「鏡が“上下反転は”しない理由について」
「やあ、後輩くん」
「え、あ、はい」
先輩が右手を上げて出迎える。いつもと違った出迎え方に少し困惑しながらも、僕はそれに応じるように反射的に右手を上げる。
「うんうん、後輩くんは鏡の中の人間ではないようだねえ」
「どういうことですか」
にやにやしながらこちらを見てくる先輩は、いつもと違っていたずらっ子っぽい感じがした。
「後輩くんは私が右手を上げたら、ちゃんと右手を上げ返しただろう」
「ええ、まあ……」
確かに僕は先輩が右手を上げて、それに対して右手を上げて返した。そして、それと鏡の関係性とすれば、なるほど、鏡なら左手を上げていたということか。
「僕は鏡じゃないですよ。だいたい、鏡はただの自然現象ですよ」
鏡は目の前のものを左右反転させて写すというのは常識的に知っている事だ。
「ああ、そうだね。しかしだ、後輩くん、鏡が左右反転はするのに、上下は反転しないのはなんでだと思うかい?」
「えっと、それは……」
先輩は試すように投げてきた言葉に不意を突かれて口ごもる。左右反転している中で、上下だけはそのままなのはどうしてかなど、考えたこともなかった。疑問に思わずに普通に過ごしてきたが、いざ聞かれると確かに上下は反転しないことに何か意味を感じてしまう。実際に上下も反転していたとしたら、
「流石に見づらくなりそうです」
「ぷ、ふはははははは。確かに、確かにそうだな。上下まで逆になったら、見づらいなあ」
「ちょ、そんなに笑わないでくださいよ。わかってますよ、おかしなことだって」
先輩の反応にすこしムッとしたが、普段見れない先輩の姿から居心地は悪くなかった。
「いや、いやいや、おかしいなんてことはないさ。寧ろ素直な感想を言ってくれてありがたいぐらいさ」
まだ少し言葉の端々が震えている。
「そんなに言うなら、そろそろ先輩の考えを教えてくださいよ」
「ふうん、まあ、確かにそうだね」
先輩を纏う空気がいつものものへ変わった。
「鏡の中の人間だがね、彼らはただ目の前の人間を忠実に真似ているだけなんだよ」
「真似?」
「ああ、そもそもの話彼らに左右どころか上下の概念なんてないんだ。そういうのを意識してやっているわけじゃない。ただ、真似ているだけ。例えば、ダンスや体操と言った複雑の動きを真似る時、お手本の人と顔合わせになってやるでしょ。その時にみんなお手本の人の右手の動きは左手で再現する。それが一番真似しやすいからだ。顔合わせで、左右逆にするのが一番やりやすいだろう?」
「確かにそうですね。体育の準備体操の時とか、前の人と顔合わせで左右逆にしますね。逆にそうしないと身体の振りが逆になって浮きますし。……そうか、真似か」
先輩に言われて考えてみると、誰かの真似をするときに相手の動きと近い自分の部分を動かすのはうなずける。そうすると自ずと左右反転した動きになる。鏡のようだ、とは思っていなかったところが鏡と同じような動きをしているものだった。先輩の例や準備体操だったりがわかりやすいところだ。
「上下反転しないのは、鏡の中と外で足と頭の動きが遠くなってしまうし、左右反転も動きのある場所を近くにするという理由で言えたね」
「そうですね。なんだかすっきりしました」
「まあ、これはあくまで鏡の中に人がいる体でのもの。そしてその人の行動理由を説明したに過ぎない」
上下だけ反転しないのに意味があると思ったが、上下が反転しないことだけじゃなくて左右が反転する理由についても説明されたものだった。そう考えれば、鏡に映る人の動きがよくわかる。自分も真似をするときそういう動きをするからだ。
「さて、次だが鏡の中ではなく、鏡自体に性質があるとして考えてみようか」
「え?」
「鏡の話をするとき、人は一枚の姿見で想像しがちだと思う。確かにそれなら左右だけ反転しているのに不思議を感じるかもしれない。しかし、右半身だけを写すようにした鏡を置くとしよう。右半分の前だけに鏡を用意するんだ」
先輩はさも当然かのように話を続けていた。僕はてっきりさっきので今回の話は終わったと思っていたので驚いた。
そして次の話題だが、確かに先輩の言うとおりに鏡の話になったとき僕の目の前にあったのは大木の姿見だった。だから、右半分だけを映す鏡を目の前に想像する。
「すると、鏡には見た目だけなら左半身が映っているように見える。しかしだ、後輩くんが左半身をどんなに動かそうと鏡の左半身には反映はされない。右半身を動かさない限りね」
「そう、ですね」
「逆にだ、左半身を動かして鏡の中の身体がその通りに動いたらどう思う?」
「ちょっと、怖いです」
想像すると身の毛がよだった。鏡の中、そこにあるべきものがなかったり、ないものがあったりしたら、それはホラーである。……今日の夜、鏡を変に意識してしまいそうだ。
「そう、怖いと思うということはそれが異常なことだっていうことだ。そうじゃないのが正解なんだ。だから鏡は右手を動かしたら、左手を動かす。それは不思議なことじゃないし、当たり前のこと。疑問に思うことがおかしいんだよ」
「な、なるほど?」
「あえて言うなら、鏡が皆を怖がらせないようにそうしてくれているのかもね」
そういう先輩の表情はいつの間にか最初の頃に戻っていた。口に手を当て、目を細めている。しかし、この話も実際に怖いのだから異常というのは普通に理解が出来てしまう。
「まあ、これはさっきのものと同じように左右の区別は鏡にはないという風に言うのが優しい言い方なんだろうね」
「なんというか、子供に向けたおとぎ話みたいな雰囲気を感じましたよ」
「じゃあ、最後にもう一つ。本命と言えばいいのかな」
先輩のその言葉に身構える。今までのは先輩にとってはジャブみたいなものだったのか。
「そもそも、鏡は左右反転しているわけじゃない。前後が逆なんだよ。わかりやすく言えば魚拓の直説法だよ。それが鏡の正体さ」
「あの、すみません、魚拓の直説法って?」
「おっと、失礼。魚に直接墨を塗って紙へ移すあれさ。鏡はそれと同じようなものだと考えればいい。直感的にわかりやすいだろ」
鏡は魚拓。確かに、そう言われれば何の疑問もない。僕の魚拓を取ったら鏡の中の僕だろう。もちろん実際の魚拓とは違って、色がある。動きもあるが、それに関しても一瞬一瞬は魚拓だろう。魚拓を目の前にしているのだと考えればなんだか左右反転だとか、上下はそのままとか考える余地もなく思えた。
「確かに、魚拓ですね」
「ああ、そうだろう」
「でも先輩、なんで前の二つは出したんですか?」
鏡についての疑問はすっかりなくなったが、気になっていたことがあった。それは遊び心が入ったような前の二つだ。
「ああ、それはそういう風に考えたら面白そうだろう? 確かに自然現象としての説明はいくらでもできるし、正解と言えば前後が逆になっている、だ」
少し楽しそうに先輩は語る。
「しかしだ、小難しい専門用語を並べられても理解はしづらいだろう。ならばわかりやすいようにその疑問を解消してやればいい。そして疑問の解消だけなら、前の二つのようなものでも構わない。なんなら、本当に鏡の中では左右と上下で意識の違いが明確にある話だって面白いだろう。そういった想像を膨らませた面白い解釈を無理して冷徹に正しい正論で押し潰す必要もないさ」
なんだか先輩らしい気がした。いろいろな考えを許容する先輩らしいと。
「だからこそ、正しい答えを必死に説明する必要もなく感覚で分かりえる最後のが本命ってことさ。とはいえ、前のものも私は好きだけどね」
先輩は本当にいろいろなことを考えている。僕が気にもしていなかったことに対して、何重もの考えを持っていたし、他にもたくさんあるのだろうな。
語らう先輩と後輩 鏡野桜月 @satsukiinyo
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