四、ラウールサーカス団

 その少年が誰の子として生まれたかは、さだかではない。この国の人間としては、色の淡い髪と瞳。ろくに物心もつかないうちからその容姿のために必要以上に人目を惹いた少年は、恐らくそのために、生まれて間もなく人に売られることになった。彼の出自を知っているものは彼を売った彼の両親と、彼を買ったサーカス団の団長だけだった。


 ラウールサーカス団は、旅回りの一座だった。団長のラウール氏は欧州のどこかから――フランス説とイタリア説が団員たちを二分していた――はるばるやって来た紳士で、ときおり怪しく陽気な発音を交えながら(それもわざとやっているのではないかと言われていたが)流暢な日本語を話した。彼は本国では男爵の地位にあるとかで、常に優雅で高貴な立ち居振る舞いを見せ、美しい青い目を輝かせながら個性的な面々の頂点に君臨していた。


 火吹きに猛獣使い、空中ブランコにアクロバット、ナイフ投げにジャグリング、綱渡りに玉乗り、大掛かりな手品に水中縄抜けなどなど、見るものをあっと言わせる磨き抜かれた芸の数々は方々で評判に評判を呼び、喝采また喝采を集めた。町から町の巡業では行くところ行くところで人だかりができ、公演が終わった町からわざわざ次の公演先へ追いかけてくる熱心なファンも少なくなかった。


 ラウールサーカス団がテントを張れば、それだけで人が集まる――公演がはじまる何時間も前から辺りには賑やかな音楽が流れ、おいしそうな匂いが立ち込め、占い師や似顔絵描きが怪しげな出店を開き、色とりどりの風船が宙を舞うのだ。


 雅文が育ったのは、こんな環境だった。彼にはそれ以前の記憶がなく、〈雅文〉という名も、ラウール団長がつけたものだった。サーカス団には他に子どもはおらず、みながおもしろがって雅文に構った。雅文には、孤独を感じる暇もなかった。


 「わたしは確かに君をお金で買い取ったんだけど」


 とラウール団長は幼い雅文に言った。


 「ご両親を、どうか恨まないでくれ。ご両親が君を手放すと決めてくださったおかげで、わたしたちは君と会えたんだからね」


 雅文は手先が器用で身が軽く(子ども時代の彼は同年代の少年たちより小柄だったのだ)、さらに覚えがよかったので、団員たちは我先に自分が得意としている芸を雅文に覚えさせようとした。おかげでラウール団長が読み書きやそろばんを教えなくてはと思った頃には、雅文はひと通りのアクロバットを飛び、高所に張り渡された縄を恐れず、手品を本物の魔法のように見せ、ありとあらゆるものでジャグリングができるようになっていた。幼い頃から一流の芸人たちに指導を受けたことが天賦の才とでも言うべきものを引き出したに違いなかった――普通の子どもとして育てられていたら少し器用な少年どまりだったであろう雅文は、サーカス団に引き取られて数年経つ頃には最年少の花形として舞台に立つようになっていた。町では珍しがられる髪の色も、舞台照明の下では華やかな装飾になる。肩書きは〈道化師〉。ラウール団長の方針で、珍妙な格好をして笑いを誘うのと同時に、貴族のように高貴な振る舞いで観客を魅了する存在としても紹介された。ラウール団長は、雅文を〈ジェスター〉と呼んだ。


 「〈ジェスター〉というのは、宮廷道化師のことなんだよ」


 とラウール団長は雅文の顔に合う新しい仮面を選びながら言ったものだった。ジェスターの衣装には必ず仮面が含まれていて、そのどれもが欧州の祭りで使われているような美しい装飾がほどこされたものばかりだった。


 「歴史上、宮廷道化師というのは別に高貴な存在ではなかったんだけど、少なくとも特別な存在だった。余裕しゃくしゃく、頭がおかしいふりをして、誰も口に出せないことを平気で口にする――そして、国王陛下ですら笑い飛ばすんだ。人生に必要なのはそれだよ。心の余裕さ」

 「だから、ヘンなのは格好だけなんですか? 」


 雅文は公演終わりにフリルのついたシャツや片脚ずつ色の違う生地を縫い合わせたズボンを手入れしながら尋ねたものだった。後年、彼は私服でも洋装にばかり身を包むことになるのだが、それは確実にこの頃身についた習慣だった。


 「宮廷道化師が王さまを笑い飛ばせたのは、みんなに頭がおかしいと思われていた――少なくとも、そういうことになっていたから……でも本当は、そう思われていただけだったんですよね? 」

 「その通り。本物の〈ジェスター〉は、誰よりも観察眼のある人物でなくては務まらなかったろうと思うよ。でもね、君の振舞いの方は、実はまた別の仕事をモデルにしてるんだ」


 とラウール団長は言った。


 「宮廷道化師と似た精神性を持っていながら、その振る舞いは常に高貴。強者を笑い、弱者を救う。あるときは貴族、あるときは咎人、あるときは役者、またあるときは冒険家……いくつもの顔を使い分け、最後は必ず勝利を収めるのだ」


 雅文は目を丸くした。


 「そんな仕事がありますか? 」

 「〈怪盗〉だよ」


 ラウール団長は目をきらきらさせながら自分の本棚の一冊を取って、雅文に渡した。


 「わたしが生まれた国には、有名な怪盗がいるんだ。彼は気高い義賊で、誰にもおもねらず、常に窮地に立たされた弱者の味方であり、ときに好奇心を満たすために敢えて危地に踏み込む。彼から盗めるものがいるとすれば、それは美しい瞳で彼の心を盗むご婦人だけだ」


 ラウール団長はこうしてときおり雅文に自分の好きな冒険小説や探偵小説を読ませたので、雅文の語彙は豊かだがやや偏ったものに作り上げられた。同時にラウール団長の目論見どおり、雅文は物語の怪盗を体現するように軽やかで優雅な演技を獲得していった。さらにラウール団長は、それらしい趣味を次々と雅文に覚えさせた――脚の組み方、ワルツのステップの踏み方、小粋な帽子の角度、チョコレートボンボン、フランス語とシャンソン、イタリア語とオペラ、英語と演劇、男性に対する態度、女性に対する態度、チェスにカードに多少のイカサマ、酒の飲み方、花の持ち方、そして葉巻(これだけは体に合わずにやめてしまったが)。


 雅文は〈怪盗〉や〈探偵〉に夢中になり、ラウール団長が期待していた以上に読書を楽しむ青年に成長した。もともとラウール団長と似た感性を持っていたのか、彼は〈怪盗〉に憧れを抱いた――世間的に悪とされる盗賊の一種でありながら自由闊達に生き、弱者を苦しめる〈本当の悪〉を巧みに打ち破り、ときに価値あるものを歴史の闇から探し出す――正義の立場から罪を暴くことが基本の〈探偵〉と違って、世間の裏を渡り歩くものにしかできないであろうしがらみのない生き方は美しかった。


 とはいえ、盗賊は盗賊だ――現実的には、決して褒められた仕事ではない。


 このときの雅文は、間もなく自分が足を踏み入れることになる運命について、その兆しすら読み取ってはいなかった。



 それは、破格の依頼だった。


 そのときの公演地からは離れた場所だったが、サーカス団を屋敷に招待したい、とある富豪が声をかけてきた。わざわざ使いのものがやってきて、ラウール団長とにこやかに交渉が進められた。


 「当家の主人夫妻が、名高いラウールサーカス団にぜひお越しいただきたいと……こちらの公演場所からわざわざお越しいただくのですから、お礼はもちろん相応にお支払いいたしますので。こちらでの公演が終わりましたら、当家での独占公演をご検討いただけませんでしょうか」


 使いは揉み手しながらにこにこと言った。ラウール団長はこの依頼に応じ、サーカス団は富豪の屋敷へ旅していくことになった。公演地からは丸二日かかる道のりで、団員たちはいっそう練習に力を入れた。個人が特別に公演を依頼してくることなど初めてで、自分たちもここまでの価値を認められるようになったのかと、たとえようもない誇らしさを胸に感じながら。


 控えめに言っても、この公演は大成功だった。鑑賞者は普段とは比べものにならないくらい少なかったから歓声はほとんどなかったが、団員たちは芸の調子もよく、これまでで一番の出来だったと誰もが思った。雅文も絶好調だった――何も持っていないはずの手から次々とバラの花が咲き、重力などないかのように軽業を決め、依頼人どころか舞台袖で見ていた団員たちの視線まで釘づけにした。ラウール団長も、満足そうに腕を組んで彼らの舞台を眺めていた。


 ところが。すべての演目が無事に終わり、楽屋(といっても、旅回りの彼らが楽屋として使っているのは大きいが簡単なテントだった)でにこにこしながら化粧を落としていた彼らに、とんでもない嵐がやってきた。


 突然入口が乱暴に開けられて呆気に取られる団員たちの前に、今回の依頼主である富豪の顔がのぞいた。彼の後ろでは、この依頼をサーカス団に持ってきたあの使用人が手に厚い封筒を持っておろおろした顔で突っ立っている。使用人は何か言いたげに口を開いた。


 「旦那さま……あの、また――? 」

 「おまえは黙っとれ」


 富豪は話を聞きもせずに使用人を黙らせ、彼の手から封筒をむしり取った。ラウール団長が対応に出た。


 「どうなさいました。ここは舞台裏です。お目にかけられるようなものはありませんよ」

 「舞台の上にならお目にかけられるものがあるとでも言いたげだな」


 富豪は噛みつくように言った。さしものラウール団長も閉口した――だが、彼はすぐに気を取り直した。


 「そのおっしゃりようは、どういう意味でしょう? 我々は、十分力を発揮したと自負しておりますが」

 「君たちの満足などこちらには関係ない。わたしは、この辺りでは名士として名が通っているんだぞ」

 「それこそ、こちらには関係ありませんな」


 ラウール団長は眉をひそめた。楽屋の中に、ざわざわと異様な雰囲気が広がる。これがこの富豪のやり方なのだ――白塗りを半分落とした顔のまま、雅文は悟った。自分たちのようなサーカス団や劇団のような団体を個人的に屋敷に呼び、出しものを見るだけ見て、期待外れだったから金など払わないと言って追い出してしまう。謝礼が破格なのは当然だった。彼には最初から、一文たりとも払うつもりなどなかったのだ。


 富豪はラウール団長の毅然とした態度に眉を吊り上げ、怒鳴り声を上げた。


 「わしは満足などしていない! わざわざ呼んでやったのに、実にお粗末な見せものだった! おまえたちに払う金などない。とっとと出ていけ」

 「なんだとぉ! 」


 猛獣使いが足元を調教用の鞭で叩いた。普段の彼女は姉御肌が頼もしい凛とした女性だったが、唸るような声を立てながら歯を剥いて相手を威嚇するさまは、彼女が躾けている猛獣もかくやの獰猛ぶりだった。


 「貴子、よせって! 」


 火吹きが必死に止めた――彼は図体こそ大きいが気の優しい男で、いつも貴子に頭が上がらないのだが、腕力は彼女よりも上だった。


 「止めるな! 何がお粗末だ! 身を乗り出して見てたくせに! 」


 貴子はしばらく後ろから羽交い絞めにしてくる腕から逃れようと暴れたが、それが叶わないと分かると富豪を口汚く罵った。


 「よくもあたしたちの芸を馬鹿にしやがったな、このブタ! てめえばっかりブクブク太りやがって、あたしのこの鞭で皮が裂けるまでぶん殴ってやる! 」

 「なんて下品な女だ」


 富豪は気圧されたようだったが、額に青筋を立てたまま、言い分を取り下げる様子はなかった。


 「これは立派な脅迫だ! 通報されたくなければ、早く出ていけ! 」


 ラウール団長はしばらく黙っていたが、やがてため息をつきながら言った。


 「感動を強要することはできない。見た人がつまらなかったと言うなら、それも仕方がない。……おっしゃるとおりにいたしましょう」

 「団長! 」


 貴子ばかりでなく、団員たちの中から悲鳴のような声が上がった。だが、ラウール団長は首を振った。


 「みんな、支度して。……ダメだよ、タカコ。鞭はしまって。マサフミ、顔半分白いままだよ」

 「……ふん。まるで飼育員と動物の群れだな」


 富豪は言い捨てて去ろうとした。雅文は落としかけていた化粧がわざとめちゃくちゃになるように顔をこすり、ヘラヘラした顔を作った。この頃には、心と反対の表情でも簡単に浮かべられるようになっていた。


 「旦那あ」


 呼び止められた富豪は思わず振り向き、雅文の顔を見てわずかに身を引いた。顔に塗られていた染料がぐちゃぐちゃに乗った青年の顔は、いかにも狂気じみて見えたに違いなかった。


 「本当にどうもすみません。動物みたいで、図々しくって、恥知らずで、――」


 富豪は一瞬気をよくしたような表情を見せたが、雅文が近寄って来るにつれてその顔はどんどん怒りで青ざめていった。


 「――教養がなくて、ただ生きているだけで、口の利き方も知らなくて、がめつくて、頭が悪くて、約束が守れなくて、ぶくぶく太ってて……高貴な方々に関われるような価値はないんです」

 「……誰のことだね? 」

 「誰のこと? 」


 雅文は声を立てて笑った。


 「ご自分のことだと思われたんですか? どうして? 」


 富豪は何も言い返さず、雅文を睨みつけながら今度こそテントを去っていった。がみがみと使用人を怒鳴っているのが聞こえる……あんなイカれたやつを敷地に引き入れおって!


 「イカれてんのはあんたの方さ」


 貴子が鼻をすすりながらやって来て、雅文の化粧をきれいに落としてくれた。他の団員たちも、雅文に頷きながら大人しく支度を整えはじめた。


 「マサフミ」


 ラウール団長がそばへ来て人差し指を立てた。やりすぎだよと咎められるのかと雅文は首をすくめたが、ラウール団長は眉をひそめて言っただけだった。


 「悪口が上品すぎる。今度は、〈手の施しようがないくらいのデベソで〉っていうのも一緒にね」


 公演が終わったのは遅い時間で、すでに日が落ちていたので、サーカス団はひとまず富豪の敷地を出て、許可をもらった近くの神社の境内に野宿することになった。次の公演地は、もう決まっている。不愉快な依頼主のためにとんだ寄り道をしてしまったが、心は次の公演に向けなければならない。


 雅文が富豪を黙らせたことでみな少しは気が晴れたのか、テントの雰囲気はさほど沈んではいなかった。長旅と練習、公演にその後の応酬で疲れ果てた団員たちは、あの富豪には腹が立つが、何と言われようと自分たちはいい演技をしたのだと、最終的にはなんとか納得して眠りについたのだった。


 雅文は眠れなかった。


 あのまま言われっぱなしでは気持ちのやり場がなかったから、咄嗟にあんなふうに決して言い返せない悪口を並べ立てたが、不満は心を去らなかった。団員たちの普段の練習風景を一度でも見ていたら、たとえ嘘でもあんなに愚かしいことはできないはずだ――傲慢で粗野な、ガマガエルのような富豪の顔を頭から振り払おうとすればするほど雅文の目は冴えた。


 宵闇は感情と想像を膨らませる――日が高いうちだったら決して現実的に考えなかったであろう案が、不安と暗がりの魔力を得てさも素晴らしい名案のように思えるということは往々にしてある。このときの雅文の心にはまさにこの悪魔が囁いたような〈名案〉が浮かんで、次第に確固たる計画として固まりつつあった。彼は、枕元に置いた本を手に取った。ラウール団長が貸してくれた、〈怪盗〉の冒険譚――気高い義賊。弱者の味方。しがらみなく生きるものにしかできない方法で、〈真の悪〉を打ち破る。


 もしあの富豪が当初の約束どおりの金額を支払い、敬意をもって彼らを送り出してくれていたら、雅文もこんなことは思いつかなかっただろう。だが、もはや手遅れだった。彼はその計画を思いつき、それを実行に移すだけの理由も、能力もすでに持っていたのだから。


 雅文は富豪の屋敷に忍び込み、公演代を〈取り立てる〉ことを決意した。



 明け方が近づいていた。眠れなくて考えごとをしていたせいで、目は完全に闇に慣れていた。雅文は真っ暗闇の中物音を立てずにテントを抜け出し、境内を走り抜け、富豪の屋敷の門に辿り着いた。施錠された鉄の門だ――だが、彼にとっては平地が広がっているのと大して変わりなかった。門柱のわずかなでっぱりに爪先を引っかけて飛べば、彼は簡単に門を超えられた。


 富豪は金を払うつもりは最初からなかったようだが、約束の金額はどこかにまとまっているだろうと雅文は思っていた。富豪がテントに怒鳴り込んできたとき、後ろに使用人がいた。彼は富豪の手口に何度もつき合わされているが、今度こそ約束を果たそうとしていたに違いない。謝礼を渡そうと思ったら突然主人が割り込んできて、いつもと同じようなことになってしまった――そんなところだろう。つまり、あのとき使用人が持っていた封筒の中身は、約束していた額の謝礼だったのだ。


 ここからは運任せだが、あの謝礼はまだ封筒に入ったまま置いてある可能性はある、と雅文は思った。あの富豪は、几帳面な性格の持ち主にはとても見えなかった――今度も首尾よく謝礼を踏み倒したことにいい気になって、使用人から取り上げたまま机に置きっぱなしにする……ありえる展開だ。


 雅文はテントを抜け出した辺りから次第に冷静さを取り戻してきており、このときにはどこかでうまくいかなかったら諦めよう、という気持ちが大きくなりつつあった。そして内心では、どこかでどう頑張っても乗り越えられない障害と出会うことを期待していたのだ。彼は手ぶらだったし、無理にガラスを破壊したり家人を縛り上げたりして強盗をやるつもりはなかったから、たとえば窓がすべてしっかり施錠されていたり、封筒が簡単に見つからない場所にしまわれてしまっていたり、謝礼が封筒から出されて金庫に戻されていたりしていれば、やはり物語のようにはいかない、大人しく帰ろう、と引き返すことができたかもしれなかった。


 だが幸か不幸か雅文の前には障害らしい障害は現れず、現れたとしても雅文に乗り越えられないものなどなかった。一階は施錠されていたが、二階の窓にはカーテンが揺れているところもあった。どの窓も明かりは消えている。蒸し暑い夜だから、窓を開けて風を通しているのだろう。方角と部屋の大きさを推測し、主人の部屋に見当をつけると、雅文は壁のわずかな凹凸や窓枠の出っ張りを利用してやすやすと二階へ上がり、カーテン越しに中を覗き込んだ。


 そこは書斎のようだった。壁際に本棚が並び、雅文が顔を出した窓のすぐ近くに大きな書きもの机が置いてある。その上に、なんとあの封筒が無造作に置かれていた。

書斎は空で、開け放たれた扉から続く真っ暗な廊下にも人気はなく、雅文はかえって罠にかけられるのではないかと疑ってしばらく身を潜めていたが、杞憂だった。彼は慎重に書斎の中へ入り、封筒の中を確認した――約束の額から多くても少なくてもいけないし、そもそもサーカス団への謝礼ではなかったとしたら、手をつけるわけにはいかない。金銭以外の何かが入っている可能性もあった。だが中身は紙幣の束で、謝礼にも過不足なかった。実にあっけない結末だった。


 発見の喜びも、目標を遂げた達成感も、何もなかった。封筒をシャツの中に滑り込ませたあとで雅文は急にものすごい恐怖に襲われ、手が震えだすのを感じた。来るときはあれほど簡単だったのに、帰りは鳴りやまない動悸が外に聞こえるのではないかなどとありえない心配をしながらやっと一階へ下り、門を乗り越えた。


 そこからどうテントまで帰ったのか、雅文は思い出せなかった。気がついたら、胸に封筒の厚みを感じながら、眠る団員たちに囲まれて元どおり毛布にくるまっていた。空は白みはじめていた。


 誰もが安らかな顔をしていた――雅文ただひとりが、毛布を出る前と今とで自分自身がすっかり別人に入れ替わってしまったかのような感覚を味わっていた。後悔の念があとからあとから押し寄せ、誰かの寝顔が目に入るたびに、その人が自分に教えてくれた芸のことを思った。自分がしたことを喜んでくれる人などいるはずがない――雅文が人の道を外れて喜ぶ人など。彼らが惜しみなく授けてくれた芸を犯罪行為に使い、何事もなかったような顔をしている自分がひどい裏切り者のように感じられ、我が身が死ぬほど情けなく、雅文は横になったまま静かに涙を流した。


 絶望に近い感情だった。あんなに冴えていた頭はこれ以上ないほど混乱し、先のことなど何も考えられなかった。できることならこのまま消えてしまいたかった――生まれた最初から何もかもなかったことになればいいのにと、夢のようなことを祈った。


 しかし、誰にも気づかれないようにという願いも空しく、じきに隣で寝ていた火吹きが雅文のかすかな嗚咽に気がついた。彼はぎょっとして飛び起きた。いつも明るく朗らかで、涙などついぞ見せたことのない雅文が泣いている! 


「どうしたマサ坊。腹でも痛いのか? 」


 慌てた火吹きが声を低めることをすっかり失念したため、寝ていたものたちも次第に目を覚ました。


 「嫌な夢でも見た? 」


 猛獣使いの貴子が言った。声がかすれているのは凄んでいるのではなく、寝起きだからだ。今の彼女に出せる中で一番優しい声であることは、その場の誰もが知っていた。


 「あんたが泣くだなんて、よっぽど嫌な夢だったんだねえ。あのブタ野郎の顔が出てきたとか? ……ああ、あたしもなんだかそんな夢見た気がしてきた……」

 「……違うんだ、貴子姐さん。違うんです……」


 本当に夢だったらよかったのにと思いながら、雅文は言った。彼らに嘘をつくことなどできない――正直に、打ち明けてしまうしかない。


 「僕、あの屋敷に忍び込んで……公演料を盗みました」

 「ああ、そういう夢? ならいいじゃない? うまくいったんでしょ? 」


 貴子はあくびをしながら言ったが、雅文が真っ青な顔をしているのに気がつき、団員たちと顔を見合わせた。雅文は否定したかったが、唇が震えてひと言も話せなかった。


 団員たちは黙り込んだ。普段雅文が見せている巧みな芸の冴えが、彼らにそんなまさかと笑い飛ばすことを許さなかった。貴子だけが、ようやく言った。


 「………え? マジの話? 」

 「本当かい、雅文」


 縄抜けの師匠が静かに尋ねた。彼はまだ幕府があった頃に生まれて城下でずっと芸を披露してきた経験を持つ熟練の芸人で、団員の中では団長に次ぐ発言権の持ち主だった。


 「本当に、あの男の屋敷に行ったのかい? 」


 雅文はシャツの下から封筒を引っ張り出した。団員たちは呆気に取られて封筒を見つめた――ラウール団長が頭に寝癖をつけたままの格好でそばへ来て封筒を受け取り、中を確かめた。


 「……確かに」


 固唾を飲んで見守る団員たちの前で、ラウール団長は請け負った。


 「ぴったりの額だ。確かめて持ってきたのかい? 」

 「はい。ぴったりじゃなければ、意味ないと思いました」

 「だって、寝るときはあたしたちと一緒にいたじゃん! 」


 貴子が素っ頓狂な声を上げた。彼女は目をきらきらさせて、雅文の背中を快活にバシバシ叩いた。


 「なに? 誰にも気づかれないでそんなスゴイことやったの、あんた! すごいよ、さっすが期待の星だね! 」

 「貴子。うちは盗賊団じゃないんだ」


 縄抜けがしんみりと諫めた。


 「雅文の気持ちは、ここにいる誰もが分かるだろう。だが、とても褒められたことじゃないのも確かだ」

 「……でも、もともとおれたちがもらうはずだった金だ」


 奥の方からナイフ投げがぼそりと呟いた。彼は普段はとても無口な男だったが、ここで黙ってはいなかった。


 「マサがやってくれて、おれは嬉しいぞ。マサは、金が欲しくてそれを持ってきたわけじゃない……ぴったりじゃなければ意味ないとまで言った。マサが取り戻してきたのはおれたちの誇りだ。あの男の言いざまは、どう考えたっておかしかったじゃないか。渡すはずのものを渡さなかったんだから、盗んだというならあの男の方だろう」

 「そうだよ! あたしたちみんな、馬鹿にされてむかっ腹立ってたじゃん! あんなやつ、盗みでもしなきゃ何にも寄こしゃしない! あたしたちだけじゃない。きっと他にも、踏み倒されたのがいるに違いないよ! 」


 テント内は紛糾し、議論が飛び交った。血を分けた家族以上の団結力を誇るラウールサーカス団の団員たちが、これほどまとまらなかったことは後にも先にもなかったことだろう。団員たちの意見は雅文を全面的に肯定してよくやったと褒める声と、〈盗む〉という行為に対して眉をひそめ、褒めたい気持ちはあっても褒めるわけにはいかないという声とで大まかに二分された。


 雅文はしばらくうつむいていたが、彼らの言い合いを見ているうちに覚悟を決めた。


 「僕、退団します」


 この一言の威力は雅文の想像以上だった。団員たちは一瞬ぽかんとし、すぐに蜂の巣をつついたような騒ぎになった。

 

 「何言ってんだい! やめる? あんたが? 」

 「マサ坊、しっかりしろ……いくら言い合いになったって、おれたちはおまえを追い出したりしないよ。あたり前じゃないか」

 「そうだよ。みんな、ちょっとばかし驚いただけだ。早まったことをするもんじゃないよ」


 団員たちは口々に言ったが、雅文は首を振った。


 「僕は、みんなに教えてもらった芸を僕の手で裏切りました。……もう、ここにはいられない。あの人だって、きっとお金がなくなったことに気づくでしょう。迷惑はかけられないよ」

 「迷惑だなんて誰も思ってない。おまえは、ずっと信じられないくらいにいい子だったんだから。……あんなくだらない男をとっちめたくらいで、おまえがやめるだなんて言うんじゃない」


 とナイフ投げが言った。貴子が甲高く叫んだ。


 「団長! なんとか言ってやってよ! 」


 ラウール団長は団員たちの議論に加わらず、黙って雅文の様子を見守っていた。いつも軽やかな青い目が、静かな湖面のように雅文を見据えた。


 「退団の意思は変わらないね? 」


 いつものふざけた訛りは一切なく、ラウール団長は言った。団員たちは沈黙した――驚きのあまり、誰も声が出せなかったのだ。


 「君は今日、超えてはならない線を超えた。才能を、使ってはならないところへ使った。……君の言うとおり、わたしは君を破門しなければならない」


 テントの中は凍りついたように静まり返った。雅文が頷くと、ラウール団長は続けた。


 「今日君が感じた気持ちを、忘れてはいけないよ。理不尽な仕打ちを受けた怒りや痛み。自分のためではなく、誰かのために復讐をしたいと思ったこと。……盗むということに対する泣くほどの良心の咎めを、決して忘れないでくれ」

 「……はい」


 雅文は目を逸らしたかったが、心を奮い立たせてラウール団長の目を見つめ続けた。養父にして一番の師匠――彼に対してだけは、せめて最後まで誠実でいたかった。


 ラウール団長は頷き、雅文の肩に両手を置いた。


 「雅文、君には才能がある。〈怪盗〉の才能だ。奇しくも僕らがそれを開花させ、君は今日そのことに気づいてしまった。なるべくなら一生こんなことは言いたくなかったが、こうなっては仕方がない……いいかい、君は怪盗になれ。そして、押しつけられた理不尽に苦しむ善良な人々の代わりに手を汚し、彼らを救うんだ。君は救い主であり、影であり、汚れを引き受けて価値あるものに換えるものでなければならない。それが君にとっての贖罪であり、その才を授かったものとしての義務だ」


 雅文は突然目の前に開かれた道に呆然とした。罪を重ねることによって人を救い続けなければならない……一度犯した罪の影がいつまでも自分につきまとってくるような薄暗い人生が目の前に続いているのが見えたような気がした。


 だが、もう元の人生に戻ることはできない。それを決断したのは雅文自身だった。たった数時間前には安らかな――少なくとも、今と比べたら安らかな――気持ちだったのに、もうその頃の自分は死んだも同然だった。


 それに退団しなければとは思っていたが、その先に何かあてがあるわけでは……なかった。


 ラウール団長は言った。


 「君に芸を教えたのは僕らだ。君が今さっき取り戻してきた僕らの誇りのためにも、君には〈善よりも善である悪〉であってほしい。……僕の願いを、叶えてくれるかい? 」

 「……はい。必ず」


 雅文は目をこすってはっきりさせ、きちんと返事をした。ラウール団長はにっこり笑った。


 「芸を教えたのは僕らだが、君に才を与えたのは神だ。その才がどんなものであれ、生かさなければ罪になる。――神は、人間のしがらみを超越した視点をお持ちだ。君がその才を生かすことで、きっと多くの人が救われることになるだろう。……さしあたって、これは僕らから君への報酬だ。僕らの誇りの代金――感謝するよ」


 ラウール団長はそう言って、謝礼になるはずだった封筒をそのまま雅文に手渡した。誰からも反対は出なかった。


 「あんたがいなけりゃ、泣き寝入りしてただけの金だもの。あんたが持ってって当然さ」


 貴子が涙ぐみながらも明るく言った。


 雅文はこれ以降、芸人時代に自身が演じていた宮廷道化師にちなんで〈怪盗ジェスター〉を名乗って暗躍するようになった。同時に、世間的には〈探偵・橋本雅文〉として、人のいい青年の顔を見せた。


 ジェスターの名を冠したのは、彼なりの戒めだった。狂人のふりをしてしがらみを取り払った宮廷道化師と、気高く、義賊であることを誇りとしていた怪盗。ふたつの性質を併せ持つ役柄として〈ジェスター〉を考え出したラウール団長との約束を、決して忘れないための。



 芸人として舞台に立つことはなくなったものの、怪盗になってしばらくの間、雅文はサーカス団とともに旅回りの生活を続けた。そして、旅を通して得た各地の〈隠された泣き寝入り〉や〈迫りつつある危機〉を調査し、必要なら〈仕事〉をした。顧客は実にさまざまで、裕福な家庭のものも、そうでないものもいた。時にはいったいどうやって渡りをつけたのかと思うような著名人や、日本でも指折りの名家からの依頼をラウール団長が引っ張ってくることもあった。雅文が請け負うような依頼をしてくる相手はどんな生活をしていようと誠実で正直なことが多く、雅文が仕事をすると、こちらから言わなくてもお礼が送られてくることが多かった。


 雅文は自分で依頼を受けた場合でも〈実際に仕事をするのは自分ではないが、自分を連絡窓口にしてくれて構わない〉という体を取った。雅文の〈もうひとつの顔〉が暴かれることはなく、表立って囁かれることはなかったが、〈義賊のジェスター〉の名は助けを求める人から人へ、次第に知られるようになっていった。


 「君が神のご意志に叶った仕事をしているからだ」


 とラウール団長は言ったものだった。


 「神がご自身の意志に沿って仕事をする人間を導くのは当然だ」


 そんなある日、雅文はある一家の話を聞いた。


 「ひっどいんだよ」


 この話を聞いてきたのは貴子だった。彼女は拳で床をどんと叩いた。


 「さっきカワイコちゃん(貴子は自分が世話をしている猛獣たちのことをこう呼んでいた)たちと練習してたらさ、ガリガリのちび助が新聞抱えてじっとこっち見てるじゃない……なんか今にも倒れそうな顔しててさ。声かけたかったんだけど、すぐ行っちゃったのね」

 「夕刊を配ってたんだね」


 雅文は相槌を打った。一緒に聞いていた火吹きが、気の毒そうな顔をして腕を組んだ。


 「感心だなあ……倒れそうってのが心配だけど」

 「そう。でね、あたしが突っ立って見送ってたら新聞を取りに来た人がそばのうちから出てきてさ。あああの子かいって言うから、話聞いてみたの。そしたらさ、その子の母さんはずっと具合が悪くて、同じ薬を長いこと買ってるんだって。でも売ってるお医者にだんだん値を吊り上げられて、ただでさえ貧乏だったのにますます……ってことらしいの。だから、その子も小さいのに働いてたんだよね。薬の原材料が値上がりしてるっていう理由は、一応あるみたいだけど」

 「着服してるんだとしたら、ひどいね」


 貴子は首を振った。


 「これだけじゃないんだ。なんかね、よく効く新しい薬ができそうだけど数が少ないから、予約して前金をよこせば早く回してやるって言われて相当巻き上げられたらしいの。でもそれがもう一年も前の話で、薬なんか来やしない。まだ開発が終わってない、ってはぐらかされるんだって。そのせいで今までの薬が買えなくなって母さんは弱っていくし、父さんも無理して体を壊すし、もう明日にも心中があるんじゃないかなんて言われてるうちなんだってさ。〈二丁目の松田さん〉って言ってたよ」

 「ひっどいな」


 雅文は火吹きと顔を見合わせて唸った。火吹きは涙ぐんでいた。


 「マサ坊、早くなんとかしてやってくれよ。一家心中なんて、冗談じゃない」

 「でも、単にお金を取り戻してくるだけじゃ同じことの繰り返しになってしまうね。薬代を着服した証拠とか詐欺の証拠みたいなものを見つけて、二度と同じことができないようにしないと」

 「できるのかい、そんなことが」

 「分からないけど。でも、できる限りのことはやるよ」


 雅文は、まず怪盗ジェスターの名で医師に〈あなたの大切にしているものをいただく〉という予告状を出した。そして、届いた頃合いを見計らって同じ予告状を持って医院に出向き、自分はこの怪盗を追っている探偵だが、今度この医院に目をつけているという旨の予告状を受け取った、実に無礼な振る舞いで腹に据えかねるので、ぜひ自分に捜査させてほしいと願い出た。


 〈大切なもの〉について医師は金庫だろうと決めつけ、雅文に警護を依頼してきた。警察に届け出ることはなかった――彼は、怪盗など眉唾ものだと半信半疑な上、存在を公にはしにくい汚い金をたんまり溜め込んでいたのだ。


 決行日は書かなかったから、医師は安全が確認できるまで雅文を自由に捜査させてくれた。一週間、雅文は医院と医師の屋敷の両方で、中の構造の把握や、〈本番〉に際して持ち出すべき資料の有無、金庫の位置や仕組みなどを入念に確認した。その結果、医師は帳簿を二重につけ、実際の会計と着服の事実が抹消された会計を別に管理していること、会計士などは一切頼まず、医師が自身の屋敷で管理していること、偽の帳簿を使って税金を安く済ませていたこと――などが次々と明らかになった。松田家が買っていた薬が不当に値上げされていたことも帳簿を見比べれば一目瞭然だったし、新薬の件については、偽の帳簿の方には記載すらされていなかった――つまり、そんな薬は最初から存在しなかった、ということだ。


 この間にサーカス団は次の公演先に向かったが、これはよくあることだった。同じ場所にテントを張り続けるのは、旅回りのサーカス団としては不自然だからだ。


 医師は自身の秘密が公開されることを心底恐れているはずだったが、明らかに油断の気配が感じ取れた――彼が何をおいても人目から隠し通すべき大切な帳簿は、医師が医院から帰ったあとは大抵書斎の机に放置されていたし、その日使ったページが開きっぱなしになっていることすらあった。それは、これまでにも彼の強欲の犠牲になった人々が大勢いたが、そうした人々は彼の悪事を暴くには無力だったことを示していた。そのおかげで、雅文は一切疑われることはなかった。医師は雅文の本当の目的が自分の不正を暴くことだとは夢にも思っていなかったし、雅文が寝ずの番をして、翌朝大切な金庫とその中身が無事ならばそれで満足していた。


 一週間後のある晩、雅文は番をしている間に二冊の帳簿を自分が部屋を取っている宿に持ち帰った。そして、一時間足らずで何食わぬ顔をして金庫の番に戻り、医師に向けて書置きをした。


〈あなたの大切なものは確かにいただいた。世間の目に晒されたくなければ、これ以降正直な商売をすることだ。わたしはいつでも、あなたを見ている。あなたの悪事をわたしが知らない間に嗅ぎつけ、知らない間に盗み出したように。


怪盗ジェスター〉


 翌朝いつも通り書斎に入ってきた医師は、愛想よく雅文に挨拶し――机の上の帳簿がないのを見て、たちまち真っ青になった。そして、予告通りに〈大切なもの〉をかっさらっていった不遜な怪盗の書き置きを見て、恐怖と怒りでぶるぶる震えはじめた。


 「どうなさったんです? 」


 雅文はいかにも心配そうな顔で依頼主に声をかけた。医師はその一言にぎくりと飛び上がり、寝ずの番をしていたはずの雅文に詰め寄った。


 「昨晩、……こ、ここに、誰か来たかね? 」

 「いいえ、誰も。来たとしても追い返しますよ」


 嘘ではない。雅文は医師の様子に何か察したような表情を作ってみせ、金庫を指した。


 「お確かめになりますか? 」

 「ああ、いや……それは……しかし、うん」


 医師はうろたえたが、金庫の中を確かめた。もちろん、一銭も減ってはいない――しかし、今の彼にとっての〈大切なもの〉は、もはや金庫でも中身でもなかった。医師は追い詰められ、雅文を睨んだ。


 「……君、わしの机のものを動かしたりはしていないだろうね? 」

 「机ですか? 何か、特別なものを保管なさっていたのですか? 」


 雅文はきょとんと聞き返した。そうなれば、二重帳簿のことをみずから暴露する覚悟を持たない限り、医師は沈黙するほかなかった。


 「……いや、いい。……君、昨日どうやら例の怪盗とやらが来て、仕事をしていったようだ」

 「なんですって! 」


 医師がぐったりしているのを気遣いながら、雅文は驚き、義憤に燃えてみせた。


 「ジェスターめ、いつの間に……あいつの仕事はいつもそうなんです。誰も姿を見ていないのに、必ず目的のものを盗んでいくんです。義賊だなんて言われてますが、とんでもない悪党ですよ! 」

 「その、義賊というのは……あとあとそばで見張っていたりするのかね? その、一度狙った家を? 」

 「見張っている? ジェスターが今後もこのお宅を、ということですか? さあ、そんなことは例がなかったと思いますが。ただ、なんせ神出鬼没ですからね。一度仕事を果たした家でもまた狙う価値があると思えば、どこからか聞きつけてくるかもしれませんが……」


 雅文は不思議なことを聞く人だなあ、という顔で言った。そして、心底申し訳なさそうな、神妙な顔を作った。


 「どうやらお役には立てなかったようで本当に申し訳ありません。なんでしたら、今からでも警察に届け出ていただいて……」

 「いや! 」


 医師は泡を食って遮った。


 「いや、いや、いや……そんな、大したものではないから、構わん。……えー……まったく、怪盗ってやつは、審美眼がおかしいのではないかね? あんな、つまらんものを……わざわざ、予告状までよこして盗んでいくなんて………」

 「ではせめてわたしが調査を続けましょうか? 何を盗まれたのか分かれば、どこで流通する可能性があるかということくらいは――」

 「いや、それも、結構だ、せっかくだが……君は、よくやってくれたよ。少ないが、取っておいてくれ」


 医師は金庫を開け、雅文に紙幣の束を握らせた。雅文は謙虚に遠慮した。


 「ジェスターを食い止められなかった以上、謝礼をいただくわけにはいきません」

 「いやいや、遠慮しないでくれ……ぜひ受け取ってくれたまえ。だが我が家の名誉にかけて、他言は無用だ。よろしくお願いするよ」

 「それでは、いただいていきます。……本当に申し訳ありません。どうかお気を落とさず」


 こうして雅文は医師の屋敷を表向き辞した。しかしその晩再び医師の書斎に、今度は窓から忍び込み、松田家が巻き上げられたのと同じ金額の紙幣を金庫から取り出した。怪盗ジェスターはすでに仕事を終えた――少なくとも二晩続けて狙われる理由などないと思い込んでいる医師は、見張りになど立っていなかった。もっとも、詐欺の証拠を誰とも知らない怪盗の手に握らせてしまった以上、気落ちしてそれどころではなかっただろうが。


 雅文は書斎から立ち去る前に、次のような書き置きを金庫の扉に貼りつけた。


〈優秀な金庫番を、なぜ立ち去らせた? 彼が立っている限り、わたしはあなたの机にしか手が届かなかったというのに。しかし、あなたの金庫に入っている財産のいくらかは、本来あなたの手に握られるはずのものではなかった。あなたがそれに気づいて、彼を敢えて去らせたのだと信じたい。


怪盗ジェスター〉


 雅文は持ち出した紙幣に自分が渡された紙幣を加え、〈二丁目の松田さん〉宅へ出かけた。裕福でない家族が暮らす家は似たような生活水準の家が立ち並ぶ中にあっても見るからにみすぼらしく、家全体が傾いているような感じさえあった。まだ明け方には少し間があるといった時間帯だったので、辺りは静まり返っていた。


 ところが、彼が紙幣を入れた封筒の表書きを書こうとしたとき、立てつけの悪い松田家の引き戸ががたりと音を立て、中から痩せた少年が顔を出した。貴子が見たという、新聞配達の少年というのは彼だろう――雅文は常にポケットに忍ばせている仮面を取り出し、顔を隠した。


 松田少年は自宅の前に立っている雅文に気がつくと、ぎょっとして飛び退った。仕方ない。早朝仮面をつけた男が黙って玄関先に立っていたら、大人だって驚くだろう。悲鳴を上げられなかっただけでも幸運だったと言わざるを得ない。


 「な、なんだよ、あんた」


 少年はかすれた声で言った。発育が悪く小柄だが、見かけより年が長けているらしい。恐らく、雅文とも五歳ほどしか変わらないだろう。雅文は彼に封筒を差し出した。


 「君のお母さんと薬のことを聞いたよ。これは薬が値上げされた分のお金と、新しい薬があると言われて君のお父さんが払った代金だ。このお金を持っていた人は、もともとそれを手に入れてはいけない人だった。だから君たちに返すよ。お父さんとお母さんに教えてあげてくれ」


 少年は雅文と封筒を交互に見て、震える手で封筒を受け取った。中を見て、縋るようだった顔が次第に驚愕に彩られ、身震いしたかと思うと、彼は転がるように家の中に引き返した。


 「父さん! 父さん、見ろ! 母さん! 」


 中で何か内職のようなことをしようとしていた父親が、なんだ晴海、などとぼやけた声を出す。雅文が見ていると、父親は寝ぼけ眼で息子の話を聞き、不審そうに封筒を確かめ、息子とまったく同じように身を震わせた。母親は臥せっていたが、病床で静かに手を合わせた。晴海少年が興奮して話している。


 「――違う、神さまじゃない。あの人だよ! あの人が、持ってきてくれたんだ! 」


 雅文がその場を去らずに待っていたのはこのためだった。子どもが突然大金を持って帰ってきたら、両親は不審がるに決まっている。晴海少年が指を差すのに合わせて顔を覗かせれば、彼らにも息子の話がすべて真実だと伝わったことだろう。


 「待って! 」


 立ち去ろうとした雅文を晴海が引き留めた。仕事に出かけようと表に出てきたときはあれほど顔色が悪かったのに、いまやその頬は紅潮し、すっかり健康を取り戻したように輝いていた。


 「あなたは、誰ですか? 」

 「僕は怪盗ジェスターだ」


 晴海に〈怪盗〉が何なのかきちんと伝わるかは分からなかったが、雅文は名乗った。晴海はひと息に言った。


 「ありがとうございました。おれ、いつかあなたみたいになります! 」

それはおすすめできないな。雅文は苦笑し、晴海の頭に手を乗せた。

 「頑張れよ、晴海くん」


 背に元気な返事を受け止めながら、雅文は今度こそその場を後にしたのだった。……

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