もの語る
尾手メシ
第1話
田舎の古物商など、大概が暇なものである。客など日に十人も来れば大繁盛で、物が売れようものなら赤飯でも炊きかねない。それが本当かどうかは分からないが、少なくとも、小宮山の営む骨董屋は、閑古鳥が立派な巣を作っていた。
小宮山の骨董屋、屋号を川北屋というのだが、とにかく暇でしょうがない。日がな一日、来ない客を待つともなく畳敷きの番台に座る小宮山は、根が生えるどころか葉が繁りそうな有り様である。どこかに買い入れに行ったり、同業者の集まりに顔でも出せばもっと違うのかもしれないが、小宮山はそういうことはやりたがらない。
小宮山は、元来面倒臭がりで通っている。何かにつけては「面倒だ」と言うのが口癖で、同業者との会合も、その殆どを断ってしまう。ただ、全く出ないというのも憚られるので、何度かに一度くらいは顔を出す。気まぐれにふらりと会合に参加する小宮山だが、そんなふうでも知り合いとは出来るもので、小宮山は会合でいくつかの伝手が出来た。
遠方から小宮山に買い取りの依頼がある時、それがどんなにオイシそうな依頼でも、小宮山は断ってしまうことが多い。行くのが面倒臭いからだ。それでその依頼はどうするのかというと、会合で得た伝手を使って他に回すのである。
小宮山にとっては単なる厄介払いだが、回された方は、思いがけずの良い仕事に感謝する。そういった者が、小宮山への礼のつもりなのか、偶に川北屋にやって来ては何かを買っていくので、男の一人やもめの生活は成り立っていた。
川北屋にやって来るのが同業者ばかりなのかというとそうではなく、もちろん大半は同業者以外、いわゆる一般人というやつだ。ただ、そうした普通の客の殆どは、品を売りたいと希望する者たちだ。やれ遺品整理で出てきただの、やれ蔵の奥に仕舞われていただのと言って、突然の掘り出し物の扱いに困って、取りあえずと目についた川北屋の看板を潜るのである。そうして、番台に座る小宮山を見て、しまった、という顔をする。
小宮山という男は、四十を半ばも過ぎた優男で、薄い眉の下の狐目はやや吊りぎみで、左目の下に泣き黒子のある、特別造作が整っているというわけではないがたいして悪くもないという、要するに、どこにでもいる男である。
どこにでもいる男なのだが、なぜかどうにも胡散臭い。狐目がそう思わせるのか、はたまた小宮山の持つ生来の雰囲気のなせる業なのか。とにかく小宮山を見た者は、皆が皆、小宮山を胡散臭く思うようで、入ってきた勢いそのままに、クルリと後ろを向いて出ていってしまう者もいる始末だ。
帰らなかった客が、おずおずと小宮山に品を差し出す。それを小宮山は、番台から降りもせずに受け取って、くるくる回した後に値段を告げる。そして、訥々とその根拠を述べていくのだが、これがまた、あまりにも胡散臭くて、品を引ったくるように取り返して去っていく客がいる。
それでも残った猛者だけが、小宮山に品を売っていくのである。彼らがそこまでして売りたいのか、それとも半ば意地になっているのかは、小宮山には判らないし、きっと彼ら自身も分かっていないだろう。
品を売りにくる客がそんな具合なので、買いにくる客も押して知るべしである。やはり、番台の小宮山を見た途端に引き返す者が大半で、この時点で、ただでさえ少ない客の多くが脱落してしまう。
残った客が品について尋ねてくるのだが、ここでも小宮山は、訥々と胡散臭く品の解説をするものだから、早々に尻尾を巻いて退散する始末である。そうして残った選ばれし客だけが、川北屋で品を買っていく。
ただ、そうした川北屋で品を買っていく客の多くが、その後、川北屋の常連客になっている。もちろん一度きりの来店で、その後顔を見ない客もいるが、二度三度と足を運ぶ客の方が大半だ。
彼らはなぜか、小宮山の胡散臭い解説を聞きたがる。そうして品を買っていき、次に来た時には、「この間は見事に騙された」だの、「あんたの目利きは大したもんだ」だのと言って、また小宮山の胡散臭い解説を頼りに品を買うのだ。
川北屋の常連に、会社社長だという男がいる。名を南原というのだが、一枚数万円の皿から、一幅数十万円の掛け軸まで、ぽんっと金を置いていく太っ腹で、川北屋の経営に大いに貢献している人物である。小宮山はある時、その南原に川北屋に通う訳を訊いてみたことがある。
「川北屋さん、私はね、品が欲しくて買うんじゃあない。あんたが語る品だから買うんだよ」
そう南原は笑う。
世間には物好きな者が多いなと、小宮山はただ呆れるだけである。
「もし、ごめんくださいまし」
入口の引き戸が開いて女の声がした。
「いらっしゃいませ」
番台から声を掛けた小宮山を見て、珍しく女はニコリと笑う。
「もし、買い取りをお願いしたいのだけど」
そのままつかつかと番台まで歩いてくると、そう言った。
訪ねてきた女、というより老婆は、重ねた年月を感じさせる白髪を肩の辺りで切り揃え、白いブラウスに茶色のロングスカートという出で立ちで、しゃんと背の伸びた、いかにも上品なマダムといった風情である。目尻の笑い皺が、妙に印象的な老婆だった。端を胸の前で結び、背に背負った風呂敷包みが不釣り合いに見えた。
「買い取りですか。お品はどちらに?」
「これなのだけれど……」
言って、老婆が結びを解いて、風呂敷包みを差し出した。小宮山が両手で受け取ると、見た目通りの軽さである。
「失礼します」
それを畳の上に置いて、静かに風呂包みを開く。
中から現れたのは、畳まれた着物だった。
「着物ですか」
「ええ、打ち掛けよ。姉の物だったの」
老婆が打ち掛けを見るが、そこに懐かしさはないようだった。
「それでは拝見させて頂きますので、少々お時間を頂戴します」
「ええ、お願いね」
そう言って、老婆が番台から離れる。さして広くはない店内だが、暇潰しに見て回るつもりのようだ。
小宮山は白いシーツを畳に広げて、手には白手袋を着ける。風呂敷から取り出した打ち掛けをシーツの上に広げ、風呂敷は畳んで脇に置いた。改めて、打ち掛けに向き合う。
生地は深い藍色で、その日暮れとも夜明けともつかない薄闇の中に、右肩から左肩にかけて、まるで背負うように満開の桜の枝が垂れている。はらはらと花弁の舞う先、裾の近くは段々と白くなり、これは冬桜の図だろうか。
生地は紋意匠ちりめんで、白手袋越しにも判る滑らかさと、上品に光を反射する光沢が、品質の高さを物語っている。生地自体は藍の先染だが、柄は一筆一筆描き入れた後染のようだ。花弁の一片まで、丁寧な仕事がしてある。
総じて高品質だが、さりとて特筆すべき事もない、そんな打ち掛けだった。言ってしまえばありふれた品だが、なぜか妙に小宮山の心を惹き付ける。
「お客様、査定が終わりました」
小宮山の声に、腰を折って壺を眺めていた老婆は顔を上げた。老婆が番台の前に戻るのを待って、小宮山が話し出す。
「お持ちいただいたお品、こちら、大変良いものでございます。生地は紋意匠ちりめんと呼ばれていますもので、その手触りは――」
いつものごとく、小宮山がつらつらと品について語っていく。大抵は、ここで眉を顰める者が多いのだが、老婆はニコニコと小宮山の話を聞いている。それに気を良くしたわけでもないが、小宮山の舌は常にも増してよく回った。
「――というわけで、このお品、十万円の値を付けさせていただきます」
「そう、そんなに良いものだったのね」
「ええ、それはもう。産地や作家の名前が分かるものがあると、もっと値は上がるのですが……。何かお持ちではないですか?」
小宮山の言葉に老婆は暫し考え込んだが、ゆるく首を振る。
「ごめんなさい、そんな物はなかったと思うわ。最初に言った通り、その打ち掛けは姉の物だったから、私、詳しくは知らなくて」
宙に向いた老婆の目が、懐かしむように細められた。
「姉と私は双子だったの。でも全然似ていなくてねぇ。引っ込み思案な私とは違って、姉はとても活発な人で。兎に角じっとしていられない人で、それでよく父に叱られていたわ。そんなふうだから、きっと田舎は窮屈で仕方なかったのね、十六になるとさっさと都会に出てしまって。
不思議と姉妹仲は悪くなかったのよ。でも、なにぶん昔のことだから、今みたいに気軽に連絡を取り合うことも出来なくて。私が嫁いでしまってからは特にねぇ。連れ合いを亡くしてからは、またポツポツと連絡を取り合うようになったんだけど、その頃には私も姉もお婆ちゃんでしょ。今度は体がついていかなくて……。
その姉から、突然打ち掛けが送られてきたの、形見分けだって。私、びっくりしちゃって。慌てて駆け付けたら、あの人、もう地面の下なの。自分で何もかも手配していたらしくって、姉らしいわって、私、笑っちゃったわ。
それで打ち掛けだけが残ったんだけど、私もいつどうなるか分からないから、姉に倣って、自分で始末を付けようかしらって思ったのよ」
そこで、はっとしたように小宮山を見て、老婆は恥ずかし気に顔を伏せた。
「ごめんなさい、何だか長々と。いやぁね、歳を取るとついつい話が長くなっちゃって。あらやだ、また。だから、産地だの作家だのは、私分からないの」
「いえ、大変興味深いお話でした。しかしそうしますと、やはり値は十万円となりますが、いかがいたしますか?」
「そうねぇ……いえ、これも何かの縁だからあなたにお願いするわ。どうぞ、あの打ち掛け、引き取ってくださいな」
そんな次第で、川北屋に打ち掛けがやって来た。
打ち掛けを店内に並べた、その日の午後のことである。小宮山が昼飯で膨れた腹を抱えてうとうとしていた午後二時過ぎ、いつの間にやら女がいた。
いつ店に入ってきたものか皆目見当がつかないが、件の打ち掛けを羽織った女が座っている。小宮山には、その背中が見えるだけである。結い上げた髪と衿の間のうなじは白く、裾から出ている素足もまた白い。うなじにかかる後れ毛が、なんとも言えない色香を漂わせている。
暫し陶然としていた小宮山は、我に返ると、慌てて番台を降りた。
「ちょっと、お客様。勝手に羽織ってもらっては困ります」
言いながらぐるりと正面に回り込んで、ぎょっとした。
女の姿はどこにもない。ただ打ち掛けだけが、まるで誰かが羽織っているような形で、ぷかりと宙に浮いている。
「一体、これは……」
口中で呟きながら背後に回ると、そこにはやはり女が座っていた。
「あー、なんだ、お前、あれか?幽霊か?」
我ながら阿呆な訊き方だな、とは思うが、小宮山の呆けた頭ではそれが精一杯だった。それに、あれは何だと訊かれれば、やはり幽霊だとしか思えない。小宮山が腰を抜かさなかったのは、今が昼日中だからである。異様ではあれど恐怖は感じないのは、ひとえに太陽が差しているからだろう。
「私は打ち掛けでございます」
問いかけはしたものの、まさか返事があるとは思っていなかった小宮山は、女が即座に返事をしたのに驚いた。
「打ち掛けっていうと、あー、えーっと、今お前が羽織っているそれのことか?」
しどろもどろに、小宮山はさらに問いかける。
「そうでございます。この打ち掛けで間違いございません」
小宮山に背中を向けたまま、女は答えた。
「打ち掛け……そうか、お前は幽霊じゃなくて付喪神というやつか。確かに古い物だとは思っていたが、まさか魂が宿るほどだったとは」
幾分落ち着いてきた頭で、小宮山は改めて女の背を見た。裾から覗く足をちらりと見て、幽霊に足はないしな、なんて益体もないことを考えながら一つ頷く。
「しかしそうすると……お前、自分がどのくらい古い物か分かるか?」
「さあ。なにせ打ち掛けでございますから、人の世の測りはとんと」
「まあ、それもそうだな」
打ち掛けの言うことはもっともである。これには、小宮山も苦笑混じりに頷くしかない。
「じゃあ、何を憶えている?」
「憶えていることでございますか。そうですねぇ……」
好奇心に任せた小宮山の質問に、打ち掛けは一旦言葉を切った。
「私が憶えているのは、私が織られた時からでございます。私を織ったのは」
「ちょっ、ちょっと待ったっ」
つらつらと語りだした打ち掛けを、小宮山は慌てて止めた。打ち掛けの話は、どうにも長くなりそうである。
小宮山は入口まで歩いていって、掛かっていた「営業中」の札を、くるりとひっくり返して「閉店」に変えた。どうせ客が来るとは思えないが、念の為だ。ついでに鍵も掛けておく。それから一度家の中に引っ込んだ小宮山は、片手に持った盆に湯呑と急須、煎餅を載せ、もう一方の手にお湯の入った保温ポットを提げて戻ってきた。それらを床に置いていく。番台にある座布団も持ってきて、それも床に置いた。ドカリと座布団に小宮山が座ると、打ち掛けの背中を見上げる格好になる。丁度打ち掛けのいるところが一段高くなっていることもあり、舞台を観る客のそれである。
「済まない、待たせた。それじゃ、存分に語ってくれ」
「え、ええ。それでは、改めまして」
小宮山の様子に、今度は打ち掛けが面食らってしまう。
「んっ、うんんっ」
それでも、一息入れて落ち着くと、打ち掛けは語りだした。
「私が最初に憶えておりますのは、私が織られた時でございます。私を織りましたのは一人の娘でございまして、名をオキクと呼ばれておりました。大変痩せっぽちな娘でして、腕も足も、骨しかないような有り様でした。枯れ木のようだ、とよく言われておりまして、その時は何のことだか分かりませんでしたが、後に枯れ木を目にすることがございまして、ああ、まさにオキクの手足の如くだな、と妙に納得したものでございます。
このオキク、目は落ち窪んで顔には痘痕が浮き、前歯が一本欠けているというような、まぁ、有り体に言えば醜女でございましたが、粗末に扱われているかというと、どうもそうではないようでした。それというのも、オキクの機織りの腕はいっとう上等なようで、仕事仲間の女衆からも一目置かれているようでございました。
そうして織られた私は、木箱に入れられて運ばれてゆきました。途中ぐらぐらと揺れておりましたが、今から思えば、あれは河舟か何かに乗せられていたのでしょう。そうして運ばれてきましたのは、どこかの大店でございます。一面畳敷きの広い部屋の三方は、天井にまで届こうかという棚がぐるりと囲んで、そこに私を含めた数多くの反物が、彩り見取りと並んでございました。私は向かって右側の棚の、二段目の中央からやや奥よりのところに収められて、そこで買い手が付くのを待つことになりました。
店は繁盛していたようで、入れ替わり立ち替わり客が来て、次々と反物が買われてゆきました。私も幾度となく客の前に広げられたのでございますが、これが一向に買い手が付かず、その店では結構な古株だったのかもしれません。私を見ながら溜息を吐かれる旦那様には申し訳なく思いましたが、私自身はこの店を離れがたく思っておりましたので、売れ残ることに安堵する気持ちもあったのでございます。
この店には一人娘がおりまして、名をオタエというのでございますが、実はこのオタエが私を大層気に入っていたのでございます。旦那様にも私を売ってくれるなと我儘を言っていたようでして、それもあって、旦那様も積極的に私を客に勧めることはございませんでした。そこまで慕われれば情が湧くというもの、私もできればオタエと共に、とは願うものの、所詮は反物の身の上、大人しく棚に収まっていたのでございます。
そんなふうに時は過ぎてゆき、オタエが所帯を持つことになりました。相手は店に勤める若者で、オタエと並ぶと似合いの二人でございまして、オタエも頬を染めておりましたから、きっと憎からず想っていたのでしょう。私はというと、オタエの婚礼衣装の打ち掛けになることが決まり、ああ、これでオタエと共にいられると、天にも上る心地でございました。
私を打ち掛けに仕立てたのは、店の馴染みの職人でございます。私は一筆一筆描き入れられ、一針一針縫われていくのを、それは楽しみに受け入れておりました。あと何筆描き入れられれば婚礼の日になり、あと何針縫われればオタエに羽織ってもらえるだろうかと、まさに一日千秋の思いでございました。ただ、結局は、私は店に戻ることはございませんでした。
仕立て終わった私は、和紙に包まれて木箱に収められました。そのまま運ばれまして、私、てっきり店に向かっているものとばかり思っておりましたが、一向に店には着かずに、どことも知れぬ所へと運ばれたのでございます。何やら大層慌ただしかったので、何か事情があったのでしょう。打ち掛けの身では、人の世のことなど分かりませんが。
ともかく、そうしてどこぞへと運ばれた私でしたが、そのうちにオタエが引き取りに来てくれると、その時は信じておりました。私は木箱に入れられたままでどこかへ仕舞われ、どれほど経ったものか、次に私が日の目を見たとき、私を覗き込んだのは、あの目尻の垂れた黒い瞳ではなく、切れ長の青い瞳でございました。
青い目の男は、よく解らぬ言葉で何事か話しながら、私を見て満足そうに頷いておりました。事情の全く飲み込めない私を置き去りに、木箱の蓋は再び閉じられて、私はどこかへと運ばれました。ぐらりぐらりと舟に揺られまして、ああ、そういえば、オタエの反物屋に来た時も舟に揺られたなと思い出しまして、やっとオタエの元に戻れるのだと胸を高鳴らせていたのでございますが、一向に舟の揺れの収まる気配はございませんで、ああ、もう私はオタエには会えないのだなと、その時にようやく悟ったのでございます。
どのくらい揺られていたものか分かりませんが、ずいぶんと長く揺られていたような心地がいたします。そうして次に木箱から取り出された時、私の周りは青い目のお人ばかりでございました。私を見ながら口々に何事かを言っていまして、あいにくと言葉は解りませんでしたが、皆様笑顔でございましたので、きっと私を褒めていただいていたのだと思います。
私はそのお屋敷に置かれることになりました。屋敷の主人は大層宴の好きな方らしく、度々宴を開いては私をその場に連れ出しました。そこでも大層褒めていただきました。もちろん嬉しくはあったのですが、ただ、どなたも私を羽織っていただけないのは寂しゅうございました。私は打ち掛けですもの、羽織っていただいてこそ誉れというもの。
そのお屋敷には可愛らしいお嬢様がおられまして、やはり名前は分からないのですが、その方がいっとう私を気に入って下さいまして、私をうっとりと眺めては何事かを言っておられて、もちろんオタエとは似ても似つかないのでございますが、その姿がオタエに重なるような気がいたしまして、ああ、私はこの娘に羽織られたいなと願っておりました。
ああ、しかし、縁とは非情なものでございまして、ほどなく私はお屋敷を去ることになりました。ある時、木箱に詰められた私は、訳も分からぬままにどこかへと運ばれたのでございます。それからは、あっちへ運ばれこっちへ揺られと、方々を移動いたしました。様々な瞳の色の方とお会いしまして、皆様私を褒めはするのですが、どなたも私を長く手元に置いてはいただけませんでした。そんなふうですから、当然、私を羽織ってくれるような方は現れず、次こそは次こそはと期待をしては縁が切れるという有り様で、いつしか私も羽織られることをすっかりと諦めてしまいまして、もう、このまま朽ちていくのだと思っておりました。そんな時でございます、あの方と出会ったのは。
その方は、懐かしい黒い瞳をしていらして、懐かしい言葉を話しておられました。一緒に帰ろうと、私に解る言葉で言って下さいまして、ああ、その時の私の心を何と言えばよいのでしょう、もし私が打ち掛けでなかったら、きっと泣いて縋っていたことでしょう。
そうしてその方に連れられて、私は懐かしの故郷へと舞い戻ったのでございます。久しぶりの故郷は、いえ、そこが確かに故郷かは分からないのですが、ともかくも、そこはすっかりと様変わりしておりました。昔を偲ばせる物が何もない中で、私はその方と暮らしたのでございます。
その方は大変活発な方で、方々を旅してきては、家で待つ私に旅の話をして下さいまして、外を知らない箱入りの私には大変に興味深く、いつも身を乗り出すような心地で聞いておりました。
ただ、そんな方でも私を羽織ってくれることはなく、私を羽織るには歳が行き過ぎてしまったと笑っておられましたが、そんなことはない、私はあなたにこそ羽織ってほしいのだ、という私の言葉が届くはずもなく、歯痒く思ったものでございます。
そのような日々でございましたが、やはり無情の影からは逃れられないものなのか、その方が病に倒れられました。すっかりと身辺を整理された後に、最後に残った私を箱に詰めながら、あとは妹に託すから、きっと良いように始末を付けてくれるからと、そう言って蓋を閉じてしまわれました。
そして、あの方の言葉通りに、妹様が始末を付けて下さいまして、ここに罷り越しました次第でございます」
いつの間にか日が暮れていた。薄暗い中で小宮山が見上げた先、女の姿はどこにもない。打ち掛けは何事もなく飾ってある。
「何か面白いものはあるかい、川北屋さん」
そう言って南原が川北屋にやって来たのは、一月ほど後のこと。丁度良いところにと膝を打った小宮山が、嬉々として打ち掛けの話を語ったところ、南原は大変に興味を示した。その場ですぐに買おうという話になったところまでは良かったのだが、ここから話は妙な具合に転がった。
「川北屋さん、頼みがあるんだが。打ち掛けだけではなく、その語りごと買い取らせてはくれないか?」
「語り、でございますか?」
小宮山は首を傾げるが、南原は至って真面目だ。
「そう、語り。打ち掛けと語りをまとめて買い取らせてもらいたい。もちろん、その分の金はきちんと払う。なあ、どうだろうか。なに、あんたの悪いようにはしないから」
あまりに熱心な南原に押し切られて、ついに小宮山は頷いてしまった。やはり骨董屋なんぞに来る客は、変わり者ばかりだと呆れる小宮山である。
南原から小宮山に電話があったのは、それから三月後のこと。東京に出てこないかと誘われて、面倒だと断ったのだが、宿も手配するからと重ねて誘われては、普段世話になっている手前、断るわけにもいかず、渋々の東京行きとなった。
東京に着いた小宮山が、南原に連れられて行った先は寄席である。物珍しさからキョロキョロとしながら席に着いた小宮山が、一人目の噺家を見送り、二人目を見送り、三人目が出てきたところで驚いた。その女噺家が羽織っていたのは、まさしくあの打ち掛けである。
「南原さん、あれ……」
思わず隣に座る南原に問いかけると、南原はニヤリと笑う。
「言ったろ、語りごと買い取りたいって」
まさかと小宮山が思っているうちに始まった噺は、やはり打ち掛けの語りだった。
「いや、彼女、良い噺家なんだが華がなくてな。どうにかしてやりたいなと思っていたところにあの打ち掛けだ。すぐに、これだっと思ったね。今日、初めて高座に掛けるんだよ」
よほど自信があるのか、南原は得意気だ。小宮山は、ただ目を白黒させるばかりである。
そんな二人を差し置いて、噺家は朗々と語っていく。打ち掛けの語りは続いていく。
もの語る 尾手メシ @otame
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