第38話 決着
誰かの魔術陣を引き剥がす。それは痛みが伴うことなのだと皆が言う。
だから他者の魔術陣に介入することはできないのだと言われた。それはどういう意味だろうと思っていたのだけれど――。
「なる、ほど……! こういうことですのね……!」
骨から肉が引き剥がされるような鈍痛が、絶えず私の体を襲う。
いかに鈍感と言えど、さすがに大地に描画された魔術陣に介入する場合は、痛みと無縁ではいられないらしい。
だが、上等だ。
この痛みが、私が聖女の魔術を妨害できていると教えてくれる。
「は? なに? 何なの、あんた、何してんの?」
『アマリリス、だめだ、それはいくらお前でも成功しない……!』
魔王が焦ったような声で言う。初めて聞いた。痛快だ。
「あら、ここはお前なら絶対できる、と言って下さらなければ」
『十九以上の修道院がある、それを全部転移させるには膨大な魔力が必要だ。そもそも展開されている魔術陣を無効化することなど、不可能に近い!』
「おほほほ、この程度おちゃのこさいさい、朝飯前でしてよ~!」
額に滲む汗が感づかれていないと良い。
最後まで鈍感令嬢でいたい。少なくとも、魔王の前では。
十九以上の修道院に展開された魔術陣を、力づくで引き剥がす。
木を切り倒すためにのこぎりを用いるのではなく、根っこから掘り返して引っこ抜くようなものだ。
技術も何もない。ただ鈍感であり、世界のルールが少しだけ通用しない私だからできること。
「ありえない。できるはずがない」
聖女が顔を強張らせ、まばたきさえ忘れて、私を凝視している。
長いまつ毛に雪が溜まってゆくのを、他人事のように見返す。
「いくら転移魔術に優れていると言っても――この広大な大地に十九ある修道院の魔術陣を、無効化するなんて、人間業じゃないっっ!」
「ええ。人間ではありませんので」
ぎりりと体を引き絞られるような痛みに、うめき声を上げそうになるのを、必死でこらえる。
呼吸が荒くなるのを気取られないよう、努めてゆっくりと息を吐いた。
その瞬間、近くの修道院――といっても百キロ近く離れているが――の魔術陣が、糸の切れた凧のようにぱっと剥がれた。
「嘘でしょ、本当に無効化できるんですか!?」
聖女がはっと空を見上げる。気づいたのだ。
人間業ではないことを、私が成し遂げているということに。
「このっ……!」
聖女が魔術で私を妨害しようとする。
だがその前に、その細腕に魔王が噛みついた。
聖女は叫びながら人狼の牙を振りほどき、足蹴にしようとするが、そのたびに魔王が小さな魔術を放って妨害する。
黒い魔素によって編まれた魔術は、聖女が必死に繰り出す白い魔素の魔術によって相殺されてしまうが、元より魔王に聖女を攻撃する気はないのだろう。
賢い魔王は分かっているはずだ。
今最も聖女に打撃を与えられているのは、私であるということを。
その私を守ることが、最も効果的に聖女を痛めつけられるということを。
風が強くなり、もはや吹雪と言えるほどの天気になった。
凄まじい痛みが重なって押し寄せる。熱い鉄の箸を脊髄に捻じ込まれているみたいだ。
だがそれでも、一枚一枚魔術陣を剥がすことができている。成功している。
聖女は何か叫びながら、魔王を攻撃したり、応援を呼んだりしているようだが、横殴りの雪のせいで聞こえない。
ああ違う、これは多分、私が「遠ざかっている」んだ。
サキが言った通りに。
これは良い知らせだ。正しく力を使えているということだから。
でも同時に、あまり時間がないことを意味してもいるから、私は魔力を込めるペースを上げる。
気の遠くなるような痛みに耐えて、どのくらいが経っただろう。
聖女のまつ毛に雪が積もっているのが見える。
「くそっ! 全部魔術陣を剥がされるなんて……だけど、また魔術陣を固定すれば、矢の魔術陣を再生できる!」
「ですから私は、転移魔術が得意だと、申し上げているでしょうっ!」
ドラセナ城を移動できない以上、修道院をそのままにしておけば、また矢の魔術陣を描かれてしまう。
それを防ぐにはどうすればいいか?
簡単だ、修道院を移動させてしまえば良い。
私は空に魔術陣を描く。星座盤のように複雑な線が描かれた魔術陣が、雪の降りしきる灰色の空に、ぱっと瞬く。
どこからか注ぎ込まれる魔力でもって、その魔術陣を展開する。
――動け。
私の命令に従い、十九の修道院がぶわりと宙に浮かび上がる。中にいる人には申し訳ないが、落ちないようしっかりと掴まっていてくれることを願う。
大地から引き離された修道院を全て束ね、私はそれを聖女の背後に出現させた。
「なっ!?」
神の鉄槌が下されたような音が聞こえる。
地響き、地鳴り……でもそれも、もう遠い。
そう言えばいつの間にか寒さも感じなくなっていた。
視界が白いのは、雪のせいじゃなくて。
「……ああ、漂流が始まりましたのね」
私が、全く知らない空間に飛ばされたから、だった。
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