第五話 強襲
エヴァンジェリンがエリシェヴァを追って辿り着いた先は、雨上がりの後部甲板だった。
嵐の裂け目はまるで台風の目のようで、どの方角を見渡しても分厚い雲の壁に取り囲まれているが、頭上だけは嘘のように晴れ渡っている。
空は夕焼けの赤色に染まり、差し込む夕陽が濡れた床と天使の白い翼を照らし上げる様は、ベガ島の画廊に絵画として飾られていてもおかしくない美しさを湛えていた。
「……わたくしが悔やんでいるのは、貴女とルクスデイ家を愚かだと非難したことではありません。事情を知っていたとしても、やはり同じ発言に至ったでしょう」
エリシェヴァは後部甲板の最後部で足を止め、追いかけてきたエヴァンジェリンに背を向けたまま、独り言のように喋り始めた。
「ですが、たとえ結論が同じだったとしても、過程が違えば価値も変わります。実情を知りもせずに妄言を吐き散らしておきながら、結果論で開き直るなど言語道断。過去の自分を引っ叩きたいくらいですわ」
「ほんとに真面目だなぁ、エリちゃんは」
「これが普通です。世の中には不真面目な方が多すぎるだけで……エリちゃん!?」
想定外すぎる呼ばれ方をされ、エリシェヴァは声を上擦らせて振り返った。
「どうして今の流れで、わたくしの扱いが軽くなるんですの!」
「え? 軽くなんてなってないよ?」
「敬意とかそういうものが根こそぎ消し飛んだように聞こえたのですけど!?」
唐突なエリちゃん呼びの衝撃があまりにも強すぎたのだろう。
エリシェヴァは格式張った雰囲気をかなぐり捨て、純白の翼を威嚇するように広げながら、年相応の少女らしい豊かな表情を露わにした。
赤い夕日に照らされた後方甲板で、二人の少女がやかましく言葉を交わし合う。
片方は楽しそうに微笑み、もう片方は形だけの怒りを見せつけて。
もしもこの場に他の誰かがいたとしたら、きっと微笑ましい光景だと思うに違いない。
「……ねぇ、エリちゃん。私……」
だが――凄まじい轟音と衝撃が全てを塗り潰した。
まるで隕石のような速度で飛来した『何か』が、後方甲板の中央に直撃して破片と粉塵を撒き散らす。
二人の天使は悲鳴を上げる余裕すらなく、お互いを庇い合うように体勢を崩し、甲板の縁を囲む手すりに倒れ込んだ。
「天使が二匹――好都合だ。探す手間が省けた」
風に流されて薄れていく粉塵の奥から、漆黒の衣に身を包んだ人影が現れる。
黒騎士ウルフラム。
アヤを殺害すると予言され、レイヴンが交戦を避けるべく奮闘していた男。
それが今、エヴァンジェリンとエリシェヴァの前に立ち塞がっていた。
「な、何ですの!? あれは一体……」
「駄目! 下がって!」
怯え竦むエリシェヴァを庇うように、エヴァンジェリンは両腕と両翼を大きく広げた。
ウルフラムが船体を砕く勢いで着地した場所は、ちょうど後方甲板の中央付近。
対する二人は後方甲板の最後部、欄干に翼が触れるほどのところにいる。
艦内への最短経路は塞がれた。もはや袋の鼠も同然だ。
エヴァンジェリンは恐怖に震える体を必死に抑え込みながら、窮地を逃れる手段を探して周囲を見渡した。
「エリちゃん。精霊とは契約してる?」
「……ケラウノスの守護精霊と……ですが、わたくしに扱える力はほんの少しで……」
「だったら契約できてない私より強いね。ひょっとしたら、エリちゃんだけだったら逃げられるかも」
「い、いけません! 何を考えているのですか!」
ウルフラムが精霊武器の大剣を手元に出現させ、肩に担ぐような構えを取る。
その瞬間、艦内に通じる扉が勢いよく開け放たれた。
「お嬢様! ご無事ですか!」
飛び出してきたのは聖騎士ローエングリン。
「はぁっ、ひぃっ……ま、間に合っ……げほっ!」
更にサーシが酷く息を切らしながら、ローエングリンの後に続いて甲板に転がり出た。
「サーシ! どうして!?」
「ローエングリン! 何故ここが!」
声を揃えて驚くエヴァンジェリンとエリシェヴァ。
二人には知り得ないことだったが、船室前での一件の後、サーシは二人のことが心配になって後を追いかけていた。
その途中でエリシェヴァを探していたローエングリンと鉢合わせ、甲板に向かっていた途中に凄まじい衝撃が巻き起こり、只事ではないと直感して全速力で駆けつけたのだ。
「ウルフラム! 貴様ッ!」
即座に斬りかかったローエングリンの長剣を、ウルフラムの前腕が容易く受け止める。
防御とはとても呼べない乱雑な対応。
斬撃で損耗した霊力防壁も瞬く間に復元し、肉体はおろか服にすら傷一つ刻まれることはなかった。
「ローエングリンか。相変わらず、天使の小娘風情に執心だと見える。デウスクーラトにそこまで媚びを売る価値があるとは思えんがな」
「霊力防壁の高速再生……貴様の契約精霊には不可能なはず。さては邪竜に平伏して新たな力を恵んでもらったな? 裏切り者には似合いの醜態だ!」
互いの挑発を皮切りに壮絶な剣戟が繰り広げられる。
ウルフラムは依然として防御の構えすら取らず、霊力防壁の不可解な高速回復に物を言わせた猛攻に徹し、ローエングリンを防戦一方に追い込んでいく。
しかしローエングリンも只者ではなく、大剣を的確に防ぎ止めて霊力防壁の損耗を最小限に留めながら、的確な反撃を繰り出していた。
「エ、エヴァンジェリン! 早くこっちに……!」
二人の男が死闘を繰り広げる横で、サーシがエヴァンジェリンに脱出を促す。
後方甲板の中央には剣戟の嵐が吹き荒れているが、今なら甲板の縁に沿って迂回すれば艦内に逃げ込むことができる。
エヴァンジェリンとエリシェヴァもすぐにそれを理解し、意を決して走り出した。
だが、その直後――二人を待つサーシの背後に、どこからともなく一匹の有翼のトカゲが舞い降りた。
『やっぱり情報源はテメェか、ネクロマンサー。作戦が筒抜けだったのも当然だぜ』
「――――っ! 来ちゃ駄目! 止まって!」
サーシの叫びがエヴァンジェリンに届いたその瞬間、有翼のトカゲが爆発的に体積を増大させ、凄まじい風圧でサーシを吹き飛ばした。
「かはっ……」
「サーシ!」
甲板にバウンドして転がったサーシに、エヴァンジェリンが顔色を変えて駆け寄る。
爆風の発生源を見上げれば、そこにはもはや有翼のトカゲの姿はなく――小型飛空艇にも匹敵する体躯のドラゴンが鎮座していた。
エヴァンジェリンの腕の中で、致命的なダメージを肩代わりしたサーシの霊力防壁が、跡形もなく弾けて消える。
そして軽減しきれなかった衝撃はサーシの肉体に打撃を与え、青ざめた顔を鈍い苦痛に歪めさせていた。
『意味が分からねぇな。俺達を裏切ってもテメェに利益はないはずだろ』
地鳴りのような唸り声が軽薄な口調で嘲笑う。
圧倒的な存在を毅然と睨みつけるエヴァンジェリン。
しかしエリシェヴァは恐怖に身を竦ませ、その場に力なくへたり込んでしまった。
「エリシェヴァ様!」
ローエングリンの注意がエリシェヴァに向けられた刹那、ウルフラムの大剣が袈裟懸けに叩き込まれる。
打ち砕かれる霊力防壁。
撒き散らされる血飛沫。
豪剣の直撃を浴びたローエングリンが崩れ落ちる。
ウルフラムはそれに一瞥をくれることもせず、踵を返してエヴァンジェリンとエリシェヴァに歩みを向けた。
「下がれ」
『へいへい』
ドラゴンはウルフラムから必要最小限の指示を受け、飛空艇グラティアの後方甲板を離れて周囲を旋回飛行し始めた。
もしもエヴァンジェリンが天使の翼で空に逃れようとしたとしても、たちどころにあのドラゴンの餌食となってしまうことだろう。
「エリシェヴァ・デウスクーラト。貴様には一緒に来てもらおう。天使の小娘の一匹や二匹、殺したところで大した利益はないが、神器を差し出させる交換材料としては上等だ」
ウルフラムは絶望に沈むエリシェヴァに冷徹な目を向け、それからエヴァンジェリンに視線を移した。
「だが、エヴァンジェリン・ルクスデイ。貴様にはここで……ほう?」
ここに来て初めて、ウルフラムの鉄面皮に感情の欠片のようなものが浮かぶ。
エヴァンジェリンは恐れることなく立ち上がり、ウルフラムと真正面から対峙していた。
精霊との契約を結んでおらず、霊力防壁の加護すら持たないエヴァンジェリンには、ウルフラムの大剣の一撃を耐えることはできない。
だがそれでも、エヴァンジェリンの心は折れていなかった。
そしてサーシもまた、苦痛に苛まれた体に鞭を打ち、エヴァンジェリンの傍へと這い寄ろうとしていた。
「理解に苦しむな。貴様も死霊術師も、戦ったところで勝ち目はないと分かりきっているだろう。なぜ裏切る。なぜ抗う。苦痛を長引かせるだけだろうに」
「……本当に分からないの?」
エヴァンジェリンはアヤ譲りの不敵な笑みを浮かべ、目の前の圧倒的強者に心の底からの啖呵を切った。
「友達だから! サーシも! エリちゃんも! 他に理由なんか要らない! そうでしょう、アヤ!」
艦内に繋がる扉が内側から吹き飛ばされ、一条の雷光が――稲妻を身に纏った聖騎士アヤがウルフラムへ一直線に襲いかかる。
迎撃のために振り抜かれた大剣と、アヤの精霊武器の長剣が正面からぶつかり合い、轟音と閃光を撒き散らす。
「ええ! 命を懸けるにゃ充分ね!」
「あの抵抗は時間稼ぎのつもりだったか。無意味なことを……殺せ、トゥバン」
ウルフラムが命じた瞬間、頭上を旋回していたドラゴンが急降下し、エヴァンジェリン目掛けて鋭い鉤爪を振り下ろした。
「『ベイルアウト』!」
瞬間、エヴァンジェリンとエリシェヴァ、そしてサーシとローエングリンの姿が掻き消え、空間を飛び越えて扉の前へと引き寄せられた。
「貴様……!」
「レイヴンさん!」
「間に合ったみたいだな。ったく、想定外にも程があるっての!」
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