裁定 -2-
保健室のベッドに横になり、一通りの治療を受けた山下が仮眠をとっている。
山下が体に負った傷はそのどれもが深いものではなく、擦り傷や打撲程度だった。一番重傷なのは心の傷だろうと保険医は言った。
そのベッドの横には、水島と東條が座る。水島は執事科の制服に着替えを済ませ、赤く腫れた拳をアイスバッグで冷やしていた。
「どうして東條にあそこが分かったんだよ。しかも、校長先生まで連れてさ」
山下を起こさないように、吐息混じりの小さな声で水島が問いかける。
「シフトに入るため、厨房へ行こうとしていたら、茉莉花様にお会いしたんだ」
「茉莉花様?」
「鈴木の担当していた女子部帝王科のお嬢様だ。ひどい男性恐怖症をお持ちのお方なのに、鈴木がなかなか帰ってこないからと、男子部にまで探しに来ていらしていたのだ。僕は茉莉花様のことを存じ上げていたから、彼女がお一人で男子部にいらっしゃるのをお見かけして、すぐに何かあったのだなとわかった」
東條の話に、水島は頷く。
「とりあえず茉莉花様を女子部にお連れしようと外に出たら、鈴木と共に宗一郎様と明彦様がいらっしゃって、事情を聞いた。ちょうど水島がいなくなった後ぐらいだったらしい。僕と水島も、鈴木と茉莉花様も、入れ違いになったのだな」
「事情を聞いて、すぐに校長を呼びに行ったのか? その発想になるのがある意味あんたらしいな」
「それが最善策だと思ったのだよ。まさか、水島が一方的に彼らを殴っているとは思わなかったが。何か面倒なことになっているとは予想がついたからな。それに、僕は大都様とは面識があって」
東條が口に乗せた「大都様」という校長の呼び方には、どこか熱が篭っていた。
「面識? 式典の挨拶で顔を知ってるくらいじゃないの」
「僕が育った児童養護施設に、大都様はいつも多額の寄付をされていたのだ。金銭面だけではなく、よく訪問もしてくださっていた。大都様はそこでいつもたくさんのお話をされて……僕が鷹鷲高校に受かったのは僕の実力だと思いたいが、執事科に合格したと報告した時にも、とても喜んでくださった」
床に軽く視線を落とし、そう語る東條の表情は、ひどく穏やかだ。その僅かな語りからでも、東條が大都に寄せる敬愛の情が伝わってきた。
「なあ。あんたさ、前に『貴族にお仕えできるのが自分の喜び』って言ってただろ。それって、校長先生の影響なの」
水島が問うと、東條は少し気恥ずかしそうに笑った。普段は努めて感情を表に出さないようにしている東條にしては、珍しい表情だった。そんな東條の様子に、水島も軽く眉を下げつつ笑う。
それから、しばらくの沈黙。扉が控えめにノックされ、大都が保健室へと入ってきた。
「校長先生……っ本当に、すみませんでした」
水島は目を見開き、弾かれたように立ち上がる。東條も一緒に立ち上がると、深々と頭を下げた。
「大都様。この度はご面倒をおかけいたしまして、大変申し訳ありませんでした」
「二人とも、何を謝ることがあるんだい、教えてくれてよかったよ。実は修斗くんと幸也くんの問題行動はわたしの耳にも入っていたんだ。早苗くんにこんなに深い傷をつけているとは思わなかった、もっと早く対処してあげるべきでした」
大都は声を抑えながら、寝ている山下を見る。すると三人の話し声に気がついて、山下が目を覚ました。
「校長先生」
「早苗くん、少しは落ち着きましたか?」
問いかけに山下はしっかりと頷き、ベッドの上で上体を起こす。横にいた東條がすかさず手を貸して、その体を支えた。
「それでは、さっそくだが少し報告をさせてもらおうか。まず、先ほども言ったが修斗くんと幸也くんは退学処分とし、すでに家へと帰らせました。修斗くんのお父上とも話しましたが、早苗くんに深く謝罪がしたいとおっしゃっていました。もちろん、君のお父上との雇用関係には何の影響もないと約束してくれたよ」
大都の言葉に、山下は深く息を吐き出し、肩を撫で下ろした。
「それでね。彼らのしたことは、間違いなく犯罪行為だ。本来は警察に申し出て、然るべき裁きをしてもらうべきだと思います。ただ、そのことを公にすると、律くんが彼に振るった暴力のことも問題になってしまう」
説明の途中で名前を呼ばれると、水島はビクンと体を震わせる。
「それに、残念ながら彼らは貴族だ。例えすべてを明らかにして公的に裁いてもらっても、納得のいく処分がくだるとは限らない。だから早苗くん。申し訳ないのだが……」
「もちろん、警察沙汰にする必要などありません。本当に何から何まで、ありがとうございました」
山下は掛け布団のシーツをぎゅっと握り締め、深々と頭を下げる。その言葉に、大都は僅かに眉を下げながら頷いた。二人の様子に、水島は口を挟む。
「ごめん、山下。僕のせいで」
「謝らないでください、水島さん。修斗様に捕まって欲しいなんて、本当に思ってないんです。僕のためにあんなに怒ってくれて、助けてくれて、本当にありがとうございました」
山下は首を振ると、「少し、スッとしました」と付け加えて小さく笑った。
そんな山下の表情を見て、今度は東條が口を開く。
「あのな、山下。鈴木が……山下が助けたバトラーの女の子が、何度も謝っていたよ。もっと早くに助けを呼べなくてごめんなさい、と」
東條の言葉に、山下は再度目を丸くした。
「そんな、謝るのはぼくの方です。修斗様が何をなさろうとしているのか途中から理解していたのに、直前になるまでお止めすることができなかった。ぼくがもっと早く動いていたら、彼女にあんなに怖い思いをさせることもなかったのに……本当にごめんなさい」
東條は首を振り、山下の背を一定のリズムでゆっくりと撫でる。
「山下が動けなかった理由、恐怖を、鈴木もわかっているよ。鈴木も、襲われたショックと恐怖もあっただろうけど、きっと山下と同じようなプレッシャーがあって、すぐに助けを求められなかったのだと思う」
貴族に気に入られなければ平民はまともに生きていくことはできない、という恐怖。それはバトラーだけに限らず、現代に生きるすべての平民が多かれ少なかれ感じているものだ。そしてそれはただ「気がする」というだけの話ではない。実際問題として、貴族間の関わりは強い。一人の貴族に嫌われたら、その情報が貴族の中で回ってしまうということは大いにある。そうなれば、平民はまともな仕事を失うのだ。仕事を失えば、社会保障もないこの社会では、生きていくこともままならない。
水島は東條の言葉に頷き「そうですね」と一言答える。彼の表情にはすべてが終わった安堵感と、変わりない諦念が浮かんでいた。
いっぽう、彼らの様子と会話に眉を下げた大都は保健室から静かに出ていこうとする。その足を、水島は意を決したように呼び止める。
「校長先生。あの、僕は、どうなるんでしょうか。やはり退学処分になるのでしょうか」
「そうだね。他人に暴力を振るうのは、たとえどんな事情があろうと許されることではないです」
振り向いた大都は、俯く水島を見ると手を伸ばし、その頭をゆっくりと撫でた。
「だけどね、君の許せないと思った気持ちはよく分かる。今回のことで、学校から君に何らかの処分をすることはありません。しかし、このことはきっと噂になります。それは、学校側では何もすることができない。覚悟を持って、頑張りなさい」
「はいっ……ありがとうございました」
水島は息を詰め、頭を下げて大都を見送った。
これにて、修斗と山下にまつわる大事件は、一時終着をみる。しかし大都の示唆したことは、この後も水島を苦しめることになる。
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