五、侵入

 縁側で美月と話した翌日、雅文は日が落ちるのを待ってから洋館への侵入を試みた。暗がりに包まれて人目を忍ぶことさえできるようになればいい。誠三の動向を注視することにはあまり意味はない。誠三は日に三度の食事どき以外は離れにこもっていたし、〈朝の七時に作業部屋に入る〉という予定は几帳面に守られたが就寝のために本邸に戻ってくる時間となると日によってまちまちで、法則のようなものもなく、早くても午後十時、下手をすれば寝に戻らずに離れで夜を明かすことも珍しくなかった。つまり、どんなに待っても確実に安全な時間帯を予測することはできなかった。


 中の様子はまったく分からないが、一階から侵入するのはなかなか骨が折れそうなのに比べて、二階は窓の構造も普通で、誠三が定期的に見回っているような様子もなかった。とにかく、入ってみるしかない――そんなことは怪盗の仕事には珍しくない。


 一階の窓の一部に明かりが入り、誠三の影がカーテン越しに動いているのが分かった。二階は真っ暗だ。雅文は黒っぽい服を着て屋敷の植え込みに姿を隠しながら慎重に洋館の裏手に回り込み、壁の状態を確かめた。遠目に見たとおりざらついたレンガ積みで、壁面にはツタがびっしりと這っている。これならまったく問題ない――真上に目標の窓があること、はめ殺しではないことを再度確認し、雅文はレンガのわずかな隙間に手の指と爪先を引っかけて、身軽に二階へ上った。


 怪盗ジェスターの特徴は――彼は〈仕事中〉の姿を人前には出さないので他に知っている人はいなかったが――身が軽いことだった。普段の雅文はおっとりしているばかりか男性の平均より背が高かったので、一瞥しただけで彼を軽業と結びつけられる人はまずいなかった。だが、ラウールサーカス団で鍛えられた運動技術は手足が長くなった後でも変わらず彼を支え、それが美月を守ったような捕り物や〈仕事〉、そしてそのための事前調査には大いに役に立っていた。


 足場を選びながら上ること一分足らず。たやすく窓まで辿り着いた雅文は、そこから室内を覗き込んだ。横に長い部屋のようで、ひとつ隣の窓も同じ部屋のものらしい。扉はひとつだけ。下で確認したとおり明かりは消えていて、そのせいでガラス越しではよく見えないが、荷物がたくさん置かれた部屋であることは分かった。


 「〈怪盗に錠前〉……ってね」


 雅文は自作のことわざ(意味は〈あってもなくても同じ〉)を呟きながら、格子状の窓枠に沿ってガラスを一枚、ガラス切りで慎重に切り抜いた。手を差し入れて鍵を外し、外開きの窓を開いて、室内に滑り込む。こんなことは、もう数えきれないくらいに経験済みだった。


 目はとうに闇に慣れていた。そこはやはり物置のような場所で、脚の折れたイーゼルや習作に使われたらしいキャンバス、使い古したパレット、絵の具の箱、古くなった筆などが、折り重なるようにして置かれていた。新しいものはひとつもなかった――使わなくなったものを保管しておく場所だろう。窓枠には埃が溜まっていた。床はきれいだから、誠三はある程度この部屋に出入りしているのだろう、と雅文は見当をつけた。


 肩が触れただけでも、積み重なった道具類が崩れかねない。雅文は息を殺し、挙動に注意を払いながら部屋の中をあちこち見て回った。成果が挙がったのは、しばらく経ってからだった。彼はスケッチ帳の山を発見した。


 どこから手をつけたものやら! 雅文はその物量にうんざりした気持ちが浮かぶのを抑えきれなかった。一冊四十枚ほどの横長の帳面が、何十冊と山になっている。置き方に規則はなさそうだったが、それは誠三にしか分からないことだ。雅文は順番を崩さないようにしながら一冊ずつ手に取った。月明かりと呼べるものもろくに差し込まない部屋だった。あまり証拠になるようなものを作りたくはなかったが、仕方なくマッチを擦った。


 最初のうちは、何の変哲もない習作や、下書きの構想を練ったあとのようなものしか見つからなかった。風景だけのものが五冊、静物だけのものが五冊、動物だけのものが二冊と続いたところで、次の一冊からようやく人物の絵が混ざりはじめた。


 町ゆくありとあらゆる男性と女性――子ども、老人、青年、少年、少女、紳士、淑女、和装に洋装、読書中、楽器の演奏中、食事中、運動中、新郎新婦、商店主、舞踏家、農夫、漁師、医者と患者……そして、女給。雅文は何本目かのマッチを近づけた。絵の右下に、日付と詳細が書かれている――五月八日、〈それいゆ〉女給、弥生。最初の数枚は女給の制服を着て様々にポーズを取る弥生の姿が捉えられていたが、そのうちに衣装が変わったり、一糸まとわぬ姿で恥じらうように立っていたりするようになった。


 描かれている弥生には、次第に椅子に腰かけたり床に座ったりするポーズが増え、最後には寝そべっているところを執拗に鉛筆が追った痕跡があった。見たところ特に異常な絵面ではなかったが、〈人食い鬼〉の話を知っている雅文の目には、見ようによっては弥生が力なくぐったりと横たわっているようにも見えた。十月八日……恐らく、この絵が描かれて間もなく、弥生は首だけという変わり果てた姿になって発見された――。


 この絵を最後に弥生のスケッチは終わり、花、みどり、桜子、里と、別の女性の絵が続いた。どの少女のときも同じように、普通の絵と変わらなく見えるものしかその帳面には残されていなかった。


 本当にこれで全部なのだろうか? 雅文は少女たちの絵が描かれている帳面を分かるようにしておき、他のものをしばらく調べたが、特に成果はなかった。誠三は〈人食い鬼事件〉には関わりがないということか? 彼がモデルを依頼したことと彼女たちが死亡したり失踪したりしたこととは、別の話なのだろうか? まさか、誠三に罪をかぶせようとしている人物が他にいるとか? それとも、自分のような侵入者をあくまで警戒して、普段自分の目が届かない場所には危険なものを置かないのだろうか?


 判断がつきかねて雅文は調査を続けようとしたが、そのとき彼の耳はわずかな床板の軋みを捉えた。彼は耳をそばだてた――気のせいではない。扉の外から、一歩ずつこちらに近づいてくる足音がする。誠三がこちらに向かってくるのに違いなかった。


 雅文はマッチを吹き消し、燃え残った木軸を袖の中に集めたあと、帳面を元通りに積んで窓から抜け出した。元通り窓に鍵をかけ、切り出したガラスをはめる。壁面に這っているツタのおかげで、大急ぎで外に出た不安定な姿勢でも彼はある程度自分の体を支えていられた。間一髪――雅文の頭が窓枠の下に隠れた瞬間、廊下側から扉が開いて、小野寺誠三が入ってきた。


 誠三は部屋の明かりを点けて訝しげに辺りを見回した。作業の途中だったのか、絵の具を絞ったパレットに左手の親指を入れ、筆を持ったままだ。雅文は物音らしいものをほとんど立てていないはずだ。それでも何らかの気配を察して様子を見に来たのだとすれば、大した警戒心だった。


 雅文は明かりの届かない場所でじっと息を殺したが、さしもの誠三も窓の外に侵入者がしがみついているとは思わなかったらしい。誠三が切られたガラスに気づくことはなかったし、外を気にする様子もなかった。彼は部屋の中をひと通り確認し、あるべきものがあるべき場所にきちんとあると納得したのか、やがて明かりを消して物置を出ていった。


 何事も起こらなかった。誠三が戻って来るのではないか、去ったふりをして待ち構えているのではないかと雅文はしばらく警戒したが、気配も物音もしないと再三確認した上で、意を決して再び物置の中へ入った。扉越しに聞き耳を立てたが、廊下にも気配はなかった。雅文はそろりと扉を開け、物置から顔を出した。


 誠三ひとりが仕事をするためにしては、相当広い建物だった。定期的にモデルの少女を呼ぶとしてもやはり広い。こちらの洋館だけでも一家が十分に暮らせそうだ。


 雅文が侵入した物置は廊下の突き当りで、西側に部屋がふたつ並んでいた。東側は吹き抜けの階段らしい。一階に明かりがついているため、二階の全容がぼんやりと浮かび上がっている。誠三の姿はなかった。


 二階のふた部屋には鍵がかかっていなかった。どちらも内装はきれいに整えられ、家具がひと通り揃い、窓にはきれいなカーテンがかけられている。帝都のホテルの個室のようだ。部屋全体が優しい色使いでまとめられ、少女が暮らしている部屋のようにも見えた


 ふたつの部屋を通り過ぎると、幅の広い階段が下へ向かって伸びている――雅文は階下の気配を探りながら少しずつ段を降り、途中で手すり越しに一階の間取りを確認した。


 階段を下りて左手の壁には小さな玄関があり、その隣に二階と同じように部屋がふたつ並んでいる。玄関はしっかり施錠され、誰かが少しでも扉を揺らそうものならすぐに分かるよう、ベルが取りつけられていた。さらにその先の突き当りが誠三の作業部屋のようだった。誠三は作業部屋で何かしているらしく、歩き回っている足音が雅文の位置から聞こえた。雅文は一階の部屋の前まで慎重に進み、ノブに手をかけ――開いている――中に滑り込んだ。


 一階の部屋は、二階とは様変わりしていた。家具などひとつもなく、壁には鉄製の拘束具がぶら下がっていた。外から確認した通り、窓もない。さらに――。


 雅文はぞっとした。ドアノブには外側に鍵穴がついていたが、内鍵はなかった。つまり、外から施錠することしかできない。牢屋と同じだ、と雅文は思った。中の人物がどんなに抵抗しても外からの侵入を拒むことはできず、逆に、外から閉じ込められれば出ることはできない。雅文は部屋の構造を確認し、早々に廊下へ滑り出た。


 音を立てないように扉をそっと閉めた瞬間アトリエから誠三の喚き声が聞こえて、雅文は思わずぎくりとそちらを振り向いた。なんと言っているかはさだかではないが(あるいは、ただ声を上げていただけだったのかもしれない)、日頃見せている紳士的な振る舞いからは想像もできないような苛立ちと焦燥の混ざり合った咆哮が聞こえ、続いて何かが何かにぶつかり、どちらかが割れる音がした。誠三は頭痛持ちか不眠症だと、松田刑事は言っていた。


 普段その姿は表に出ることはないが、他に人目のないアトリエではこうして素顔を晒しているのだろうか……だとしたら、相当重い症状が出ているようだ。どうにもならない不調に癇癪を起こし、ものに当たっているのかもしれない……。


 雅文は怒り狂った誠三が突然廊下へ出てくるのではないかという懸念と戦いながらアトリエに近づき、扉の前に誠三の気配がないことを確かめた上で、しばらくじっと耳を澄ませた。誠三は何かを一心に頬張っているらしく、くぐもった呻き声と口の中のものを噛み砕くガリガリという音がかすかに聞こえてきた。誠三の声は途切れ途切れに聞こえてきたが、他に誰かがいそうな気配はなかった。


 雅文は十分な収穫があったと判断し、この日は引き上げることにした。来た道を戻り、後から気づかれる危険はあったが、先ほど見当をつけた少女たちの絵が描かれた帳面を持ち出した。


 本邸では、松田が自室でそわそわしながら雅文を待っていた。彼は半信半疑だったようだが、雅文が約束通りに顔を見せると、少年時代を彷彿とさせる無邪気な顔で目を輝かせた。


 「ああ、橋本さん……無事だったか、よかった」

 「離れの中の様子が少しは分かったよ」


 雅文は持ち出してきた帳面を松田に差し出した。松田はぎょっとし、震える手で帳面を受け取って身震いした。


 「な、なんだ、こりゃ……あんた、あの離れからこれを持ってきたのか? 本当に、あの離れに入ったのか? 」

 「そうだよ。君が言っていた弥生さんや花さんの絵も、そこに描いてある。それで全部かは分からないけど――少なくとも、僕が調査できた範囲にあったものの中ではそれが一番事件と関係ありそうだったから」

 「いったい、どうやって……? 小野寺誠三に掛け合ったのか? 」

 「だから、それは君と僕の立場の差だって言っただろう」


 松田はしばらく雅文を驚嘆とも驚愕とも見える表情で眺めていたが、彼が窓から侵入したとは想像もつかなかったのだろう。やがて帳面をめくり、雅文の言うとおりそこに〈人食い鬼事件〉の被害者たちの姿を認めた。


 「見たところ、普通の絵だな。……絵は詳しくないが、別に裸の女を描くのは犯罪じゃないし」

 「無理に服を剥いだりしたら犯罪だけどね」

 「そりゃそうでしょう。だがこの弥生さんの絵からして、そんな様子はないな」


 松田は呟いた。


 「小野寺誠三が女性たちに何か被害をもたらしたという証拠にはできないが、少なくとも〈人食い鬼事件〉の被害者はこの屋敷に足を踏み入れたのは確かなわけだ」

 「小野寺氏は、被害者との関係を否定しているのかい? 」

 「弥生さんや花さんに関してはモデルを頼んだと証言した。他の三人については、そもそもこの件に関わりがあるかどうかもまだ分かってなかったんでね。下手に質問できなかったんだが、これで確実だな」

 「離れの一階にはおかしな部屋があったよ」


 雅文は手帳に図を描きながら離れの間取りを簡単に説明した。


 「ここが、小野寺氏のアトリエ。窓がある、あの大きな部屋だ。ここには小野寺氏がいて入れなかった。彼が屋敷を離れない限り調査は無理だろう。ここが階段。そして、ここがふたつ並んだ部屋。二階は大部屋の位置が逆になっているだけで、構造はほぼ変わらない。二階の大部屋は、物置だ。この帳面は、その物置に何冊も積まれたスケッチ帳の中の一冊だよ」

 「他の帳面も見たのか? 」


 松田が食い入るように雅文の手元を見つめながら口を挟んだ。雅文は頷いた。


 「見たけど、風景だけのとか静物だけのとかばかりで、これ以上参考になりそうなのはなかったよ」

 「なるほど。それから? 」

 「二階の小部屋は普通のホテルの部屋みたいになっていたけど、一階の小部屋は囚人を閉じ込めておく独房みたいだった。壁に鉄の拘束具があって、窓も家具もない。そして、外から鍵をかけて中の人を閉じ込められるようになっていた」

 「その部屋に連れてきた女性を閉じ込めておく……みたいなことも、ありえるってことか? 」

 「先入観を持つのはよくないけど、普通なら必要のない部屋であることは確かだね。そもそもあまり人の立ち入らない建物だし、小野寺氏が何かの目的のために作ったことは間違いないんだろうし」


 ふたりはしばし沈黙した。松田は突然明らかになった離れの内部の図を気味悪そうに眺めた。


 雅文は尋ねた。


 「弥生さんは亡くなる前にこのお屋敷に通っていたって言ったね? この帳面に書いてある日付を見る限り、それは確かみたいだ。……彼女が勤めていたパーラーの、たとえばマスターさんなんかは、何か変わったことに気づいたりしなかったのかな? 」

 「〈それいゆ〉には、一度聞き込みに行っているんだ」


 松田は自分の手帳を開いた。


 「マスターは小宮山ハルという女性だ。弥生さんは明るく朗らかで、いつか自分の店を持ちたいと言っていたそうだ。小野寺誠三は彼女を週に一度屋敷に呼び、絵のモデルとしていた。ハルさんは、そのために弥生さんの出勤の都合をつけていたんだ」

 「そのハルさんはどんな人なんだい? 雇い主として、弥生さんとはどんな関係を築いていたのかな」

 「気になるなら、本人に会ってみるか? 」


 松田は雅文の描いた図を書き写しながら言った。彼の顔には、洋館の間取りが分かっただけでもここまで進まなかった捜査に突破口を得たような清々しい表情が浮かんでいた。


 「おれは一度刑事だと明かして聞き込みをしているから、話を通すのは簡単だ。あんたが自分の目で見た方が、きっと得られるものは多いだろう」


 ※


 翌日、雅文と松田は美月の外出に同伴するという体で町へ出て、美月の買いものの帰りに〈それいゆ〉に席を取った。美月が一緒なのは彼女を疑惑の小野寺屋敷にひとり残すことに雅文も松田もいい気がしなかったからだったのだが、彼女がいることによって〈それいゆ〉に入りやすくなったというのも本当だった。〈それいゆ〉は支配人も給仕も女性ばかりの店で、客層も若い女性が多かった。男性客がまったくいないわけではなかったが、雅文と松田だけでは人目を引き過ぎてしまっただろう(現に、調査のためとはいえ松田は一度かなりいたたまれない思いをしたらしい)。


 美月は美月で〈それいゆ〉に寄ろうというふたりの提案を喜び、名物のフルーツパフェを前にして年相応の笑顔を見せた。見るだにほほえましい光景だった。彼女は、自分が引き取られた屋敷に恐ろしい疑惑がかけられていることを知らない――なるべくなら彼女が凄惨な事件のことなど何も知らないままで終わればいいのだが、と雅文も松田も考えていた。


 松田はコーヒーの味を褒めるふりをして支配人を呼び出してもらい、やってきた小宮山ハルに雅文を紹介した。


 「前に僕がお伺いしたのと同じ話を、彼にしてやってくれませんか。コーヒーにはうるさいやつでね」


 ハルは痩せ型の中年の女性で、どことなく厳格で聡明な雰囲気を備えていた。彼女は青年ふたりに少女という不思議な取り合わせのお客のひとりが以前店にやってきた刑事であることに気がつくと、松田の真意を汲んで雅文だけを別室に呼んでくれた。


「あなたも、刑事さんでいらっしゃる? 」


 ハルは従業員部屋に入るなり雅文に尋ねた。


「あの刑事さんは、前に一度弥生ちゃんの話を聞きにいらしたんですのよ」

「僕は探偵です」


 雅文はハルに名刺を差し出した。


「別件で小野寺さんのお宅にお世話になっているのですが、そこで彼が捜査している事件にたまたま関わることになりまして」

「あのお嬢さん、小野寺さんのお屋敷にいらっしゃる方ですものね。確か、宮園さんのご令嬢だとか……護衛を雇ったと聞きましたが、それがあなたかしら」


 ハルはただでさえ鋭い切れ長の目をさらに尖らせた。彼女は従業員が何ものかの犠牲になったことで自分なりに謎を追っており、弥生が死の直前に通っていた小野寺家の近況や美月のことも調べているのだと語った。


 「やっぱり、あのお屋敷で何か起こっているんですの? お嬢さんが身を守らなければならないようなことが? 」

 「それはまだ分かりません――美月さんが護衛をつけているのは誘拐などを警戒してのことですから。ただ、何かが起こっているとしたらこれ以上の被害を食い止めなければなりません。そのためにも、ハルさんにお話をお伺いしたいのです」

 「もちろんですとも。弥生ちゃんのためにも、お願いします」


 ハルは目を潤ませた。そうすると、思いがけず情の深い表情がその顔に現れた。


 「もともと、小野寺家の方々にはご贔屓いただいておりますの。わたくし、奥さまの加代さんのいとこにあたるものですから。お店を出すときにもいくらかご支援いただきましたし、ご夫妻が揃っていらっしゃることもございます――ですから、弥生ちゃんもおふたりのことは以前から知っていたんです」

 「それで、誠三さんからモデルをお願いしたいと? 」

 「ええ、お屋敷に来てほしいと頼まれたと言って、嬉しそうでした。弥生ちゃんは笑顔が評判の看板娘でしたから、わたくしも喜んでお休みをあげたんです」

 「一度のことではなく、しばらく通っていたそうですね」

 「そうです。週に一度、日曜日に。月曜日は〈それいゆ〉も定休日ですし、必要なら泊りがけもできますから何かと便利だったのではないかと。……でも、だんだんと……」


 ハルはその先を言いさした。彼女は後悔の念を眉の辺りに滲ませた。


 「だんだんと……弥生ちゃんの様子がおかしくなっていったんです」

 「様子が? 」

 「はい。どういうふうにと言われると難しいのですが、何かを怖がっていたような――何度か、わたくしに話をしようとしているような様子はあったんです。でも、わたくしがどうしたの、話してごらんなさいと言っても、周りを気にするような素振りを見せるばかりで、なんだか――勇気が出ないというか、そんなふうでした。……無理に聞き出しても仕方ない、打ち明ける気になるまで待とうと思ってそっとしておいたのですが、今思えばそれは間違いだったのかもしれません」

 「いえ、ハルさんの判断は正しかったと思います」


 雅文は思いやり深く言った。


 「勇気が出せずに迷っている人を無理に問い詰めても、お互いが傷つくだけです。話をしようとする素振りがあったということは、弥生さんもひとりで抱え込まず、助けを求めようとしていたんでしょう。……ただ、弥生さんがハルさんに事情を打ち明ける勇気を持つよりも、事件が起こる方が残念ながらほんの少し早かった」

 「口止めされていたんでしょうか? 」


 ハルは身震いしたが、小さな声で尋ねた。もう何度も自分の中で検討したことなのだろうと雅文は思った。


 「脅されていた、とか? 」

 「小野寺氏が事件に関与しているという場合に限ってのことですが」


 雅文はハルにまだ犯人が確かでないことを思い出させた。


 「その可能性はあります。これからの調査次第ですが、モデルになるようにと言われて出かけた先で何か恐ろしい目に遭わされて、正常な判断力や助けを求められるだけの思考力を奪われるほど混乱していた、ということは大いにありえる。若いお嬢さんの心は繊細です。たとえば〈一言でも人に漏らしたら殺す。どんなに人気のないところでも無駄だ。必ず殺す〉などと痛めつけられながら脅迫されたとしたら、それが現実的かどうかを判断したり、恐怖に打ち勝ったりすることは独力では難しかったでしょう」


 〈人食い鬼〉が弥生や花を惨殺したことの他に、女性たちに何をしていたのかは今のところ明らかにはなっていない。だが小野寺家に通っていたときから弥生の様子がおかしかったとハルが言うからには、弥生は事件当日に小野寺家を出たところで何者かに襲われて首を切断されてしまったのではなく、通っている間に小野寺家で何らかの虐待を受けており、自身やハルの身の安全を盾に動きを封じられていた、という可能性はある。


 ハルの人柄や弥生について語る様子を見る限り、ハルは弥生と極めて良好な関係を築いていたようだ。身寄りがなかったという弥生が、ハルを雇い主という関係以上に慕っていたとしても不思議はない。


 弥生がハルを危険に巻き込むわけにはいかないと判断して自身の状況を明かさず、小野寺家に通い続けていた――そんな図式が雅文の頭に浮かんだが、ハルに向かってその可能性を口には出せなかった。弥生がハルの身の安全のためにみずから苦境に留まる選択をしたかもしれないと思い至れば、ハルは自分自身を責めはじめかねなかった。


 雅文がハルに礼を言って従業員部屋を出ると、美月と松田は思いがけなく楽しげに話していた。雅文は思わず耳を傾けた――このふたりは互いに敬遠しあっていたし、雑談で盛り上がっているようなところは見たことがなかった。


 「実際に彼に会ったという話を聞いたのは初めて――参考になるわ。成りすましもずいぶん多い人だから。だからみんな興味を持つんでしょうけど」

 「そうですね……でも僕は、彼は本物だったと信じているんですよ。だからお嬢さまのお話はぜひお聞きしたかったんです」

 「わたしも松田さんのお話を聞けてよかったわ。彼のしてきた善行を、わたしだって信じたかったのだもの。……ジェスターが宝石を盗むために人を殺すなんて。……わたしの両親を殺したなんて、そんなこと、ないわよね」


 雅文は立ち止まった。美月は雅文が戻ってきたのに気がつき、彼にほほえみかけた。


 「わたし、怪盗ジェスターって橋本さんみたいな人なんじゃないかと思うわ」

 「そうですかね? 」


 松田は胡乱げに雅文を眺めた。彼は〈ジェスター〉と出会っているが、そのときの印象があまりにも美しく記憶され過ぎているようなきらいがあった。


 「僕としては、もっとこう……うーん……とにかく、橋本さんはちょっとのほほんとしすぎているように思いますが。有能な人ではあるが、なんせ彼は探偵ですからね。怪盗を追う側の人ですよ」

 「だから、よ。怪盗って、一日中その顔をしていられるような仕事じゃないもの……きっと、世間向きにいくつも別の顔を持っているに違いないわ。ほら、怪盗ルパンだっていくつも名前を持ってるじゃない。それに、橋本さんは前にサーカス団にいらしたんでしょう? 普段の印象だけじゃ判断できないわ」


 松田は目を丸くした。


 「へえ、見かけによらんなあ」

 「一番下っ端でしたけどね」


 雅文は内心の動揺を押し隠しながら言った。美月は自分の唇が真実を語っていることになど気づいていないが、創作を趣味としている彼女には独特の直感のようなものが発達しているのかもしれなかった。理屈や証拠など関係なく、散らばる情報を一本の線のように繋げて、背後に隠された物語をそうとは知らずに読み解いてしまう――隠しごとの多い身には実に恐ろしい、そんな才能の持ち主なのかもしれない。


 「収穫は? 」


 松田が声を潜めた。雅文は頷いた。弥生とハルの関係性が表面的なものでなかった以上、小野寺誠三が弥生を追い詰め、彼女がそれをハルに明かすことなく死に追いやられたという筋書きを想定する価値はありそうだった。

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