第一章 三幕 24.花と砂

 ――五月十一日――


 静まった夜、ホープは夜の警備についていた。辺りに敵勢力の影はない。というか遭難者が迷い込んで以来誰も来ない。果たして警備をする価値はあるのかと少し疑問に思ってしまう。


 誰か話し相手が欲しいところだが、生憎最も仲が良いであろうブラッドは明日の朝に備えて休憩中だ。今夜は一人での仕事となる。


 腰が痛え、マジでアレなんだったんだと、隣に誰か居れば喋りたい。その度に一人なんだと思い知らされる。こんなところで孤独感を感じるとは思わなかった。


 初めの衝撃から早くも十日、あれ以降人が殺される瞬間は見ていない。何もない。特に拷問をやることもなければ必要以上に世話をしていることもなく、ほぼ放ったらかしの状態である。以前巡回のときに牢屋の前を通ったが、人質たちの目は死にかけていた。一つだけまだ死んでない所があったが、それも今頃は絶望しているだろう。


 ホープはおもむろに写真を取り出す。名も知らぬ女性。君も抱いた理想の世界を実現するために頑張ってきたんだ。でもたまに思ってしまう。


 もし、君じゃなくて俺が身代わりになっていたらと。


 あのとき、警察が来て、俺は咄嗟に身を隠してしまった。捕まりたくなかったから。警察と面倒事はごめんだった。でも君はそれに抗うように声を強めた。より大きな声で訴え始めた。花のような可憐さと獅子のような勇ましさが同居しており、その姿はさながら、戦場で味方を鼓舞する戦女神のようだった。


 今もその瞬間を鮮明に思い出す。警察が本格的にデモの参加者を鎮圧し始め、周りの人たちが次々と警官に取り押さえられては連行されていく。次第にそれは暴動と発展していった。


 君にも警官の手が迫る。デモを仕切っていた君を守るため、多くの人々がそれを阻止しようと動いた。その中で俺は未だ恐怖に囚われ、動くことができなかった。


 だが遂に、とある警官が君の腕を掴む。そのときの君の表情は、覚悟し切ったとも、まだ抵抗する勇気があるとも見えた。ただそれに奮い立たされ、俺は意を決して動き出した。


 さっきまでの臆病な俺はどこに行ったのかと思うほどの勇敢さだと今でも思う。このデモに参加している時点で顔は割れているんだ。どうせならと俺は君を守ろうとした。自分よりも君が大切だったのだ。俺は君を失いたくないという思いが強まった。


 俺は油断していた警官を殴り飛ばし、君の手を掴んだ。君はとても驚いた表情で俺を見つめた。しかし、その顔は次第に嬉しそうな表情となり、涙が浮かんでいた。


 そのときに気づいた。君も怖かったんだ。君はそれを隠して堪えて、それよりも周りを勇気づけていたのだと。


「にげよう」


 俺はそう告げた。「大丈夫、俺と一緒にどこまでも逃げよう」


 彼女はくしゃっと笑った。


「なにそれ……まるでずっと逃げ続けるみたいじゃん」


「ああそうとも、逃避行だよ」


 冗談混じりの彼女に、さらに真剣になって語る。「もう僕たちは指名手配犯だ。デモ活動やって、警察に歯向かって、俺と来たら警官を殴り飛ばして……だから逃げよう。警察なんてごめんだ。どこまでだって行こう。ずっと一緒に、自由になって地球の果てまで逃げよう」


 こんなのほぼプロポーズに近い。それは承知していた。しかしそんなものに気にしている時間はない。一刻も早くここを抜け出す必要がある。あたりは既に戦場だ。彼女を危険に晒すことなんてできない。例え彼女が反発しようとも俺は君を守るために君と逃げる。


 そして彼女は感動したのか、震えながら切ない笑顔を見せた。涙が頬を伝う。


「はい」


 ひとつ返事をし、彼女は俺の手を取った。


 白い尾を引く球体が転がった。


 途端に周りが白い煙で覆われる。煙が鼻先に触れる。強い刺激が伝わり、思わず咳き込む。痛い、鼻が折れそうだ。


 隣を見る。彼女も同じように苦しんでいる。催涙弾が投下されたのだ


 何も見えない、目を開けることすら叶わない。咳が止まらない。危機感を感じて、彼女を連れて逃げようと手を引いた。


 彼女は引かれるがままに進んだ。しかし俺にも分からなかった。どこが出口なのか、果たしてそれは出口なのか、とにかく必死になって、ガスの少ない方へと歩いた。周りでは苦しみ倒れる人もいたが、それに構っている時間はない。俺は彼女を守るためだけに動いている。その蛮行を彼女がどう思おうともいいさ。彼女が無事であればいいんだ。


 その先がラストリゾートであろうと関係ない。どんな結末でもどんな終着点でも、君が無事であればそれでいいんだ。


 ……なんて、思ってた。


 煙が晴れそうだ。やっとここから抜け出せる。後から治安当局が追ってくるだろうがそんなの構わずとにかく突っ切ろうとか考えていた。


 目の前にいた。


 バリケードを張って、大勢の警官が仁王立ちで俺らの進路を塞ぐ。たくさんの人員輸送車が背後に見え、警官は俺たちの周りを囲んで警棒を構える……詰みだ。


 絶望したように彼女は膝を崩す。その姿を見て警官はすぐさま彼女を取り押さえようとする。最後まで繋がっていた手が離れる。


 俺はその手を再び取り返し、自分の近くに引き寄せる。


「触るな!」


 今までになく大きな声で叫ぶ。それには彼女もびっくりして見上げる。


「ふざけんじゃねえよ! そこまでして止める理由がどこにある! 意見を言ってることの何が悪い! そんなことしてるから新しい声が上がり続けて止まらなくなるんだろうが! もっと別の道を探せや馬鹿野郎! 潰すだけでは何も生まれね――」


 後頭部に強い衝撃を受ける。気づいたときには地べたに顔がついており、その意識すら朦朧としていた。萎み行く視界の中では彼女が腕を後ろを取られ、大勢に蹂躙されるように拘束されようとする中、最後まで俺に駆け寄ろうとする姿が映る。悲しみに満ちた表情。くしゃくしゃになった顔。今にも何かを叫びそうでいる。溢れる涙がそれを物語る。しかしその慈愛の手は届くことなく、押し戻されるように彼女は連れ去られる。


 じたばたしながら俺を見た。彼女は最後まで俺を見離さなかった。最後、彼女は何かを叫んだが、俺の耳に届くことはなかった。


 ※


 気づいたときには警官に囲まれ、ベッドの上だった。起きると同時に尋問は始まった。しかしそんなものはどうでもいいと言わんばかりに、担当の人は無気力だった。俺はそこまで重要な人物ではないらしく。とっとと追い出された。彼女はデモを先導していたため、もう少し時間はかかるのだろうか。でも今はいいさ。また解放されたら会おうじゃないか。


 その後は居もしない彼女を探し歩いた。しかしニュースを見ても釈放の噂は聞かない。懲役が決まった話も出ない。意を決してテロリストの元を訪ね、彼女の消息について聞いた。


「あの娘か。死んだらしいな」


 アジュシェニュ残党で内部に潜入している人からなんの躊躇いもなく告げられた。途端に俺の視界は真っ暗になった。狂い暴れる気にもならない。頭の中は人生を悲観するフレーズで埋め尽くされる。


 三日三晩泣き尽くした。いろんな人が俺を励ましに来てくれたこともあった。だが、それでも傷は癒えなかった。


 それからというもの、人生に光はなく、よって希望もない。


 いつもと同じ朝を迎えた。いつもと同じ憂鬱を感じた。何度も何度も繰り返される内少しずつ不快感は積もっていった。


 一度は死のうとも思った。でも彼女の笑顔が頭をよぎり、死ねなかった。きっと彼女は俺が死んだら悲しむだろう。自殺したと言えば怒るだろう。駆け寄ろうとするほど、俺が生きることを望んだから。


 じゃあ俺は君に何ができる? 俺は君にどんな希望を与えることができる? 俺は君の太陽にはなれない。光り輝く君に照らされた一人なのだから、その代わりを務めることはできない……


 そう、思っていた。


 テロの仕事を知り、世の中暴力が全てだと悟った。どんな人がどれだけ人の心を打つ言葉で訴えようとも、暴力はそれらを軽く捻り潰す。銃口を向ければ多くが屈服し、歯向かう奴には死が待ち受ける。まさに死人に口なし。だが、奇跡の生還をした奴は讃えられるだろう。しかし死にかけた痛みは消えず、再び狙われるかもしれない恐怖に身をさらされる日々を送るのだ。俺ならとっくに精神が終わっているだろうな。


 そんな内容を聞いて驚いた。希望は光から生み出されると思っていたが、全てを飲み込む闇から希望が生まれることもあるんだなと。その希望は光とは全く異なる。優しさを受け他の人に伝播していくのは光である。対して闇は全てを飲み込み、選別して淘汰していく。後に残るはその希望を断った者共の亡骸と、それに身を委ねた賞賛者のみである。希望が人を選ぶ。よってソレは必ず人の為の希望となれるのだ。


 それには多くの命が失われ、多くの血が流れる。光に包まれた君は拒むだろうな。そんなことは分かっている。だがそれしか恩返しができないのだ。


「……こんな汚れた俺が、一緒に居れるわけないよな」


 知らずとも涙が流れる。死んだときには隣に座れなくてもいい。二度と君に会えなくたっていい。変わり果てた俺を嫌って突き放そうとも構わない。ただ君の願いは俺が引き継ぐ。俺が君のような人々の希望となって守ってやる。


 それが、生き残らされた俺の贖罪となるのなら。


 最後にホープは写真を抱く。数秒の後にそれをしまい、夜空を見上げた。


 やっぱりとても静かであった。



 ※



 「カイはさ、緊張してる?」


「え……いや、そりゃしてますよ」


 眠れないから話し相手になってくれと頼まれ、カイはプリムラの隣に座ったところだった。「だって、明日が全ての始まりですから。緊張……というより不安でならないです」


「そっか。私と同じだね」


 深呼吸してプリムラは、組んだ脚をさらに引き寄せる。「私も不安だ。そして怖くもある。この作戦ではきっと、命を落とすものが出る。それがもしこの部屋の誰かだったり、助けに来てくれる仲間の誰かだったり、ましてや私だったり……それを想像したくはないけど、想像してしまって怖くなる」


 親しい人たちの死というものの悲しみは嫌というほど体感している。カイはそれを聞いて無言で首を縦に振る。


「想像だけでも怖いのに、現実になってしまったらどうなるのだろう。私は理性を保っていられる自信がない」


「……プリムラさんは、人の死というものを体験したことがありますか?」


「それはあるさ……女性メイジャーというのは、どうも男性とはフィジカル面で大きな差があってな、男性より死ぬ確率は高いから、私も戦場で多くの同僚を失った」


 ここでカイは、プリムラが少しだけ震えていることに気づく。「だが、あくまで同僚の死だった。だから私はまだ、親しい人の死というものを体験したことはない……いや、おばあちゃんの死もあったな。でも戦場で死ぬのと安らかに眠るのは大違いだ」


 その話を聞きながらカイは想像する。もし俺の母が、父が、村のみんなが、惨殺という形ではなく安らかな死という形で見ることができたら、俺とサクラはどれだけ絶望しないで済んだだろうか。


「確かに殺められた人に寄り添うというのは辛いことです。精神も壊れかねません。でもそれを覚悟してこそ臨むべきものではないでしょうか」


「そうだろうね……きっとそうなんだよ。カイはそれに強いからずっと強気でいられるんだろうけど……私は心の整理がつかない」


「人が死ぬのが怖いのなら、死なせないように動くんですよ」


 カイはプリムラの方を見て言う。「死んだらどうしよう。死んで欲しくない。だったら死なせたくない。絶対に死なせないと言う気持ちに変換してみんなを守るために動くんです」


 プリムラはしばし固まる。でもその言葉はしっかり心に届いている。表情は穏やかになり、震えは止まっている。


「死なせないように守る、か……それだと自分が死ぬリスクが高まるな」


「それは致し方ないことです。いいこと言っているように聞こえますけど、本質は自己を犠牲にして他者を守ると言うことですから。そんじょそこらのアニメヒーローと同じです」


「でもその決意ができるのは、本当に強い人たちだけだ。だから私はその選択を選ぶよ。私の命で二人とか五人の命が守られるなら、私が生き残るよりよっぽど幸せに終われそうだし、人を守ってこそメイジャーだ。職務を従順に遂行してやる」


「……なら、明日は俺もそのつもりで戦います。犠牲者を出すわけにはいかない。他の牢の人たちも死なせない。絶対にみんな生かして帰ります」


 そう言うと、カイはおもむろに天井を見上げる。急に静かになった。居ても立っても居られないプリムラが尋ねる。


「何をしてるの?」


「……ああすいません。少し遺言を」


「遺言?」


「はい、いつ死んでもいいように遺言を考えて、誰かに伝えておくんです。気持ちは少し軽くなります」


「何をご冗談を……」


 言いながらプリムラも天井を見上げる。再び無言の状態が続く。


「……あっ」


 プリムラが思わず声を上げてしまう「確かに楽だ。私が死んだらどうして欲しいか考えるだけで、覚悟がぎゅっと決まる」


「そうです。人間いつ死ぬか分からないですし、それくらい覚悟はずっとしていましょう」


「そうだな……でも今回は絶対にみんなで生還したい。それはカイも同じだよな?」


「勿論ですよ。俺も俺とて死ぬつもりは毛頭なく、みんなで生き抜くつもり満々です」


「同じだ。生き残ってくれよ」


「プリムラさんこそです。俺に魔術を教えてくれたのは他ならぬプリムラさん。プリムラさんがいなければ、俺は今も魔術を覚えようと躍起になっていたと思います」


「そう言ってくれると私も鼻が高い……ありがとう。私も君の采配、君の言葉に救われた」


「どっこいどっこいですね」


「ああ全くだ」


 そう言った瞬間、プリムラが小さなあくびをする。「なんとか眠れそうな感覚にはなってきたな。本当にありがとうカイ」


「どういたしまして。折角ですので、最後にちょっと験担ぎというか、まじないみたいなものでもして寝ましょうか」


 そうして二人は前を向き、続いてお互いを見つめる。


「明日は頑張りましょう」


 カイが拳を突き出す。


「験担ぎってこれか……」


「なんか悪いですか。絆や思いの確かめ合いとしてはめっちゃいいものですけど」


「全く悪くない。むしろ私も奮い立たされるな……うん。必ず成功させようか、カイ」


 二人は拳を打ちつけ合った。静かな牢内に、思いと思いがが軽くぶつかっては共鳴し合う。


「私たちならきっと上手くいくさ」


 プリムラはそう穏やかに笑いかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る