第37話 雪中タイマン




 首元のファーに顔を埋めながら、私は北方にある修道院――ティターニア修道院に転移した。

 修道士たちが忙しく働いており、特に異変はなさそうだ。

 だが寒い。石造りの修道院は質実剛健をよしとしており、火も最低限しか焚かれていなかった。


「冷えますわね~。ですがこの様子では、こちらはまだ聖女に襲撃されていないようですわね」


 私は修道士たちに警戒を呼び掛けつつ、外に出た。

 一面の雪景色だった。丘も畑も厩舎も全てが雪に包まれていて、眩しい。

 しんしんと降り積もる雪のせいで、辺りの音もほとんど聞こえない。

 この寒さでは道行く人もほとんどおらず、まるで世界に一人きりのような錯覚を覚えた。


「……私が行くのも、こんなところかしら」


 そう呟きながら私は、雪を踏みしめながら歩く。

 さくさくという小気味いい感触が楽しかったのは最初のうちだけで、だんだん雪の重さと冷たさが嫌になってくる。


「寒冷地の方が、転移魔術の収入が良いんですのよね。こんなに寒かったら、転移魔術にも頼りたくなるというものですわ」

『人間は毛皮がないからな』


 横から聞こえてきたのは紛れもなく魔王の声で、私ははっとした。


「ドラセナ城から出られましたの!? ……って、なんてお可愛らしい姿に!」


 私は思わず顔を緩めてしまった。

 そこにいたのは、雪に同化してしまいそうなほど真っ白な、むくむくの子犬だったのだ。

 だが子犬にしては大きいし、牙も爪も飼い犬のそれとは比較にならないほど鋭い。


『人狼の仔の体を借りた。俺の本体はドラセナ城にある』

「むっくむくのふわふわじゃありませんか~! 可愛い! はりねずみも可愛いですけれど、もふもふの威力は凄いですわ~!」


 ぎゅうっと抱き着けば、子犬、もとい魔王は少し不満げに鼻息をもらしたが、逃げることはなかった。


『あれほど言ったのに、一人で来たのかお前は』

「一人で十分ですわよ。それにあなたが来てくれたじゃありませんの」


 我ながら結構な殺し文句ではないだろうか、と思ったのだが、魔王は反応しなかった。

 はりねずみに見えていた時は、それなりに表情が分かったものだが、今は犬の姿なので、感情がよく分からない。

 仕方がないので、手袋越しにひたすらもふもふを堪能していると、魔王が呟いた。


『それより、早く次の修道院へ向かえ。火薬の匂いがし始めた』

「大変。行きますわよ!」


 私は子犬を連れて、次の修道院に転移し――。


 聖女の蛮行を見た。

 ごうごうと燃えさかる修道院。修道士たちが両手に本や調度品を抱えて運び出しているのが見える。

 それを聖女は、防寒具を身に付けもせず、ふきっ晒しの状態で見つめている。

 桃色の髪に雪を積もらせながら、ゴブリンも裸足で逃げ出すほどの形相で、燃え上がる修道院を見物している。


 もう人間ではない、と思った。

 レオナルド・ラヴィーノにとりつかれた、哀れな、けれど強大な力を持つ少女。

 彼女はきっと、本当に魔族を絶やすだろうと思った。

 それだけの意志と覚悟と執念を持っている。


 けれど。そうはさせない。


「暖を取るにしてはいささか大げさな火ですこと」

「……鈍感令嬢!」


 振り返った聖女の顔は歓喜に歪んでいた。


「必ず来ると思ってました。ここにいるってことは、私とラヴィーノの目的――矢の魔術陣を構成して、魔族をこの世から駆逐するってことに、感づいたようですね。まあ感づいたところで、何ができるわけでもないでしょうが」


 私たちがここにいる理由を一目で見て悟った聖女は、鋭い眼差しで言う。


「念の為に言っときますけど、これ以上邪魔をするんなら、あんたはここで殺します」

「まあ、熱烈」


 殺意を向けられるとは思わなかった。もっとも、慣れてはいるけれど。

 聖女はにやにや笑いを浮かべながら、早口で言いつのる。


「余裕こいてますけど、命乞いは無駄ですからね? ラヴィーノもあんたみたいな反吐が出そうな博愛主義者に足を引っ張られて、目的を遂げられなかったんですし」

「博愛主義者じゃありませんわ。全ての命を愛せよだなんて、どの口が言えて?」

「ふうん。主義に殉ずるほどの高潔さも持ち合わせてないんですか。要するにただ私の邪魔をしたいだけなんですよね? 幽閉って暇なんですね」

「暇なんですのよ~。だからせいぜい私の暇つぶしになって頂くわ」

「良いですけど、もうあんたにできることはないですよ」


 聖女は手帳を取り出した。片翼のマークが入っているそれは、レオナルド・ラヴィーノの手帳である。

 それがどす黒い光を放ちながら、ふわりと浮かび始めた。

 ページがすさまじい勢いでめくられ、空中に何重もの魔術陣を展開し始める。


「だってもう、処刑は始まりますから」


 ぞっとするほど冷たい声で言う聖女の桃色の髪が、風に乱れて暴れている。

 眼光はもはや人間のものではない。どす黒い光を放つ魔術陣に囲まれ、夜空に輝く星のようにも見える。

 魔王が低く唸った。


『矢の魔術陣を起動する気だ……!』

「ま、まだ修道院を三十一揃えていないはずでは!?」

「あっはははは! だぁってせっかく来てくれたんですもん、お待たせするなんて申し訳ないでしょう!」


 いたずらが成功した時のように笑って、聖女は右手を高く掲げる。

 黒い光を放つ魔術陣が、百以上。手のひら大のものもあれば、ドラセナ城の裏庭くらいの大きさのものもあった。

 時計の歯車のように噛みあうそれらが、大空から地面に降りてくると、土に染み込むように消えた。


 遠くで地鳴りのような音が聞こえる。魔王が大きく身震いした。


『俺の目の前で……ッ、良い度胸だ、小娘!』

「おや、ずいぶんと吼える子犬ですね? 本当なら即座にくびり殺してやるところですが、どうせ死ぬので見逃してやります。少しばかり伸びた余命を楽しみなさいな」


 聖女を名乗ることもおこがましい、浅ましい笑み。命を握ったことに優越感を覚えている。

 それを見た瞬間、今だ、と思った。

 覆すなら今。隙を突くなら、今――。


 全ての魔力を足の裏から大地に流す。持て余し気味だった膨大な魔力を、薄く薄く引き伸ばして、大地を覆う。

 足りないかと思ったけど意外といけた。自分の無尽蔵な才能がいっそ恐ろしい。


 ――そうだ。私は鈍感令嬢。

 世界のルールが少しだけ通用しなくて、規格外の魔力を持っていて。

 この状況に対処できる唯一の存在。


「……なに?」


 聖女が片眉を吊り上げる。左右非対称の顔がひどく滑稽に見える。

 ああ、なってない。全然なっていない。せめて最後まで聖女然として振る舞ってくれればよかったものを。


「申し上げておりませんでしたわね。私、転移魔術が得意でして――」


 物心ついてから叩き込まれた、王族としての完璧な微笑みを浮かべ、私は言い放つ。


「今からあなたの修道院全部、少しばかり移動させて頂きますわね」

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