第四話 君の知らない物語
――時間は少しばかり遡る。
レイヴンが艦橋を離れて休憩に入ったその頃、グラティア艦内のとある船室の前に、白い翼を露わにしたエヴァンジェリンの姿があった。
「ねぇ、サーシ! 本当に大丈夫? どこか具合悪かったりしない?」
エヴァンジェリンは普段よりも大きな声を出して、固く閉ざされた扉に話しかけている。
「……だ、大丈夫。ちょっと考え事……してるだけ……本当に……」
しばしの間を置いて返ってきたサーシの声は、扉越しであることを差し引いても、小さく弱々しいものだった。
ベガ島を出港して以降、サーシは船室に籠りがちになっていた。
体調を崩したというわけではなく、何かに思い悩んでいるかのよう――少なくともエヴァンジェリンの主観ではそのように感じられた。
「お手伝いが必要なら気軽に言ってね。できることなら何でも協力するから」
悲しげに目を伏せるエヴァンジェリン。
本当に大した事情ではないが、気軽に相談されるほどの信頼を得ていなかったのか。
それとも、友人には相談できないほどの大問題を抱えているのか。
どちらであったとしても、エヴァンジェリンが心を痛めるには十分な理由なのである。
エヴァンジェリンは神器強奪の予言について何も伝えられていない。
余計な心配をさせないようにという配慮だったが、結果的には『サーシの行動を理解できずに思い悩む』という、ある種の皮肉めいた結果を生んでしまっていた。
「あら! こんなところにいらしたのですね。まったく、無意味に探してしまいましたわ」
エヴァンジェリンが船室の前を離れようとした矢先、もう一人の天使、エリシェヴァの高圧的な声が投げかけられた。
「あれ? ローエングリンさんは一緒じゃないんだ」
エヴァンジェリンの何気ない一言を受け、エリシェヴァは不愉快そうに眉をひそめた。
「ローエングリンは護衛であって保護者ではありません。外出時ならいざしらず、飛空艇の中で連れ歩く必要がどこにあるというのです? 第一、貴女だって聖騎士アヤを連れていないではありませんか」
「いや、お嬢様が機関室に忍び込まないよう見張りますので、とか言って……」
「……ともかく! 本題に入らせてもらいます。わたくしも暇ではありませんので」
都合の悪い話題の気配を感じたのか、エリシェヴァは単刀直入に用件を切り出した。
「念の為に明言しておきます。わたくしが雇った飛空艇に、よりにもよって貴女が同乗していたのは、ただの偶然です。危険の伴う仕事ですが、デウスクーラト家とルクスデイ家の因縁を晴らすための報復ではありません」
「えっと……急にどうしたの?」
不思議そうに小首を傾げるエヴァンジェリン。
エリシェヴァはその平然とした反応が不満だったのか、整った眉をより強くひそめた。
「わたくし達の家にまつわる因縁、知らないとは言わせません。貴女のご両親も、自分達の失態を娘に隠そうとするほど、恥知らずな方ではないはずでしょう? 先程は一般の人間が同席していた手前、つまらない理由を挙げて誤魔化させていただきましたけれど」
幼少期、追放天使のエヴァンジェリンがパーティーの席で見事な振る舞いを見せたせいで、動揺させられて恥をかいたから――レイヴンやリネットに語った『エヴァンジェリンを嫌う理由』は、真相を隠すための方便であった。
もちろん完全な嘘ではなく、二人が実際にそういう出会いをし、エリシェヴァが大いに気分を害したのは真実だ。
しかしそれ以上の理由が、ただの人間には聞かせられない出来事があったのだ。
「貴女の父上は、我がデウスクーラト家が受け継いだ神器、神聖杯ネクタールを私利私欲のために借り受け、そして愚かにも賊に奪われるという失態を犯しました。本来なら追放刑だけで済む所業ではありませんわ」
神器を失う――それは決して世間に知られてはいけない醜態。
これこそがルクスデイ家追放の理由。
原作のエリシェヴァが神器強奪事件の隠蔽を図り、自分達だけでの解決を試みたのも、同じ理由で特権を剥奪された前例を知っていたからなのである。
「わたくしのお父様の慈悲深さに感謝なさい。処罰は追放だけに留め、それ以上の罰は与えないと仰ってくださったのですから。この依頼を報復と受け止められたくない理由も、お父様の厚意に泥を塗ったと思われたくないからに過ぎません」
エリシェヴァは冷たい眼差しでエヴァンジェリンを見やり、大袈裟な仕草で金色の後ろ髪をかき上げた。
「どうか、愚かな父親の二の舞を演じないでくださいませ。お父様の慈悲にも限度というものがありますわ」
「……大丈夫だよ。アヤには迷惑かけられないし」
困ったように笑うエヴァンジェリン。
その顔に動揺の色は全くない。
追放の理由を告げられたことに対して、一切の驚きを感じていないのは明白だった。
「えっと、私がその『理由』を知ってるってこと、皆には内緒にしてね。知らない方がいいって思ってくれてるみたいだし、そんなことで悲しませたくないから」
「……いいでしょう。理解に苦しむ発想ではありますけど」
エリシェヴァは短い溜息を挟んだ。
「それにしても、貴女の父上は一体何を考えておられたのでしょうね。他の一族の神器を使ってまで満たしたい欲望など……あまりにも愚かすぎて想像すらできませんわね」
丁寧な口調で嫌味を並べ続けるエリシェヴァだったが、エヴァンジェリンは大して気に留めていないだけでなく、それどころかきょとんとした顔で小首を傾げていた。
「あれ? エリシェヴァ、知らないの? ちゃんとした天使なのに?」
「知りませんわ。神器を貸し出した理由も、神器を奪い取った犯人も、お父様は教えてくださりませんでしたから。きっとわたくしが知るべきではない、おぞましい理由なのでしょう」
「それ……私、なんだよね……あはは」
気まずそうに笑いながら頬を掻くエヴァンジェリン。
エリシェヴァは怪訝そうに眉をひそめ、言葉の意味を噛み砕くように理解してから、整った顔を動揺に引きつらせた。
「ど……どういう意味ですの?」
「あ、これもアヤには内緒でお願いね」
エヴァンジェリンは人差し指を口の前で立てるジェスチャーをした。
まるで悪戯の相談でもするかのように軽い口振りと仕草。
しかしそこから紡がれた言葉は、エリシェヴァの思考を真っ白にさせるには充分過ぎる代物であった。
「私ね。子供の頃に、病気で死にかけたことがあるんだ。助かったのはお父さんのお陰。友達に無理を言って大事な宝物を貸してもらったんだって」
「お待ちくださいまし! まさかその宝物というのは……」
「神器ネクタール……だったみたい。私はずっと寝込んでたから、詳しいことはよく覚えてないんだ。うーん、こう言うと本当に親不孝者だよね」
困ったように笑うエヴァンジェリンとは対象的に、エリシェヴァは動揺のあまり唇を震わせることしかできずにいた。
「つまり貴女の父上の動機は、決して私利私欲ではなく……」
「そう? 子供のためっていうのも、一応は私利私欲に含まれるような」
「いいえ! 含まれるはずがありません! 断じて違いますわ!」
叫びにも似た声が船室前の廊下に響き渡る。
「ああ……よくよく考えれば、お父様が下らない用途のために神器をお貸しになるはずは……まさか追放だけでお許しになられたのも、同情の余地が大いにあったから……?」
「えっと、大丈夫?」
「……っ!」
エリシェヴァはエヴァンジェリンの手を振り切って、逃げるように駆け出した。
「えっ、ちょっと、どこ行くの?」
「頭を冷やして参ります! ついて来ないでくださいませ!」
「いや無理だって!」
慌てて後を追うエヴァンジェリン。
二人の姿が階段の向こうに消えたところで、船室の扉が内側からゆっくりと開き、隙間からサーシが心底気まずそうに顔を覗かせた。
「ど……どうしよう……立ち聞きする気はなかったんだけど……ひょっとして、聞いちゃいけないことだったり……?」
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