第23話 家猫
我が家には猫がいる。
飼っているわけではない。
ただ、姿は見えないが、時々声がするのだ。
にゃおん――と、どこからともなく聞こえて、そして消えていくのだ。
猫の存在に気付いたのは、引っ越してすぐのことだった。
安月給なりにローンを組んで、郊外に新築の一軒家を購入して、さあ新生活を始めるぞという矢先、にゃおん――と声がした。
はじめは家の近くに、野良猫でも住み着いているのだろうと思ったが、違った。
近くに住んでいる割には、家族の誰も姿を見たことがないし、どうやら鳴き声は家の中から聞こえるのだ。
こうなると、途端に気味が悪くなっている。
我が家は皆猫好きなので、野良猫が住み着いているのだというなら、好意的に受け止められる。
雨風をしのげる屋根を作ってやってもいいし、近所迷惑だというのなら、家族に迎え入れてもやぶさかでない。
しかし件の猫は声だけだ。
家の中の、場所の区別なくどこからとも、にゃおん――と、声だけがするのだ。
こんなものは、とり憑かれていると言っても、過言ではない。
せっかくの新築の一軒家は、猫の亡霊に呪われていたのだ。
建てる途中に一匹の猫を踏み潰したのか、それとも元々猫の墓場だったところに建ててしまったのか、いわく付き物件となってしまった。
真夜中に突然、にゃおん――という声に起こされて、妻や娘が怯えるなんてのはしょっちゅうだ。
引っ越したばかりだが、また引っ越そうという話が出てくるのも、仕方のない事だろう。
妻や娘だけでなく、俺だってもちろん、声だけの猫のことは気味が悪い。
怯えて震えてしまうなんてことはさすがにないが、このさき年寄りになるまでずっと付き合うかと思うと気が滅入る。
しかしとかく新築一軒家というのは金がかかり、ローンだけでなく頭金も払ったので、すぐに引っ越せるかというとそうではない。
生活に余裕ができるまで、しばらく――少なくとも数年は、この家に住まなくてはならない。
そしていくらかの時間が経過した、ある日のこと。
相変わらず、にゃおん――という声に脅えていた我が家に、騒動が起こった。
朝に妻が起きだして、朝食の支度をしようとすると、キッチンで大きなネズミがりんごを齧っていたのだ。
いや、りんごだけでなく、あらゆるものを齧り、生ごみを散乱させ、キッチンはさながら事件現場と化していた。
しかもそのネズミの大きさたるや、ゆうに二十センチはあり、妻の悲鳴で駆け付けた俺は、危うく卒倒しかかった。
それはそうだろう、血と汗のにじむ思いで手に入れた新築一軒家が、猫の亡霊にとり憑かれていたと思ったら、巨大なネズミまで出てしまったのだ。
気を強く持っているほうだと自負しているが、こんな凄惨な事件が起こってしまっては、平凡なサラリーマンの精神が持つと思ったほうが間違いだ。
それからしばらくは、我が家はネズミ退治に追われることになった。
巨大ネズミはどこに巣穴があるのか、夜中にあらわれては、朝には姿を消した。
リビングやらキッチンやら、食べ物やらそれ以外やら、ありとあらゆるものを齧り、散らかし、事件現場へと変えた。
姿を見かけたときは追いかけまわすし、ネズミ捕りも複数仕掛けたのだが、ネズミは賢いのかちっとも捕まることはなかった。
疲弊しきった我が家は、まだ経済的な余裕はないが、もう引っ越してしまおうと、物件情報を探し始めた。
そんな時に、声だけの猫が活躍した。
真夜中に突然、猫のふぎゃー――という声がして、たたき起こされる。
明かりをつけ、普段と違う声に警戒していると、どたばたという、暴れる音まで聞こえはじめる。
やがてしんとして、妻と目配せをして、俺たちは現場を確認しに行く。
二階の寝室から、猫の声と、暴れる音がしたであろう、一階のリビングに下りる。
おなじく猫の声で起こされただろう娘と合流して、手探りで電灯のスイッチを探して、押下する。
果たしてそこには、巨大ネズミの死体があった。
リビングの隅のほうで、仰向けになって、まだぴくぴくと痙攣していた。
俺は目をしばたかせた。
まさか、そういうことなのか?
声だけの猫が、俺たちが手を焼いていると知って、巨大ネズミを退治してくれたのか?
あの聞きなれないふぎゃー――という声も、どたばたという暴れた音も、巨大ネズミを相手に大捕物をしたからだというのか?
「――おまえがやったのか?」
どこにともなく、俺は尋ねる。
「――にゃおん」
どこからともなく、猫の声がする。
その声色からは、どことなく満足げな、誇らしげな気配がする。
それからのことは、言うに及ばない。
我が家はこのまま、郊外の一軒家に住むことにした。
あれだけ怯えていた声だけの猫にも、敵意がないと知ると、むしろ味方なのだと思うと、怖くもなんともなくなった。
今では妻も娘も、声だけの猫に名前を付けて、自分たちから声をかけるようになった。
声だけの猫は、認知されたことに喜んだのか、それとも持ち前の狩猟本能からか、頑張ってくれているらしく、ネズミはおろか、ゴキブリやその他の害虫すらも見かけることはなくなった。
我が家には猫がいる。
飼っているわけではない。
ただ、姿は見えないが、時々声がするのだ。
にゃおん――と、どこからともなく聞こえて、そして消えていくのだ。
ちょっと変わった家族だが、猫にはいろんな種類がいるので、姿の見えないのが一匹くらいいたっていい。
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