一一月の章
生徒会室 -1-
銀のケトルに水道水を注ぎ入れ火にかける。湯が沸騰するまで待つと、用意したティーポットとカップにお湯を注ぎ、しばし待つ。そうして、器具を温めるためだけに注いだ湯は、他に利用するでもなくシンクに流してしまう。
山下は英国王室御用達の茶葉が入った缶の蓋を開け、すぐに広がる香りに深く息を漏らした。そのまま香りを堪能していたい気持ちを抑えて、ティースプーンで二杯分掬い、温めたティーポットの中へとこぼさないように入れる。茶葉をしまうと再度ケトルを手に取った。ケトルに入れている温度計を確認してから、ティーポットの中へと高い位置からお湯を注ぎ、茶葉をジャンピングさせる。お湯を注ぎ終えたらすぐに蓋を閉め、用意していた砂時計をひっくり返した。
そこまでを体に染み込んだ流れでこなし、山下はようやく一息つく。
ちょうどその時、部屋の扉が開いた。
ここは校舎内にある生徒会室。一般的な教室よりも少し狭いが、給湯室と呼ばれる程度の小さなキッチンを備えている。生徒会執行部メンバー各人用のデスクの他、会議用のソファとローテーブルセットもあり、ここだけで暮らせそうなほどに設備が充実している。
山下は振り向き、部屋へと入ってきた尚敬の姿に、眼鏡の奥で目を細める。
「お疲れ様でした、尚敬様。本日の授業はいかがでしたか」
「ああ。今日は帝王学で『論語』をやったのだが、古い時代に書かれた書物なのに、現代にも通用する知恵が多分に含まれていて感心した」
尚敬は自身の席につき、上等な椅子の背もたれに寄りかかりながら伸びをした。彼はクンクンと部屋の匂いを嗅ぐ。
「いい匂いだ」
「はい、尚敬様がお帰りになる時間を見計らって、紅茶を淹れていました」
砂時計の砂が落ちきったのを見て、山下はソーサーに乗せたカップを尚敬のデスクへと運んだ。尚敬の目の前でカップへ紅茶を注ぎ入れる。紅茶の深い赤の色が白い陶器に美しく輝く。
「校舎内は空調が効いているとはいえ、最近冷えてきたからな、この迎えてくれる温もりがいっそうありがたい」
尚敬はそう丁寧に感謝の言葉を述べると、カップの取手を摘んで口をつけ、一口飲んだ。深く、しかしまろやかな味わいに、鼻腔を抜けていく豊かな香り。満足からくるため息がつい漏れてしまう。
「ああ、美味しい。山下の淹れてくれる紅茶は別格だ」
そんな尚敬の様子を、山下は目を細めて見つめる。
「ありがとうございます。昔から何をやっても駄目なんですけど、紅茶だけは……辛うじて褒めていただけて……」
尚敬の賛辞に、途中までうれしそうに応えていた山下だったが、途中から言葉の歯切れが悪くなる。その、紅茶だけは褒めてくれた相手が、修斗であることを思い出したからだ。
山下の様子に、尚敬は僅かに眉を寄せた。
一般的な学校でも退学処分などそうそうあることではないが、鷹鷲高校の帝王科においては特に珍しい。学校の歴史を振り返ってみても今までに一人しかおらず、今回の二人で通算退学処分者は三人となった。
そんなセンセーショナルな退学の理由は到底隠し通せることではなく、鷹鷲祭で起こった事件は、いつの間にか多くの生徒たちの間に知れ渡った。尚敬もまた山下の身に何があったのかを知っている。
山下が何かに悩んでいることをずっと気にしていた尚敬は、しかし山下のことを救ってやれなかったことを悔いていた。尚敬は修斗、幸也と同じ参組であり、彼らをよく知っていたことも、その悔いをより深いものにしている。
尚敬はもう一口紅茶を含むと、鼻に抜ける香りを味わってからカップを置いた。そして、「ずっと言おうと思っていたことがあるんだが」と前置きをしてから話し始めた。
「山下はいつもそう自分を卑下するが、俺はその意見に同意できないな」
「あ、えっと。すみません」
尚敬の改まった様子に、山下はつい、といった様子で謝罪を口にする。尚敬は軽く眉を下げて笑った。
「責めているわけではないし、謝らなくていい。そうやってとりあえず謝ったり、笑ってごまかしたりするのも山下の悪い癖だ」
山下は尚敬の言わんとする内容を掴みきれぬまま、続く言葉に小さくなっていく。彼の言葉は、山下の性質をよく捉えていた。
「こういう言い方をするのは何だが、確かに山下は要領が良いわけではないな。教わったことをすぐに習得してやってみせたり、何か予想外のことが起こったりした時に、臨機応変な対応をとることが苦手だ」
「その通りです」
「だがそれは山下が駄目だということではなくて、あくまでもそういったことが苦手だというだけの話だ。誰しも苦手なものは存在するからな」
「でも、要領が悪くて、臨機応変さのない執事ってちょっと……どうなんでしょう。ぼくの得意なことっていうのも思い浮かびませんし」
「山下は、習得したことを、毎回手を抜かずにきっちりやるのが得意なのだよ。その良いところが、この毎日淹れてくれる一杯の紅茶によく現れている。山下の淹れてくれる紅茶は手を抜いたところがなくて、いつでもとても美味しい」
「そのようにおっしゃっていただけると、とてもうれしいです。しかし、すでに身についていて、決められたことをその通りにやるって、当然のことじゃないですか?」
山下からの問いに、尚敬は首を横に振る。
「そのようなことはない。多くの人は、慣れが入ると惰性が混ざって、細かなことが疎かになったりするものだ。いつもと変わらないことに、毎回真剣に取り組めるのは山下の才能だ。執事の生活の基本は毎日同じ作業の繰り返しだな。日常を支えてくれる執事として、またとない才能だろう。それに山下は、どんなことでも時間をかけてきっちりと習得していく。決して諦めない胆力がある。山下は、駄目なんかじゃない」
「尚敬様……」
尚敬からの熱のこもった言葉に、山下は胸の奥が熱くなるのを感じた。
山下は執事の子として生まれ、彼の親は山下を常に『愚息』と呼んだ。それはあくまで謙遜の美徳というもので、親に愛されていないと感じたことはない。だが、長年にわたり自分を軽んじる言葉を聞かされ続けることは、山下自身の自己肯定感を下げるには十分な効果を発揮した。
常に仕えるべき相手がそばにいて、同い年である修斗に使われ、馬鹿にされるのが当然の生活。
こんな風に自身の性質を肯定してもらうことは、生まれて初めてのことだった。山下はそっと自分の両手を胸の前で組んだ。そこが熱を超えて、きゅうと痛んだような気さえしたからだ。
「ありがとうございます。そんなお優しい言葉をかけていただいたのは初めてで。どう受け止めていいのかわかりませんが」
「正面から受け止めてくれたらいい」
山下の様子に、尚敬は優しく目を細める。それから、もう一度カップを手にして紅茶を飲み干した。
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