第二話 羊の川を越えた先
セレスティアル・ファンタジーの作中に登場する固有名詞は、設定上は独自の異世界言語ということになっているが、実際は普通の英語やギリシャ神話などの用語が使われている。
空域は現実に存在する星座の名前。
浮遊島はその星座にある星の名前。
そしてこのシェパード島は、アラビア語で『羊飼い』という意味の星が元ネタになっているのだが――俺達は島に到着して早々に、名前の由来をまざまざと見せつけられることになってしまった。
「……これ、いつになったら途切れるわけ?」
アヤが腕を組んで苛立ち紛れに呟く。
色鮮やかな草原と丘陵が広がるシェパード島。
グラティアを島の縁に停泊させ、島最大の集落を目指して移動を始めた矢先、俺達の進行方向を羊の群れが横切り始めた。
日没が近いので、放牧していた羊を帰宅させている最中なのだろう。
羊の群れはまるで白い大河のようで、いくら待っても途切れる様子がない。
(こういう風景、外国のニュースで見たことあるな)
俺はすっかり観光客気分になっていて、エヴァンジェリンも羊の川を興味深そうに見つめていたが、アヤはそろそろ我慢できなくなってきたようだ。
俺達から離れて羊の群れに近付き、群れの対岸にいる羊飼いに大きな声で呼びかける。
「ちょっと! いつまで待ってたらいいのよ!」
「おやまぁ、旅人さんかい。すまんね、もうちょっと待っててくれ」
「それがいつまでって聞いて……のわっ!?」
羊の群れが少しばかり幅を広げた拍子に、アヤは羊毛の濁流に飲み込まれ、そのまま下流へと押し流されてしまった。
「離れなさいっての! このっ!」
アヤは羊を威嚇して追い払おうと思ったのか、微量の電撃を周囲に撒き散らした。
しかしアヤの電撃は羊毛の大河に拡散して消えてしまい、羊達も変わらずマイペースに歩き続けていく。
「……は? 何これ、全っ然堪えてないんですけど!?」
「あー、駄目駄目! この子らはねぇ、天使様の衣に使う特別な品種なんだ! 精霊様の御力が宿った教会御用達って奴だよ! 半端な精霊術じゃ弾かれちまう!」
「はぁ!? なんてモン育ててんの!」
そんなことを言っている間に、もこもこした天然の羊毛の間から、ふわふわした不定形の霊力が滲み出て、アヤの体にまとわりつき始めた。
多分あれは羊に宿った下級精霊だ。
あの段階の精霊なら、まだ自我なんかは芽生えていないはずなので、アヤを捕まえようという意図があるわけではない。
ただ単に、ぬかるみに足を取られて動けなくなったのと似たようなものである。
「ええい、鬱陶しい! こうなったら本気で一発……」
「アヤー! それはダメだってー!」
エヴァンジェリンが慌てて駆け寄って、羊の群れに身を乗り出してアヤに手を伸ばす。
しかし不用意に近付いたのがまずかったのか、エヴァンジェリンも精霊に引っ張り込まれ、あえなく羊毛の海に飲み込まれてしまった。
「きゃーっ!」
「何やってんの!?」
見事なまでに、ミイラ取りが何とやらだ。
アヤとエヴァンジェリンが、こんな風にくだらないことで騒いでいられるのも、プロローグで待ち受けていた死の運命を回避できたからこそ。
その実感と喜びが胸の奥底から湧き上がってきて、思わず口角が上がってしまう。
「……って、見送っちゃ駄目だろ。ベイルアウト」
二人の姿が羊の群れの中から消え失せ、俺の目の前にどさりと落ちる。
「どうだった?」
「はぁ、はぁ……ふわふわだのもこもこだの、そんなの幻想だって思い知らされたわ……ガチガチでゴワゴワよ……」
アヤは尻もちを突いた状態からおもむろに立ち上がり、臀部に付いた土と砂を不機嫌そうにはたき落とした。
「そりゃ生羊毛だしな。エヴァンジェリン、そっちは大丈夫か?」
「は、はい……」
エヴァンジェリンの方はうつ伏せのまま地面に倒れていて、目でも回ったのかふらふらと起き上がる。
しかしその拍子に外套がずれ落ち、隠していた背中の翼が露わになった。
「エヴァ! 背中!」
「えっ? ……あわわっ!」
後ろに手をやって翼を隠そうとするエヴァンジェリン。
しかし時既に遅く、羊飼いの男に翼をバッチリと目撃されてしまっていた。
「なんとまぁ! 天使様だったのか!」
まだ途切れない羊の群れの対岸から、羊飼いの男が声を張り上げる。
大騒ぎ待ったなしの状況だが、考えようによってはむしろ好都合かもしれない。
こんなに小さな島なのだ。
天使が暮らしていることくらい、全ての住民が知っていてもおかしくないだろう。
「もしやお忍びか何かで? いやぁ、珍しいこともあるもんだ! よろしければウチの村に来てくださいませんか! 村を上げて歓迎いたします!」
「お、お気持ちは嬉しいんですけど、時間の余裕があんまりなくって……って、そうだ! この島に天使がいるって話、聞いたことありませんか! 私と似てるはずなんですけど!」
エヴァンジェリンは正体を知られた動揺を一瞬で投げ捨てると、翼を羽ばたかせて羊の群れを軽々飛び越えて、目の色を変えて羊飼いの男に詰め寄った。
「ええと、もしかして、セラフィナ様のことでしょうか」
「……っ! そ、そうです! 姉さんはどこにいるんですか!?」
羊飼いの男はエヴァンジェリンの勢いにたじろぎながらも、望まれた通りの――しかし期待通りには程遠い答えを口にした。
「そうですか、セラフィナ様の妹君で……その、大変申し上げにくいんですがね? セラフィナ様は、もうこの島にはいらっしゃらないんですよ」
「えっ……」
「つい先月のことでしたよ。理由までは存じませんが、あのお優しいセラフィナ様のことだ、きっと何か事情があったんでしょうね」
エヴァンジェリンの後ろ姿から、急速に興奮と喜びが薄れていくのが見て取れる。
俺にとっては最初から分かりきっていたことでも、彼女にとっては予想もできなかった一言だったに違いなかった。
「おっと、そうだ! ウチの村長が、セラフィナ様のお手紙をお預かりしていたはずです! 妹さんに宛てた手紙に違いありませんよ! ……というわけで、是非ともウチの村に! 村を挙げて大歓迎しますよ!」
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