出会ったといっても、当初ゴマ君は球場で試合を見ていた観客で、月人は選手だと言った。その試合での月人は、それはもう格が違ったとゴマ君ははしゃぐ。打って守って走って、全てがクラブチームのレベルじゃなかったと自分のことのように胸を張った。
クラブチームというのが私にはイメージがつかなかったけど、話の断片から月人の仕事先に野球チームがあるらしいことは分かった。
ゴマ君にとって月人の存在は衝撃的だったらしい。曰く、ゴマ君はかなりの野球オタクで、あれだけのレベルの選手がいて高校野球や大学野球で話題にならなかったのが不思議でならないというのだ。インターネットを使って持田月人という人物を調べても、高校野球地方大会の記録一つ出てこない。その謎と溢れる野球の才能に、すっかり虜になったのだと力説する姿は得意げだった。
そこからが私にはなお理解し難かったのだけど、ゴマ君はこの才能がプロにならないで埋もれることが耐え難いと感じたそうだ。そんなの、本人にとっては大きなお世話なんじゃないかと思ったけど彼の主張は止まらない。
最初は試合前後や練習日に本人に話しかけてプロテストを受けるよう説得していたそうだが、取り合ってもらえずにとうとう実家まで探し当てたそうだ。全ては、持田月人をプロ野球選手にするために。
「もっとも、もう諦めかけているけどね。結局おとーさんにもおかーさんにも、ミューズちゃんにも取り合ってもらえなくてさ。今じゃただの客だね、これじゃ」
ゴマ君は氷だけになっていたコップをあおって、急によそよそしく頭を搔いたり私の方を見たりし始めた。
え、なに? とも言えず、私はその様子を見つめる。
「いやあ、話の終わりが見えなくなっちゃって。いつもどうやって終わってたかなと思ってさ」
話の終わりをどうするか。耳慣れない疑問の答えを、記憶に求めてみる。結菜ちゃんと話している時や、家族と話している時。思い浮かべてみたけどそんなこと、気にした覚えがなかったから記憶にも残っていなかった。
「あー、えっと、つまり。このペースだと僕は閉店まであやちゃんに喋り続けそうで。女の子に一方的に話続けるっていうのはダメな大人がするもんでしょ。これ以上続けるのは、僕のポリシーが許さないんだよね」
そう言って居所が悪そうにまた頭を搔く。理屈は分からないけど、そろそろ話は終わりにしよう、と言いたいらしい。私も、人と過ごすという慣れない時間に疲れてきていた。これ幸いとばかりに席を立つ。挨拶の代わりに、二、三度とお辞儀をした。
「退屈な話ばかりでごめんね」
何を思ったかゴマ君が謝るので、私は慌てて首を横に振った。謝られるとしたら、お母さんに私の病気を説明してくれなかったことの方がまだいい。
レジまで行けば持田美柚子が来てくれるかと思ったけど、レジに立ったのはお父さんだった。お客さんの入れ替わりが落ち着いたのか、持田美柚子は次々に残った食器を片づけ、合間にテーブルを拭いていく。コーヒーチケットを支払い、出口の前で立ち止まる。ダメだ、このまま帰ったらダメなんだ。
ドアの前で立ち止まった私を、お父さんはきっと怪訝な目で見ているだろう。ゴマ君は、持田美柚子はどうだろうか。店内に残った何人かのお客さんはどうだろう。想像の中の視線に、背中が押されそうになる。一歩前に出て、ドアを開けてしまえば何事もなかったように時間はまた動き出すだろう。だけど。
私は振り向いた。お父さんの方も、他のお客さんも見ないようにして持田美柚子を探した。彼女は私がいつも座っていたテーブルの周りを掃いている。少し大きな声を出せば届く距離だけど、私にできることは一つしかなかった。早足で歩くと、苛立って歩いているような騒々しい足音がして落ち着かない。私が通り過ぎた後、背中を誰かに見られているようで不安だった。持田美柚子が、声を潜めて笑っているような気がした。ゴマ君の席も通りすぎる。どんな顔で私を見ているのか、考えたくなかった。心のざわつきを追いやるように、なお進む足に力がこもった。
持田美柚子は、テーブルの下に屈んでゴミを拾おうとしていた。私は手を伸ばし、できるだけそっと彼女の肩に触れる。
「うわあっ」
跳ねるように振り返った持田美柚子は、私を見つけて胸に手を当てた。
「びっくりした……戸村か」
言って、そのままソファ席に座りこむ。
「ごめん、大きい声出して。でも本気でびっくりした」
笑う持田美柚子に、私は深々とお辞儀をした。両手を前で組み合わせて、これが一番謝意が伝えられるポーズのつもり。
「いや、大丈夫だよ。どうかした?」
返事の代わりに、私は手紙が入った封筒を差し出した。
「なに、私に?」
頷く。
「今読んでいいの?」
頷く。封筒といっても、見かけだけ綴じてある簡単なものだ。持田美柚子はすぐに中を取り出して、私のメッセージを見つけると笑った。
「なんで敬語なの? タメでしょ」
そういえば、なぜだかいくら文言を変えても最後は『です』になってしまった。なんで? と言われたらなぜだろう。困って首を傾げると
「ごめん、冗談だよ。わざわざこんなことしてくれなくてもいいのに。もしかして、気を遣わせた?」
と言ってまた笑う。いつかの傷つけるための笑顔じゃなく、親しみのこもった苦笑いだった。
持田美柚子はもう一度私の手紙を眺め、今度は誰に向けるでもなく薄く笑った。
バイバイと手を振って逃げようとしたけど、持田美柚子に手を掴まれる。何事かと、手足が強張る。
「待って、お礼のお礼。いや、お礼にはならないか。とにかくちょっと待ってて」
カウンター裏に駆け出し、戻ってきたその手にはスマホが握られていた。
「ね、連絡先交換しようよ」
十八歳の頃の私に、三年後お前は持田美柚子と連絡先を交換する。そう言ったらどんな顔をするだろう。お願いだから止めるように懇願するだろうか。それより、頑として信じないかもしれない。嘘のような本当に起こった話は、意外とドラマチックでもなければ激しく感情を揺さぶるものでもなく。ただただ、不思議で実感がしないままだ。私が声をかけたせいで拾われ損ねた、床のゴミをぼんやり見つめる。おしぼり袋の切れ端ひとつですら、壮大な舞台装置の演出のような気がしてならない。
でも。実感がなくたって、理解している。コーヒーチケットがまだ残っていることに安堵している自分。もしチケットが無かったら、持田美柚子に手紙を渡せたことを節目として二度と来ようとしなかったかもしれない。そんな言い訳上手な私には悪いのだけど、残念ながらチケットはあと七枚もあるのだ。あと七回はこの場所を訪れる理由があることに、私は守られている気がした。
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