第2話

「僕が思うに、全てをふっ飛ばしてくれる魔法なんですよ」

 私を今の景色に引き戻したのは、騒がしく響いてきた声だった。演説でもしているかのように、高々とした宣言。スマホに目をやると、結菜ちゃんと別れてから二時間ほど経っていた。

 逃げ込むようにして入った喫茶店。カウンターには五体の人形が足を投げ出して座っていて、操ってくれる主人を待つように項垂れている。青い服を着ていたり赤いリボンをしていたり、それぞれ着こなしが違うけど同じシリーズの物だと分かった。どれも目が小さな黒丸で、材質もぬいぐるみに近い布地のもので統一されていた。二席分のカウンタースペースが人形に占めらている恰好だ。きっと不満をもつよりも微笑ましいと受け取る人が多いんだ、と勝手に思える店の雰囲気があった。

 全てをふっ飛ばしてくれる魔法。

 そんなものがあれば、私のこの救いようのなさそうな気持ちもふっ飛ばしてくれるのだろうか。

 魔法の正体を知りたくて、私は声の主を探した。テレビを見上げる茶髪の横顔。細く尖った鼻と、クルっと耳を覆うパーマが化粧前のピエロみたいに見えた。早々に期待感を無くさせる、真剣みのない声が続く。

「ここで一発、魅せてくれよ新外国人。外のスライダーは捨てるんだ」

「ゴマくん、さっきまで巨人の応援してなかったっけ?」

 茶髪の男に呼びかけながら、紺色のデニムエプロンをまとった店主らしき人が近づいてくる。灰色交じりの髪は、口を覆い隠すような顎ひげとつながっている。厚手のエプロンからはみ出たお腹を合わせると、森の木こりみたいに見えた。

「僕レベルにもなると、チームなんていうものは超越していますから。だいたいスポーツというのは、筋書きのないドラマを求めて見るためにあるんです。ずっとダメダメのディークがこの勝負所で一発打つ、それこそ王道エンターテイメントでしょう!」

 僕には邪道な楽しみ方にしか思えないけどねえ。髭のすき間から、私にしか聞こえない呟きが漏れる。

「いらっしゃい。注文はお決まりかな?」

 今度ははっきり、私の顔を覗き込むように店主が尋ねた。まだ決めていなかったけど、私にとってこの接触チャンスは逃せない。デザートのページを値段順に追って、一番高いダブルサイズパンケーキを見つける。食べきれそうにないから、二番目に高いものを探す。自家製生チョコレート、八百円。写真ではたった五粒か六粒しかないようにみえるけど八百円。これだ。と、それとコーヒーセットを指さす。

「うちのチョコレートはね、期待してもらっていいよ」

 店主が去り際に満足そうに笑うと、髭も一緒に笑って見えた。髪は灰色だけど、ちょうど鼻あたりの高さからは真っ白だった。あの辺が髪と髭の境界線?

「ああもうっ、なんでそんな分かり切った釣り玉に手を出すかなあ」

 茶髪男が力なくのけぞる。その隣には、肘をついてテレビを見上げる赤い割烹着の後ろ姿。

「そら見たことか、ゴマオと同じだよ。一発ホームラン打って目立とうってことしか考えてないからあんな大振りするんだよ」

 栗色の髪を栗みたいな形に尖らせた後ろ頭は、赤い服とピアスが無ければ若い男と間違えていたと思う。肘をついているにしても頭の位置が低くて、テーブルに顎が乗っているみたいだ。ちぢこめたシルエットが気だるそうに足をぶらつかせると、なんだかそういうぬいぐるみみたいに見えてくる。

「辛辣だなあ、おかーさんは。いいですか、どんな守備の名手がいようが、盗塁やバントで緻密な野球をしようが、ドカンとフェンスを越えてしまえば関係ない。全てふっ飛ばしてくれる魔法がホームランなんですよ。そりゃ追い求めるしかないってやつでしょ」

「そんな口先だけデカいことばかり言ってるから、ゴマオは無職なんだよ」

「今それ関係ないじゃないですか。というか、僕は無職じゃないですし」

 茶髪男が不服そうにしても、おかあさんと呼ばれた女の人はテレビを見上げたままだ。よく見ると堂々と腰を下ろしているその椅子は、茶髪男と同じテーブルにいながら高さもデザインも違っていた。店内は木製のテーブルと椅子で統一されているのに、その椅子だけ中華料理屋から持ってきたような赤い座面と鉄の足だ。割烹着からしてこの店の店員さんなんだろうけど、店員さん専用の椅子でもあるんだろうか。

 それにしても。

 全てをふっ飛ばしてくれる魔法。

 その響きに惹かれた自分を嘲笑したくなる。なにせ茶髪男が提唱する魔法とは、野球のホームランのことなのだから。 

 ホームランでは解決できない問題がここにあるんですけど。

 茶髪男に言ってやりたかった。

 もちろん本当に言うつもりはないし、結局自分で現実と戦うしかない。結菜ちゃんは去っていってしまった。

 彼の思いに答えたいから。

 結菜ちゃんはそう言っていた。それと、私と会わなくなることになんの関係があるんだろう。

 結婚は? 仕事は?

 それと、結菜ちゃんが会わなくなるということとなんの関係があるんだろう。

 大事な人ができたら、きっと喋れるようになるよ。

 私がいつ、喋れるようにしてって頼んだんだろう。 

「お待たせしました、舞鳥町で一番おいしいチョコレートと、コーヒーのセット」

 再び現れた木こりのおじさん。考え込んでいて会釈するのも忘れていた私に、構わず頷いて去っていく。

「大丈夫だよ」と頷いてくれていたのかもしれない。勝手に都合よく解釈しても許してくれそうな、誰も傷つけない仕草だった。

 嫌なことがあったときこそ、美味しいものを食べるんだ。

 結菜ちゃんの受け売りだった。美味しいものを食べなくちゃ。急かされるように商店街をさまよって、見つけたのがこの喫茶店だ。

 辛い時は、値段を気にせず高いものを食べるといいんだよ、といつかの結菜ちゃんの声が聞こえて注文したできるだけ高いデザート。目の前に置かれたそれは、飾り気のないただただ五個の四角だった。真ん中のチョコレートを四個が囲むように並んでいる。真ん中だけ、上に何かチョコレートと同じ色の粒が添えられていて存在感があった。

 コーヒーにミルクを入れ、ティースプーンでかき混ぜる。ティースプーンと同じぐらい小さなフォークをチョコレートに突き刺すと、そのまま口に運べそうなサイズだった。

 疑いようもなく美味しそうなのだけど、今これを咀嚼し飲み込む自分を想像できない。本当に、落ち込んだときは美味しいものを食べるのが正解なんだろうか。

 ずっと分かったような顔をしてきたけど、結菜ちゃんの話は実は分からないことが多い。小学校二年生で初めて会って、私に「早く元気になってね」と声をかけてくれてから。別にどこも悪くないのに、「すぐに良くなるよ」と言い続けていた。中学校になって、誰かが喋らない私をからかうと「あやちゃんは小さいころにショックなことがあって、トラウマがあるから喋れなくなったんだよ。みんなで優しくしてあげようよ」と言って回った。いつの間にか私は、何か重大な過去があって喋れなくなった気の毒な子、という設定になっていた。

 結菜ちゃんが読んだ漫画にそういう人物が出てきたらしく、渡されて私もその漫画を読んだ。私にそんな過去なんてないから、否定したけど結菜ちゃんの中では決まったらしかった。あの時だって、今日だって、結菜ちゃんが言うことは時々よく分からない。

 ひとつ息を吐いて、フォークを刺したままのチョコレートを見つめる。食べなくてもいいかと思ったけど、手つかずで店を出る勇気もなくて、私は一個をさらに半分に切って口へ運んだ。

 ふわっと甘い香りがして、力が抜ける感覚。一瞬チョコレートのことしか考えられなくなって、舌から、鼻から、喉からその甘みが消えていくのが名残惜しかった。半分にしたもう一切れに勝手に手が向かうところで、微かにラムレーズンの香りがして動きが止まる。捕まえようとすると香りは溶け消えてしまって、もう一切れを口に入れずにはいられなかった。再現しようと、二個目のチョコレートも一気に食べてしまいそうになる。皿の上の四個が宝物に見えて、一旦コーヒーを飲んで落ち着くことにした。それなのに、コーヒーが合わさったときの残り香といったら、ずっと記憶に留めて消したくないとさえ思えた。数秒間だけど、間違いなくチョコレートの力に心を奪われていた。

「あ、おかえり。ミューズちゃん」

 茶髪男の声、と一瞬で私を現実世界に引き戻す名前。条件反射で鼓動が速くなる。ミューズ。永遠に関わりたくないと願うあいつ、持田の愛称。

「いらっしゃい。今日も巨人が勝ってんだねー。ゴマくん的にはつまんないでしょ」

 あの声だ。能天気に話すあの声に隠れた悪意を、私はよく知っている。私から、未来を奪っていったあの声。高校生以来にも関わらず、私の体は決して忘れていなかった。足がすくんで、体が動かせなくなる。

「ミューズ、座る前にそのまま一番から七番を拭いといて」

「なんでよ。おっかあがやればいいじゃん」

「おっかあはゴマオが仕事を探すまで見張らにゃならん」

「だから僕はちゃんと仕事してますってば」

 三人が笑い合う声がする間、私は懸命に頭を働かせる。おっかあという呼び名からするに、あの赤い割烹着姿の人は持田美柚子の母なのだろう。そして恐らくは、木こりおじさんはお父さん。まさか、ここが持田美柚子の家の店だなんて。なんとかして、私の存在に気づかれる前に逃げ出さないといけない。私は三人がいる方を見ることもできないまま、両手で顔を覆った。もし持田美柚子がこちらを向けば遮るものはなく、すぐに見つかってしまう距離。想像するだけで気が気じゃなかった。とにかくまずは立ち上がろう。お会計まで行けば、無理にでも顔を隠して店を出てしまえばいい。そう決めた目の前に、運ばれてきたばかりのチョコレートとコーヒーが並んでいた。

『うちのチョコレートはね、期待してくれていいよ』 

 木こり店長の言葉通りか、それ以上だった。こんなに美味しいチョコレートが存在するなんて知らなかった。悲しみが美味しさで癒える瞬間があることを、初めて知った。このままほとんど手つかずで去ったら、私の受けた感銘は伝わらない。それどころか、口に合わなくて帰ったと受け取られるかもしれない。

 ギリギリのところで踏みとどまり、お皿と対峙した。顔を片手で隠したまま、チョコレートを口にかきこんでいく。美味しい、なのに胃からせり上がってくる感触が止まらない。いつか聞いた持田美柚子の囁き声が響いて、まっすぐ座っているのかさえ分からなくなる。惨めさに揺れる。震える。嗚咽が漏れる。

 何をやっているんだろう。誰が悪いんだろう。結菜ちゃんだろうか。こんなところでのうのうと楽しく暮らしている持田美柚子だろうか。違う、きっと私が悪い。持田美柚子の店を選んでしまった私が悪い。結菜ちゃんが去っていったのだってきっと、私のせいだ。結菜ちゃんは、本当はきっとずっと前から私のことを。

「ねえキミ、大丈夫?」

 すぐ隣から声がして、顔を覆っている左手が涙でぐちゃぐちゃなことに気づく。手だけじゃない、頬も鼻も口もだ。握ったままのフォークを置いて、右手で顔を拭う。なんの足しにもならず、涙を顔にぬりたくっただけだ。

「傷心のところ申し訳ない、でもあんまり泣いてるからさすがに心配で」

 声の主はあの茶髪男らしい。私のテーブルの横で、かがんで私を窺うような体勢でいるのが気配で分かる。

「ミューズちゃん、ほら、こういうのは男の僕が話すより女の子の出番でしょ。ミューズちゃんも聞いてあげてよ」

 持田美柚子がすぐそばにいる。駆け出したい衝動と、手も足も動かせない閉塞感とでおかしくなりそうだ。今の私は、布団にくるまって雷が鳴りやむのを待つ子どもと何も変わらない。

「そっとしておいてあげなよ。一人で泣きたいときだってあるでしょ」

 持田美柚子の声。茶髪男より少し離れたところから聞こえた。私に気づいているのかどうか、声の調子からは読み取れなかった。

「ミューズちゃんらしくないよ。いつもならほっとかないでしょ」

「知らない。ほら、隣にいたらゆっくり泣けないでしょ。戻った戻った」

「いーや、戻らない。僕は見捨てられない」

「じゃあ勝手にすれば? おっかあ電話してるし、お客さん来るかもしれないのに相手してらんない」

 言い捨て、持田美柚子が離れていく気配がする。その声ひとつひとつに固くなっていた私の鼓動は、急激に落ち着きを取り戻していく。

 いつも客の準備なんかしてないじゃん。茶髪男が漏らした声が聞こえた。

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