第5話
なずなっていうのは、よく考えるとスナックみたいな名前だ。自分の部屋でコーヒーチケットを眺めていたときはそう思ったんだけど、店に向かう途中でなずなという名前の老人ホームを見つけた。つまり、スナックらしいというよりはどこにでも使える汎用性の高い言葉という結論。それがこうして店内の席についてみると、やっぱりスナックの名前なんじゃないかと錯覚してくる。
原因は、まず一つはコーヒーチケットのデザインだろう。何かに似ていると思ったら、小さいころに祖母の家の台所の引き出しから見つけてきた、古びたマッチ箱と似ていた。茶色い背景にピンクの文字。ずっとピンク色は子どものための色だと思っていたけど、この箱の仄かな色は子どもに向けられたものじゃないんだと幼いながらに直感した。喫茶店なずなのコーヒーチケットはあれに似た雰囲気がある。お洒落なような、時代の一つ後ろを歩いているような。
二つ目の原因は、店内の薄暗さだろう。足元から天井まで全て窓の席が四席ほど並んでいて、そこは穏やかな日差しが心地よさそうな明るさだ。一方で、私が前回も今回も座っているこの席は、暗めの照明で雰囲気づくられた店内でも一段と暗い。といっても数分も経てば何も感じなくなるぐらいの、不便さは感じない程度の暗さ。私はスナックなんて行ったことがないけど、テレビで見たことのあるイメージが頭に浮かんでくる。
あとは、今日も肘をついてテレビを見上げているお母さんの存在だろうか。マスコットキャラクターみたいに憎めなくて、でも仕事をしている印象はあまりない。テレビで見たスナックもそんな光景だった。辛うじてお酒が似合わないのは、カウンターでお行儀よく佇む五体の人形たちぐらいだ。
ここが持田美柚子の実家で、店長さんとあのお母さんは持田美柚子の両親ということなんだろう。二人とも、私にいまだ消えない嫌な記憶を植え付けた人の親には見えなかった。それどころか、持田美柚子当人が私の知る苦々しい存在とは違って見えた。
ゴマ君という変なあだ名の人は、今日もお母さんの横でテレビを見上げている。気づかれないように背後を通り抜けてこの席に来た。私も私で、もっと奥の目立たない席に行けばいいのに同じ席に座ってしまうから嫌になる。見つかりやすい手前の席に座るのと不慣れな新しい席に行くのとでは、どちらも同じぐらい億劫だった。
「はい、ブレンドコーヒーお待たせ」
三日前と同じ色のエプロンで、持田美柚子のお父さんがコーヒーを運んできてくれた。今度こそあのチョコレートをゆっくり味わいたい気もしたけど、一緒に余計なものまで思い出しそうで止めておいた。
持田美柚子とゴマ君に挟まれ泣いていた私に、このひげのお父さんは気づいていたんだろうか。お父さんがいるカウンターから私の位置は視野に入るはずだけど、奥のキッチンスペースに引っ込んでいれば死角になる。
去っていく横顔の穏やかな目は、励ましの意図があるような、堅い表情のお一人客をただもてなすような。私にできるのは、見られていませんようにと祈ることだけだ。
コーヒーの味なんて分からないし、一人で喫茶店に来たのも三日前が初めてだったけど、一口で肩の力が抜けるのを感じた。
はあっと息をついて見渡した店内は、よく見ると発見に満ちている。出窓の桟の部分には馬車を引くブリキのロボット。観葉植物の葉っぱにはレースで作られた白い蝶がいて、羽根や目の位置に真珠色のビーズが散りばめられている。装飾に凝っているかと思えば、壁には手書きの貼り紙が何枚も連なっていた。近くの英会話教室やダンス教室、アパートの空き物件紹介まで手書きで貼ってあって、赤字のお得! という文字がなんだか微笑ましい。
唯一、あのゴマ君という人から気づかれないかが気掛かりではある。それでも、肘つきお母さんとの楽しそうな掛け合いを眺めているのも悪くないと思えた。
二人が見上げる先のテレビでは、甲子園の野球中継が映し出されていた。春の甲子園で地元の高校が優勝したのが三十年ぶりだと、ちょっとした話題になっていたのが最近だと思っていたのに。気づけばもう夏の大会へと移ろいでいる。我が家では優勝した当日ですら誰もが素通りしていたニュースだけど、この店内でならお客さんもお母さんも一体になってテレビを見つめる姿が想像できた。ニュースの中の街頭インタビューで集まっていた、歓喜の表情とお母さんたちが重なる。
テレビの中の選手の顔がアップになると滴る大粒の汗が見えて、なずなに到着するまでの道のりを思い出す。日陰だけを渡り歩いても、皮膚という皮膚にこもり噴き出してくる熱はどうしようもなかった。
『また来てねってことだよ』
三日前に言われてから、何度この言葉に揺さぶられただろう。持田美柚子が、また来てね? 考える余地はあっても、結論は毎回同じ。ありえるはずがないと。
だから、今日ここへ来たのはその言葉とは無関係だ。コーヒーとチョコレート代の、お礼を言っていないのが心残りだった。散々迷った挙句、百円ショップで揃えた便せんセットを何枚もダメにして出来上がった一枚は、ハンドバッグのポケットに忍ばせてある。
持田美柚子に手紙を渡して、立ち去って全ては終わり。その予定だったのに店内に彼女の姿はない。拍子抜けしてコーヒーを口に運んでいると、カウンターの奥から大きな咳払いが聞こえた。咳をしながら出てきた店主さんは顔の周りを払って、そのままお母さんとゴマ君のところへ近づいていく。
「うわっ、なんか煙いですよ! なんですかこれは!」
「馬鹿だね、今やることじゃないだろう」
ゴマ君がすぐに立ち上がり、銅像のようだったお母さんまで後ずさりをしていた。
「いやあ、すごいなこれは。ちょっと予想していない事態だ」
「それ、どうしたんですか! 髭がオシャレになってるじゃないですか!」
ゴマ君は驚きと笑いとくしゃみを混ぜたような声で、店主さんの髭を指さした。私の位置からでははっきりしないけど、髭にまだらな色がついているように見えた。
店主さんが髭を払うと、三人とも顔を背けたり口を抑えたりして何かをこらえた。
「早く外に行っておいで! ゴマオ、これで拭いてやって」
お母さんがおしぼりをゴマくんに突き付ける。僕が? という返事を聞く前にお母さんは店主さんがいたカウンター裏へと入っていってしまった。
「もう、何が起こったんですか一体」
「最後に油断したなあ。なんとなく、出来上がったら一息吹きたくなったんだよね」
話しながら店主さんとゴマ君は店の外に出て行った。一人だけとはいえ、私という客を残して店内には誰もいなくなってしまった。私はいていいんだろうか、とよく分からない心細さを覚える。
先に戻ってきたのはお母さんだった。両手で抱えているのは何かのスタンドだろうか。背の小さいお母さんが運ぶと前さえ見づらそうだったけど、動じる様子はなくゴマ君と座っていた席の辺りに運んでいった。
「いやあ参った。すまないねゴマ君」
続けて店主さんとゴマ君が入り口から戻ってきた。戻ってきながらもなお、店主さんはおしぼりで髭を叩いたり払ったりしている。
「へー、これをおとーさんが描いたんですか」
さっきお母さんが置いた物を、三人揃って見下ろしている。私の席からは、ボードのようなそれの側面しか見えなかったけど、どうやら店主さんが描いた絵か何かがそこにあるらしい。
コーヒー一杯を手に持ったままの私のもとに、飛び交う三人の声が届く。
これはひどいですよ、センスがないのに無理するからだよ、最後に一息吹いたらチョークの粉が大暴れしちゃってね、当たり前じゃないですか。
「ミューズちゃんに描いてもらうべきでしたね。絵、うまいらしいじゃないですか」
自然と耳に意識が集中した。持田美柚子と絵。二つの単語は、私の意思とは関係なくバカ正直なぐらいに刺さる。
「そのつもりだったんだけどね。絶対イヤだって言われたよ」
「ミューズちゃん、まさかの反抗期ですか?」
「いいや、ただ絵を描きたくないそうだ。昔は好きだったんだけど、いつの間にか描きたくないって言い張るようになっちゃって」
流れていくやりとりを、困惑しながら聞いていた。持田美柚子が絵を描かない。なぜ? あなたは、絵が好きなんじゃなかったのか。あなたが絵が好きだから、私の未来は消えたのに。嘘ばかり。
小学校六年のとき、トイレ掃除の時間にホースで水をかけられた。何の感情も示さない視線と合ってから、なお一層に放水が激しくなって私は持田美柚子という恐怖を知った。クラスメイトが駆けつけてきて、彼女は可愛らしく笑った。
「ごめんごめん、そこにいるって言ってくれたらよかったのに」
私が話せないことを知っているクラスメイトが、どう答えていいか分からないような顔をしていると
「あはは、そっか。あやちゃん喋れないんだった。ホントにごめんね。でもわざとじゃないから」
そう言ってハンカチを差し出してくる。私よりもクラスメイトの子の方が安心した顔で駆け寄ってきて、一緒にハンカチを差し出す。ハンカチでちょっと拭いたぐらいでどうなる濡れ方でもないんだけど、持田美柚子ともう一人の子は笑い合って一件落着にしたいようだった。それが、持田美柚子が私についた最初の嘘。わざとじゃないのも、私が話せないことを忘れていたのも、全部嘘。
ただのクラスメイトの一人だった持田美柚子が、その日から急に敵になった。巧妙で狡猾で、決して目立たないように、でも確実に私を害する。物が無くなったりわざとぶつかられたり、机に思い出したくもないような悪口を書かれたり、そんなのがしょっちゅうだった。
何よりも耐え難かったのがエレベーターの中の時間だ。初めて彼女とエレベーターで二人になってしまったのは中学一年生のときだ。
学校の行事で、クラスごとに見たい映画を決めて映画館に行った。その帰りのこと。みんなで複合型ショッピングモールの中の映画館に集まって、帰りは各自で解散。結菜ちゃんは同じクラスの子といるのが見えたから、私はまっすぐエレベーターに向かって帰ろうとした。ただ一人一緒に乗り込んできたのが、持田美柚子だった。中学で違うクラスになって平穏な日が続いていた分、彼女がどういう出方をするのか想像がつかなかった。
扉が閉まると、背後に立った彼女は間髪を入れずに言った。
「なんで喋らないの?」
顔を見ないようにしても伝わる、苛立ちが込められた声だった。うなじの辺りがビリビリ痛い。
「ねえ、聞いてんだけど。無視すんなよ」
ただ祈っていた。早く一階に着いて下さい。早くここから出して下さい。
背中の気配が動く感覚がする。どうしよう、耳を塞いでしゃがみ込んでしまいたい。
「マジうざい」
それだけ言い残して、彼女はエレベーターを出ていく。いつの間にか一階に着いていた。去り際に舌打ちが聞こえた気がしたけど、それが彼女のしたものなのか気のせいだったのか分からない。
中学の三年間、一度も同じクラスにならなかったおかげで彼女との接触はずいぶん減った。それでも、数少ない移動教室やトイレで出くわしたタイミングを使って攻撃は続いた。
彼女は大体真面目そうな子と一緒なんだけど、人といるのにわざわざ私に話しかけてくる。返事がない私を見て、事情を知らない中学からの友達と不思議そうに首を傾げる。一緒にいる子によっては持田美柚子と一緒に口の歪んだ笑みを浮かべたり、また別の子は、おかしな人を見る目で不安がり、足早に立ち去ろうとしたりした。そういう時の彼女は、愉快でたまらないと言いたげな顔をしていた。
毎回違う知らない子に奇異な目で見られる情けなさと言ったらなかったけど、それでも持田美柚子と乗るエレベーターと比べたらかわいいものだった。周囲に誰もいない、彼女にとっての安全が確かなエレベーターが、存分に悪意を剥き出しにさせた。中学校の三年間でたまたま持田美柚子とエレベーターで居合わせたのは三回だけ。たかだか年に一度あるかどうかの出来事でも、私がエレベーターそのものを嫌うようになるには十分だった。
よりによって高校も同じと知った時は、巡り合わせの悪さを呪わずにいられなかったけど、予想に反して持田美柚子からの攻撃はピタリと止まった。クラスが違ったのもあると思うけど、廊下ですれ違う彼女にはまるで私が見えていないかのようだった。
「ぶえっくしょん」
ゴマ君の遠慮ないくしゃみで、私は我に返る。気が付けばコーヒーはずいぶん減っていて、お店の中にはお客さんが何組か増えていた。ゴマ君の席に集まっていた店主さんとお母さんも解散していて、初めてお母さんがコーヒーを運んでいるところを見た。持田美柚子の姿はない。手紙が入ったままの、バッグのポケットに触れる。これの出番は、また今度。
レジに立つお母さんへ、コーヒーチケットを渡す。すっかり油断してゴマ君の方を見たら、目が合ってしまったので気づかないふりをした。私が逸らした視線の先に、お母さんが抱えていた板を見つけた。正面から見たそれは、今日のオススメメニューが描かれた黒板だった。イーゼルのようなスタンドに斜めにかけられ、入店するお客を迎える格好になっている。
メニューの文字の他に、目を見開いてまっすぐ正面を見る顔が描かれていた。なんで体が逆三角形なんだろうと思ったら、それは鼻の下にあるクロワッサンみたいなのとくっついていた。ようやく合点がいく。ああ、これは髭なんだ。輪郭をはっきり描きすぎて、ペタペタ貼り付けているように見える。周りはチョークの粉が散乱していて、何度も手直しした様子が目に浮かぶようだった。本当は、持田美柚子に描いてもらうつもりだったのかもしれない。それを自らが描いて無惨な結果になった、お父さんの自画像。
とっさに手を口に当てて、お母さんにバレないように苦悶する。見れば見るほど、幼稚園児が描いたような微笑ましい出来上がり。悪戦苦闘した様子の店主さんには悪いけど、笑いをこらえるのに必死だった。いけない予感はしているのに、お父さんが黒板を持って来たときの、遠目に見た髭の色を思い出してしまう。お父さんが仕上げと称して息を吹き付けた結果、巻き上がったチョークの粉塵。赤や黄色や緑をたっぷり吹き付けた髭。遠目だったことが、より想像を搔き立てて悲惨なお父さんの像を思い描いてしまった。もう無理。思ったときには小さく笑い声を漏らしていた。
「酷い出来映えだろう」
気づいたお母さんに声をかけられた。まずい。何がまずいのかも分からないまま、私は正体を見られた鶴のように慌てふためいた。ひとまず首を振る。笑ってません。酷い出来映えでもありません。いえ、出来映えは酷いんですけど。
「バカな親父だよ。ミューズはもう絵を描かないと前から言っているのに、こんなもん買ってきて」
恨めしそうにお母さんが叩くと、黒板はイーゼルから滑り落ちて大きな音を立てた。何事かと店内中の視線が集まったけど、立て直すお母さんの仕草が不機嫌に満ちていたので一様に視線が散った。
「ミューズもミューズだ。もったいぶらずに描いちまえばいいんだよ。こんな看板じゃ無い方がマシだ」
なあ? と同意を求められ、思わず頷く。いや、無い方がマシとまでは思ってません、と訂正したくて首を振ったけど間に合わなかったらしい。お母さんは賛同をもらえたことに満足した顔で去っていった。
床に落ちた拍子か、お父さんの自画像は目が擦れてしまっている。宇宙人か何か、空想上の生物を描いたのならハイセンスと受け取られるかもしれない。そうお母さんに教えてあげればよかった、と思い立ったのは店を出てずいぶん経ってからだった。
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