地下で

彼方

地下で

 気がつくと、薄暗い場所に立っていた。

 踏み締めた足には鉄の感触。目を凝らせばぼんやりと上下に別れた階段が見え、どうやらここは階段の踊り場らしいことが分かる。暗いのだからきっとまだ夜だろう。そうは思うも、八月も半ばを過ぎた夏の暑さは何処にもなく、うっすらとした寒さすら感じさせる。暫し頭を捻らせて、そうか、ここは屋内なのかと単純な結論に至った。

しかし一体何処なのだろう。柄にもなくしこたま呑んだ帰り道、どの道をどう進んだかなど覚えているはずもない。さて、どうしようか。半分酔ったままの頭をこねくりまわして唸っていると、微かな音色が耳を掠める。とんとん、からから、ぴーひょろろ。あれは太鼓か、それとも笛か。真っ暗闇には似合わない歓楽的なメロディは、どうやら下から聞こえるようだ。心地好い旋律に優しく手を引かれるように、薄暗い階段を階下へ向かい下りていく。誘われるまま、ただひたすらに。

 そうして暫く下っていくと、耳を掠める微かな音は陽気な祭囃子となり、踏板同士の隙間には暖かな光が滲み出す。もうすぐだ。確信に足は速まり、駆け込むように最後の一段を飛び降りる。

 そうして辿り着いた地の底で、信じられないものを見た。

 暗がりの先、真っ直ぐに伸びていく石畳の道。その両脇に軒を連ねる色鮮やかな露店の数々。ステンドグラスを思わせる光に透けた天幕を、道沿いに吊るされた提灯が柔らかに照らしている。橙色の暖かな光は風もないのに時折揺らめき、石畳を行き交う人の陰影を曖昧にして、目の前の景色をより幻想的に仕立てていた。まるで夢のような光景だった、ここが地下だと思えないほどに。けれど、耳に届く賑わいが夢ではないと伝えてくる。

 そこにあったのは、縁日で賑わう祭りの景色そのものだった。


 石畳まで辿り着き、一歩先へと足を踏み出す。その瞬間、世界が急に姿を変えた。薄暗い世界には光が溢れ、路上に満ちた熱気と活気に頭から飲み込まれる。流動し、蠢く熱気に包まれながらの道程は、さながら獣の喉を通り抜けていくかのようだ。流れのままに、更に奥へと進んでいけば、露店に漂うソースや醤油の香ばしい匂いが鼻を擽り、空っ腹をこれでもかと刺激する。周囲では和洋様々に身を包んだ老若男女が笑いあい、心地よい賑やかさが耳に染み込み心が弾んだ。酒も回っていただろうが、雰囲気にも酔っていたのだろう。ふわふわと浮遊するような酩酊感の中、思考は断片的となって泡のように消えて途切れる。深く考えられなくなると、地下深くの縁日という異様そのものの光景に、一片の違和感すらも抱くことはなくなっていた。ただただ楽しかった。

 なのに、何故だろう。いくら楽しいと感じようが、どうにも満たされない感覚がある。いや、満たされないというよりは、欠けていると言うべきか。周囲から注がれ続ける快や楽は充分すぎるほどにある。だとすれば、欠けているのはこちら側であるのだろう。けれど、何が足りないのか、そもそも本当に足りてないのか、それすらもわからない。そんな曖昧にして空虚な感覚。何かが足りない、その欲求だけは確かにあるのに。自分の手中に収まらない理不尽さが気持ち悪くて仕方がない。

 どうしたら満たされるのだろう。覚束ない思考を抱えて唸っていた、その時だった。とんとん、からから、ぴーひょろろ。人々の賑わいの合間から滑り込んだ祭囃子。耳を澄まし続けていると、音色は少しずつ明瞭さを増していく。その軽やかな音を聞いていると、不意にある考えが脳裏を過った。

 この音色の先で、誰かが自分を待っている。その人こそが、きっと。

 あまりにも唐突で突飛も無い思いつきだ。けれど、考えを否定する前に、気づけば夢中で歩いていた。石畳を通り、色鮮やかな露店の合間を人を掻き分け進んでいく。道は幾筋にも枝分かれし、まるで色彩の迷路だった。進んでは右へ折れ、また進んでは左へ折れる。地図などあるはずかなく、頼りになるのは耳に届く祭囃子だけ。少しずつ明瞭になる音色を導に、その先にある誰かへ向かってひたすらに足を急がせた。


 どれくらい歩いただろうか。気がつくと、目の前に大きな鳥居が見えていた。聞こえていた祭囃子は旋律がより明瞭となり、その端緒を耳で辿れば鳥居の奥へと続いている。この先は神社だろうか。祭りの本拠地だからか一際賑わっており、あちらこちらで人の壁ができている。簡単には進めそうにない。それでも、と先の見えない壁の向こうへ一歩踏み出し歩いていく。確信があったのだ。祭囃子を辿った先、あの鳥居の下に欲した何かがあるのだと。

 そうしてどれだけの人を掻き分け、いくつの隙間を通り抜けたか。不意に全身の圧が消え、人のいない場所に出た。そこはどうやら鳥居の根本で、赤い金魚や青いアジサイ、黄色の向日葵に紫の藤と、目に美しい浴衣姿がひと時羽を休めている。

 その中の一羽が、不意にこちらを振り返った。


 「あら、あなたじゃないの」


 間の抜けた声がして、羽を休める浴衣姿がゆるりとこちらを振り返る。翻った薄紫に色鮮やかな蝶が舞った。


 「全くもう。まだ来るには早いでしょうに」


 すらりと伸びた長い手足も、整った顔貌も、見える肌の全てが新雪のように白く、精錬された大人の色香すら醸し出している。その一方、僅かな赤みが差した頬ではにかむように笑う姿は、見た目以上に子供っぽい印象を与えていた。


 「一体どうしたの? どこか具合でも悪かった? 」


 小走りで近づき、不安げに覗き込む顔に大丈夫だと笑いかける。彼女はまだ不満げだったが、二三繰り返して漸く納得してくれた。いつもそうだ。待ち合わせとなると待たされてばかりなのに、会えたら真っ先にこちらの心配をする。そういう人なのだ、彼女は。いや、妻は。

 いつまでも変わらない彼女の言葉が、纏う空気が、そして醸し出す優しさが、空っぽの心に染み込んで、とろりと甘く満たしていく。

 彼女だったのだ、求めていたものは。道中抱え続けていた曖昧にして空虚な感覚。だが曖昧さが晴れた今、求め続けたその答えはまさしく彼女の形をしていた。結婚して十数年、いつだって側にいて、尊重し合い、支え合う。そんな夫婦であろうとしてきた。どちらが欠けても成り立たない、まさしく比翼連理の仲だと思う。どうして忘れていたのだろう、こんなにも大切な存在を。


 「ならいいの。じゃあ、行きましょうか」


 言葉と共に手を取られ、引かれながら歩き出す。だが、行き先は境内ではなく、人が行き交う縁日の方角だった。お参りではなく縁日を回るんだろうか。道中は進むばかりであまりよく見た覚えはないから、それも良いかもしれない。

 けれど、そんな考えを否定するように、薄紫の浴衣姿は一度も振り返りはせず、露店にも目移りせず、遠慮無しに手を引いてひたすらに先を急いでいく。石畳を歩き、店の隙間を右へ左へ、また右へ。露店が並ぶ光の迷路は幾重にも枝分かれしていて、けれど彼女の足取りに迷いは微塵もみられない。そのうえ、道の先はどこも人で溢れているのに、どうしてかぶつかることはなかった。まるで海を開いたモーセのようだ。酒で朧な思考の隅でそんなことを考えながら、ただ手を引かれるままに歩き続けた。

 そうしてしばらくが経ち、祭囃子も随分と遠のいた頃に漸く彼女の歩みが止まった。縁日から離れたせいか周囲は少し薄暗い。立ち止まる彼女の背中、その更に奥へと目をやれば、最初に下ってきたあの階段が静かに佇み待っていた。

 もう帰るのかい。名残惜しさを口にすると、彼女はゆるりと頷いた。


 「暗くて危ないから、あなたが先に行ってちょうだい」


 彼女が言う。普段ならお安いご用と思う所だが、何故だろう。今夜ばかりは足がなかなか進まない。どうしてか、先へ行くのが酷く怖ろしくて堪らなかった。それが何に根差すのか、自分でも分からなかったが。

 躊躇いが顔にも出ていたのだろう。手に触れた暖かさに顔を向ければ、彼女が僕の手をとって穏やかに微笑んでいた。


 「大丈夫。後ろから着いていくから」


 本当に、と何度も何度も念を押した。どうしてこんなに不安になるのか自分でもよくわからなかった。

 薄暗い景色の奥で彼女がこくりと頷く。そして、道を開けるように横へと退いた。その華奢な姿の横を通って階段の前へと進む。いざ上ろうすると、背後から声が聞こえた。

 

 「暗くて危ないから、絶対に振り返らないでね。ちゃんと着いていくから」


 思わず振り返りそうになり、寸でのところで堪える。そうか、自分は彼女が離れてしまわないかを恐れているのか。着いていく、と二度も言われて気づくとは、随分と恐怖に煽られているらしい。

 大丈夫だ、彼女は嘘で人を困らせたりはしない。十数年と連れ添い、紡いできた日々こそが一番の証なのだと、誰よりも傍にいた自分自身が知っている。そして恐らくは、彼女もそう思っているはずだ。ここで進まなければ彼女からの信頼を裏切ることになってしまう。それだけは何があろうと許されない。

 分かった、と返事を一つだけ返し、階段の踏み板に足を掛ける。そのたった一歩の歩みすらも無性に恐ろしくて仕方なかった。返した言葉に嘘はない。それでも、背後に広がる暗闇に誰の姿も無い想像が、残像のように脳裏に焼き付いていた。

 焼き付いた残像を消すことすら出来ないまま、薄暗い階段をひたすら上へと上っていく。背後からも音は確かに聞こえていた。二歩ほどの間を空けて、こちらより少し小さな足音が。その淡々とした音があまりにも怖ろしく思えて、感情に駆り立てられるまま背後に向かって話し続けた。仕事のこと、同僚のこと、厄介な上司のこと。すると彼女が相槌をうち、それにひどく安堵して、その安堵がまた恐怖を掻き立て喉から言葉を絞り出す。

酒でぼやけた頭は満足に台詞も出せやしない。それでも、例えたった一言でも、声になる限り繰り返した。

 上って、話して、止まって。また上って、話して、また止まる。永遠に続くとも思われた繰り返し。けれども、終わりは訪れる。

 いつの間にか辿り着いた最上部で、戻った者を待ち構えていた古びた扉。所々に浮いた錆びが薄暗くとももよく見える。他に扉や階段はなく、出口はどうやら一つのようだ。

 ドアノブへと手を伸ばす。握った感触は軽く、音を立てて容易く回った。残すは扉を開くだけ。外界までは後僅かだ。にもかかわらず躊躇うのは、未だ収まらぬ恐怖のせいか。なぜこんなにも恐れるのだろう。これではまるで外に出たくないみたいじゃないか。

 心臓が強く脈打ち、ドアノブを持つ手が震えた。どうにも動けずにいると、柔らかな温もりがそっと背中に添えられる。言葉は無い。それでも確かに伝わってきた、彼女の声が。

 大丈夫よ。怖れる心に寄り添って、彼女は静かに語りかける。そうやって、いつも支えてくれるのだ。変わらぬ優しさと暖かさに、恐怖が少しずつほどけていく。そして、心を決めた。

 ドアノブを握りしめ、軽く捻って前へと押し出す。開いた扉の向こうに薄暗い裏路地が見えた。漸くの外の世界だ。そんな感慨にも似た思いが過る。帰ろう、彼女と一緒に。足を踏み出し、一歩前へと進み出る。


 「あなた」


 不意に、彼女の声がした。待ってくれ、今開けるから。ここを出て一緒に家に帰ろう。


 「驚いたけど、こうして会えて嬉しかった。あなたが寂しがり屋なのも知ってる。でも、お願い」


―――まだ暫くは来ないでね。約束よ。


 錆び付いた扉が開く。擦りきれるような音に紛れて最後に聞こえた彼女の声は、穏やかで、どこか寂しげだった。


 

 気がつくと、薄暗い場所に立っていた。見渡すまでもないほどに地面は狭く、当たり一面にゴミが散乱している。どうやらどこかの裏路地らしい。見上げてみれば、周囲を囲むビルの合間に星が瞬く夜空が見えた。どうしてこんな場所に。確か、酒を呑んでいて、それで。そこまで考えて唐突に思い出す。そうだ、彼女は、妻はどこだ。

 急いで周囲を目で探す。だが、今しがた出てきたはずの扉はどこを探しても見つからない。そんな馬鹿なと、壁に張り付き手で探る。僅かな凹凸も見逃すまいと手を動かした時だった。

 ぽとり、と胸ポケットから何が落ちる。手を止めて地面をみると、落ちていたのは一枚の写真だった。小さな四角い枠の中、一人の女性が微笑んでいる。薄紫の浴衣が似合う色の白い女性だ。それが誰かなど、考えるまでもなかった。

 彼女だった。見慣れた柔和な微笑みから目が離せずにいると、瞬間、酔いで曇った思考が晴れ、酒で閉じた記憶の蓋に少しずつ隙間が生まれる。覗き込んだその中には病床に臥す彼女の姿。自分はベッドの側に座し、彼女と会話を弾ませている。一見すると、それは病床の妻を見舞う夫との仲睦まじい夫婦の姿だ。だが、均整のとれた肢体は痩せ細り、白い肌は青白くも見え、それでもと笑う彼女の笑みは幾分か痛々しくもあって。置かれた現実を察するには一目もあれば充分だった。

また一緒に祭りに行こう。搾り出すように口にした拙い励ましに、約束ねとはにかむように微笑んでいた、あの夏の日。

 あの日が、彼女と過ごした最後だった。どうして忘れていたのだろう。彼女はもう、何処にもいない。

 離れるのが怖いも何も、既に離れた後だったのだと、今更ながら思い出す。頭では忘れていても心は覚えていたのだ、喪失の恐怖を。だからこそ、進むことを酷く怖れた。外へ出れば、また味わうことになるのだから。彼女のいない絶望を。

彼女を喪ってからの孤独の日々、それはまさに絶望そのものだった。絶えることのない寂寥と悲痛。けれど、月日は無情に過ぎていく。亡くなって幾ばくも経てば、取り繕う術など否が応でも身に付いた。

日々の暮らしをそつなくこなし、他人を程好く遠ざけて、社会のノイズに紛れ込み、人間を取り繕って過ぎ行く日々を生きてきた。ずっと一人だったのだと、顔に笑みを張り付けて。

 それでも、現実に耐えられなくなる日が年に一度訪れる。明日は、彼女の命日だった。

 子供のように駄々をこねても明日は必ずやってくる。その現実から少しでも長く逃げたいと選んだ手段が酒だった。手当たり次第に呑んで泣いてを繰り返した、相当な量のアルコールが入っていた自覚はある。それこそ、幻覚を見てもおかしくないくらいには。

 もしかすると、あの地下での出来事は酒の見せた幻覚だったのかもしれない。手段としては悪手だろうが、目的は達成していたのも確かだろう。幻覚に囚われてる間は、幸せな世界に逃げていられたのだから。だが、覚めてしまえば世界など終わりの無い地獄でしかない。

 いっそ、会いに行ってしまおうか。

 見渡すと、周囲を囲むビルの壁に非常階段が見えた。目測で六階程度、十分な高さだろう。足に力を込め、立ち上がる。そして非常階段へと足を向けた。


──まだ暫くは来ないでね、約束よ。


 落雷に打たれたような衝撃を受け、立っていられず座り込んだ。肩を落とし、呆然と俯きながら、耳の奥で最後に聞こえた彼女の言葉を反芻する。

もしも幻覚だったなら、きっと会いに来てと言っただろう。さあ早くと笑顔をくれて、この心を楽にしてくれたに違いない。

だが、彼女は言ったのだ。来るなと。

 手厳しいなぁ。座り込んだままで、気づけば笑みが零れていた。辛くても、逃げたくても、それでも彼女は生きろと言う。約束とまで言われては、守らないわけにはいかないだろう。誰よりも愛した彼女からの、最後の願いなのだから。



 ひとしきり笑うと、力を入れて立ち上がる。明日は彼女の命日だ。なかなかに足が向かず、墓前には丸一年行けていない。随分と待たせてしまった。が、今度はまた何十年と待たせてしまうことになる。約束とはいえあまりにも申し訳ない。だから、せめて花の一つでも贈りに行こうじゃないか。

薄紫の浴衣に似合う綺麗な花を。


さて、帰るか。一つ決意を口にして、裏路地を歩きだす。

耳を澄ませば遠いどこかで祭囃子が聞こえた気がした。


 


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