【おまけSS】 空の、ある日の休日。

ピンポーンとどこか遠くで音がした。

この音は聞いたことがある音だ……そう……玄関の……。

部屋にはいつの間にか明るい光が差し込み始めていて、空は布団の中に頭をひっこめる。

枕もとのスマホを手探りで探しているうちに、ドカドカと無遠慮な足音が近づいてくる。

ガラリと引き戸が開いて、足音の主は僕の部屋に堂々と入ってきた。

「おーい、まだ寝てんのかよ。昨夜は何時まで起きてたんだ?」

シャーッとカーテンを開ける軽やかな音がする。

「ちょい空気入れ替えるぞ」

カラカラと音がして、窓が開けられたのが分かった。

「ええと……2時……半くらい……?」

記憶を辿りつつ答えながら、僕はようやく見つけたスマホで時間を確認する。

時刻はもう9時を回っていた。

「んじゃ、まー睡眠は足りてんな」

ガタンとかギシッときしむ音は大地がいつもの机にタブレットを置いて椅子に腰かけた音だ。

「ほら、台所から朝飯調達してきたからな。ここ置いとっから、冷めないうちに食えよ」

そう言うと、大地はそれきり黙った。

部屋には大地が線を引く音だけが聞こえる。

サラサラ、シュッシュと素早く何度も引かれる線の音。

今大地はラフとか下絵を描いてるんだろう。

線画を描くとき、色を塗っているとき、大地のタブレットとペンは、その時々で違う音を奏でる。

しばらくその音に耳を澄ましていると、不意に音がやむ。ギシリ。と軋んだのは兄が残していった古い椅子の音だ。

「空ー、二度寝すんなよー。お前、二度寝するとすぐ頭痛くなんだろ?」

なんだ、僕の事を心配したのか。

「ん。もう起きてる」

答えれば、また椅子の音がして、ペンの音が一つ二つと重なる。

「じゃあさっさと飯食えよ。昼が入んなくなるぞ。昼飯は俺に付き合う約束だろ?」

言われて「そうだった」と昨日の約束を思い出す。

もぞもぞと布団から出てくれば、ふんわりと甘い香りがした。

「もういいな」と呟いた大地が立ち上がり、手早く窓を閉める。

僕の机の上にはおにぎりが一つと、玉子焼きとプチトマトとブロッコリーが乗った皿が、箸とお茶を添えて出されていた。

「あ……、玉子焼きだ」

甘い香りの正体は、僕の好きな玉子焼きだった。

「おー。おばさんがいっぱい卵が余ってるって言ってたから、作った」

作ったんだ。土曜の朝から。人の家でわざわざ玉子焼きを。

確かに、僕の母親は近所のスーパーでずっとパートをしていて、時々卵を大量に持って帰ることがあるけど……。

「お前好きだろ? 甘いやつ」

「うん」

答えて、僕は大地が作ってくれた朝食に手を付けた。

おにぎりを食べながら、昨夜調整していた曲のファイルを開く。

ああ、そうだ、ここのバランスがぴったりこなくて、昨夜は散々こっちに振ってたんだ。

今度は別の方法でやってみよう……。


……。


…………。



「おーい、空、聞いてるかー? そろそろ着替えろよ、出かけるぞ」


大地に肩を叩かれて、僕はヘッドホンを外す。

PCの時刻表示をみればもう13時半を過ぎていた。

「俺はもう腹ペコなんだよー」

文句を言うくらいならもう少し早く声をかけてくれればいいだろう。

そうは思ったが、大地が今まで声をかけなかったのは多分、僕のお腹がすくのを待ってたんだろう。

「いやぁ筆が乗っててさ、つい時間を忘れたな。背中バッキバキんなってるわー」

……そうでもないか。

押入れの中の衣装ケースから黒の長袖とデニムという無難そうな組み合わせを引っ張り出して着替え始めると、立ち上がった大地が首を回しながら大きく伸びをした。

178センチの大地が伸びをすると、うちの天井にはべったり手が付いてしまう。

「ま、今から行きゃー混雑してる時間を外せてちょーどいーよなっ」

ニッと笑う大地が閉じたタブレットの画面には、息を吞むほどに繊細な線画が一瞬だけ見えた。

この男は、またあんなにちまちましたのを塗ろうというんだろうか。

一体どれだけの時間と労力をかけるつもりなんだろう。

僕にとってはまるで気の遠くなるような作業を、大地は本当に、よく好んでできるものだと思う。

「しっかし、空はまだこの曲いじってんのか?」

大地が僕のパソコンの画面をのぞいて呟く。

「ほんっとすごいよなぁ。こんなむずかしそーなソフト使ってさ、英語ばっかじゃん」

それは僕が無料のソフトを使ってるからで……、日本語化パッチもあるんだけど、もう慣れちゃってるからそのまま使ってるだけなんだけどね。

「お、着替えたな。ぼちぼち行くぞー」

言われて、上着を羽織るとスマホと財布をポケットに詰め込む。

僕は大地が前から一度行きたいと雑誌でチェックしていたおしゃれなカフェに付き合った。

大地は料理以外に、店内の装飾やら、店員や客の服装まで何やら真剣にチェックしている。

なんでも、一人で行くにはちょっと敷居が高いんだそうだ。

敷居以前に金額が高い。なんでポテト一皿でこんな値段になるんだろう。

僕は財布と相談して、なるべく安く済む組み合わせを選んだ。

大地は奮発して頼んだデザートを全角度から撮影していた。

僕も、店内の選曲は、ちょっといいなと思ったけど。


「空、今日はありがとな」

帰り道、大地に誘われてゲーセンに寄ったら、大地にどでかいポッキーの箱を渡された。

クレーンゲームの景品らしい。こういうの、良くとれるなと思う。

「別に、昼食付き合っただけだろ」

「けどあんだけじゃ足りなかったろ?」


確かに、同じ値段でも、ファストフードや牛丼屋ならお腹いっぱいになっただろう。

僕は大地の差し入れを有難く受け取って、また二人で僕の部屋に戻る。


「陸空ーっ、晩御飯よーっ」

母の声がして、大地が慌てて立ち上がった。

「うをっ、今何時だっ!?」

「19時15分」

「やべっ、俺19時には帰るっつってきたわ」

大地があわあわとタブレットを鞄に詰め込む。

「上のねーちゃんと家族で夕飯食べることになっててさ」

大地には高校生と大学生の姉がいる。

大地の趣味にも、大地の考え方にも多大な影響を与えた二人の姉が。

上のお姉さんはうちの兄と同じく実家を出てるので、今日は土日に珍しく帰省しているということなんだろう。

僕は大地の鞄からポロリと落ちたペンを拾い上げると、玄関に向かう大地の鞄に戻した。

「うわ、それねーとなんもできねーとこだったわ。さんきゅ。空、また明日な。あんま夜更かししねーで早く寝ろよ。肌に悪いぞーっ」

お前は僕の母親か。

そこへ僕の母親まで顔を出す。

「快君またきてね、玉子焼き美味しかったわー。料理ができる男子っていいわねぇ」

「あんなんでよかったら、いつでも作りますよー」

大地が靴を履きながら気安く答える。

「大地もあんまり根詰め過ぎないようにな」

さっき一瞬見えた画面は、あの緻密な線画に半分ほど下地の色が入っていたようだった。

僕が言えば、大地はニッと人懐こい笑顔で「おーよ」と答えて出ていった。


また明日。か。

僕は玄関の置時計に視線をやる。

夕食と風呂を済ませて寝るまでに作業ができるのは、後3時間くらいだろうか。

明日、きっと大地はあの線画の下塗りを全部済ませてくるだろう。

僕も明日にはこの曲を仕上げて、大地に聞かせたい。

感想を聞いて、それから、これに合う画像はどんなのがいいか相談しよう。

僕はそんな風に、ぼんやり明日の事を考えながら食卓へ向かった。

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