第七話 全身全霊の逃走劇

 エヴァンジェリンの種族が天使であることは、俺にとっては周知の事実。


 原作とは少し違う流れではあったが、プロローグの最中に判明することに変わりはない。


 だが、この世界の住人にとっては事情が違った。


「て、天使様だ! 見ろ! 天使様がいらっしゃるぞ!」

「本当だ……どうしてこんなところに?」

「護衛は二人だけ……? そんな馬鹿な! 教会は何をやってるんだ!」

「王国兵! 王国兵はまだか! 邪竜の手先が、天使様を……!」


 遠くから戦いを眺めていた市民達が激しく動揺して騒ぎ出す。


 セレスティアル・ファンタジーの天使は、他の種族とは一線を画した存在だ。


 天使であるというだけで、人間社会やそれに近い種族から尊敬を集め、逆にそれと対立する連中からは命を狙われる。


 ただしエヴァンジェリンの場合は、どうやらそれだけの理由ではないようだが。


「……レイヴンって言ったっけ? エヴァのことは任せたからね。よく知らない奴にエヴァを託すのは、本当に不本意なんだけど」


 アヤが背を向けたまま、精霊武器の剣を地面に突き立てて身を起こす。


 全身を覆う霊力防壁には絶え間なくノイズが走り、ステータスの数値よりも雄弁に限界の近さを物語っている。


 黒尽くめの男が大剣を担いで身を屈め、砲弾を思わせる勢いで瞬く間に距離を詰め――


「早く行きなさい! エヴァに何かあったらブッ殺すからね!」


 ――ああ、これも原作通りの啖呵だ。


 こんな状況だというのに、思い描いた通りのアヤの姿に嬉しさすら感じてしまう。


 だからこそ、逃げるわけにはいかないのだ。


「……嫌だね! お断りだ!」

「はぁっ!?」

「逃げるなら君も一緒だ! アヤ!」


 次の瞬間、俺達と黒尽くめの男の周囲に巨大な影が落ちる。


 塗装の剥げ落ちた鈍色の船体。唸りを上げて光を放つ霊力エンジン。


 日没を背にした飛空艇グラティアが、猛烈な速度で港湾広場に乗り上げ、そのまま石畳の地表を深々と削りながら、俺達めがけて一直線に突っ込んできたのだ。


「――はあああああぁぁぁぁぁっ!?」


 アヤの素っ頓狂な声が響き渡る。


 容赦ない問答無用の直撃コースに、黒衣の男もさすがに足を止めて注意を逸らす。


 その隙に、俺はエヴァンジェリンの腕を握ったままアヤの肩に手を伸ばし、グラティアとの契約で手に入れたスキルの一つを発動させた。


「ベイルアウト!」


 眩い光が俺達を包み込む。


 直後、勢いよく真上に打ち上げられるような感覚が襲いかかったかと思うと、一秒と経たないうちに眩い光が掻き消えて、三人とも飛空艇グラティアの甲板に投げ出される。


「グラティア! 離脱だ! 今すぐに!」

『了解。上昇します』


 港湾の地表に深い爪痕を残したグラティアが、速度を保ったまま浮遊装置の出力を上げ、軽やかに空中へと浮き上がっていく。


「……はははっ! やった! やったぞ!」


 甲板に伏せて急加速の風圧に耐えながら、腹の底から哄笑する。


 作戦は大成功だ。黒尽くめの連中が追撃を仕掛けてくる様子は全くない。


 レベルアップで獲得したスキル『ベイルアウト』は、緊急脱出を意味する名前の通り、近くの仲間を効果範囲内の別の場所に緊急避難させることができる。


 習得レベルは20。

 プレイヤーが戦闘システムに慣れてきた頃に習得できるように調整された、戦術の幅を広げるメカニズム。


 ゲームシステム的には戦闘メンバーを控えと交代させる機能として使われるが、シナリオ中では多種多様な応用が編み出され、何かと便利に活用されているスキルだ。


 襲撃を受けた直後を狙ってグラティアを突入させ、その隙にベイルアウトでグラティアの甲板上に避難する――我ながら清々しいまでの強行突破作戦である。


 グラティアを港に停泊させていたら、先回りをしていたはずの奴らを警戒させて、原作とは違う作戦を取られてしまうかもしれない。


 だからこそ、あのタイミングに全てを賭けた。


(ははは……まだ脚が震えてる。よく本番で足が竦まなかったもんだ)


 アヤとエヴァンジェリンは何が起きたのか全く分かっていない様子で、その場に力なくへたり込んで呆然としている。


 この作戦がうまく行かなかったら、二人のあんな顔は絶対に見られなかった。


 俺は言い知れない満足感を懐きながら、グラティアに一旦この島から離れるよう指示を出したのだった。


◆ ◆ ◆


 ――レイヴン達を乗せた飛空艇グラティアが、空の彼方へ飛び去っていった後、静まり返った港湾広場に瓦礫の崩れる音が響き渡った。


 巨大な飛空艇によって破壊され、掘り返された広場の路面。

 その残骸を力任せに押し退けて、黒尽くめの男が立ち上がる。


 黒い外套はずたずたに破れ、素顔までもが露わになっているが、肉体は全くの無傷。


 全速力の飛空艇に轢かれて瓦礫と掻き混ぜられておきながら、男は文字通り一切のダメージを受けていなかった。


「動くな! 武器を捨てろ!」


 五、六名の官憲が男を遠巻きに取り囲む。


 空港を警備する兵士が遅れ馳せながら到着し、この騒動の原因である男を拘束せんとしているのだ。


 その一人、部隊長と思しき装飾を付けた兵士が、男の顔を見て驚愕に目を見開いた。


「……顔全体に刻み込まれた、斜め十字の大きな傷跡……まさか貴様……!」


 しかし、部隊長の言葉は最後まで発せられずに終わった。


 男がこの場で大剣を一閃させたことで、凄まじい衝撃波が生じて兵士全員を纏めて吹き飛ばしたのである。


「ぐあああっ!?」


 霊力防壁を破壊され、為す術もなく倒れ伏す兵士達。


 男はそれに大した関心も払わず、至って落ち着き払った声色で、レイヴンに倒された部下達に指示を出した。


「撤収だ。別働隊にも伝えろ。作戦は中止、本空域から自力で脱出しろとな」

「は、はい……!」


 転びそうになりながら逃げ出していく獣人達。


 それとほぼ同時に、小型犬ほどの大きさをした有翼のトカゲが、どこからともなく飛んできたかと思うと、信じられないくらいに流暢な人語で喋り始めた。


『よぉよぉ。手酷くやられたみたいだな、ウルフラム」


 ウルフラムと呼ばれたその男は、視線をそちらに動かすこともなく、有翼のトカゲの挑発的な発言に応えた。


「トゥバンか。否定はせん。今回ばかりは『してやられた』と認めるしかあるまい」

『紫電の乙女はそんなに強かったか? せいぜい三つ星程度の戦力評価だと思ったんだが』

「……紫電の乙女だけなら敗北はなかった。想定通りに作戦が進行していれば、少なくとも奴の命は奪えていた。敗因はもう一人の契約者だ」

『もう一人だって? そんな奴、情報網には引っかかってねぇぞ?』

「獣人共の霊力防壁も容易く破壊された。一体につき一発の銃弾だ。貴様、よもや手を抜いていたのではないだろうな」


 人気の失せた港から、ウルフラムは悠然と立ち去っていく。


『馬鹿言え。手抜きなんかするかよ。連中が扱える限界の加護をくれてやったつもりだぜ。んで、どうする? すぐに追撃するか?』

「駄目だ。これ以上は国王軍との衝突も避けられん。当面は次の機会を伺うしかあるまい」


 男は飛空艇グラティアが飛び去っていった方を見上げ、誰にともなく呟いた。


「旧時代の遺物を駆る契約者か……油断ならん相手のようだな……」

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