生徒会室 -2-

 山下はうれしくも落ち着かない気持ちになりながら、尚敬のカップが空になるとすかさずポットから紅茶のおかわりを注ぐ。その揺れる湯面を見ながら、尚敬は再度口を開いた。

「ついでと言っては何だが、俺のことを話してもいいだろうか」

「はい、もちろんです。聞き手がぼくで良いのなら」

「山下だから話そうと思ったのだ。向こうのソファへ行こうか」

 促され、山下は尚敬のカップを会議用ローテーブルへと運んだ。二人ともソファに移動し、向かい合って座る。

 尚敬はセットしてある前髪を軽く手櫛で乱すような仕草をしてから、山下の目を見た。真正面から受ける視線に、山下は少しばかり戸惑い、瞳から喉仏のあたりへ視線を移すことで落ち着いた。

「話したことはないと思うが、山下は、俺に兄がいることは知っているかな」

 問いかけられ、山下は頷く。

 真壁家は書道の家元だ。現当主は尚敬の毋だが、次期当主の尚敬の兄である道敬みちたかは世間一般でも有名だ。メディアへの露出も多く、その活動は書道家としての範囲に収まっていない。真壁家は書道や文字の扱いを通じて政治的な関与も積極的にしており、教育界にも多大なる影響を与えている。

「身内のことを悪く言いたくはないが、兄の人間性は終わっている」

 出だしから辛辣なことを言い出した尚敬に、山下はどう反応したら良いかもわからず目を瞬いた。山下がテレビのバラエティ番組で見かける道敬は、感じの良い好青年といった雰囲気だった。

「兄は要領が良い方なので、必要な人付き合いも社会でも立ち回りも上手くやっているようではある。ただ、一度下だと見下した相手に対する態度はひどいものだ。我が家に出入りしている使用人たちに対してもひどかったが、俺に対してもひどかった」

「弟である尚敬様にも、ですか?」

 平民、特に自分が使っている使用人にひどい態度をとる貴族は珍しいものではない。しかしながら、身内に対してもそうだとなると話は別だ。驚きに目を瞬かせる山下に、尚敬は頷く。

「自分で言うものではないが、俺は書道の才能があったほうだ。兄は、幼い俺の書いた書を見て母が喜んだことに、本能的な危機感を覚えたのだろうな。ことあるごとに俺を徹底的に潰そうとした。会話や行動の中で、いかに俺が自分よりも劣る存在なのかということを教え込んできたのだ。

 俺は、中学へ上がると同時に書道をやめることにした。俺は次男で、母も反対はしなかった。そのすべてを兄のせいだと言いはしないが、影響は受けていると思う」

 尚敬は紅茶を一口飲んで、また話を続ける。

「高校に入ってここで寮生活することになり、兄から離れられたことは、俺にとって幸せなことだった。今俺がこうして、兄と俺との関係について客観的に考え、話せるようになったのも、家から離れて冷静に思考を整理することができたからだと思う。他者から下に見られ続けると、人は正常な判断なく自信を失ってしまうものだと理解ができた」

 真剣に話を聞く山下を、尚敬は真っ直ぐ見つめた。

「俺は卒業後、アメリカの大学に進学するつもりだ。兄から逃げるため、という情けない理由もあるが、日本から離れて政治を学びたいのだ。国内の大学のように、特別枠での進学はできないから、卒業後は渡米して受験するつもりだ」

「尚敬様のお考えには、いつも本当に驚かされます。ぼくには到底できないことなので。心から感心します」

 言葉の通り、ほうっと感心のため息を漏らした山下。だが、そんな彼の様子に尚敬は目を細めた。

「俺が花摘会で山下を選んだら、山下はアメリカまでついてきてくれるか」

 尚敬自身の話から急に自身へと向けられた矛先と問いかけに、山下は眼鏡の奥で大きく目を丸くした。問われていることがしっかり理解できるまでに、数秒を要する。

「尚敬様が、ぼくを?」

「選定をして、こうして度々そばにいるのに、まるで今まで一度も考えたことがなかった、というような反応だな」

 おかしそうに笑う尚敬に、山下は慌ててパタパタと手を振る。

「えっと、尚敬様は本当に素晴らしいお方なので、まさかぼくなんてと思っていて。それに、生徒会執行部内で選定を行うのは必要なことですし」

 生徒会執行部は他の生徒とは違う活動を必要とされることが多い。そのため、生徒会執行部内での全バトラーが全マスターの担当につけるようにするのは便宜上よく行われるのだ。例えば先の体育祭の日などは尚敬の担当が山下、明彦の担当が東條、ケビンの担当が田中となっていた。

「俺は素晴らしくなんかないさ。渡米したら、アメリカという慣れない土地で、慣れない俺と二人で生活することになる。加えて、俺が予定通り大学に受かり、卒業できるという確証だってない。鷹鷲高校を卒業すれば誰しも得られるはずの特権を自ら放棄するのだ。卒業後だって真壁家としてやっていくつもりはないし、俺が貴族として体面を保てるほど、稼いでいけるかは分からない」

 まるで己の不安を吐き出すように、尚敬は早口で言葉を紡ぐ。

「そんな貧乏籤を引くことになっても構わないか、山下に確認したかったのだ」

「尚敬様は貧乏籤などではありません。ぼくがお会いした、どんな貴族の方たちより、尚敬様は、すごい方です。もし、もし……そんな、すごい尚敬様が本当にぼくを選んでくださるのなら、一生、どこまでもお仕えいたします」

 いつも控えめな山下には珍しく、尚敬からの問いかけに被せるように勢い込んで告げた返事。尚敬は、とてもうれしそうに笑った。

「よかった。では、明日から山下を俺の専属にしてもらおう。学校には俺から申し入れておく」

 突然決まった将来のことに、山下は瞳を輝かせ「はい!」と元気よく返事をする。

 ちょうどその時、生徒会室の扉が開いた。入ってきたのはケビンと田中だ。

「だから、俺がそれでいいって言ってんのに何が不満なわけ」

 ケビンが眉を寄せて語気を強め、田中に話しかけている。いっぽう、田中はいつもの鉄面皮を崩していない。

「合理的に考えればおわかりになるでしょう。せっかく設定されている決断の猶予を自ら縮める道理はありません」

「だからー、俺にとってはもう決定事項なんだって。もう決まったんなら悩む必要なんてないだろ」

「その決定を早める必要性はございますか?」

「俺がそうしたいの!」

 何やら言い争っている二人の様子に、尚敬はソファに座ったままそちらへと首を伸ばす。

「お前たち、なにを揉めている?」

「あ。尚敬くん、山下ヤッホー、そっちに居たんだ」

 ケビンは二人に気づくと笑顔を浮かべ、手をひらひらと振ってから、また思い出したように話し始めた。

「ねぇ聞いてよ。俺が田中を専属にしたいって言ったら、花摘会まで待てって言われたんだけど。先に選んでもらえるってのに、断るやつがおる?」

 二人が揉めている理由が、自分達のいましがたしていた会話と同種のものであったことに、山下は目を瞬く。

「田中さん、ケビン様の専属になるのが嫌なんですか?」

「私の好き嫌いの話をしているのではありません。せっかく誰を執事にするか三月まで選べるのに、その猶予を自ら放棄する必要はないでしょうと申し上げました」

「執事になって欲しい相手が見つかったのなら、その相手だけに日々の世話をしてもらった方が、俺たちは気が楽なものなのだよ」

 田中らしい返事に、尚敬は苦笑しながらケビンの肩を持つ。

「一時の娯楽に流されるのは愚者の所業です。人は判断を誤るもの。今は判断を確信していたとしても、数ヶ月悩めば別の結論が出るかもしれません。何にせよ、用意されているだけの選考期間を、利用しない手はありません」

「この、田中の頑固者!」

「その頑固者を生涯そばに置いておこうとしているのは、ケビン様の方ですが。さっそく気が変わられましたか?」

「変わらないよ、バカー!」

 ケビンは田中の胸のあたりをペシペシと叩く。田中は相変わらずの無表情で「痛いです」などと言っている。

 そんな二人の様子に山下は笑う。だが、田中の言葉のもっともさに、僅かな不安が胸をよぎる。尚敬は手を伸ばすと安心させるように、そっと山下の手を握るのだった。

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