六、本性
雅文と松田は誠三を小野寺家から引き離すために策を練らなければならなかったが、意外にもこれは間もなく思いがけない方向から解決した。ある日の午後、突然入った画商の会合で誠三が夜まで留守にすると、加代が使用人たちに告げたのだ。彼はすでに屋敷を立ち、遅くにならないと帰らないとのことで、主人が留守の間も仕事に手を抜かないようにとのお達しだった。
雅文は松田を屋敷に残し、以前と同じように二階の窓から離れに侵入した。切ったガラスはそのままになっており、誠三がいないとあっては必要以上に気を遣うこともなく、以前の半分の時間をかければよかった。
玄関は施錠されていたが、アトリエ自体の扉には鍵はついていなかった。ここまで許しなく立ち入ってくるものはいないと、誠三はタカをくくっていたのだろうか? 何にせよ、雅文には都合がよかった。
今は外出しているとはいえ、誠三はもともとこのアトリエにこもりきりのような生活をしているし、いつ予定が変わるかもしれない。誠三がひとりで先に会合を切り上げてくる可能性すら疑われた。もし誠三が洋館の玄関を開ければ例のベルが音を立てるはずなので事前に察知はできるだろうが、暗くなる前に調査を終え、松田に報告を入れるのが望ましい――暗くなってきても、アトリエの灯りを点けるのは得策とは言えないと雅文は思った。
アトリエには油絵の具の独特なにおいが染みついていた。物置にはなかった大量の画布があったが、そのほとんどが若い女性の姿を描いた絵だった。雅文や松田が想定していたような決定的な絵面とは言えず、物置から持ち出した帳面にあったのと似た構図で描かれたものがほとんどだった。
雅文はときおり窓の外を確認し、念のために窓から姿が見えないよう気をつけながら部屋の中をあちこち探し回った。封を切っていない絵の具の箱が重なり、静物用の胸像やフルーツ籠、不思議な彫刻などが無造作に置かれている。大きな棚も置いてあり、棚顔料の素材となる鉱物や溶剤が並んでいた。
その中に、雅文は錠剤が入った瓶をいくつか見つけた。どれも代わり映えのしない白い錠剤だった。レッテルのデザインや成分はまちまちで、さまざまなメーカーのものが入り混じっていたが、薬の種類はひとつだけ――すべてが睡眠薬だった。どの瓶も封が切られ、半分近く中身がなくなっている。手当たり次第に効き目を確かめたのだろうか? 以前忍び込んだとき、誠三が噛み砕いていたのはどうやらこの薬だったらしいと雅文は見当をつけた。だが、あれは明らかに適切な服用量を超えた摂取の音だった――まさか、あの一度でどれかの瓶の半分を口にしていたのだろうか? ……
「やあ、君だったか」
突如背後から声をかけられ、雅文はぎょっとして振り向いた。何という迂闊だろう! 小野寺誠三が、鷹揚なほほえみを浮かべてそこに立っていた。ドアベルの音はまったくしなかったし、外には気を抜かずに目を配っていたのに、なぜ? 思わず立ちすくんだ雅文から目を逸らさず、誠三は片手で髪を引きずるようにして連れてきた女を彼に見せた。
それは猿ぐつわを噛まされ、縛り上げられた加代だった。その後ろには、両手を手錠で拘束されて青ざめた松田もいる。加代を盾に取られ、どうすることもできなかったのだろう。
「君らは、加代に依頼されたのか? 」
誠三はなめらかに言った。この状況ではありえないような落ち着き払ったその態度は、逆上して怒鳴り散らすよりも恐ろしい印象を見るものに与えた。
「この女はわたしを疑っていたんだ……ずっとね。それこそ、松田君がこの屋敷にやってくる前からだ。わたしが美月を屋敷に引き取ったときから、わたしをあの子に近づけさせないように家事を言いつけたりしてね。実の母親でもないのに、忌々しいくらい勘がよかった」
雅文は屋敷の方へ目をやった――美月と梅の姿は確認できない。誠三は話し続けている。
「加代に留守にすると吹き込めば、必ずネズミが捕まると思った。だからドアベルも音が出ないようにしておいたんだ。そうとも、誰かこの洋館に侵入したものがいるというのには、気づいていたよ。誰なのかまでは分からなかったが、橋本君だったわけだ。君は実によくやった。わたしも、気づけたのは運がよかったからだ――マッチの匂いというのは、存外残るものだよ」
誠三はここまで言って、ふとまじまじと雅文を見た。
「――君は、一体何者かね? あれほど気をつけていたのに、どうやってこの中へ入った? 二階の窓から……とでも言うつもりかね? 」
「二階の窓!? 」
松田が思わずと言った様子で声を上げた。口を塞がれていなかったら、加代も似たような反応をしたかもしれない。だが声を立てられなくとも、目つきは実に雄弁だった。
誠三は彼らの様子を見て、三人が必ずしも互いの事情を知っているわけではないと勘づいたらしい――加代はともかく、刑事である松田が驚いているところを見ると、この〈第二の男〉は探偵を名乗る警察関係者というわけではないのか? そんなふうに考えを巡らせている表情が、雅文を見る誠三の表情を横切っていった。
常に自分が張りついている洋館に二度も侵入を果たし、ほとんど証拠も掴ませない男――彼は、どうやら松田と特別親しい間柄というわけでもないらしい。だとすると、何者なのだ? 単に美月の護衛をするつもりなら、手間をかけて別館に忍び込んだりしなくてもよさそうなものだ。一体何の理由があって、この青年は自分の屋敷にやってきたのだろう?
そうして考えているうちに、誠三はついに雅文の正体に見当をつけたようだった。
「まさか……あの怪盗ジェスターかね? 」
雅文は沈黙を守ったが、誠三は図星を確信して口元にほほえみを浮かべた。松田と加代が、見たこともないものを発見したような顔で雅文を見ている。加代にとっては晴天の霹靂だろう――刑事と探偵を雇い入れたと思っていたのに、その片方が世を騒がす怪盗だったなんて!
松田の方は、複雑な表情を浮かべた。探し求めてやまなかった恩人が突然目の前に現れた驚愕と喜び。差し迫った窮状への焦燥と恐怖。そのすべてがひとつの顔の上に同時に現れ、胸中の混乱と裏腹に、微妙な半笑いのようなうつけた表情を作った。
「そうかそうか。なるほど」
誠三は加代を引きずってアトリエの中を進み、ある棚を左に動かすよう雅文に命じた。
「ついに天下の怪盗ジェスターまでが嗅ぎまわるようになるとは。そんなに調べたければ、好きなだけ調べるがいい」
棚は重い音を立てながら左側にずれ、その下に真っ暗な階段が伸びているのが見えた。地下室があったのだ! 地下から上がってくる空気は冷たく、何とも言えない鉄錆びの臭いがした。誠三が平気な顔をしているのが信じられなかった――雅文は沈黙し、松田は唇を引き結び、加代は今にも倒れそうな様子だった。
誠三は加代の髪を掴んだまま、青年たちを促した。
「さあ、降りなさい。どうした? 君たちが知りたかったことはこの下にしかないぞ」
アトリエで入り口を覗いていたときはまだマシだったのだと、階段を一段下るごとに雅文は思い知った。地下へ近づくにつれて臭いがどんどん強まってくる――鉄錆びの臭いは次第にはっきりとした血生臭さに変わり、そこにわずかな腐敗臭と、何か得体の知れない薬品のような臭いまで混ざりはじめた。地下に着いた途端に誠三が棚を動かして、入り口を塞がれてしまうことを雅文はひそかに恐れていたが、誠三は雅文たちのあとを加代とともについてきているようだった。
誰もが無言だった。棚を動かした入り口からわずかに外の光が差し込んでくる以外は、灯りひとつない辛いだけの道のりだった。それほど長い階段ではなかったが、実際よりずっと長い距離を歩かされているような感覚があった。
ようやく辿り着いた地下室で、誠三は雅文にマッチを放り投げた。壁にはロウソクが取りつけられている。外からの光では部屋の全体を見ることはできなかった。
「うっ………」
松田が明るくなった地下室を見回して呻いた。地下室には二階の物置きと同じくらいごちゃごちゃと物が置かれていたが、人目には決して触れることのないものたちがその中には混ざっていた――鎖、縄、針、刃物、棚一杯の薬品類、水槽、拘束具、ホルマリン漬けの何か、骨の標本……部屋の中心には、大きな石の台が置かれている。拭き取ったあとはあるが、黒っぽい染みがところどころについたままだ。
そして、壁にかかったたくさんの絵画の中から娘たちの瞳がこちらを見つめていた。青痣だらけで痩せ細った少女、手足を欠損した少女、皮膚が溶け、原形を留めていない少女――極めつけは、椅子に座った少女の絵だった。彼女は行儀よく座った膝に、自分の首を乗せていた。
娘たちはみな透き通った青白い肌をして、すべてを悟ったような澄んだ瞳に描かれていた。本物の瞳がそこにあるかのように写実的なまなざしは、画題となっている娘たちの身に起きたことのおぞましさと裏腹に、天使か、殉教図の聖人のような神聖な印象を見るものに与えた。
この部屋で何が起きたのか。行方不明の娘たちがどうなったのか。〈人食い鬼〉が誰なのか。もはや議論の余地はなかった。加代が声も立てずにへたり込んだ。
「あれは〈それいゆ〉の弥生さんだ」
松田は椅子に座った少女の絵を見て呟いた。彼は今にも吐きそうなほど青白い顔をしていたが、それはもしかしたら激しい怒りのためかもしれなかった。
「花さんも、みどりさんも、桜子さんも、里さんも――やっぱり、あんたの仕業だったのか! 」
「君たちが知りたかったのはこれだろう? 」
誠三は動けない妻にも怒り狂う松田にも構わず、意気揚々と雅文たちに言った。
「ここはわたしの聖域だ――人生の、もっとも美しい瞬間を永遠に留めた部屋だ。わたしはここにいるときだけは、心から安らぎを感じられる……」
雅文は部屋の構造と自分たちの状況に考えを巡らせた。地下室には、彼らが下りてきた階段の他に出入口らしいものはない。自身の最大の秘密をこんなにも堂々と明かしているということは、誠三はこの場に招いた雅文たちを生かして帰そうなどと寛大なことは思っていないに違いない――恐らく、自分の目をかいくぐって二度の侵入を果たした〈怪盗ジェスター〉にある程度の脅威を感じているのだ。拘束しているとはいえ松田も一緒にいる以上は、棚を動かして閉じ込めたところで安心できない……そんなところだろう。
この場にいない美月たちの身が案じられたが、今はまずこの窮地を切り抜ける算段をつけなくてはならない。だが雅文と松田だけならまだしも、加代が誠三に捕まっているばかりか腰を抜かしているとなると、事態はより厳しいと言わざるを得なかった。
誠三はうっとりと語り続けた。おぞましい絵画に囲まれて悦に入っているその様子は、彼の内面に渦巻く狂気の片鱗を窺わせた。
「最初はね、わたしだって普通にモデルをお願いしていたんだよ――絵を描いている間だけは、〈あの痛み〉もわたしに近づけないようだったから……だが、何かが足りなかった。何か……鮮烈なものが。画面から飛び出し、見るものの心を直接揺さぶるような劇的な何かが……わたしは次第に自分の絵に満足できなくなり、絵を描いていてもお構いなく〈痛み〉がやって来るようになった。……だがあるとき、ついに見つけたんだよ! 」
誠三は足が萎えて顔も上げられない加代に、手近な果物ナイフを突きつけた。松田の肩が緊張した。ナイフの刃先は加代を傷つけはしなかったが、加代は恐怖に顔を歪ませた。誠三が加代を突然めった刺しにしても何も不思議ではない――誠三の様子は、それほど異様だった。
誠三は妻が真っ青になって顔を歪めたのを見て、ますます興奮して目をぎらつかせた。
「これだ……まさに、この顔だ! 生の輝きに満ちた美しいものが隠し持っている、崩壊への恐怖! これこそ生というものの真実だよ! 終焉とは無縁の存在である瑞々しい少女が、苦痛に晒されて泣き叫ぶ! 抗うすべはないと悟り、すべてを受け入れる! 必死に許しを請う! ひざまずき、支配を受け入れ、命を永らえようとする! 死と直面したとき、初めて浮き彫りになる生への執着! 命が絶えた瞬間の、しがらみを離れたようなまなざし! 実に素晴らしい画題だ」
「狂ってる」
松田は頭を抱え、絞り出すように言った。
「あんた、頭おかしいよ………」
「うるさい! 」
誠三は松田の腕を掴んで、彼を乱暴に投げ倒した。松田はなんとか受け身を取ろうとしたが腕が不自由なままではうまくいかず、立てかけられたイーゼルの中に背中から倒れこんだ。
「この〈痛み〉は、わたしの道を指し示していた……」
誠三は額を押さえ、呻くように言った。頭痛が襲ってきたのだろう。胸ポケットから取り出したのは雅文がアトリエで見たのと同じような小瓶で、誠三は二、三粒取り出して噛み砕いた。息が乱れ、歯を剥いて呼吸を繰り返すさまは獰猛だった。
「娘を苦しめ、彼女らが弱っていくほどに、〈痛み〉は楽になっていく……彼女らは、わたしの
「弥生さんのことを、脅していたんですね」
雅文は言った。誠三は椅子の少女の絵を愛おしそうに見つめた。
「ああ、そうとも……実に気高い態度だったよ。あの子は、雇い主のことを心の底から尊敬していたからね。彼女を同じ目に遭わせると言っただけで、毎回毎回、痛い目に遭わされると分かっていたのに律儀に通ってきてくれた……」
雅文は背筋に冷たいものを感じながらも、さらに問いを重ねた。
「花さんのことは、一度見逃したんですか? 」
「花は気の強い娘だった――職業モデルだったからだ。他人に裸を描かせることに何のためらいも、恥じらいも持っていなかった。わたしの気に入るように、顔を作ってみせることすらした」
誠三は口元にほほえみを浮かべる娘の絵を指した。水の流れに横たわる花の姿は一見変わったところはないように見えたが、彼女が身を横たえている流れは血のように赤かった。
「だから、普通に描いたのではわたしの〈痛み〉は和らがなかった――この絵は花が死んだあと、あの子を思い出しながら急いで描き上げたものだ。どうしたら、彼女の一番美しい表情を引き出せるだろう? 作り笑いではない、本物の表情……わたしは仕事を終えた花を帰らせ、その帰り道で化け物の格好をしてあの子を襲った。そして君の言うとおり、一度彼女を逃がしたんだ……手間をかけた甲斐があったよ。あの一瞬の、〈助かってよかった〉という表情。それがこのほほえみだ。命の危険は去ったと思い込み、神に感謝する瞬間――そのあとの、血の海に沈んでいる様子もなんとも言えず趣があった。だから組み合わせたんだ。これは、絵ならではの楽しみでね。だが、これ以上は危険だとわたしにも分かっていた。次の娘からは、招いたその日に、二度と外に出すことなく描き上げるのを心がけたよ」
加代は聞きたくなさそうに目をつぶり、耳を塞ぐこともできずに頭を伏せていた。誠三はふと真顔になり、ひとり冷静に自分を眺めている雅文に目を留めた。そして、手に持ったままだったナイフを弄びながら尋ねた。
「君は逃げないのかね? 」
「あなたがわたしを追ってきてくださるなら逃げますが……」
雅文は肩をすくめた。ふらふらと起き上がった松田が息を呑んだ。雅文がなぜこの局面でそんなおどけた仕草ができるのか、彼の理解を超えていたのだろう。
誠三は大声で笑い、ナイフを加代の首筋に突きつけた。
「悪党のくせに他人の心配か! なら、わたしの命令を聞くしかないはずだね? ……ここへ来たまえ」
雅文は彼に近寄った。ナイフは、加代の首の薄皮をわずかに切り裂いていた。
「腕を背で組んで後ろを向きなさい。君のような手癖の悪い男の両腕を自由にしておくわけにはいかない」
雅文が言うとおりにすると、両腕を縄か何かできつく縛られる感覚があった。彼はどんな縛られ方をしているのかの見当をおおよそつけた。誠三は、最低限の拘束で効果的に相手の自由を奪うような方法は知らないようだ。素人がめちゃくちゃに、力任せに縛りつけたようなやり方は案外もろい。サーカス団にいた頃、縄抜けの師匠の拘束から抜けられたことはついに一度もなかったが、師匠の縄と比べたら誠三の縄はずっとマシなはずだと雅文は考えを巡らせた。恐らく、五分もあれば抜け出す算段くらいはつけられる――。
「橋本さん! 」
松田が叫んだ――振り向こうとした雅文は、左足に衝撃を感じてよろめいた。加代がくぐもった悲鳴を上げる……熱が集まるような感覚があり、遅れて強烈な痛みが襲ってくる。膝をついた雅文の左腿から、誠三がナイフを引き抜いた。
「君は油断ならないが、実におもしろい画題になりそうだな。いつ何時とも崩れない、その飄々とした顔――怪盗ジェスターがこんな優男だったとは、さすがに思わなかったよ。君からあの松田君のような必死な表情を引き出すには、何が効果的かな? 」
「そのナイフで指を一本ずつ切り取ってみてはいかがです? あるいは、傷口に酸を垂らしてみるとか! 」
「は、橋本さん………」
松田が絶望的なまなざしで雅文を見た――雅文の気が触れたとでも思ったのだろう。雅文は誠三に向かって笑顔を浮かべたまま、刺された足の感覚から傷の状態を推測した。痛みはあるが、おかしな痺れはない。毒などは塗られていない、本当にその場にあったナイフだったのだろう。大した刃渡りもない果物ナイフだ。傷自体は致命的というほどではない。痛みをこらえることさえできれば、立って歩くことくらいは何とかできるだろう。
だが、走って誠三を振り切るのは難しくなってしまった――幸い彼の関心は雅文に向いているから、雅文を〈画題〉にしようとしている隙に松田と加代が脱出を図るか、松田が誠三に反撃できればまだ見込みはある、と雅文は思った。最悪なのは、この場に招かれた全員が誠三の手にかかり、美月たちの安否も確かめられないまま終わってしまうことだ。
雅文は苦痛に特別耐性があるわけではなかったが、たとえ体を切り刻まれても、命が絶えるまで心にもない軽口を叩き続けられる自信があった。それを聞いて松田が励まされてくれればいいのだが、彼の様子を見る限りそれは望み薄だった。松田のような実直な性格の人物は、客としてはあまり歓迎できない。冗談に真顔を返してくる客ほど道化にとってやりにくいものはないのだ。
それでも、雅文は何でもないことのように笑いながら誠三に言った。
「爪を剥がしてみるのはどうです? 目を抉ってみるのは? 口を耳まで裂いてみるとか! 」
「なるほど、確かに〈ジェスター〉だな」
誠三はおもしろそうに聞いていたが、雅文の望み通りにナイフを彼に向けることはなかった。
「では、君が今提案してくれたことをひとつずつ美月に試すというのはどうだね? 」
雅文はいつ何時も自分がどんな表情を浮かべているかを把握しているのだが、このときは思わず一瞬真顔を晒してしまった感覚があった。誠三は酷薄なほほえみをにやにやと顔中に広げた。
「君は自分を犠牲にすることには大して抵抗がないんだろう。わたしは、絵を描くことで人間の内面を深く探ってきた――それも、死を前にした人間の内面をね。君は〈義賊〉を名乗るくらいだから、人を助けることには頭が回っても、自分のために誰かを犠牲にするなど思いもよらない。君が護衛してきた美月が目の前で君の言ったとおりに傷つけられたりしたら、君にとっては自分が死ぬより辛いことなんじゃないかね? それこそ、その顔が真っ青になるくらいにはね……まあ、安心したまえ。美月をどう絵にするかは、もうとうに決めてあるのだから。今さらそんなつまらないことはしないさ」
誠三は石の台の上にどこからか真新しい縄を引いてきた。先端に輪が作ってあり、天井から何かの装置につなげられている。
縄の出所を目で追い、縄が何を意図して用意されたものなのかを悟って、雅文は血の気が引いた――松田はついに黙っていられなくなったらしい。
「あ……あんた、それでも人間か! 美月さんは、あんたの養女だろうが! 」
「そうとも。絵に描くために養女にしたのだから、当然だ。少し手間はかかったがね……それに、芸術を極めるのは人間にしかできないことじゃないかね? 」
誠三は平然と言い放った。雅文は彼の言葉の意味をしばらく掴みかねたが、それは理解できなかったのではなく、理解したくなかったために一時的に思考が止まったせいだった。
絵に描くために養女にした。そこには、宮園家を襲った悲劇が彼の手によって起こされたという意味が含まれてはいないだろうか。
「君が松田君と知り合いではなかったとすると、恐らく〈ジェスター〉の名を騙って人を殺したものの正体を探るために美月に近づいたんだろう? 別に君に恨みがあったわけではない。ただ、都合がよかったんだ――君はいかにも富豪の家に忍び込みそうな〈怪盗〉で、どこの誰なのか、知っているものはいなかった。そのくせ、〈ジェスター〉の名を知らないものはいないからね。……美月には、〈描かれる〉直前までわたしを信用していてもらう必要があった。正体の分からない怪盗に突然両親を奪われた恐怖から、手を差し伸べて救ってくれた優しい養父――わたしはそんな存在でいなければならなかったんだよ。自分を守ってくれると信じて疑わない相手に、愛していると言われながら命を奪われる……その瞬間、あの美しい顔にどんな表情が浮かぶのか、想像しただけで………」
誠三は引きつったような笑い声を立てながら恍惚とした表情を浮かべた。瓶を取り出し、薬を噛み砕く――彼を狂気じみた創作に駆り立てる痛みは、ますます強くなっているらしい……。
このとき、外から四角く差し込んでくる光を何かが遮った。誰かが地下室の入り口に立ったのだ。
雅文は確かめるのが恐ろしいような気がしながら階段の先を見上げた。地下室からは逆光になった、細い影――美月がそこに立っていた。
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