第七章 深い深い雲の底
第一話 ダイブ・アンダー・ザ・スカイ
飛空艇の浮遊機能は大気中の霊力を利用している。
必然、霊力の薄い場所で浮力を保つのは難しく、普通はそういった場所に船を進めたりはしない。
例えば、雨雲よりも遥か上空の高高度。
例えば、浮遊島よりも低空に広がる果てしない雲海の中。
そして今、飛空艇グラティアは雲海目掛けて急降下し、雲の飛沫を撒き散らしながら潜航を始めようとしていた。
「霊力希薄高度に到達。サブエンジン全基を浮力帯生成モードに切り替えます。衝撃に備えてください」
グラティアの精霊体が落ち着き払った声で俺達に警戒を促す。
艦橋の大窓全体が白い雲に覆われた途端、船体がジェットコースターの滑り出しの瞬間のようにガクンと大きく揺れ動く。
しかしそれも一瞬の出来事で、グラティアはすぐに安定を取り戻して、分厚い雲の中に浮かぶ形で静止した。
「……ぷはっ! あー……さすがに死ぬかと思ったわ」
アヤは降下開始からずっと止めっぱなしだった息を吐き出しながら、座席の背もたれに体重を預けた。
艦橋に居合わせたエリシェヴァも、緊張から解き放たれた安堵感でぐったりとしている。
当然の反応だ。一歩間違えばバランスを崩して真っ逆さまだったのだから。
一足先に医務室へ放り込まれたサーシとローエングリン、そしてサーシに付き添ったエヴァンジェリンも、今頃は心の底から気を緩めていることだろう。
「行きた心地がしないって、こういうのを言うんでしょうね。あんたが『できる』って言うなら、間違いないんだろうとは思ってたんだけど」
「正直俺も、死ぬかと思った。グラティア、敵艦の様子は?」
「先程と同じ高度で低速旋回を続けています。本艦が静止状態にある限り、敵艦は本艦の正確な位置を把握できないと考えて差し支えないでしょう」
「裏を返せば、まともに動いたら即攻撃。根比べを仕掛けようって魂胆か」
素早く移動しようとすれば、すぐさま位置を特定されて砲撃の雨が降り注ぐ。
しかしこのまま息を潜めていても、遠からず霊力が尽きて奈落の底へ落ちてしまう。
一難去ってまた一難とはこのことか。
「具体的にどれくらい耐えられそうだ?」
「タイムリミットは夜明けだな」
俺の質問に答えたのは、同じく艦橋に詰めていたリネットだった。
「霊力を使い果たすまでの時間でいいならもっとあるぞ。でも浮上して鬼ごっこを再開する余力を残すんなら、隠れていられるのは一晩だけだ」
「ほ、本当ですの? 本当にそれだけ? 確かグレイル級の霊力容量は……」
「第二エンジンと一緒に相当な量が吹っ飛んじまいましたよ。自己修復にも霊力は必要になりますし、何より雲海は大気中の霊力が薄いんです。今は貯蔵霊力をばら撒いて浮遊力場を維持してますけど、このやり方はとにかく霊力をバカ食いしますからね」
「……理解しましたわ。むしろグレイル級でなければ、夜明けまで耐えることすら不可能ということですわね」
エリシェヴァが言った通り、霊力の薄い雲海の中で一晩中滞空し続けるなんて芸当は、グラティアだからこそ実現できる奥の手だ。
けれど、それだけでは現状を打破できない。
「リネット。夜明けまでにどれくらい直せそうだ?」
「あたしの精霊術とグラティアの自己修復機能をノンストップでフル稼働させれば、普通に飛ぶ程度なら問題なくなると思うぞ。あくまで応急修理だから、最大出力はせいぜい数分しか続かないだろうけどさ」
「そうか……悪いな、面倒事ばかり押し付けて」
「いいってことよ。メカニック冥利に尽きるってもんさ。その代わり、次の作戦はあんたが考えてくれよな」
頼もしく笑いながら、リネットが艦橋を立ち去ろうとする。
そのとき、通信担当のブラウニーが慌てた様子で声を上げた。
「艦長! ハルシオン卿から通信です! 着艦許可を求めています!」
「……着艦許可だって? 小型艇か? そんな報告は……」
「ええと……ハルシオン卿だけが、生身で飛んできたみたいでして……」
俺はアヤと顔を見合わせ、すぐに着艦許可を出すように指示をしてから、急ぎ後方甲板前の扉まで駆けていった。
ちょうど廊下の奥に到着したところで、グラティアの遠隔操作で扉が開放される。
扉の向こうは綿のように濃密な雲に飲み込まれていて、廊下からでは甲板の床面すら目視できない。
「――すまない、少し遅れたようだ」
甲板を覆う雲をかき分けて、戦闘装備のハルシオンが艦内廊下に姿を現した。
綺麗な緑色の長髪は風で乱れ、見た目を整える時間すら惜しんでいたことが窺える。
「本当に生身で飛んできたのですね……あんな巨大戦艦の目と鼻の先を……」
俺達の後を追ってきたエリシェヴァが、呆れと驚きと尊敬の入り混じった言葉を漏らす。
アヤも口には出してはいないが、同じ感情を込めた眼差しをハルシオンに送っていた。
「エリシェヴァ様。まずはご無礼をお詫びします。我らコルネフォロス遊撃艦隊、差し出がましくも無許可の随伴を行っておりました」
騎士らしい礼節で恭しく一礼するハルシオン。
しかしエリシェヴァは決まりが悪そうに顔を逸らした。
「わ、わたくしの差配に不安があったのでしょう? 適切な判断ですわ。今回ばかりはわたくしの見通しが甘かったと認めざるを得ません」
「なんと、エリシェヴァ様がそのような……」
「その顔はお止めなさい! まるで『あの我儘娘が自分を顧みるとは成長しましたね』とでも言いたげな顔は! ローエングリンもそうでしたが! 色々と癪に障りますわ!」
逆ギレするエリシェヴァも、この流れだと微笑ましい光景の一環である。
だが見通しの甘さについては、俺もエリシェヴァ以上に反省すべきだろう。
エヴァンジェリンはプロローグでウルフラムの襲撃を受けた。
この世界の一般人の視点だと『追放天使が運悪く天使狩りの標的になった』だけの不幸な事件かもしれないが、本当は完全にエヴァンジェリン個人を狙った計画的犯行であり、俺はその事実を把握していた。
更に、神器強奪事件の黒幕がウルフラムだということは、あの時点では俺しか知らないはずの情報だった。
それなのに、エリシェヴァの依頼を承諾してしまったのは不用意と言わざるを得ない。
ウルフラムは邪竜の指示で神器ケラウノスを狙い、それとは別件でエヴァンジェリンも狙っているのだから、ターゲットにされるリスクは単純計算で二倍。
エヴァンジェリンを狙ってグラティアを襲ったら神器もありました、なんていう鴨葱案件も普通に起こり得てしまうのだ。
(……実際に、さっきのウルフラムの襲撃がそうだったのかもしれない。やっぱり俺だけで何もかもノーミス対応しようってのは、土台無理があるってことか……せめて誰かと相談できていたら、もう少しくらいはマシな状況になってたのかも……)
無意識のうちに視線がアヤの方へと流れていく。
アヤに秘密の一部を打ち明けたとき、自分でも驚くほど気持ちが軽くなった。
きっと自分が思っている以上に、一人で秘密を抱え込んでいることが負担になっていたんだろう。
「レイヴン艦長。現在、我々の艦隊とデウスクーラト私兵艦隊は、敵巨大戦艦を遠巻きに包囲して様子を窺っている。後先考えずに攻撃を仕掛けても、君達の足を引っ張ることになりかねないからだ」
「それで自分だけ飛んできたってわけ? よく見つけられたわね」
「運が味方してくれたとしか言いようがない。一か八かで雲海に飛び込んで、霊力が尽きるまでに見つからなければ引き上げようと思っていたんだ」
ハルシオンはアヤに向かって軽く肩を竦めてから、真剣な面持ちで俺に向き直った。
「手伝えることがあれば何でも言ってくれ。私だけでなく艦隊全てが力を貸すつもりだ」
「……責任重大だな」
ああ、まさに今がそのときだ。
今度こそ失敗するわけにはいかない。
知恵も力も、借りられるものは何でも借りなければ。
「思い付いた作戦は二つある。どちらの作戦も、グラティアのエンジンが直らないことには始まらないから、決行するにしても夜明けを待たないといけない。だから雲の外の艦隊には、とにかく現状維持を徹底させてくれないか」
「了解だ。既に対抗策を練っていたとは恐れ入る。心強い味方を見つけたな、アヤ」
「ようやく私とエヴァにも運が向いてきたって感じだわ。それで、どんな作戦? 勿体ぶらないで教えなさいよ」
褒められるのは当たり前に嬉しいものだが、相手がアヤだと嬉しさもひとしおで……いや、待て、思考がおかしな方向に脱線しつつある。
「……正直に言うと、今はまだ机上の空論でしかないんだ。実現できるかどうか、とてもじゃないけど断言はできない。だから皆の意見を聞かせてくれ」
アヤもハルシオンも、そしてエリシェヴァも無言で頷いてくれた。
リネットは第二エンジン周辺でメカニックの仕事をしている最中だが、意見を求めればきっとすぐに答えてくれるだろう。
「プランAは、ここから逃げ果せることを最優先に考えた、いわばローリスク・ローリターンの作戦だ。間違いなく現状を打破できると思うけど、敵には損害を与えられないから、また襲撃される可能性は否定しきれない」
とにかくこの袋小路を脱出するだけなら、こちらの作戦の方が安全かつ安定している。
けれど、根本的な解決にはならない。あくまで対症療法に過ぎない作戦だ。
だから俺は――もう一つの作戦を成功させたいと願っている。
この作戦がうまく行けば、アヤとエヴァンジェリンの前に立ち塞がる全ての問題を、一挙に解決するのも不可能ではないのだ。
俺は深く息を吸い、本命のプランを力強く宣言した。
「プランBは桁外れのハイリスク・ハイリターン……ウルフラムを撃破する! 俺達の手で! 今、ここで!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます