第六章 残骸漂う暗礁空域

第一話 シップレック・ベルトの只中へ

 エリシェヴァの一行を乗せて、飛空艇グラティアはベガ島の港を飛び立った。


 新たな目的地は南東のアクィラ空域。


 飛行距離は元々の目的地であるヘラクレス空域と大差ないが、途中で無数の飛空艇の残骸が漂う暗礁空域――シップレック・ベルトを通過しなければならない。


 普通、ここを通過する民間の飛空艇は、残骸が比較的少ないルートを選ぶ。


 つまり、数え切れないくらいの飛空艇が、残骸を警戒した鈍行で、狭い範囲に集まって行列を作るわけだ。


 神器を狙った襲撃があるとすれば、誰がどう考えてもこのタイミングだろう。


 だから俺達は、あえて安全なルートを回避し、民間船が通らないハイリスクなルートを選ぶことにした。


 もちろん危険は承知の上だ。


 エリシェヴァが用意した護衛は一流ばかりだろうし、グラティアは飛空艇本体も人工精霊の方もハイスペックなので、残骸だらけの空路も怖くないだろうと考えたのだが……さすがに見積もりが甘すぎたかもしれない。


「ヤバいヤバい! 左舷から大型艦の残骸急接近!」


 ブラウニーズの一人の悲鳴じみた声が環境に響く。


 艦橋の外は凄まじい雷雨と暴風の大嵐。


 黒い雲が隙間なく上空を塞ぎ、雷光と雷鳴がほとんど同時に五感を突き抜ける。


「グラティア! 回避急げ!」

「了解、緊急回避」


 船体が大きく傾き、椅子にしがみつかなければ転がり落ちそうな角度がついた状態で、左側面の大窓を巨大な残骸が掠め過ぎていく。


 もしもアレが衝突したとしても、グラティアなら轟沈せずに耐えられるかもしれないが、中にいる俺達は衝撃で悲惨なことになりかねない。


 いくら『入れ物』が堅牢でも『中身』は柔らかい生身なのだから。


 霊力防壁がある契約者はまだマシで、精霊と契約していないエヴァンジェリンや、エリシェヴァが連れてきた従者達にとっては文字通りの死活問題だ。


「ふー……一息入れる暇もないな……」


 艦橋にいない乗員の安全を確認するため、艦長席に座ったまま通信ウィンドウを開く。


「こちら艦橋。特別客室の被害状況は?」

『問題ありません。このまま航行を継続してください』


 ローエングリンが冷静な報告を返してきた。


 その後ろでは、エリシェヴァが興奮した様子で何かをまくし立てている。


『ご覧になりました!? グレイル級の高度な姿勢制御システムが可能とするローリング・マニューバ! 並の飛空艇では間違いなく転覆していたところですわ!』


 ……まぁ、苦情がないなら何よりだ。


 通信先を切り替えて、今度はアヤとエヴァンジェリンの部屋に繋ごうとしたところ、ちょうどそのタイミングで向こうの方から呼び出しが掛かった。


『こちら客室! またとんでもないデカブツが流されてきたわね』

「ああ、正直目を疑ったよ。精霊が大暴れしてそうだな」

『でしょうね。嵐の上級精霊がストレス解消でもしてるんじゃないかしら』


 この世界だと、いわゆる自然現象も偶然の産物とは限らない。


 精霊が暴れた結果ということも普通にありうるのだ。


『私もびっくりしました。すっごく大きな飛空艇なのに、あんな簡単に風で流されちゃうんですね』


 通信ウィンドウに映ったアヤの肩越しに、エヴァンジェリンが素朴な感想を口にする。


『ああ、そりゃあ飛空艇が宙に浮く原理のせいだ』


 それに応えたのは、呼ばれもしていないのに通信に割り込んできたリネットだった。


『大粒の精霊石をコアにした浮遊装置が、空中の霊力に干渉して力場を作る。飛空艇はその力場と干渉する素材で作られてるから、力場に乗っかる形で中に浮かぶ。後はプロペラなり何なりで推力を得て、力場の上を滑るように飛ぶわけだ』

『なるほど、だから風が強いと勝手に動いちゃうのか……あれ? でも残骸なんだよね?』

『浮遊装置は構造が単純で壊れにくいんだよ。だから船自体がぶっ壊れても生きてる場合がほとんどで……』


 本題から逸れた歓談が始まってしまったので、二人の間の通信接続はそのままに、俺の方の通信先だけを切り替える。


 ちなみにリネットがジャストタイミングで通信に割り込めたのは、本人が俺と同じく艦橋に詰めているからだ。


 エヴァンジェリンと雑談をしながらも、リネットの目は油断なく計器に向けられている。


 器用というか何というか。


 飛空艇に関しては俺よりも遥かにベテランなのだと改めて実感させられる。


「……サーシの奴、また応答しないな。グラティア、サーシの様子はどうだ? さっきの衝撃で怪我とかしてないよな?」

「特に問題は見受けられません。降霊術に意識を集中しているようです」

「通信に気付いてないだけか。だったら良いんだけど……」


 サーシは神器強奪事件の対策に力を貸すと言ってくれた。


 そのための準備に没頭しているというなら、無理に通信を繋いで集中の邪魔をするべきではないだろう。


「艦長! 前方にでっかい雷雲! ちょっとした島並の大きさだ! グラティアなら突破できると思うけど、突っ込みます!?」

「グラティアが平気でも後続は無理だ! 迂回ルートを!」

「了解っ!」


 前方を塞ぐ真っ黒な雲の壁を避けるため、グラティアが急激に旋回する。


 今回の旅はグラティア一隻だけの航行ではない。


 エリシェヴァと神器を遠巻きに護衛するため、デウスクーラト家の私兵が民間船に成り済まして追いかけてきている。


 しかし、天使の私兵だと悟られてはいけない都合上、彼らの飛空艇は民間船にしては高性能といった程度の代物でしかない。


 当然、この嵐の中をグラティアと同じように飛ぶことはできず、現時点でもかなりの距離が開いてしまっていた。


「グラティア。暴風域を抜けたら一旦速度を落としてくれ。後ろの連中と合流しよう。できれば偶然を装いたいところだけど……」

「善処いたします。推進装置のシステムチェックを装いましょう」


 右手の大窓に閃光が走る。あの巨大な雷雲から吐き出された稲妻だ。


 雷の精霊の姿でも見えやしないかと、何気なく目を凝らしてみたものの、視界に映るのは暗い空と不規則な雷光だけ。


 空を渡るには最悪の天候だが、逆に空賊達も出港を諦めてくれるかもしれない。


(……ウルフラムが相手じゃ、望み薄だけどな)


 楽観的な予想は一旦忘れることにして、とにかく嵐を切り抜けることに意識を傾ける。


 やがて風雨は勢いを失い、台風の目に入ったかのような穏やかさが唐突に訪れた。


「嵐の裂け目です。日射量は良好、降水量はごく微小。風速もさほどではありません。しばらくの間はこの天候が続くと思われます」


 グラティアが落ち着いた声で現状を報告する。


 艦橋に弛緩した空気が流れ始めたところで、暗号化された長距離通信のアラームが鳴り、大枠のウィンドウが艦長席の手前に表示された。


 映像はノイズまみれで、とてもじゃないが見られたものではなかったが、声だけはちゃんと聞き取ることができそうだ。


『――こちら巡洋艦ロワゾーブルー、ハルシオンだ。レイヴン艦長、聞こえるか?』

「ああ、聞こえてるよ。ついさっき嵐の裂け目に入ったところだ」

『そうか。だから通信が回復したんだな。さっそくで悪いが、こちらの状況を手短に報告させてもらう。エリシェヴァ様は同席なさっていないだろうな?』

「もちろん。約束通り部屋で大人しくしてもらってるよ」


ハルシオンはエリシェヴァに内緒で作戦に随行している。


 なので、ハルシオンからの連絡を聞かれないように配慮する必要があった。


『我々の現在位置は、君達から見て北方、いわゆる通常ルートの付近だ。予想通り、こちらは神器狙いの空賊だらけになっている。とはいえ、ここは天使のお膝元のキグナス空域からも程近い。半端な空賊は聖騎士に軒並み蹴散らされている状況だ』

「……そっちにいるのは、普通の空賊だけなのか? 例えばドラゴンが送り込んだ手下とか、そういうのは?」

『それらしい輩は見当たらないな。ここの連中は在野の空賊ばかりと考えていいだろう。邪竜直属の連中は練度が違うから一目で分かる』


 ウルフラムが単純な囮作戦に引っかかるとは思えない。


 だからハルシオンの返答は案の定としか言いようのないものだったが、実際に聞かされると落胆を感じずにはいられなかった。


 あいつも囮に騙されてくれていたら、どんなによかっただろうか。


『ここの空賊がそちらに気付いて狙いを変える可能性を考慮していたが、どうやらその心配はなさそうだ。我々もそちらの援護に回ろう。エリシェヴァ様の手前、あからさまに合流するわけにはいかないが』


 それから俺はこちらの状況をハルシオンに説明し、合流までの大まかな手筈を確認して通信を切った。


 デウスクーラト家の私兵の飛空艇が追いつくのも待たなければならないので、しばらくはこの嵐の裂け目で待機しておくことになりそうだ。


「なぁレイヴン。ちょうどいいから休憩でも入れたらどうだ?」


 リネットが椅子を回して俺の方に振り返る。


「まだまだ折り返し地点すら先なんだから、休めるうちに休んどこうぜ。そういや姫様んとこのメイドが、ケーキ持って来たから食べてくれって言ってたぞ」

「姫様っていうと……エリシェヴァか。差し入れとか意外に気が利くんだな」


 なるほど、せっかくの好意だ。ありがたく頂かせてもらうとしよう。


 館内放送で皆にも休息を取るよう伝えてから、艦橋を出て食堂へ移動する。


 夕食の時間まではまだ余裕があるので、きっと食堂には誰もいないはずだ……と思っていたのだが、そこには予想外の先客がいた。


 日本人がイメージする新鮮なフルーツとクリームがたっぷりのケーキではなく、酒漬けのドライフルーツとスパイスと蒸留酒を練り込んだ、航海向けの長期保存可能なパサパサしたパウンドケーキ。


 それを一切れ口に咥えたアヤと、バッチリ目が合ってしまった。

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