第二章 平和な羊飼いの島

第一話 達成の喜びと今後の不安

 デラミン島の港から逃げ出してすぐに、俺はアヤとエヴァンジェリンを飛空艇グラティアの中に招き入れた。


 追手を振り切るために全速前進で飛行するグラティアの甲板は、まるで台風の真っ只中のような暴風が吹き荒れていて、とてもじゃないが落ち着いて話ができる場所ではない。


 甲板に通じる廊下の扉を閉め、ようやく一息入れられるようになったところで、心の底からの高揚感が湧き上がってくる。


 ああ――こんなに嬉しいことが世の中にあるなんて、夢にも思わなかった。


 これが事故で命を落とす一瞬の間に見た夢だったとしても、きっと安らかに逝くことができるかもしれない――そんな風に思えてしまうくらいだった。


「そ、その、レイヴンさん! ありがとうございます!」


 エヴァンジェリンが綺麗な金髪の頭を勢いよく下げる。


 まだまだ興奮が覚めきっていないのだろう。


 白い翼を思いっきり広げ、先端が廊下の壁に触れているのもまるで気にしていない。


「それと、本当にごめんなさい! 私が天使だっていうことは、本当なら最初に伝えておくべきだったのに……こんなのレイヴンさんを騙して巻き込んだようなものですよね」

「いや、それでも依頼は受けたかな。むしろ天使直々の依頼ってことで、余計に張り切ってたかもだ」


 行き場のない罪悪感が湧き上がってくる。


 騙しているのはむしろ俺の方だ。


 あの港で襲撃が起こるということだけでなく、これから先に何が待っているのかも全て把握しているくせに、何も知らない一般人をぬけぬけと演じているのだから。


「……っと、天使様にこんな喋り方は拙いかな」

「えっ……いえ! 是非そのままで! 私、天使様とかそういう扱いされるの、慣れてなくって、全然しっくり来ないんです!」


 嬉しそうに翼をはためかせるエヴァンジェリン。


 原作のエヴァンジェリンも、天使として特別扱いされることを苦手にしていた。


 その理由も含めた詳しい事情は、今はまだ話題に出さなくてもいいだろう。


 必要になればアヤとエヴァンジェリンの方から切り出してくれるはずだ。


「助けてもらったことは感謝するわ。それはそれとして、幾つか訊いておきたいことがあるんだけど、構わないかしら」


 アヤが前に進み出て、俺とエヴァンジェリンの間に立つ。


 その顔には露骨な警戒心が滲んでいて、率直な笑顔を浮かべているエヴァンジェリンとは対照的だった。


「こんな飛空艇、フリーランスの運び屋が使える代物じゃないでしょう? 規格外にも程があるわ。一体どういうこと?」


 アヤの反応は計画を立てた時点で想定内だ。


 イメージ通りのシチュエーションに、口元が緩むのを抑えきれない。


 むしろここで俺を疑わない方がアヤらしくない。


 何の警戒もなく感謝なんかされてしまったら、逆に落胆していたところである。


「偶然見つけたんだよ。幽霊船みたいに雲海を漂ってたのをたまたまね。信じられないかもしれないけど、本当にそうとしか言いようがないんだ」


 ひとりでに緩む頬を引き締めて、何とか自然な声色を絞り出す。


「俺みたいな個人経営の運び屋にしてみたら、他の空域まで飛んでいける大型艦は憧れの的だからさ。知り合いのメカニックに修理してもらおうかと思ってたところで、今回の依頼が飛び込んできたってわけなんだけど……これで納得してもらえるかな」

「自分が同じ説明されて、はいそうですかって信じられる? まったく……」


 アヤはしばらく黙り込み、諦めたように長く息を吐いた。


「……でもまぁ、嘘ならもっとマシな理由をでっち上げてるか……いいわ、今はそういうことにしておきましょう。とりあえず、他の仲間からも話を聞かせてもらえるかしら」

「仲間?」

「この船のクルーに決まってるじゃない。会わせてくれるんでしょ?」

「あー……何ていうか、実は……いや、さすがに直接見てもらった方が早いな」


 通路の奥の扉を開けて、アヤとエヴァンジェリンを艦橋に招き入れる。


 三方向が大きなガラス張りの窓になった艦橋には、大空の光が惜しげもなく注ぎ込んできており、最初に見たときの廃墟感はいくらか薄れているようだった。


「わあっ!」


 エヴァンジェリンが艦橋の正面側の窓に駆け寄って、ガラスの向こうの大空に無邪気な眼差しを向ける。


 対するアヤは愕然と目を剥き、信じられないものを見たかのように肩を震わせていた。


 単に凄いものを見て驚いたというわけではなく、強いて言うなら、幽霊を目撃してしまって我が目を疑っている、とでも表現した方が近いリアクションだ。

「ここが艦橋なんですね! 初めて入れてもらいました!」

「……ちょっと待ちなさい。どういうことなの、これは」


 アヤは俺の腕を掴んでエヴァンジェリンから引き離すと、そのまま肩を組むように頬を近付け、眉をひそめながら顔を覗き込んできた。


 近い。可愛い。柔らかい。温かい。


 シチュエーション自体は逃げられないようにしたうえでの尋問だったが、完全に邪な理由でそれどころではなくなってしまう。


「まさかとは思うけど、一人でこいつを飛ばしてるとか言うんじゃないでしょうね」

「ちょ……おま……」

「さっきの通信の女もいるんでしょう? 後ろめたいことがないなら……」

『コミュニケーション端末の利用申請を受理します』


 俺をがっしりと捕まえたままのアヤの背後に、白尽くめの少女の姿をした戦艦グラティアの精霊が、本当に幽霊か何かのような唐突さで姿を現す。


「ぎゃあっ!?」

「うわっ!」


 アヤが驚きのあまり飛び退き、勢い余って足場を踏み外しそうになったので、とっさに腕を背中に回して受け止めた。


 可愛げのない悲鳴が逆にイメージ通りだとか、触れた背中が意外と細くて軽かったなとか、色んな感情を懸命に飲み込んで黙り込む。


 今そういうのを意識してしまったら色々と台無しだ。


「本艦はグレイル級巡航飛空艇二番艦、グラティアです。御客人の乗艦を歓迎いたします」

「え、ひょっとして精霊さん?」


 エヴァンジェリンは大きな目を瞬かせて、グラティアに顔を近付けた。


「霊力の感じは精霊と同じ……でも何となく違うような……?」

「御賢察です、天使様。この体は対人コミュニケーション用の精霊体、いわゆる人工精霊と呼ばれる存在です。自然精霊とは霊力構成が一部異なりますので、その違和感はこれに由来するものでしょう」

「ほへー、なるほどー……ひゃわっ!?」

「グレイル級ですって!? 天竜戦争の時代の遺物じゃない! どうなってんの!」


 アヤが飛び跳ねるような勢いで俺の腕を離れ、よく分かっていない様子のエヴァンジェリンの隣に体をねじ込んだ。


 荒々しく詰め寄るアヤに、グラティアは表情一つ変えることなく対応する。


「本艦は天竜戦争末期に大破し、機能停止状態で長らく漂流状態にありました。それを発見し再起動なさったのが、そちらにおられるレイヴン艦長です」

「天竜戦争末期って……どんだけ大昔だと思ってんのよ……」

「ねぇねぇ、アヤ? グレイル級って?」


 エヴァンジェリンはアヤに肩を寄せながら、白い翼で器用にアヤを抱き寄せた。


 後ろにいる俺からだと、ちょうどアヤの背中がすっかり覆い隠された形になっていて、場違いな微笑ましさを感じてしまう。


「天使が教会のお飾りになる前に作られた最新鋭艦よ。天竜戦争の時代の最新技術だから、今の人間が作ったどの飛空艇よりも高性能でしょうね」

「そんなに!?」

「ええ、そんなに。霊力ジェットは聖騎士団の技術部門でも試作段階だし、人工精霊に至っては最初の一歩すら踏み出せちゃいない。規格外にも程があるわ」


 遠い昔、この世界は空の彼方の天界からやってきた天使と、雲海の下の未知なる領域から現れた邪竜によって支配されていた。


 天使と邪竜は激しく敵対し、気が遠くなるほどの長い間、熾烈な戦いを繰り広げた。


 これがいわゆる『天竜戦争』だ。


 しかしあまりにも激しい戦いの結果、天使と邪竜は共倒れ同然に数を減らし、どちらもこの世界を直接統治できなくなってしまった。


 そういう経緯から、現代の天使はあくまで信仰対象に留まり、実際の政治などは人間や獣人が行うようになったのである。


「本当か知らないけど、武装もとにかく凄まじくて、三隻分の砲撃で浮遊島が砕け散ったとか聞いたわ。正直眉唾だけどね」

「ご期待に添えず申し訳ありません。現在、本艦は全ての武装を喪失しております。火力面では非武装の輸送艦と同等であるとお考えください」

「否定はしないのね……」


 一応、設定上はアヤが説明した通りの性能があったことになっている。


 原作のグラティアも色々な事情で再武装をしていないので、実際のところは俺もよく知らないのだが。


「んー……とりあえず、二人とも。グラティアのことは一旦脇に置いておくとして、シェパード島への護送依頼は継続するってことでいいのか?」

「えっ! ほ、本当にいいんですか?」


 エヴァンジェリンが翼を翻して振り返り、驚きに目を丸くする。


「当たり前だろ。グラティアのスピードなら、何かあっても無事に逃げられると思うしさ」

「あ、ありがとうございます!」


 顔一面に喜びの色を浮かべるエヴァンジェリンに、心がチクリと痛むのを感じる。


 アヤの死亡イベントの回避に精一杯だったから、これまで意識することはなかったが、もう見ないふりをすることはできない。


 シェパード島で姉と再会するというエヴァンジェリンの願いは、本編開始前の旅立ちの時点で既に、失敗に終わることが確定してしまっているのだ。


「ところで、お姉さんが島のどこにいるのかは……」

「ごめんなさい、そこまでは。小さな島だと聞いてたので、聞き込みでもすれば見つかるかなと……うーん、改めて考えると、物凄く成り行き任せでしたね……」

「分からないならしょうがないさ。到着した後のことは到着してから考えよう。グラティア、進路をシェパード島に向けてくれ」


 当たり障りのない振る舞いでエヴァンジェリンに応じながら、心の中に浮かんだ懸念をぐっと飲み込む。


 これからどうするべきなのか――俺もその辺りを考えないといけない頃合いだ。


 あまりにも大急ぎでプロローグに殴り込んだものだから、アヤを助けることができたとして次にどうするか、という点は深く考えることができなかった。


 プロローグの死亡イベントを回避してもなお、この世界が夢と消える様子はない。


 まだ夢が覚めないのだとしたら、あるいはこの世界が本当に現実なのだとしたら、次にどう動くべきなのかは自分で決めるしかないのだろう。


(ちゃんと考えないといけないよな……少なくとも、この仕事が終わるまでには……)

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