第4話
姉は結菜ちゃんと私の顛末を「今に始まったことじゃないんだろうね」と評した。
景気のいい音でお酒の缶を開ける。昨日まではソファーからクッションを取っていたのが、冬ごろ使っていた折り畳みの座椅子をどこからか引っ張り出してきて寄りかかっている。
「それ、どこから持ってきたの?」
私の問いに、姉は勝ち誇ったように笑う。
「家から持ってきてやった。昼間はあいつ、仕事だからね。女でも連れ込んでたら面白かったのに」
姉が言う家というのは、姉が半年ほど前に転がり込んだ男の家だ。「実家に帰らせて頂きました」と、ふざけるようにして突然戻ってきたのが一昨日のこと。物分かりのよい両親は速やかに悟り、咎めることも歓迎することもなかった。というより、朝これからまさに仕事に出かけるタイミングだったのでいろいろと諦めたのかもしれない。母がただ一言
「昼食は自分で用意しなさいよ」
と言い残して、あとは当たり前のように居座っている。恐らく、朝のあの時間に帰ってきたのは姉の狙い通りなんだろう。
「唯一の友達を失った記念だ。一緒にどう?」
「いらない」
私がソファーに座ると、あぐらをかく姉を見下ろす格好になる。すっかり半年前までの光景と同じだ。私愛用のクッションが無いと思ったら、ローテーブルの陰に追いやられていた。取り返して、私の脇に抱える。
「そんなに落ち込むなら、喋ってみればいいんじゃん?」
「できないじゃん。知ってるでしょ」
「だよねー」
わざとみたいな大きな音を立てて、姉が缶の中身を飲み込んでいく。桃の甘い香りがするけど、美味しそうと思ったことはない。
場面緘黙症。それが私の病名なんだそうだ。選択性緘黙と呼ばれることもあるらしい。生まれてから今日までの二十一年間、漏れなくこの病気だったわけだ。正確には病気というより障害という扱いらしいけど。そうと判明したのは十九歳のときだ。姉がインターネットの記事を見つけて、私はこれに該当するんじゃないかと言い始めた。
私を診察した心療内科の女医は速やかに確定診断を為し、何度かの診察を経て私と両親に概要を告げた。
・家では普通に話せるのに、幼稚園や保育園、学校などの社会的場面で話すことができない。
・自分の意思で話す場面を選んでいるわけではなく、ある状況におかれると自分の意思に関係なく、いくら声を出そうとしても言葉がのどにつっかかったようになり、話すことができない。
・不安を感じやすいことから生じる恐怖症の一種と考えられているが、原因はまだ特定されていない。
そんな内容が書かれたリーフレットを元に、説明を受けたことを覚えている。私の取り扱いマニュアルが流通しているような居心地の悪さがして話半分の聞き方をしていたけど、二百人に一人ぐらいの確率で表れるものという説明は頭から離れなかった。嘘だと思ったからだ。計算すると日本に六十万人以上がいるということだ。当時人気だった女優のSNSのフォロワーに六十万という数字を見つけて、なおのこと嘘だと思った覚えがある。それだけの人数がいるなら、私自身が出会ったことがあるだろうし、社会現象になっていてもおかしくないはずと思ったからだ。が、実際にはそのどちらも無い。
私が場面緘黙症だと知り、姉は父と母を責めた。不毛だと気づいたのか、両親を批判しなくなるまでには相当の月日がかかった覚えがある。
「だから私は言ったのに」
ことあるごとに姉の口をついて出た言葉。二つ上の姉は、私が幼稚園のころから「あやは変」と言い続けていた。
私が小学校に入るとなお必死に、いかに妹がおかしいかを訴えていたけど、父も母も「あやは人見知りなんだよ」と言ってなだめていた。拙い言葉で私のことを言いつけて、そのたびに挫ける姉と一緒に私も落ち込んだ。
中学に入った頃からは両親だけでなく、私にも直接言ってくるようになった。
「私がこんなに悩んでいるのに、なんであんたは何もしないの」
「あんたが喋らない理由を私が聞かれるのよ。どれだけめんどくさいか分かる?」
「面白がって喋らないんでしょ?」
私が言い返しても言い返さなくても、大した意味はない。姉の求める解決は、私が家の外でも喋れるようになることだけ。だから、分かり合えることは一度もなかった。ただ罵り合うことに疲れたかウンザリしたかで、表面上は言い合いをやめる。何かの拍子に思い出せば、また不満をぶつけ合うことを繰り返していた。
「不便だよね、あやは」
首を折り曲げたり伸ばしたりして、姉が呟く。自分の肩を揉むように手を回すと、脱臼したかと思うぐらいの音が鳴った。姉は、何をするにも音を立てずにいられない人なんだといつも思う。
「さっきの、どういう意味?」
「なんだっけ?」
「今に始まったことじゃないって。私と結菜ちゃんのこと」
「ああ、あれ」
起伏の平坦なやりとり。これが自然な姉妹の会話なのかもしれないけど、今の境地に至ってからの歴史は案外浅い。
「そのお友達の子は、あやとの縁を切るきっかけが欲しかったのよ。多分、ずっと前から。あんたのためとか言って、都合よく言い訳してるだけだね、私から言わせれば」
姉は、見事なまでに私と同じ考えを口にした。私にだって分かっていた。大学に入ってから、結菜ちゃんから誘われる回数が減っていたこと。いや、高校生のころからかもしれない。結菜ちゃんは本当はサンフレッシュなんて寂れたモールじゃなくて、流行りの店やイベントに出かけたがっていたのも知っていた。いつもあの店なのは、人混みや見知らぬ場所が苦手な私に合わせてくれていたからだ。
「あんた、なんでそんな縁の切り方されたか分かってる?」
何も答えられず、ローテーブルに姉が広げたお菓子や空き缶を見つめた。これじゃ、家の外の私みたいだ。
「決まってるでしょ。喋らない人と一緒にいても楽しくないし。面倒になったんだよ、その子」
面倒になった。大いに心当たりのある言葉。
私が携帯を持つようになったとき、結菜ちゃんは喜んでくれた。メールができるのもそうだが、一番の大きな変化は二人で会うとき、会話ができるようになったことだ。決して自由に言葉を操れたわけじゃない。おっかなびっくり、恐る恐るでも、スマホに文字を打ち込んで画面を見せれば、それは私の言葉になった。二人ではしゃいで、何時間でも他愛のないことで通じ合えた。それなのに。
結菜ちゃんは、だんだん私の言葉を待ってくれなくなった。スマホに文字を打とうとしているのに、構わず話し続ける。やがて私も、文字を打たなくなった。
あのときの結菜ちゃんは、待つのが面倒になったに違いない。
「喋れるなら、喋ってるよ」
なぜだかチョコレートを無理やり口に詰め込んだときのことが浮かんで、それ以上話せなかった。
「そうだよね」
姉が珍しく静かにうなずく。
『だから言ったでしょ』と尖った声の姉はもういない。そのことに、少しだけ救われた気がした。
酔いが廻ってきたのか姉が体重を預けると、男の家から持ってきたという座椅子が不自然な音を立てた。姉は男の家に戻る気はあるのだろうか。大物の家具を持ち出している辺り、近いうちは戻る気はないのかもしれない。平気な顔をして酒をあおる姉に、ダメージがあるのかは分からなかった。傍から見れば、ケンカ別れして飛び出してきたという事実があるだけ。
結菜ちゃんは、私に言ったように今度こそ幸せになれるんだろうか。きっと無理だろうな。でも、どこか私の知らない所で幸せになってくれればいいと思う。そうでないと、口実に切り捨てられた私はあまりに惨めだ。
ふっ、と途端に足場が溶けていくような感覚を覚える。危うい。急に瞬きをするのが怖くなって、目を開けたままでいたけど堪えられず閉じてしまう。閉じた目のまま息を吐いた。目を開けたら、全てが嘘のように消えてなくなっている予感がした。
姉は十以上離れた中年との忍ぶような逢瀬や、金持ちで顔もいいけど浮気性のボンボンとのお遊びなどなどを経て、なんだかんだで最後は堅実で少しお腹周りお肉のついた優しい夫のもとへ嫁いだ。父も母もいなくなって、この広い家には歳をとった私が一人で猫を撫でている。
今思いついたわけではない、馴染んだ未来予想の光景。この家で生まれ育ち、どうにか猫ぐらいは養って死ねたら上々。そのゴールが思い描けている限り、私はレールを進み消化試合みたいな毎日を重ねるだけで満足できる、はずだった。
恋愛も友達も存在しない未来。安心安全、私が欲したはずの未来に飛ばされた気がして、怯えながら目を開けた。
姉はいつの間にかスマホを手にし、何が楽しいのか桃チューハイの缶と同じ色になった頬で笑っている。当たり前の光景だ。馬鹿らしくなって、せいぜい冷ややかな視線を姉に向け続けた。何に怯えていたのかもよく分からなくなる。
もしも私が人と話すことができたら、ああいう奔放な人間になったんだろうか。お酒の勢いに任せて言いたいことを言って、笑いたいときに笑う。次の日には自分だけ何もなかった顔をして。あなたの目の前の私は、酩酊に落ちていくあなたを見ているし覚えている。素面のあなたが隠している世界を、曝け出して怖くないのか。私には不思議で仕方がない。
姉が鬱陶しそうに何度も腰の辺りを搔いている。首元から垂れた、パーカーの紐のコブを踏んでいるせいだ。教えることも忘れて、私は頬杖をついたまま見守っていた。
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