第26話 別世界
山奥にあるその宿には、電気が通っていない。
灯りはランプだけだし、テレビもラジオもないし、もちろん携帯電話の電波も届かない。
しかし、それがいいらしいのだ。
文明から隔絶されて、ただゆったり時間のすぎるのを待つことこそが、幸福らしいのだ。
よくわからないが、同時になんだか、すごくわかる気もするのだ。
わたしだって、そんなゆったりした幸福を経験してみたくて、冬の只中に件の宿を、友人と二人分、一泊予約した。
電車やバスやタクシーを乗り継いで、最後は小一時間も歩かされてたどり着いたその宿は、想像以上の別世界だった。
時代劇に出てくる旅籠のような、暮れかけた雪山にランプの灯りでぼんやりと浮かぶその様に、友人と二人で息をのんだ。
通された客室は、やはりランプでぼんやりと照らされて、電化製品が一切なくて、物珍しくもあり、懐かしくもあった。
わたしは友人と部屋で寛ぎ、宿の中をうろつき、それを繰り返した。
なにしろあたりは雪山だし、テレビもラジオもないし、携帯電話の電波も届かないので、ほかにやることがないのだ。
退屈に飽かして、お土産売り場の試食を全種類食べて、お煎餅でも買って帰ろうかしらなんて、楽しいような、気持ちがないまぜになった。
夕飯は取り立てて贅沢なものはなかったが、どの料理も丁寧に作られていて、ランプの灯りの中で食べたからか、特別な感じがして、妙に美味しかった。
お風呂は屋根付きの天然露天風呂で、食後の身体が湯温にじわりと溶けていくようで、やはりランプに照らされた湯気が風にたなびいていくのが、とても美しかった。
風呂上がりにはまた部屋で寛ぎ、雪のしんしんと降るのを窓の向こうに見ていたが、時計の針が遅くなるのを感じて、これがゆったりした幸福なのかと、なんとなく思った。
床に就くときには、ランプを消したのだが、あたりに何もないので真っ暗で、月明かりが雪に反射して真っ白で、夢見心地で眠ることが出来た。
貴重な経験をしたと、わたしは思う。
なかなか予約の取れない、人気の宿だというのも、納得できる。
貴重な経験をしたと、わたしは思う。
また予約が取れれば、同じような冬の日に、退屈なような楽しいような、一日を過ごしたいと思う。
「ところであんた、今度の旅行はどうだった?」
「うーん、早くスマホの電波の入るところに帰りたいって思った」
山奥にあるその宿には、電気が通っていない。
明かりはランプだけだし、テレビもラジオもないし、もちろん携帯電話の電波も届かない。
しかし、それがいいのだ。
だから、それでいいのだ。
山奥にあるその宿には、電気が通っていない。
まったく、憎たらしくてかわいい、この現代っ子め。
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