三、人食い鬼

 雅文が小野寺家に探偵として雇われて、数週間が経った。美月の周辺にはあの誘拐未遂事件以来恐ろしいことは今のところ起きていなかった。力のなさそうな老婦人の梅ではなく、雅文が美月のそばについているからというのもあっただろう。雅文はときおり怪しげな視線を町で感じたが、美月の安全が脅かされたことはなかった。


 実のところ、これほどたやすく美月の近くに潜り込めるとは雅文も思っていなかった。彼は宮園家の令嬢の周囲に偽ジェスターの情報があるのではないか、何らかの目的を持って宮園家を壊滅させたであろう偽ジェスターが今後も宮園家の生き残りである美月に何か手を出してくるのではないかと考え、〈郊外に屋敷を持つ画商のオノデラだかオノザワ〉という手がかりをもとに小野寺家を探り当てると、数日の間外から小野寺家の様子を観察していた。


 雅文が見ている間に美月が梅と外出することになったのは偶然だったが、ひそかに彼女たちと同じバスに乗って町へ向かい、目を輝かせて本を選ぶ美月を遠くから見守っているうちに、彼女をつけ狙っている男を発見した。そして、たまたまそこに居合わせたような顔をして美月と梅を救ったのだった。

 

 予期せぬ事態ではあったが、美月たちと接点を持てた(それも、かなりいい印象だったに違いない)ことだけでも雅文にとっては好機だったのに、義理堅い梅が美月の身辺警護の話を持ちかけてくれたことはまさしく渡りに船だった。梅のように、長らく屋敷に仕えている使用人は主人やその家族からの信頼も厚い。彼女たっての推薦が得られたことも、雅文にとっては都合がよかった。梅は自分では力の及ばない事態から美月を守ってくれた雅文をすでに心から信頼しており、梅と仲のよい美月も自然と彼に心を開いてくれたからだ。


 美月にとっては、口を開きたくない話題である可能性があった。だが、美月を守る探偵として知っておきたいからという理由で宮園家のことを少しずつ尋ねる雅文に、美月は知っている限りのことを教えてくれたのだった。


 美月は縁側で庭を眺めながらぽつぽつと話した。


 「わたし、別の部屋にいたんです。もう夜だったわ。突然母の悲鳴が聞こえたので、驚いて一階の客間に見に行ったんです」

 「事件があったのは、客間だったんですね」


 雅文は手帳に書き留めながら言った。美月の眉の辺りの表情が曇った。彼は慎重に話を続けた。美月には辛い話だろうが、明らかにしておかなければならなかった。


 「美月さんが行ったときには、ご両親はもう――」


 だが、美月はここで首を振った。


 「両親は、足元に倒れていました――でも、最初に目に入ったのは、真っ暗な部屋に立っている人影でした」

 「犯人を見たんですか! 」


 雅文は美月が殺人犯と鉢合わせていたことに驚いた。美月は次第に青ざめてきていたが、頷いた。


 「ええ。わたしからは月明かりが逆光になっていて、顔までは見えなかったけれど。影だけでも性別の違いくらいは分かるものね――大柄な男の方でした。部屋は真っ暗で、最初に彼が目に入って――でも、その足元に……父と、母が……」


 美月の肩が震えた。だが、雅文が話を切り上げる前に美月は頭を振り、気丈に顔を上げた。


 「彼は、わたしの方を振り向いたわ。どうしてわたしを見逃したのかは、分からないけど……彼はわたしに向かって〈わたしは怪盗ジェスターだ〉と低い声で言ったの。そしてそのまま窓を破って、外へ出ていきました」

 「ジェスター……」


 雅文のこの呟きは、彼本人にすら意外なほど怒りに満ちて聞こえた。美月は続けた。


 「わたし、驚きました。だって、怪盗ジェスターは義賊として有名な方だから……今までに彼が予告状を出して起こした事件は、みんな誰か立場の弱い人のためだったから。そんな彼が人を殺したなんて、信じたくありませんでした。でもわたしを引き取ったとき、父が――誠三が、言ったの。人知れず家屋敷に忍び込み、目的を果たして正体を悟らせずに逃げ出す……そんなことができるのは、帝都を騒がす怪盗ジェスター、彼しかいない。宝石を目当てに忍び込んできたが、成果が得られなかったから腹立ちまぎれにおまえの両親を殺したんだろうと」

 「……なるほど。それで、容疑者のひとりに怪盗ジェスターの名が挙がっているんですね」


 雅文は言ったが、美月があまりに青い顔をしているので、思わずその背をさすった。


 「美月さん。……申し訳ない、辛いことを思い出させてしまって」

 「……いいえ。ごめんなさい、こんなことで。もう済んだことなのに」


 美月はうつむき、何かに耐えるように目を固くつぶった。その様子があまりにいじらしく思え、雅文は胸をつかれた。


 美月は、突然両親を奪われ、平穏な暮らしを奪われた。みずからは無事であったとはいえ、死の予感に直面した美月に刻まれたであろう恐怖は、彼女が普段見せている姿からは想像もできないほど深刻なのだ。縋るものもなく、膝の辺りで握りしめられていた小さな拳を、雅文はそっと手に取った。恐怖の記憶に怯え、泣くこともできずにただ震えている目の前の少女を、何とか慰めてやりたい一心だった。


 美月ははっと顔を上げ、大きな黒い瞳で雅文をじっと見つめた。


 「そんなふうに、自分を傷つけるようなことを言ってはいけない。話してくれてありがとう、美月さん。無事で、本当によかった」


 美月に現れた変化は顕著だった――彼女は唇を歪め、何とかやり過ごそうとしたようだったが、そのうちに瞳からは涙がひと粒こぼれ、ふた粒こぼれ、声を立てずに泣き出した。


 雅文は彼女が落ち着くまで、その手を握ってそばについていた。


 これほど優しく、柔らかい美月の心に生涯残るであろう傷を負わせたばかりか、彼女の人生の平穏を粉々に破壊した〈怪盗ジェスター〉に対する怒りが、わずかに彼の手を震わせた。美月はジェスターを義賊と信じてくれていたようだが、それも今や失望や憎悪に取って代わられつつあるに違いない。そう思えば、なおさら憤ろしかった。


 このとき、加代の声が美月を呼んだ。何か用事を言いつけるのだろう。美月は顔を上げ、はにかんだように雅文の顔を見た。


 「……腫れてる? 」

 「ええ、少し」


 雅文は彼女の頬に残った涙をハンカチでそっと吸った。美月は案外すっきりした顔で、雅文にほほえみかけた。


 「ありがとう、橋本さん。お母さまが呼んでいらっしゃるから、またあとでね」

 「何かあったらすぐ呼んでください」


 雅文は彼女を見送り、自分もその場を立ち去るふりをして――いきなりすぐ後ろのふすまを引き開けた。中にいた人物は突然光にさらされてまともに反応もできず、ぽかんと雅文を見上げた。


 松田晴海。小野寺家の使用人のひとりだ。雅文が屋敷にやって来てからというもの、晴海は雅文に何かの疑いをかけているらしかった。だからろくに言葉も交わさないうちから剣呑なまなざしを向け、今のようにしょっちゅう立ち聞きをしているのだ。


 松田の方は気づかれていないと思っていたかもしれないが、怪盗としても探偵としてもあまたの窮地を切り抜けてきた雅文をあざむくほど巧妙な気配の消し方を、この実直だが不器用そうな青年が身に着けているはずもなかった。そして松田にとっては運の悪いことに、このときの雅文はぶしつけな立ち聞きを見過ごせるほど朗らかな気分ではなかった。


 「また立ち聞きかい」


 雅文が言うと、松田はようやく我に返ったようにはっとした。そして、みるみる青ざめていった。


 「ま、また・・? まさか、今までの……」

 「気づいてたさ。……まあ、ちょっと声をかけられたくらいでそんなふうにボロを出すようなありさまじゃ、向いてないから別の方法にした方がいいんじゃないかい」

 「やかましい! 余計な世話だ! 」


 松田は真っ赤になって怒鳴ったが、からかうような口ぶりと裏腹の雅文の表情を見てまた真っ青になった。


 「何が目的かな? 」


 雅文は柔らかな声で言った。腕を掴んでいるわけでも他に出口のない部屋に追い詰めたわけでもなかったから、松田は立ち去ろうと思えばそうできるはずだ。


 しかし彼は雅文に睨まれたまま動けなくなっていたし、雅文も彼を逃がすつもりはなかった。


 「梅さんに聞いたよ。君、美月さんが引き取られてきたばかりの頃にここに雇われて、彼女に事件のことを根掘り葉掘り聞こうとしたんだってね。それに、ずいぶん熱心に僕らの話を盗み聞きしていたみたいだけど、君が知りたかったことは何かひとつでも分かったのかな? ……ただの好奇心なら君が何を知ってどうなろうと好きにすればいいけど、二度と美月さんを傷つけるようなことはするな。もし君が遺産だの宝石だのを狙って――」

 「……待って、待ってくれ! 」


 松田は必死に手を振った。なんとも嘘をつくのが下手そうなやつだなと、雅文は思った。


 松田は息をするのも忘れていたようなありさまで、ぜいぜい言いながら話した。


 「おれは、あんたが思ってるような立場の人間じゃない……本当だ。宮園夫妻のことは聞いているが、おれが追っているのは別の事件なんだ。立ち聞きは申しわけなかったが、美月お嬢さんには嫌われてしまったから仕方なかったんだ――だが断じて、お嬢さんをこれ以上ひどい目に遭わせようと思っているわけじゃ、ない」

 「……別の事件? 」


 雅文は少し冷静になった。どうも話が噛み合わない。


 松田は咳払いして、ようやく声を整えた。


 「あんたは探偵さんだったな。おれは、〈人食い鬼事件〉の潜入捜査官――捜査一課の刑事だ」


 雅文は面食らった。刑事――確かに、言われてみればそんなふうに見えなくもない。だが、〈人食い鬼事件〉とは?


 松田は自分の容疑を晴らそうと思ったのか、正体を明かしてしまったことで開き直ったのか、雅文が探偵を名乗っているから明かしてもいいと思ったのか、それとも美月を本気で案じる雅文を信頼できると思ったのか、呆気に取られて沈黙している雅文に事情を説明しはじめた。


 「橋本さん。この辺りの地域に伝わる〈人食い鬼伝説〉って、知っているか? 」

 「奥さんと子どもを殺された男がその肉を食べて、それ以来……ってやつなら」


 梅が美月に話して聞かせていた昔話が、雅文の頭をよぎった。あのときはまだ小野寺家の人々とも面識がなく、梅自身も言っていたように道中の退屈しのぎのようなもので、まさかここで思い出すことになろうとは思ってもいなかったが。


 松田は真剣な顔で頷いた。


 「そう、それだ……実は一年くらい前から、この辺りで若い女性が遺体で発見されたり、行方不明になったりすることが続いている。同じ事件の被害者かどうかはまだ分からないんだが、あまりにも続くもんでね。調査に来てみりゃ、人食い鬼が生き返ったんだとかなんとか……それで警察の方でも、仮に〈人食い鬼事件〉と呼んでるんです」

 「鬼塚が割れたそうだしね」


 松田は塚の話は知らないらしく、きょとんと聞き返してきた。


 「鬼塚? なんですかそりゃ? 」

 「人食い鬼が成仏したあと、供養のために建てた塚なんだって。最近になって割れてしまったと、誰かが言っていたよ。僕もこの辺りの人間じゃないから詳しい場所は知らないけど、梅さんだったら知ってるんじゃないかな」


 まさか、雇い入れられる前から住人の周りをうろついていたせいで聞きかじったなどと刑事に白状するわけにはいかない。雅文がぼかしながら言うと、松田の元に戻りつつあった顔がまた青くなった。


 「……まさか、本当に鬼なんてもんが……」

 「君、ずいぶん純粋なんだね」


 雅文は呆れた。この男が宮園家の不幸を引き起こしたのではないか、などとちょっとでも疑った自分が情けない――彼は目つきこそ悪いが、どうやら悪い人間ではなさそうだった。


 松田は雅文があまりに平然としているので、やや赤くなった。こんなに考えていることが分かりやすいのによく潜入捜査官なんて任されたもんだ、と雅文は思った。


 「おれだってまさか信じちゃあいないが。そうはいったって、本当に鬼がいたら困るでしょうが。そんなもん警察は専門外だし、探偵にだって神主やら坊さんやらの真似事はできんでしょう。……まあ、貴重な情報だ。一度調べてみよう」

 「僕だって、別に絶対そんなものいないとは言わないよ。でもここはもっと現実的に、鬼のせいにして罪を重ねている人間がいることを疑うべきだ。昔話の鬼男は、最後にはお坊さんの力で成仏したというしね……その〈人食い鬼事件〉は、どんな事件なんだい」

 「……んー、まあ、探偵さんになら構わんか……」


松田は気を取り直して、自分の手帳を開いた。


 「今のところこの事件の被害者と考えられているのは、五人。そのうちふたりは遺体で発見され、三人は行方が分かっていない。いずれも十代から二十代までの若い女性で、五人ともそれぞれ事情は違うが、身寄りがなかった。ここまでよければ、続けるが」

 「いいよ。続けて」

 「ひとり目は、〈それいゆ〉というパーラーの女給をしていた、三谷みたに弥生やよい、十七歳。彼女の首がこの辺りの山で発見されたことから、この事件ははじまったんだ」

 「首だけかい? 」


 雅文は思わず顔をしかめた。松田は頷いた。


 「ああ、首だけだ。体の他の部分はまだ見つかっていない。刃物や何かで切ったようなきれいな傷じゃなく、食い千切られたみたいにガタガタした傷だった。だから、鬼のしわざだなんて言われるようになったんだ」

 「なるほど。それから? 」

 「ふたり目、神崎かんざきはな、二十二歳。職業モデルとして、絵に描かれるのを仕事にしていた。彼女は襲われたときに悲鳴を上げたらしくて、発見されたときはまだ辛うじて息があった――最期の言葉は、こうだ。〈鬼から逃げたのに……〉」

 「また鬼か……」

 「あとの三人――松島まつしまみどり、三条さんじょう桜子さくらこ岡本里おかもとさとは、行方が分かっていない。なんせ身寄りがないもんだから、いなくなったことに気がつくのにも時間がかかったみたいでな」

 「でも、〈人食い鬼事件〉の被害者として数えられてるってことは、前のふたりとまだ共通点があるんだろう」


 雅文は言った。


 「それに、君がこの家に潜入している理由をまだ聞いていない。〈人食い鬼〉の被害に遭った女の子たちは、このお屋敷に何か関わりがあるのかい? 」


 松田は辺りを見回し、さらに声を低めた。


 「実は、一連の事件の容疑者として小野寺夫妻の名が挙がっているんだ。それでおれは敢えて彼らに身分を明かし、この辺りの惨殺事件について調査したいから協力を仰ぐといって、使用人という体裁で雇ってもらうことになったというわけで」


 これには、さすがの雅文も息を呑んだ。小野寺夫妻が〈人食い鬼〉? 松田は眉をひそめて続けた。


 「三谷弥生は、亡くなる数か月前からこの屋敷に通っていた。小野寺誠三に絵のモデルを依頼されて、週に一回、あんたも乗ってきたあのバスで来ていたんだ。小野寺氏は画商だが、最近は絵描きの仕事に力を入れている。一日中、アトリエにこもってるでしょう……しかも、あれだけ徹底して人を寄せつけないときた……まさか被疑者と思っているから潜入したなんて言えんから、強引に捜査するわけにもいかなくてな。なんでも、モデルを依頼された娘だけがあの洋館に立ち入るのを許されるそうで」

 「それじゃ、花さんも? 職業モデルだったんだよね? 」

 「そう。神崎花の方は、一回限りだった――というか、初めて小野寺家に呼ばれた帰りに道で襲われたらしいんだ。鬼から逃げたのに、と言って亡くなったことから、〈鬼〉に襲われて一度は逃げたが、二度目の襲撃があって致命傷を負わされたんじゃないかと考えられている。……あとの三人はこれといった足取りがまだつかめていないんだが、目撃証言があってな。バスに乗っているのを見たとか、身なりのいい紳士と話しているのを見たとか。それに、梅さんも言っていた――屋敷にたびたび、若い娘がやって来るのを迎えたと」

 「そのお嬢さんたちが帰るところは見たって? 」

 「いや、来るときは迎えたが、帰るのは見ていないと言っていた。まあ梅さんも四六時中客の世話をしているわけじゃないし、一度あの洋館に客が入ったら関わりたくても関われないだろう。知らないうちに帰ったもんだと思っていたようだが」

 「ふうん……」


 雅文はあごに手をやった。小野寺邸にやってきた女性たちが惨殺され、あるいは行方不明になっているという情報だけでは決め手に欠ける――松田もそれは分かっているのだろう。立ち聞きまでして入手できる限りの情報を集めようとしていたのもそのせいだろう、と雅文は思った。


 「でも、それだったらせっかくの立ち聞きもあんまり意味なかったんじゃない? 僕は〈人食い鬼〉のことについては何も知らなかったんだし」


 なぜか、松田はこの言葉にもじもじとうつむいた。


 「……あんた警察の人間じゃないし、話しても構わんと思うから、言うが。おれがこの〈人食い鬼事件〉の調査に割り振られたのは、たまたまじゃない。小野寺家の人間に容疑がかかっているというから、おれが自分で希望を出したんだよ――小野寺家に、宮園美月が引き取られたと聞いていたからな」

 「美月さんがいると、どうして君が調査に来たくなるんだい? 」


 ここまできて突然要領を得なくなった松田の話に、雅文はまったく要点を掴めなかった。松田はしばらく黙っていたが、ようやく決心したというふうに、小さな声で言った。


 「……彼女の家を襲ったのが、怪盗ジェスターだという噂があったから……」

 「えっ? 」

 「怪盗ジェスターが本当に人殺しなんかしたのか。おれは、本当を言うとそれを知りたかったんだ。それでお嬢さんにいろいろ聞きたかったんだが、さすがに配慮が足りなかった」


 雅文が目を丸くして黙っているのをどう思ったのか、松田は最初にためらっていたのが嘘のように勢い込んで話し出した。


 「あの人は義賊だ。困っているやつを必ず助けてくれる――自分ではどうすることもできなくても、きっと力を貸してくれるんだ。そんなジェスターが人殺しなんかするもんか。……お嬢さんは信じたくないと言っていたが、おれだって信じたくない。いや、絶対に、信じない」

 「君、刑事さんだよね? まあ担当の課は違うだろうけど」


 雅文はどう考えたものやら判断に迷った。松田は熱弁の勢いあまって、肩で息をしている。ジェスターを正義漢だと妄信するのは松田の勝手だが、何がそこまで彼を駆り立てるのかが分からない。いくら義賊といっても、怪盗と警察はどこまでも相容れないものだ。


 だが、松田は首を振った。


 「刑事だったらなんだ……あの人が罪人だっていうなら、世の中犯罪者だらけだ。――おれはな、橋本さん。怪盗ジェスターに、助けられたことがあるんだ」


 雅文は今度こそ言葉を失った。松田晴海……この青年と、今までに関わったことがあっただろうか? それとも、ジェスターを名乗った他の義賊の仕事だろうか?

松田は構わずに話した。


 「もうずいぶん前の話だ。おれのうちは貧乏で、しかも母親の具合があまり思わしくなかった。決まった薬を飲んで、何とか小康状態を保っていたんだ。――ところが、定期的に薬を買わなければならないことに医者のやつがつけ込んできた。薬の材料が足りないっていう理由で、だんだん値上げしてきやがったんだ」


 ここまで聞いて、雅文はそういえばそんなことが、とおぼろな記憶を揺り起こした。該当の仕事を請け負ったとき、雅文が救った一家には確かに少年がいた――懐かしさのあまり


 「ああ、君だったのか! 」


 などと思わず口走りそうになり、雅文は口をつぐんだ。松田は続けた。


 「それだけならまだしも、画期的な新薬ができそうだから予約すれば優先して売ってやるとおやじに話を持ちかけ、必死に貯めた金を根こそぎ持っていきやがった。それでも薬とやらが実際に届くんだったらまだよかったが、半年経ち、一年経ちしても一向に薬なんかできやしない。最初からそんなものなかったんだろう。おふくろは新しい薬が買えずにだんだん弱っていき、無理したせいでおやじまで体を壊してしまった。おれも何とか働こうとしたが、ガキにできる仕事なんか大してない――それどころか、足元を見られてタダ働きさせられて終わることもあった。どうしておれのうちにはこんなことしか起こらないんだ? もう一生、こんな暮らしをしなきゃならないんだろうか? いや、もうこうなったら、生きていけるかも分かったもんじゃない……下手すりゃ、一家心中だ。ところが、そんなおれたちのところへあの人が現れた」

 「怪盗ジェスターが? 」

 「そう。一体どうやって知ったのか……どうやってやったのかも分からないが、あの人はおれたちが騙し取られた薬代以上の金を取り返してきて、おれに手渡した。顔半分が仮面で隠れてたからどんな人相かは分からなかったし、風みたいに去ってしまったから、おやじの礼も背中を追っていくだけだったが。悪徳医者はすっかり大人しくなり、これまでのことをおれたちに詫びて、正直な商売をするようになった。おかげでおふくろもおやじも良くなったし、生活は楽になっていった――あのときから、ジェスターはおれの英雄だ。あの人にもう一度会いたくて、刑事になった……他に、会えそうな仕事がなかったから」

 「そうしたら、彼が殺人犯になってしまったわけか」


 雅文は静かに言った。彼は胸を打たれていた――雅文が仕事をした当時、晴海少年は先の見えない自分の運命に絶望しきった、うつろな顔をしていた。それが、こんなに立派に――やや向こう見ずなきらいはあるようだが――成長し、一人前に仕事をしているのだから感慨もひとしおだった。雅文は普段、自分が救った人々のその後の消息を知る機会はほとんどなかったから。


 松田は真剣に言った。


 「もちろん〈人食い鬼〉はおれが必ず尻尾を掴んでみせる。そして、別件ではあるがジェスターの無罪もつきとめる。何年かかってもあの人の潔白を証明して、真犯人をブタ箱にぶちこんでやるんだ……義賊の名を騙って最悪のことをしでかした報いを、必ず受けさせてやる」

 「なるほど。なら、僕も協力しよう」


 雅文は言った。宮園家の襲撃事件と〈人食い鬼〉とに関連があるかはまだ分からなかったが、いずれにしても松田と組むのは悪くない手だった。偽ジェスター関連にしろ美月関連にしろ、刑事にしか知り得ない情報が手に入るに違いない。


 「僕は、美月さんの護衛として雇われているからね。もし君の言うとおり小野寺家に〈人食い鬼〉が潜んでいるとしたら、何が目的か分からない以上美月さんだって狙われる可能性がある。〈人食い鬼〉事件は、僕にとっても無関係とはいえない」

 「養女に目をつけているなんて、考えたくないけどな……」


 松田は気味悪そうに身を震わせた。


 「あんたが事情を知っていてくれるというのは心強い。……だが、いかんせん証拠を掴みにくい相手だ。何かあるとしたらあの洋館だが、おれですら入れてもらえない……小野寺誠三に、自分が疑われていると勘づかせるわけにはいかないからな。この疑いが正しかったとしても、無理に捜査を入れようものなら先に証拠を隠滅されてしまうだろう。小野寺加代がどの程度噛んでるかにもよるが、正面突破は難しい」

 「中の様子も全然分からないのかい? 」

 「残念ながら。見取り図のようなものもないし、少し近づいただけでも血相変えて怒鳴るもんだから、窓から様子を窺うのも容易じゃない。一階で窓があるのは誠三が詰めてるアトリエだけだしな」

 「なぜそんなに人を近寄せたくないのかな? 見られたくないものがあるとしか思えないけど」

 「かもな。……ただ梅さんに聞いたところによると、誠三はひどい頭痛持ちだか不眠症だかなんだそうだ。普段は穏やかに見せているが実は神経過敏で、ちょっとしたことで集中が乱れるから鉄壁の空間を作りたかった、っていう理由なら一応筋は通ってるな。芸術家ってやつは、そういう……まあなんだ、〈症状〉を持っていることもあるっていうし。何にせよ、証拠がないんじゃなんとも言えないが」


 松田はずいぶん苦戦を強いられていたのだろう。雅文を窺う顔は渋かった。確かに、彼のような実直な男に正面突破以外の手が思いつくとは思えない。実直で、正直で、一途。そんな彼には、同じように正直な手段しか取れないに違いないのだ。

だが彼は今や、そうとは知らずに怪盗を味方につけたのだ。


 「僕が成果を持ってこれたとしたら」


 と雅文は言った。


 「それは、君と僕の立場の違いから出た成果だ」

 「あんたがお嬢さんの護衛だからか? 」


 松田は不思議そうに言った。雅文は肩をすくめ、それについては何も答えなかった。



 夕食後、雅文は本邸の一室から遠目に小野寺誠三のアトリエを見やった。二階建ての洋館――松田が言うとおり、一階で窓があるのは誠三が仕事場としているアトリエだけで、遠目にも誠三の姿が確認できるくらい大きな横長の、はめ殺しの窓だった。二階には普通の窓がいくつか並んでいる。雅文はしばらく窓の位置と構造、洋館の建築素材などを観察し、その場を立ち去った。


 扉を閉め、なるべく足音を立てずに廊下を渡ろうとしたそのとき、雅文は縁側に腰かけている誰かに出会って立ちすくんだ。縁側の先客も突然現れた雅文に驚き、目を丸くしてこちらを見つめた。


 先客は美月だった。彼女が自室の外にいるには、少し遅い時間に差しかかりつつあった。美月もそれが分かっているのか、相手が雅文だと分かってもバツの悪そうな顔を崩さなかった。恐らく、雅文は自分で思っている以上に険しい顔をしてしまったのだろう。彼としては、人目を忍ぶのがたやすい宵闇の中で彼女がひとり縁側にいることが案じられただけだった。


 雅文は咄嗟に辺りを窺い、危険はないと判断した。


 「美月さん、どうしたんです」


 ちょっと眠れなくて、と美月は言いにくそうに口ごもった。雅文は彼女の右手が汚れているのに気がついた。黒い粉……鉛筆だろうか?


 「書きものを? 」


 雅文に問いかけられた美月はぎょっとし、それから自分の右手の黒い汚れに気がついた。彼女は悔しそうに唇を尖らせた。


 「迂闊だったわ」

 「鉛筆の汚れもそうですが、この間原稿用紙を買っていたでしょう」

 「それは橋本さんしか知らないことだもの。梅さんや松田さんだったらごまかせたわ。……雨戸を閉めにいらしたの? 」


 美月が腰を浮かしかけたので、雅文は彼女を制止した。


 「お邪魔して申し訳ない。たまたま通りかかったものですから――ただ、そろそろ遅い時間です。こんな遅くまで、何を書いているんです? 」

 「何だと思う? 」


 美月は笑いながら、かえって問い返してきた。


 「橋本さん、何でも分かってるじゃない。きっとわたしが説明しなくても言い当てられるわ」


 雅文はしばし考えを巡らせた。美月は町へ出かけると大抵書店へ行く。そして、あらゆる種類の本を買い込むのだ――最初に言葉を交わしたときに雅文は彼女のことを読書家だと言ったが、それはその通りだった。……


 「探偵小説……ではありませんか? 」


 初めて雅文の名刺を見たとき、美月は〈探偵〉の肩書きに食いついた。雅文はほとんど当てずっぽうで言ったが、美月はぱっと顔を輝かせた。自分を偽る必要のない彼女の表情は実に正直で、彼女の心そのもののように美しかった。


 「そう! 読んでいるうちに自分でも書いてみたくなって、もうずっと書いているの……でも今書いてるお話、なかなかうまくいかないのよね」

 「それで、縁側に? 」

 「ええ、ちょっと息抜きしたらまた筆が進むんじゃないかと思って。でも、ここで事件を起こして……なんてこれまでは何にも思わないで書いていたけど、今じゃわたしの方がよっぽど危険なところに立っているのよね。笑いごとじゃ、ないんだけど……これも、〈事実は小説より奇なり〉っていうのかしら」


 美月は護衛に対して申し訳なさそうに言ったが、雅文は首を振った。


 「恐怖を忘れられないより、話のタネにでもできた方がずっといい」


 雅文は昼間声を立てずに泣いた美月の姿を思い出して、心からそう言った。強い子だ、と思った――財産目当てに目をつけられるだけでなく、今また〈人食い鬼〉の不穏な影すら彼女の周辺にあることを知っている雅文は、美月が自身の内側から湧き出るものを楽しんで生き生きとしているのを見て、眩いような印象を心に受けた。美月には暴漢に打ち勝てる腕力こそないが、常闇のような状況に身を置きながらも、みずからの心を救う手段を持っているのだ。自分自身に喜びや誇りを与えることができる。それは、雅文にはかけがえのない彼女の才能に思えた。


 美月が心に抱いている夢を、誰であれ踏みにじらせるわけにはいかない。偽ジェスターに端を発する関わりではあったが、こうなったら乗りかかった船だ。彼はなんとしても美月を害するものを退け、せめて彼女の未来への道筋を守らねばならないとひそかに胸に誓った。


 敵を知り己を知れば、百戦危うからず。まず〈敵〉が誰なのかを把握しなければならない。となると、彼女のもっとも身近にある懸念を晴らすためにも、やはりあの洋館に忍び込んで小野寺誠三の実態を知る必要がありそうだ――。


 「……どうしました? 」


 いつしか、美月がじっと雅文を見つめていた。よこしまな気持ちから出た計画ではないとはいえ、洋館への侵入経路のことを考えていた雅文には彼女の無垢なまなざしは居心地が悪かった。


 美月は雅文の心中を知ってか知らずか、にっこり笑って言った。


 「橋本さんて、不思議な方ね。優しくてのほほんとしているのに、時々別人みたいな目をするんだもの。――まるで、双子……いいえ、別々の人が同じ体に入っているみたい」


 ――鋭い! 雅文は思わずどぎまぎしたが、美月はそれ以上追及してはこなかった。雅文はかえって拍子抜けした。問われたら、探偵には調査対象を油断させるための顔があるものです、くらいのことは言えたのに。


 「……僕が何ものか、聞かないんですか? 」

 「あら、〈橋本雅文〉の他に正体をお持ちなの? 」


 雅文は完全に沈黙した。どうも、この少女相手だと素直に迂闊なことを言いそうになる。美月は楽しそうに言った。


 「話してくださるなら、聞きたいわ。でも、誰にだって秘密にしておきたいことはあるもの」

 「……あまり、人に話したことはないのですが……」


 雅文は前置きし、かつて自分が経験したことの中から美月に聞かせても差し支えなさそうなところがどこかを考えながら話しはじめた。


 過去を明かしたうえで自分こそが件の怪盗だと打ち明けたら、彼女はジェスターに対する疑いを取り下げて喜んでくれるだろうか、と思いながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る