第3話
「ねえキミ、嫌じゃなかったら何があったか話してみてよ。ほら、話すだけでスッキリすることってあるじゃない」
顔を両手で隠したままの私の横で、茶髪男はあの手この手と言葉を変えて語り掛けてくる。どこからか椅子まで持ってきて、本格的に居座ってしまった。
真っ暗な視界の中にいると、そこに人がいる気がしないせいか無視していることの罪悪感は感じない。その分、延々続く声への煩わしさを強く感じるようになってきた。
「まずはさ、顔だけでも上げてみるのはどうだろう。そうだ、顔を見せてくれたらそれで僕は安心して離れられるから」
その一言で私はあっけなく顔を上げることにした。それでこの状況から解放されるなら安いものだ。ぼやけた視界の先に、やはりあの茶髪男がいた。ぎゅっと目を開け閉めして、ようやくまともに見えるようになってきた。
「ああよかった! どう? 顔を上げてみたらスッキリしたでしょ? でさ、この勢いで何があったか話しちゃえば? 落ち込んだときっていうのは、誰かに話すのが一番だよね」
何がそんなに嬉しいのか、茶髪男は目を輝かせてまくしたてる。ハンドバッグを振り回して追い払いたい気もしたけど、泣き疲れた今は大きく一息吐き出すので精いっぱいだった。伝われ、嫌がられていると伝われ。
「いいよ、慌てなくてもいいから。ゆっくり息をして、ひとつずつ話していこう」
二度目となる私のため息は違和感があった。なんだか、自分が思ったよりも大きな音になったような。はっと、私は背後の気配に気づく。自分と重なった、もう一つのため息の主がそこにいる。
「当店でのナンパはお断りなんですけど」
いつまでも消えてくれないあの声。考えるより先に、私は白々しいと分かっても再び顔を隠した。
「ナンパだなんて、心外だな。ミューズちゃんが助けてあげないから僕はこうやって話を聞こうとしているんだよ」
持田美柚子から、もう一度大きなため息が聞こえた。私の想像の中で持田美柚子は、中学時代の制服を着て不機嫌そうに腕組みをしている。
「この子は喋らないよ。そうでしょ? 戸村」
私は頷くことも、逃げ出すことも、顔を覆う手を解くこともしなかった。私が選べる行動は、何もしないだけ。ただこの時間が、ウソのように消えてくれるのを待つだけ。
私の手に、誰かが触れて視界が開ける。導くような柔らかな手つきに、私はされるがままだった。
持田美柚子がそこにいた。茶髪男の前に割り込むようにして、屈んで私の顔を見上げている。いつかの蔑むような目ではなかった。私を見る両目は震えていて、私よりも怯えているような気がした。
「知り合い、ってこと?」
「そう、高校まで一緒だった」
持田美柚子は私の隣の席へと座った。茶髪男と持田美柚子に挟まれる恰好になって、私は誰もいない机上へと目を落とす。
「なんだよ、それならなおさら助けてあげなきゃ。やっぱりミューズちゃんらしくないよ、あ、でもこうやって戻って来たあたりはさすが優しいねミューズちゃん」
久しぶりに見る持田美柚子は、相変わらず明るい顔立ちをしていた。大きな目と、えへへと照れた笑いがよく似合う口元。
中学校のころ、持田美柚子は先生から褒められて「えへへ、ありがと先生」と喜んでいる姿が印象的だった。小学生時代と違い、先生から褒められたときの皆の反応は複雑で、嫌がったり謙遜したり、言い返したりする子が多い。だからか、先生もあまりあからさまには褒めなかったりするんだけど、持田美柚子はよく褒められ、よく喜んでいた。今思えば、先生から見てもつい褒めたくなる生徒だったのだろう。
だから余計に、朗らかなはずの彼女が私に向ける敵意が理不尽で怖かった。
「何があったか知らないけど、ここにいるとこのお節介な人が落ち着かないんだってさ。場所を変えた方がいいよ」
「ちょっと、それは僕にもこの子にも酷いんじゃないかなあ」
「ゴマくんは黙ってて」
ゴマくんと呼ばれた茶髪男は、何か言いかけていた口を閉じた。
「戸村、やっぱり今も喋れないんだ。そりゃそうか、そういう病気だもんね」
「病気? どこか悪いの彼女?」
「ゴマくんは黙ってられない病気でしょ。この子はその反対ってこと」
「僕は病気なんかじゃないよ。僕が喋るのは、僕が必要だと思ったから喋るんであってそれは僕の権利で僕の意思だ」
持田美柚子がまた、文字で書けるようなため息を出す。言いたいことが十も二十も詰まったようなため息だった。
「ああもう、ごめん。話がややこしくなるから今のは忘れて。ゴマくんのはそういう性格ね。この子の、戸村のは病気なんだって。私だって詳しくは知らないけど、喋れないんだって。そうでしょ戸村?」
ひとまず頷いた。これが病気と呼ぶものなのか、本当は私にもよく分からない。けど結菜ちゃんがそう説明して回ったので、大体の同級生の間ではそれが答えになっている。
「ああそれってあれだ、PTSDってやつか。トラウマとか、辛い経験で話せなくなるっていう。それじゃ彼女、大変じゃない。ミューズちゃん、力になってあげなよ」
「私じゃ、この子の力になれない」
「なんで? そんなこと分かんないよ」
「この子は、私となんか関わりたくないはずだからだよ。私が、酷いことたくさんしてたから。ゴマくんは自分をいじめてた相手と、また話したいと思う?」
「いやいや、それは喩えがオーバーだよ。ミューズちゃんいじめなんかしないでしょ」
持田美柚子が、天を仰ぐように背もたれに体を預ける。不思議な感覚だった。なんの悪意をぶつけられることもなく、持田美柚子が隣にいる。ゴマくんという人がいなくなるのを待って、油断した私をあざ笑うつもりなんだろうか。
そういえば、高校のときも似た感覚を味わった覚えがある。私に近づいて来たと思ったら、持田美柚子は何も言わずに通り過ぎていった。私の存在を忘れたのかと思うほど、あれからの彼女は私に無関心だった。
「戸村、ごめんね」
沈黙を破ったその言葉の意味が、分からなかった。聞こえたけど、どこか別の戸村さんに向けた言葉だろうと思っていた。
「私のこと、きっと殺したいぐらい嫌いでしょ」
隣のその顔を見ることができず、私はただ固く拳を握った。確かに、嫌いだったかも。でも一番は、怖い。とにかく怖かった。今だって、たまらなくあなたのことが怖い。
「ごめん、本当にごめん。どうかしてたんだ、私」
繰り返されて、ようやくその言葉が現実味を帯びてきた。私は、持田美柚子に謝られている。
どうかしてた?
そう言われて、私はどうしたらいいのだろう。私の夢は、私の未来はもう帰ってこないのに。
「はーい、ここまで! 重い空気はここまでだよ二人とも。ミューズちゃんが謝って、過去の因縁はこれで清算。どう、ここで二人が再会したのもいいきっかけってことで、仲直り記念の握手でも」
勢いよく持田美柚子が立ち上がり、私は思わず体をすくめた。とうとう私に矛先が向くかと思ったけど、彼女は無言のまま席を立っていった。
「びっくりした。殺されるかと思った。あんなミューズちゃんは初めて見たよ。ああでもね、本当に優しい子なんだよ。キミも、ええと、名前はなんだったけ」
「ゴマくんが名前を知る必要はないでしょ」
すぐに戻ってくるとは思わなかったので、つい私は持田美柚子の顔をはっきり見てしまった。そこに、怒りや悪意はないように見える。ただ、疲れた顔をしていた。
「おお、戻って来たんだミューズちゃん。いや、だってさ、名前が分からないと不便で。だったらニックネームを付けてもいい? 物静かな彼女だから、僕の中ではサイレントKが頭から離れないんだよね。知ってる? 難聴がありながら活躍したピッチャーなんだけど、カッコいいんだよね。彼女は女の子だから、サイレントガールとか」
「はあ……いいの? このままじゃおかしな名前を付けられるよ?」
持田美柚子と目が合う。迷わず私は首を横に振る。
「ゴマくん、この子は戸村あやっていう名前があるの。だっさい名前を付けないで」
「おおー、じゃあ、あやちゃんだね。よろしくあやちゃん。僕はっていうんだけど、ここの人たちはみんな苗字と名前の頭文字をとってゴマくんって呼ぶよ。あやちゃんもそう呼んでくれていいから」
「ほら、気が済んだ? それで、はいこれ」
私の前に差し出されたのは、名刺ぐらいの大きさの厚紙だった。なずな、とこの店の名前が目立つように印字されている。
「この店のコーヒーチケット。それ一枚でコーヒー一杯と引き換えにできるの。悪いけど、今日の会計分は勝手に一枚もらったから。それと、チョコレート代は私が払っておく」
手に取っていいのかも分からず、私はただ机上のコーヒーチケットというものを見つめた。見つめても意味が分からなくて、今度は持田美柚子を見上げる。勝手に一枚もらったと言うけど、私は初めてこの店に来たのだからチケットを持っているはずもない。
「せめてものお詫び。こんなの、嫌かもしれないけど受け取ってほしい。チケットも私がお金を払うから、心配しないで」
「やっぱりミューズちゃんはいい子だ。僕は感心しちゃうな」
ゴマくんと名乗った人を一瞥して、持田美柚子が去って行く。ごめん、もう行くから。そう言い残した背中を、私はぼんやりと眺めていた。白いエプロンのひものひらひらとした揺れが、不思議の国のアリスみたいな絵空事に思えた。
「あやちゃん。ミューズちゃんはね、きっと仲直りがしたいんだよ」
仲直り? それだけはない、と気持ちを込めて私は首を振った。
「ウソだと思うかい? じゃあ証拠を見せよう。そのチケットを見てみてよ」
逆らうのも煩わしくて、私はコーヒーチケットを手に取る。家族でも結菜ちゃんでもない人と、これだけ長く関わるのは久しぶりだ。おまけに今日はいろいろありすぎて、自分が疲れているのがはっきり分かった。
一枚の厚紙に見えたチケットは、手に取るとバラバラと伸びた。蛇腹に折りたたまれていた一枚一枚に、コーヒーの絵が印字されている。
「ね、何枚ある?」
一番最後のチケットには九の字。上にいくと八、七、六。一番上の一番のチケットまで、ひと続きになっていた。
「やっぱり。十番目のチケットは今日使ったってことだね。それはね、このお店の新品のコーヒーチケットだよ。残りはまだ九枚もある」
どういう顔をしたらいいか分からないでいると、ゴマ君という人は誇らしげに親指を立てた。
「また来てね、ってことでしょ」
そんなはずがない、私が首を振ると
「そうなんだよ」
と心を読んだみたいに言葉を重ねた。もう一度コーヒーチケットに目を移してみても、チケットはただ連なっていて何も教えてくれない。
私は、やっぱりどうしようもないぐらいに疲れていた。何も考えずに、布団の中で眠ってしまいたかった。
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