アンテナブーストガール

@kei_mura

第1話

 ノニの木というものがある。日本国内が発祥で、陰鬱な気候と湿度があれば水すらなくても勝手に育つ。増えすぎたので輸出をして生活費の足しにしたいけど、誰からも歓迎される日は来ない。

 同じ名前の、東南アジア原産である苦くて体にいいらしい植物とは別物だ。

 以前、絵に描いてみたことがあった。私の想像上の木だけど、誰かに見せて共感して欲しかったわけじゃない。絵を勉強するうえで、人以外のものも練習してみた方がいいかという気まぐれだった。描いてみたら大きな嵩になったのできっと広葉樹だ。葉っぱの一枚一枚が、風により「ノニ」と音を立てることが名前の由来。出来上がりを見て、なんとも言えない気持ちになる。もっと茶色や濃い紫のようなイメージだったのに、気づいたら愛想ばかりのいい軽い色調になっていた。

 夕陽に映える紅葉として、ネット上にアップすれば誰かがカワイイとは言ってくれるだろう。最近アニメ系のイラストばかり描いていた癖か。本当は、もっと違った色使いだってできたはずなのに。

 のに、のに、のに。

 ずっと私の頭の中に居座っている言葉だ。

 始めは『なのに』だったはず。いつの間にか可能なときは一文字減らして、文字数を節約するようになっていた。

 高校生のころ、クラスの誰かが話していた覚えがある。

「名前ってさ、死ぬまでに何万回書くんだろう。画数が多いと使うエネルギーって馬鹿にならないじゃん? だから私は、自分の子どもは一って名前にするって決めてんだ。賢いでしょ」

 そういえば、話していた当人は麗美瑠って名前だった。そりゃあ一と名付けたくもなるな。分からなかったクイズが解けたような気がして、鼻歌と含み笑いがこぼれた。

 麗美瑠嬢がこの先も名前を書き続けることを憂いたように、いつからか私も『なのに』を繰り返すことが億劫になった。

 目の前のエレベーターのボタンが、横から伸びた手で押される。つい、手の持ち主の女性と目が合ってしまう。一人で高校時代を思い出し、ほくそ笑む怪しい女。そんな私の正体が見透かされた気がして、目を逸らした。

「押し忘れてるわよ」

 紫外線対策らしい帽子とサングラスで顔は見えなくとも、組み直した腕が語っていた。ありがとうと言いなさい。

 私はぎこちなくお辞儀をしてみせる。何千回もしている動作だろうに、一向に体に馴染まない。手足に針金が通っているかのように、堅く頭を起こした。一方で心の声のノニはすっかりお馴染みだ。

 そのボタンは押さなくてもいいのに。

 ちなみに『なのに』を使うと、

 それは押さなくてもいいボタンなのに、となる。いくらか文字数の省エネに成功。 

 二基のエレベーターの間のボタンに目をやる。女性が押し忘れと決めつけたのとは違う方、私が押しておいたボタン側のエレベーターが開く。

 ほうら。心の中だけで呟く。結菜ちゃんとの約束でよく使うこのショッピングモールは、二基あるエレベーターそれぞれのボタンが独立している。二基のうち、先に来るエレベーターはどちらか。階数表示を見上げ、片方だけボタンを押すのが私のお決まりだった。

 女性は私の存在など忘れたように中に進み、私も続いた。

 女性の押した先が別の階だと確認してから、私は六階を押した。人と乗るエレベーターは苦手だ。原因は分かりきっている。中学三年生、二学期ももう終わりが見えていた十二月二十三日の午後五時頃からだ。

 あいつさえいなければ、エレベーターなんか平気だったのに。

 気が付くと拳が硬くなっていて、爪が食い込んだ跡ができていた。自分で作った爪痕をたどっていると、DV後の男の人ってこんな気分なのかもしれない、と多分的ハズレな考えが浮かんだ。

 五階に来てようやく、紫外線嫌いの彼女はエレベーターを去っていった。乗り込んでくる人もなく、私はドアを閉めるボタンを押した。

 もうあと数秒で六階に着く。私がエレベーターを一基しか止めないのは、この耐えがたい時間を一秒でも減らしたいからだ。あの彼女が押したもう一基のエレベーターは、誰も望まない開閉を行い、乗客の拘束時間を引き延ばす。自分が押すボタンによって、同じことが起こるようにはしたくなかった。それがたとえ、私がいないエレベーターだとしても。

 必要な方しか押さなければ、みんなの待ち時間が減るのに。

 それを訴える術をもたない私は、いつまでも『押し忘れてる人』らしい。

 最上階の六階は、飾り気も愛想も何もない。クリーム色の床と空きテナントの看板が、なんのようですか? と言いたげに視界を埋める。出来心で足を踏み入れてしまった人の多くは、間違えました、すみません。と詫びてエレベーターへ逆戻りしてしまうんじゃないか。

 相変わらず媚びのない景色を無視して、奥へ向かう。以前は本屋と百円ショップがあった場所は、壁に囲まれて中を見ることもできない。

 この建物が葉名知サンフレッシュというショッピングモールになったのが十年前。建物はその前からあったらしいけど、元がなんだったのか、私たちには大して重要じゃなかった。小学校六年生だった私と結菜ちゃんにとっては、退屈な通学路に都会が降ってきたように思えた。正確には、結菜ちゃんにとって、という方が合っているか。新しく店がオープンすると知っては私を連れて行きたがって、私も付いて行くのが当たり前だった。高いお金を出して飲んでみたコーヒーの味が理解できなくても、三百円で買ったお揃いのポーチが子供だましでも、二人でいれば楽しかった。

 たかだか十年経った今、葉名知サンフレッシュは誰から見ても異論のない、駅前開発失敗の象徴となった。眩しく新鮮でありたい願いからきただろう名前が一層悲しい。

 とりわけ六階は空白が多く、従業員一人しか見たことがない宝石店と、私たちがよく行く洋食レストラン兼カフェ兼オーガニック食品販売店という無茶な店しか生き残っていない。

 店に入ると結菜ちゃんの姿はすぐに見つかった。ここ数年、めっきり人が減ってからは一番奥の席がほぼ指定席になっている。一番奥といっても入り口まで全て見通せる程度の広さしかない。あの殺風景な景色を見つめる窓側よりマシ、という消去法で選ばれた席。

 向かいに座ると、結菜ちゃんは触っていたスマホに目を落としたまま

「お疲れ」

 とお決まりのフレーズで口元だけニッと笑った。

 私もお決まりで、精いっぱい『ニッ』の口を作る。小学校二年生のとき、結菜ちゃんが私に練習するよう言ってからするようになった顔だ。結菜ちゃんに言わせれば、「七十点」らしくとうとう百点はもらえないまま大人になった。

 一緒に練習しすぎたせいか、そのあともずっと私がそうするせいか、結菜ちゃんも口元だけで笑っていることがある。とても不器用に見えて、それがかわいらしいとも思うけど、半分私のせいなので気づかないふりをしている。

 私がメニューのオムライスを指さすと、結菜ちゃんが店員さんを呼んでくれる。

「すいませーん」

 人がいない店内で、結菜ちゃんの声はちょっと大げさなぐらいに響いた。どんなに男子がうるさく騒いでいても、結菜ちゃんの一声はクラス中に届いていた。

「先生に言うよ!」

 いつだって正しく胸を張っていた結菜ちゃんが思い浮かんで、つい噴き出してしまう。

「なに? 今なんか笑ったよね」

 いたずらっぽく私の顔を覗き込んでくる。私はわざと笑った顔のまま、ぶんぶん首を横に振る。

「ウソつき、笑ってるもん! ちょっと、何考えてたのか教えなよ」

 結菜ちゃんも笑ったまま、軽く私の肩を小突く。元々スポーツが得意だったうえに、大学でダイビングサークルに入っているという結菜ちゃんの腕は、また一段健康的になっている気がした。小突いた程度でも厚い掌の感触がする。

 思わず声が出そうになって、くすぐられているように身をよじらせごまかす。結菜ちゃんが何か言いかけたところで店員さんが来て、結菜ちゃんは二人分の注文をしてくれた。

 運ばれてきた料理を食べながら、結菜ちゃんは流暢に近況報告をしてくれる。私たちの、お決まりのパターン。

 サークルで行った旅行先のこと、最近よく行くオムライスが美味しい店のこと。就職活動が始まると嘆きかけたところで、

「やっぱりいいや、他の話にする」

 とおろしハンバーグの最後のひとかけを口に運んだ。ずいぶん前に食べ終わっていた私は、膝に手を置いたまま頷く。喋らない分、いつも私の方が食べ終わるのが早い。

「彼氏ができたの」

 もう一回頷く。結菜ちゃんに彼氏ができると、話題はしばらく彼氏のこと一色になるので私にとっては特に嬉しくもない。彼氏が変わるたびに、彼の好きなところや趣味の話になる。三か月もすれば彼の嫌いなところを聞かされる。最近彼の話をしないな、と思ったら別れのサイン。毎回結菜ちゃんは違う話をしているつもりでも、私からすれば飽きないことに感心してしまうほど同じ話だ。

「こんなに私のことを見てくれる彼は初めてだし、私も真剣にその気持ちに答えたいなって思う」

 このセリフも、毎回言い回しが違うだけだ。中学生から今まで、全部記録に残しておけば立派な結菜ちゃん史が出来上がっただろう。本当に記録をつけたら面白いんじゃないかと、何度か思い立ったことがある。けどそれは、俗にいう黒歴史というやつを形にする行為なので自制している。私なりの、結菜ちゃんに対する誠意のつもり。色恋沙汰にさえ溺れていなければ、頼りになる唯一の友人なのだ。

 結菜ちゃんはそそくさとスマホを取り出し、彼の写真を差し出してきた。ウェットスーツから色白の顔を出している彼は、結菜ちゃんがほうきで叩いていた大人しい男子たちを連想させた。あれは、確か掃除中に隠れてスマホのゲームをしていたところを見つけたときだった。

「だから、あやちゃんとはもう会うのをやめようと思って」

 急に自分の名前が出てきて、慌てて結菜ちゃんの言葉に耳を澄ます。胸がざわつく。

 今、なんて?

「会わないのはね、あやちゃんのためなんだよ」

 彼氏ができたから、もう会わない? 理解不能だ。なんの冗談だろう。

「あやちゃんも、大事な人ができたらきっと喋れるようになると思うの。あやちゃん、このままじゃヤバイよ。仕事は? 結婚は? もう私たち二十歳すぎちゃったんだよ? というか、あやちゃん大学も行ってないんだから、今すでにヤバイんだよ。分かってる?」

 結菜ちゃんが口を開けば開くほど、聞こえる言葉は耳を素通りしていく。意味のあるものとしてまとまらない。私が首を傾げるといつも結菜ちゃんは疑問に答えてくれるのに、今日は気づかないふりでもしているみたいに一方的だ。さっきまで一言ずつ絞るように話していた結菜ちゃんが、今は生き生きしているようにさえ見えた。まるで、重たい鎖から解き放たれたような。

「だから、ね、私はミっくんと幸せになってみせるから、あやちゃんも頑張って」

 今日の本当の用件はそれだったの。言いながら速やかにテーブル上の食器を重ね、スマホをハンドバッグにしまっている。

 どこに行くの?

 言葉の代わりに伸ばしたつもりの手は、膝の上でお行儀よくしているだけだった。

 私にだって手を伸ばすぐらいはできるはずなのに。

 冗談だよね? 冗談だって思うのに、なぜ私の体は動かないんだろう。

「ごめんね」

 椅子をテーブルに戻す音に紛れて、結菜ちゃんの声がした。顔も上げられない私には、結菜ちゃんがどんな顔で言ったのか分からなかった。ただ、いつも待ち合わせに遅れてやってきたとき、笑って駆け寄る結菜ちゃんの声と変わらない気がした。

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