二、美月

 宮園みやぞの美月みつきは裕福な宝石商のひとり娘として生まれ、幸福な少女時代を送っている最中だった。世界は彼女に対して常に優しく、必要なものはすべて与えられ、悲嘆や憎悪とは無縁の生活だった。彼女はこの生活が、少なくともそうたやすくは終わりはしないと思っていたし、ゆくゆくは似たような家柄の男を婿にもらって、〈奥さま〉と呼ばれるようになるだろうとばかり思っていた――分かりきった道ではあったが、退屈だなどとは言えなかった。他の人生に生まれ変わりでもしない限り、美月にとって未来はただひとつで、常に明らかなものだった。


 だがそれも、三か月前までの話だ。


 美月は洗いものの手を休め、このところふとした瞬間に心に現れるうつろな感情をぼんやりと味わった。ぼんやりと気持ちをはぐらかさなければ、押しつぶされそうになる。


 三か月前、母親の悲鳴に驚いて駆けつけた彼女は足元に倒れ伏す両親と、彼らの前に立つ影のような男を目撃した。間違いなく、自分も殺されると思った――しかし、彼は美月にひと言名乗っただけで姿をくらましたのだった。


 「わたしは、怪盗ジェスターだ」


 ジェスターを名乗る男は、美月には指一本触れることはなかった。だが、美月はあの月明かりの差し込む真っ暗な部屋の忌まわしい記憶を思い出すたびに体が勝手にこわばり、自由に動かなくなるのを感じるのだ。引き取られた先の小野寺家では次から次に家事を言いつけられ、泣いている暇もないことだけがわずかな救いだった。


 「お嬢さま」


 女中の梅に声をかけられ、美月はぎくりとした。いけない、ついぼんやりしていた。梅は小野寺家の使用人たちを取りまとめる立場にあり、老齢だが、家のことなら百戦錬磨の達人だった。家の主人が快適に暮らせるように常に目を配り、心を砕く。洗いもの中に他のことに気を取られている美月の様子を、見逃すはずがない。


 美月は慌てて仕事を再開したが、梅は美月を咎めようとしたのではなかった。そもそも、梅は転がり込むように小野寺家にやって来た美月を〈お嬢さま〉として如才なく迎えたばかりか、実の孫のように可愛がってくれている。家事に不慣れな美月に辛抱強く仕事を教えてくれ、彼女と台所に立つのをひそかに心待ちにしているらしい梅が、ぼんやりしたくらいで小言を言うはずはないのだ。


 梅はにこにこと人のよい笑顔を浮かべた。


 「今日も、ほんにありがとうございました。もう、ここは梅にお任せいただいて大丈夫ですから、ゆっくりお茶でもお上がりくださいな」

 「じゃあ、これだけ流してしまうわね」


 美月は手に持っていた皿をきれいにすすいだ。ぼんやりしていたといっても最初に比べて手が早くなったのか、洗いものの残りはほとんどなかった。


 梅は美月が布巾で手を拭いたのを見計らって夕食用に仕込んでいた煮物の鍋に蓋をし、棚から小さな洋風の焼き菓子を出した。そして、手早くお茶を入れて、美月に出してくれた。真ん中に赤いジャムが乗っている。


 「ありがとう、ばあや」


 と言いかけて、美月は口をつぐんだ。宮園家でも似たような焼き菓子が出されることがあり、そのとき美月の世話を焼いてくれていたのは、梅ではなかった。〈ばあや〉と呼んでも梅は気を悪くしたりはしまいが、移住して三か月あまりの屋敷の家事を取り仕切る梅をそんなふうに呼ぶのは気が引けた。


 とはいえ、頼みごとをするのには梅ほど聞いてもらいやすい相手はいなかった。


 「ねえ、梅さん。今日、出かけるのに付き合ってもらえないかしら」

 「へえ? 」


 自分も家事を片づけて美月のお茶に付き合っていた梅は目を丸くして美月を見た。


 「わたしが? お嬢さまとお出かけでございますか? 」

 「お願い。……わたし、松田さんとふたりで出かけるの、苦手なの」


 松田まつだ晴海はるみは美月が小野寺家に来たあとで新しく雇われた使用人で、不愛想なくせにずけずけとものを言い、そうかと思えば気の利いた世間話などは一切喋らないという青年だった。仕事ぶりはごくまじめで、美月が外出するときは彼が供としてつけられることが多かったが、初めて一緒に外出したときに探求心を隠しもせずに美月が小野寺家へ来るまでのことを根掘り葉掘り聞き出されそうになったことで美月は彼を敬遠していた。


 耐えかねて黙り込んだ美月の相手をするのが松田の方でも気詰まりだったのか、それ以来一緒に外出しているのに最初から最後までほとんど口も利かずにいることさえあった。いっそひとりで出かけたいと思っても、美月はひとりで外出することを許されていなかった。


 この事情を知っている梅は、なるほどという顔をした。彼女は美月が陥った状況をじかに目にしてはいないが、全面的に美月の味方をしてくれていた。もっとも、使用人同士で話をする機会に、松田がどんな人物かは梅にも分かったに違いなかった。


 「お母さまには、わたしから話しておくわ」


 美月にこう言われて、梅も頷いた。梅からすれば、可愛い美月と一緒に出かけることに、否やがあろうはずもないのだった。


 美月は、外出に際して厳しい条件を設けられていた。取り決めたのは、小野寺家の女主人である加代だ。ひとつ、必要以上に大きな金額を持ち歩いてはいけない。ひとつ、必ず誰か供をつけなければならない。ひとつ、なるべく人通りの多いところを歩き、夏は夕方の五時、冬は四時までに必ず帰って、出かける前と帰宅後は加代に挨拶すること……などなど。


 美月は不便だと思っていないわけではなかったが、なぜ加代がそんなふうに自分を束縛するのかを自分なりに理解していたし、美月が自由に使える金銭はすべて小野寺家から出ていたものだったので、文句を言うつもりはなかった。美月にここまで厳しいのは小野寺家では加代だけで、家事を次々に言いつけるのも彼女だった。当主である誠三などはそこまで厳しくしなくても、などとときおり妻を諫めようとしたが加代は譲らず、美月も加代に従うつもりでいた。


 座敷のふすまは開いていた。美月は部屋の前で膝をつき、加代に声をかけた。加代は顔を上げ、扇子で畳を差した。〈入れ〉という意味だ。美月は従った。


 「お母さま。梅さんと、お出かけしてきてもいいですか」

 「……梅さんと? 」


 加代は細い眉をぴくりと動かし、庭の方に目をやった。障子は開け放たれており、座敷に座ったままでも松田が庭木の剪定をしているのがはっきり見えた。美月はひそかに胸をなでおろした――もし彼が手すきだったら、(梅がいようといまいと)美月についていけと加代は言ったに違いなかった。


 ややあって、加代は美月に向き直った。


 「出かけてもよろしい。ただし、梅さんをあまり遠くまで連れまわさないようになさい」


 加代は扇子で合図した。美月はそれに従い、頭を下げて座敷を出た。



 小野寺邸は町なかをやや外れた場所に、森に囲まれるようにして建っている。敷地の中には本邸である日本家屋と誠三が仕事場として特別に建てた洋館が並んでおり、誠三はこの離れに他人が近づくのをひどく嫌がったので、美月は本邸の中のことしか知らなかった。画業に集中するためという目的があるとはいえ、掃除を目的に箒を持って近づいた松田を怒鳴りつけたり、妻の加代ですら立ち入らせなかったりという徹底ぶりだ。誠三は画廊をいくつも持つ腕利きの画商だったが、最近は画廊の仕事を雇った人に任せ、自分は画家としての仕事に精を出しているのだった。


 小野寺おのでら誠三せいぞうは、生真面目で几帳面な人物だった。美月の母と遠い血縁があるらしく、その縁で過去に一度会ったきりだった美月が一夜にして身寄りを失くしたと知ると、すぐに救いの手を差し伸べてくれた。初めて会ったときも引き取られてからも、誠三が自分をじっと見つめているようなまなざしを美月はたびたび感じた。


 美月は居心地の悪さを感じないでもなかったが、誠三が自身の血縁である美月の母とよく似た自分の面影をつい追っているのだろうと思えば、身内を亡くした、という感覚が分かち合えるような気もした。それにどんなに居心地が悪くても、誠三は一日のほとんどをアトリエに引きこもって過ごしているから顔を合わせる機会はあまりない――そして彼と言葉を交わす限られた機会のすべてで、誠三は美月に優しい養父の顔を見せていた。


 梅とともに門から続く小道を下りながら、美月は上機嫌だった。左右を森の木々に囲まれたこの小道は、木漏れ日が輝き鳥のさえずりが木霊する美しい道だったが、松田の不愛想はその美しさすら帳消しにしてしまっていたのだ。美月は松田を嫌っているわけではなかったが、美月が木漏れ日や草木の色や鳥のさえずりに心を動かすような琴線を持っているのに対して、松田にはそういった感性は希薄だった。


 梅は、その面では文句のつけようがなかった。彼女は家事の腕とは別に詩才によって雇われたのではと美月が思うほどに花鳥風月を愛し、季節柄辺りに咲いているコスモスや月見草を見つけては美月に教え、毎年の花の見ごろはいつだの、弟と野山で駆け回って育ったのといった話をして美月を楽しませた。


 「梅さんは、ずっとこの辺りに住んでいるの? 」


 美月が聞くと、梅は嬉しそうに頷いた。


 「この町で生まれて、育って、嫁に行き、子どもを育てて、働き口までもろうて。ありがたいことでございます。おかげで、この辺りのことならなんでも分かるようになりました。花の咲く場所、鳥の鳴く場所、月の見える場所、虫の鳴く場所……それに、せんない昔話のようなものまで」

 「昔話? 」


 美月は身を乗り出した。彼女は、神話や伝承の類に目がなかった。梅は木々の重なりを遠く見やった。


 「そう……人食い鬼の、悲しいお話でございます。お嬢さまには、ご興味もないかもしれませんが……」

 「聞きたいわ。人食い鬼のお話が、どうして悲しいの? 怖い話じゃないの? 」

 「ええ、そう。怖い話ではあるのです。けれど、たいそう悲しいお話なのですよ」


 では、道中の退屈しのぎに。梅はそう言って、次のように語った。



 昔々、まだ日本が大八島と呼ばれていたほどの昔のことです。この辺りに、トヨヒコという若者が暮らしていました。トヨヒコは心優しく正直な若者でしたが、生まれつき顔に大きな醜いあざがありました。ただそのためだけに実の親からも気味悪がられ、人からは疎まれていました。


 うつるものでもないのに、若い娘たちはみな彼が声をかけようとしただけでその場から逃げてしまいます。あざのかかっている左の目が、恐ろしく光っているように見えたせいでもあるでしょう。それでもトヨヒコは誰を憎むでもなく、みずから村外れの森のほとりにひとりで住み、山や川の恵みに感謝しながら静かに日々を送っておりました。


 あるとき、トヨヒコは森の中で倒れている娘を見つけ、驚いて声をかけました。


 「娘さん。これ、娘さん。どうしたんだね」


 娘は答えません。熱を出して気を失っていたのです。よほど長い旅をしてきたのでしょう、着ているものはすっかり傷んでいます。トヨヒコは娘をおぶって連れ帰り、元気になるまで看病してやりました。


 「元気になったら、この娘もきっとおれの顔を見て逃げてしまうだろう」


 とトヨヒコは思いましたが、それでも構わないと思いました。逃げられることになど慣れています。しかし、すっかり弱って口を利くどころか目も開けられない娘を放っておいて獣に食わせるなど、トヨヒコにはとてもそんなことはできませんでした。


 三日三晩の看病ののち、娘はついにぱっちりと目を開きました。その美しいことといったら、娘が起きたとたんに小屋の中が明るくなったと思えたほどでした。トヨヒコはあれほど青白くやつれていた娘がこんなにも美しかったことに驚き、今度は自分の方が口も利けないような心地がしました。娘のきらきら輝く目が、自分を見てどんなに嫌な表情を変わるだろうかと思うと、すっかり慣れたはずのそんな仕打ちが今さら恐ろしく思えてくるのでした。


 ところが、娘はトヨヒコににっこり笑いかけたのです。


 「助けていただいて本当にありがとうございました。もう、命などないものとばかり思っていましたが、こんなふうによくしていただいて、どんなにお礼を言っても足りないわ」

 「おまえさんは、おれが怖くないのか。おれのこの顔が、恐ろしくはないのか」


 トヨヒコは信じられない思いで娘に尋ねました。若い娘とまともに話したのは、それが初めてのことでした。もしかしたら、悲鳴でも、蔑む言葉でもないものを聞いたのも、初めてだったかもしれません。


 娘は首を振りました。


 「恐ろしくなどありません。わたしはここへ来る前、もっとずっと恐ろしいものをたくさん見てまいりました。あなたはわたしを助け、今こうして話ができるまでにしてくださった。そんなあなたをなんで恐ろしいなどと思いましょう」


 娘は、タマメと名乗りました。タマメはふるさとでは村長むらおさの娘でしたが、その美しさで大きな里の長から目をつけられ、無理に召し上げられそうになったのです。タマメの父親はしっかりとした人で、相手が傲慢で乱暴な男だったのできっぱりと断りを入れたところ、怒った里長はタマメのいた村に戦を仕掛けてきたというのでした。


 大勢の人が死に、タマメの父も里長に殺されてしまいました。傲慢な里長も無傷では済まず、タマメの父と刃を交えたあとその傷がもとで亡くなってしまいましたが、一度はじまった戦は長がふたり亡くなっても収まらず、タマメは命からがら逃げ出して、そうしてトヨヒコのいる森にようやく落ち延びてきたのでした。


 タマメは話をしながら涙を流しました。


 「わたしがいたためにあんな大きな争いが起き、罪もない人が何人も死にました。わたしはもう、あんな恐ろしいものを見るのはたくさんです。いっそ死んでしまいたいと思っていましたが、こうして命が助かってみるとやはりありがたいことと思うのです」

 「そんな悲しいことを言うものではないよ」


 トヨヒコはタマメが気の毒でなりませんでした。醜いために嫌な目に遭ってきたトヨヒコは、もし美しい顔に生まれていたら――せめてこんなあざのない顔に生まれていたらと何度も考えてきました。しかし、タマメが美しいために味わった苦しみに比べたら、自分のことなど何でもないように思えました。


 「おまえさんは、これからきっと幸せになれるよ。苦労ばかりが天から降ってくるものではないさ。おまえさんはそんなに美しいんだもの。見かけだけじゃない。心だってたいそう美しいじゃないか。最初は嫌なやつに目をつけられただけだ」

 「それなら、あなたのような人に好きになってもらいたいわ」


 トヨヒコは聞き間違いかと思いました。自分のことを好きになる娘など、この世にはいないものと思っていたからです。ところが、タマメは怖い顔をして言いました。


 「わたしが美しいからどうだ、あなたにあざがあるからどうだとか、つまらないことをおっしゃらないで。あなたは、それで散々辛い思いをしてきたのではないの? わたしがあなたを好きになることが、そんなにおかしいこと? 困っているときに優しくしていただいたのだから、好きになったって構わないじゃありませんか」


 こうして、タマメはそのままトヨヒコの妻になりました。タマメがいるおかげで人々とも少しずつ話が通じるようになり、次第にトヨヒコも村人たちの中に受け入れられるようにさえなりました。ふたりは静かで満ち足りた暮らしを送りました。ふたりともが、とても幸せでした。



 「それで終わりじゃないのね」


 美月は言った。梅の話の間に小道は終わりに近づき、町並みが身近に見えはじめていた。間もなくバスの停留所だ。森と町の狭間。物語のトヨヒコもこんなところに住んでいたのだろうかと美月は思った。


 梅は残念そうに首を振った。


 「わたしも、ここで終わりならどんなにいいかと何度も思いましたとも。でも、ここで終わっては怖くも悲しくもないですものね。続きがあるのです」



 さて、タマメはやがてめでたく身ごもり、トヨヒコはたいそう喜びました。それまでもタマメを大切にしてきたトヨヒコはますます妻を気づかい、お腹が大きくなってくるとタマメひとりでは表に出さないほどでした。


 ところが、時が経っても色あせないタマメの美しさが、ここでもまた災いの種となりました。今度は遠く、山をいくつも超えた先にある国を治める大王おおきみがタマメの噂を聞きつけ、妃のひとりとして召し出したいと言ってきたのです。


 トヨヒコは、頑として首を縦に振りませんでした。今や我が身よりも大切な妻を、たとえ大王であろうとやすやすと渡すわけにはいかない。そう言って、話を持ってきた村長をきっぱりと退けました。


 大王は戦を仕掛けるようなことはしませんでしたが、こうもきっぱりと断られてみると、もうどうしてもタマメをあきらめきれません。手に入らないと思えば思うほど、どうあっても自分のものにしたいと思えてくるのでした。そこで、たくさんの褒美を取らせることを約束し、村長にタマメを連れ出してくるよう命じたのです。


 この話に乗ったものには、誰にでも同じように褒美をやるという話でした――村のもののほとんどが、手を上げました。誰もが、トヨヒコの性格を知っていました。優しく、足蹴にされても人を恨まないトヨヒコの性格を。それに、タマメを通じて普通の村人と同じように接するようになったとはいえ、自分たちが散々疎んじてきたトヨヒコが世にも美しい娘を妻にもらって幸せそうにしているのが、内心ではみな言いようもなく妬ましかったのです。


 ある日、トヨヒコは村人に呼び出され、田の世話について長いこと話をしました。トヨヒコは家に残してきたタマメが心配で何度も話を切り上げようとしましたが、村人はなぜか話を伸ばしてトヨヒコを帰そうとしなかったのです。


 夕刻になってようやく帰ってみると、タマメがどこにもいません。トヨヒコが連れ出されている間に村長たちが来て、タマメを連れ去ったあとだったのです。


 トヨヒコは驚き、村長に詰め寄りました。村長は自分たちのしたことを話しました――何が起きたかさえ教えてやれば、トヨヒコはいつものように黙っていると思っていたのです。しかし、トヨヒコは怒りに震え、その場で村長の首をへし折ってしまいました。みな、トヨヒコは人に疎まれても黙っているばかりで、何もできないものと決めつけていました。けれどもトヨヒコは、本当は人並外れて力の強い若者だったのです。あざがある上に恐ろしい力があると分かったら、ますます人が怖がる。そう考えたトヨヒコが今まで隠していた力でした。


 トヨヒコは連れていかれたタマメを追って夜通し山を駆け、間もなく追いついたときには髪を振り乱し、目をぎらぎら光らせて、まるで鬼のような形相に変わっていました。


 「タマメ! 」


 恐ろしい形相に肝をつぶして逃げ出すものたちに構わず、トヨヒコはタマメの姿を一心に探し出そうとしました。タマメはどんな姿になろうとおれを怖がったりしない。じきにあの可愛い声が返事をしてくれる。おれを見てほっとしたように笑ってくれる。トヨヒコはそう信じて疑いませんでした。


 しかし、しばらく辺りを探し回ってトヨヒコが見つけたものは、地面に倒れ伏して冷たくなっているタマメと、血まみれの小さな塊でした。かわいそうに、身重の体で無理に連れ出されたタマメは子どもを流産し、介抱してくれる手もなく、そのまま死んでしまったのでした。


 トヨヒコがどんなに悲しんだでしょう。どんなに恨んだでしょう。とても、言葉では言い表せないほどだったに違いありません――そして、そのあまりの苦しみに気がふれてしまったのか、トヨヒコは自分でも何をしているのか分からないまま、死んだ妻と子どもの体をむしゃむしゃと食べてしまったのです。


 それは、思いがけず甘美な味でした。タマメと、生まれてくるはずだった子ども。この世でもっとも愛しいふたりの体を口にしたことで、心が満たされたような心地がしました。


 トヨヒコは逃げ去ったものたちも、村のものたちもひとり残らず食い殺しました。最初は、冷めやらぬ怒りのためでした。しかし、次第に口の中に溢れるとろけるような甘い血の味のとりことなり、いつの間にかひとり食らうたびに、体中に力がみなぎるのを感じるようになっていました。


 口の周りにべったりとついた血を洗おうと川面を覗き込んだとき、トヨヒコは自分の口が耳まで裂け、その中から鋭い牙がぎらぎらと覗いているのを見ました。そうです。トヨヒコは、本物の鬼になってしまったのでした。トヨヒコはそれから何百年も生き、タマメに似た若い娘や、小さな子どもをさらっては食い殺すようになりました。話を聞きつけた若者が何人も腕試しに訪れてはトヨヒコに食われました。都から腕利きの武者が大挙して討伐に来ましたが、トヨヒコには敵いませんでした。


 さて、トヨヒコが鬼になってから千年あまりが経った頃のことでした。この頃、都には厳しい修行を積んだお坊さまが住んでいて、法力によって都のもののけを何度も鎮め、人々を救っていました。


 このお坊さまが、鬼になったトヨヒコの話を聞いたのです。お坊さまは哀れをもよおし、何とか救ってやりたいと、トヨヒコの住む山まではるばるやってきました。トヨヒコはいつも通り、このお坊さまのことも食い殺してやろうとしました。


 お坊さまがお経を唱えると、美しい光が天から降り注ぎ、なんとも言えないかぐわしい香りが辺りいっぱいに漂いました。トヨヒコは思わず立ちすくみました。光のただなかに、懐かしいタマメが可愛い子どもを抱いて立っていたのです。


 トヨヒコは泣きました。タマメが幸福そうにこちらに手を振っているのを見て、幸せだった頃のことが思い出されたのでした。トヨヒコは元の優しい若者の姿に戻り、お坊さまにお礼を言いながら、タマメと子どもとともに消えていきました。お坊さまはトヨヒコが住んでいた場所に塚を建て、トヨヒコとその妻、子ども、そしてトヨヒコの犠牲になった人々を手厚く供養しました。それ以来人々が人食い鬼に怯えて暮らすことはなくなり、お坊さまは慈悲深く徳高い名僧としてそれからも多くの人を救ったということです。



 美月も梅も、しばらくしんみりと黙り込んだ。折よくバスがやって来て、扉が開いた。乗ったのは、ふたりの他には帽子を目深にかぶった男性がひとりだけだった。


 梅は言った。


 「この人食い鬼の話にはいくつか違う結末がございまして、お坊さまでなく腕の立つお武家さまがやってきて退治したとか、賢い子どもに騙されて谷底に落とされたとかいう人もあります。――中には、トヨヒコは討伐されることも成仏することもなく、今でもどこかに生きて、人をさらって食っているという話も」

 「おもしろかったわ」


 梅が芝居がかった調子で声を低めるので、美月は笑った。だが、梅はふと真剣な表情で言った。


 「お坊さまの鬼塚というのが、実際にこの近くにございましてね。山の中なんでございますが。……なんでも、少し前にぱっくり割れていたそうなんです」

 「まあ! 」

 「ええ、ですからトヨヒコは蘇って、辺りをうろついているかもしれません。お嬢さまも、お気をつけなければなりませんぞえ……」

 「やあね、梅さんたら」


 美月は笑い飛ばそうとしたが、できなかった。しばらく前に自分の身に起きたことを考えれば、トヨヒコでなくとも人食い鬼のような男がじっと自分をつけ狙っているのではないか……そんな、恐ろしい予感すらしてくるのだった。



 バスに揺られること、三十分足らず。目当ての停留所で降りると、そこはすっかり町なかだ。風の匂いまでが少し違って感じる。


 「ほんに人の多いこと」


 梅は賑やかな都会に目が慣れないのか、しきりに辺りを見回した。


 美月の目当ては古書店だった。彼女は本が好きだった――行きつけの店があるのは、帝都でも屈指の古書店街だ。


 車が入ってくるような広い通りではないが、古本や稀覯本を扱う店が軒を連ねる。小説、随筆、詩集、論文、辞書、実用書、楽譜や古い雑誌、舞台の台本、紙芝居などなど、書物の類であれば手に入らないものはない。二束三文の古本から元の値段の何十倍の値がついた希書まで、一期一会の掘り出しものを求めて学生を筆頭とする人々で賑わっていた。


 美月は本を選ぶのに夢中で、自分が誰かに目をつけられていることになどまったく気がついていなかった。だが、目的を果たして梅とともに通りへ戻った彼女の肩に、突然誰かの手が置かれた。驚いて振り向こうとした美月の目を、琥珀色の美しい瞳が覗き込んだ。美月と梅の肩を両腕で抱いて、彼はふたりに前進を促した。唇の上に髭はあったが、まだ若い顔だった。


 「振り向かないで。つけられています」

 「な、なんです、あなたは? 」


 梅が泡を食ってなんとか美月を守ろうとした。だが、青年の力には敵わなかった。


 「あなたが食ってかかる相手は僕じゃない。お嬢さんを守りたければ、言うとおりにしてください」

 「梅さん、信じましょう」


 美月は戸惑ったが、梅にそう言った。何が起きているかは分からないが、青年が悪人であれば美月だけを狙うはずだ。梅を一緒に抱えている以上、彼を信じてみてもいいだろう。梅は美月が彼を信じると言った手前自分だけが抵抗を続けるわけにはいかず、青ざめながらもしぶしぶ頷いた。


 曲がり角まで来たところで、青年はふたりを抱えたまま突然足を速めた。商店の陰に消えた美月たちを追って、バタバタと駆けてくる音がする――美月たちが驚いて思わず覗き込もうとするのを制して、青年は右足を前に出した。


 周囲の人々から悲鳴が上がった。三人が商店の壁に張りついているとも知らずに駆け込んできた追手は速度を緩めることができないまま青年の足に引っかかり、派手に転倒した。青年は美月たちを背にかばい、新手が来ないことを確かめながら、地面にぶつかって呻く追手の背を膝で押さえつけた。


 「目的は何かな? 」

 「……知らねえ」

 「本当に? 」


 美月からは青年の顔は見えず、彼が特別な拷問をしているようには見えなかったが、追手は次第に青ざめ、痛みと恐怖に耐えかねたように自分の狙いを告白しはじめた。


 「む、娘だ! その娘をさらって……」

 「さらって? 」


 押さえられている背の骨が、小さく軋むような音を立てた気がした。追手にはもはや、恥も外聞も猶予すらもなかった。


 「遺産のありか……宮園の遺産のありかを、聞き出せと……」

 「ふうん。その言い方だと、君は誰かに雇われたんだね? 誰の依頼かな? 」


 青年の口ぶりは世間話でもするように穏やかで、威圧感など微塵もなかった。だが追手の方は地獄の極卒に責めさいなまれているかのような苦悶の表情を浮かべ、一も二もなく白状した。青年は追手のチョッキの胸ポケットに美月の写真が入っているのを見つけると、これを抜き取った。そして、騒ぎを聞きつけてやって来た警官に事情を説明して追手を引き渡し、美月に向き直った。


 「お怪我は」

 「いいえ。助けてくださってありがとうございました」


 梅は驚きのあまりすぐには口も利けないほど狼狽していたが、じきに目の前の青年が大変な恩人であることを思い出し、最初に噛みついたことも忘れて泣きながら彼の手を取った。


 「ほんに、何とお礼を申し上げてよいか分かりません。婆ひとりでは、恐ろしいことになるところでございました……」

 「たまたま居合わせたもので、何事もなく済んで何よりでした。突然後ろから失礼いたしましたが、僕はこういうものです」


 青年は自分の胸ポケットから名刺を取り出した。私立探偵、橋本雅文。


 「私立探偵? 」


 美月は声が裏返るのを感じた。彼女は、この職業をよく知っている――しかし、現実に名乗っている人を見るのは初めてだった。


 「ドイルさんやクリスティさんが書いていらっしゃるような、あの……? 」

 「読書家でいらっしゃいますね。――まあ、彼らの作品に出てくるような派手な事件にはめったに行き当たりませんが、同じ仕事です」


 雅文ははにかんだように言い、それからまじめな顔で手帳を開いた。


 「さっきの男、宮園家の遺産がどうとか言っていましたが。お心当たりはありますか? 宮園家といえば少し前に大きな事件がありましたが……もし何か事情をご存じなら、差し支えなければ。職業柄、放っておけないような気がしまして」

 「わたしは宮園家の娘です。美月と申します」


 美月は素直に話をしていた。橋本と名乗るこの青年が、たった今自分たちを助けてくれたからだろうか? 探偵だからだろうか? それとも、彼の口調に美月に対する気遣いが感じ取れたからだろうか? いずれにせよ雅文の目は優しく、どんなことを打ち明けても受け止めてくれそうな雰囲気があった。


 追手が遺産のことを口にしたとき、美月は大して驚きを感じなかった。両親の死の謎を自分なりに追っていた美月は、大衆向けにおもしろ半分で書かれたゴシップ記事の類で何度も同じ話題に触れていた。


 「宮園家は、代々宝石商です。だから家の中に宝石をたくさん持っていると考えている人がいるみたいで、そのせいで両親は殺されたんだと書いてあるのを見たわ。――あの人も、きっとそれを真に受けてあんなことを頼まれたのよ」

 「お嬢さま……」


 梅はおろおろと美月を気遣った。雅文も、思いやり深く美月を見ている。美月は話を続けた。


 「わたし、あの人が言っていた名前を知っているわ。父とお付き合いのあった、銀行家の方の息子さんです」


 雅文も梅も、目を丸くした。


 「お会いしたことが? 」

 「ええ、一度だけ。いつかうちの娘と見合いを、なんて父は――宮園の父は言っていたけど、これでもう二度とその可能性はないわね」

 「そうですとも! なんて卑劣な男なんでしょう! 」


 梅はカンカンになって叫んだ。彼女は美月がここまで危険な境遇に身を置いているとは思っていなかったようで、何としても美月を守ろうと決意を新たにしたらしかった。


 美月はまだ誰か遠目にでもこちらを窺っているのではないかと人の群れを眺めたが、雅文が平静な顔をしているので警戒をやめた。今彼の顔の上にあるのは警戒ではなく、美月の話に反応した心の動きだけ――雅文は気の毒そうな、なんとも言えない表情で美月を見つめていた。


 それに、と美月は気丈に言った。


 「わたしを連れて行ったって、役になんか立たないわよ。わたし、宮園の遺産のことなんか何も聞かされていないもの……特別な遺産なんてどこにもないのよ。みんな、小説の読み過ぎなんだわ」

 「遺産のためではなくても、あなたを誘拐しようと考える輩はきっといるでしょう」


 雅文は真剣に、優しく叱るように美月を諭した。


 「彼はたまたま遺産が目的だったようですが、あなたの価値を遺産の秘密だけに限って考えるのはとても危険です。ご自身を低く見積もってしまうと、避けられたはずの危険も察知できなくなってしまう。――お分かりですね」

 「……ええ」


 今度は美月の目が丸くなった。


 「ごめんなさい。――探偵さんにも、失礼だったわね。助けていただいたのに」

 「いいえ。お役に立ててよかった」


 雅文は朗らかに言った。その様子は、あれほど機敏に狼藉者を押さえつけた男とは思えないくらいのほほんとしていた。


 ここで、梅が名案を思いついたというようにぱちんと両手を打った。


 「ここで探偵さんとお知り合いになれたのも、偶然ではございますまい。――お嬢さま、こちらの橋本さんにしばらく身の周りを守っていただいてはいかがでしょう? 何にせよこんな恐ろしいことから助けていただいたのですから、お屋敷にお呼びしてお礼をさせていただかねばなりません」


 美月は面食らった。雅文は手帳をしまって言った。


 「身辺警護は畑違いですが。危険を察知して未然に防ぐということでよろしければ、お役に立てることもあるでしょう。……どうも根が深そうですし、正式にご依頼いただけるなら僕には異論はありません」


 三人は連れ立って小野寺屋敷に戻り、主人夫妻に町での誘拐未遂事件を話した上で、雅文は一時的に美月の身辺を守るために雇われることになった。話を聞いた誠三は美月たちの無事を喜び、雅文を歓迎した。加代は絶句し、美月に何か説教したそうだったが、言葉少なく


 「美月を頼みます」


 と雅文に頭を下げた。

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