第36話 助けを求める手



 アマリリスの鼻歌がサンルームに響いている。

 歌がそこまで上手ではない彼女の、少し音程の外れた歌を、魔王は静かに聞いていた。


「そう言えばこの温室の植物、お世話をしているのに全然枯れないんですのね」

『ソフィアが世話をしている。ここは魔族が出歩ける中で、日光がよく当たる唯一の場所だから』

「なるほど。彼女は緑の指の持ち主ですのね。私ってばすぐ枯らしてしまうから」


 上機嫌に呟いて、アマリリスはシダの葉からそっと指を離す。


「そうそう、お兄様に聞きましたら、新しい修道院はもう建てない方針だそうですわ」

『だが取り壊すこともできないのだろう』

「壊さなくても問題ございませんわ。大丈夫」


 アマリリスの微笑みはいつになく完璧で、魔王は怪訝そうな表情を浮かべた。

 何かを隠している。


『どういうことだ。壊さなくても問題ないとは――』

「いくつあっても同じことですから」


 答えずにたたずむアマリリスの側に立てば、魔王よりも頭一つ以上小さな彼女が、微笑みを顔に貼り付けたままこちらを見てくる。


『何を考えている?』

「何にも」


 アマリリスは本音を隠すことに長けている娘だ。

 彼女が隠し通そうとしているものを暴くのは、きっととても難しい。

 だが魔王とてだてに年を重ねているわけではない。

 アマリリスの本音を注意深く隠すヴェールを、どう外してやろうかと考えていると、突如背後で雷鳴のような魔術の気配がした。


「!?」


 驚くアマリリスを背中にかばい、魔術の気配がした方に目を向けると、そこには驚いた顔をしている女が立っていた。

 人間だ。

 まだ二十後半にもならないくらいで、とび色の瞳に愛嬌がある。

 彼女は魔王を見てぎょっとしたような顔になり、慌ててしりもちをついた。


「あなた、大丈夫?」


 飛んで行ったのはアマリリスだ。女に手を貸して立たせてやる。

 魔王と温室とアマリリスに落ち着かなく目をやっていた女は、はっとしたように、


「もしかしてあなたがアマリリス・デル・フィーナ様?」

「ええ、そうですわ。私がアマリリスでございます。あなたは?」

「あたしはリーナといいます。トラフィの修道院から来ました。修道院が、聖女に乗っ取られてしまいそうで、転移魔術? っていうのを使って、ここに来ました」

『聖女に?』


 魔王が口を開くと、リーナはびくりと震えた。

 その肩を優しく撫でながら、


「大丈夫ですわ。こちらにいるのは魔王ですが、噛みついたり引っかいたりしませんから」

「ま、魔王!? 魔王がなんだってこんな場所に!?」

「このお城の下に封じられているからだそうですわ。だからもし襲われたら一緒に城の外まで逃げれば大丈夫ですわよ」

『おい。俺は襲う気などないぞ。それより聖女に修道院を乗っ取られそうになるとは、どういうことだ』


 リーナはごくりと唾を飲み込み、


「聖女が急にやってきて。この修道院はこれから改築するって言って、寝泊まりしてた人全員追い出して。セルジオ様……トラフィで一番偉い修道士様は、彼らにこっそりお金と食べものを渡したけど、それを見て怒った聖女に魔術で攻撃されて、せ、背中に大きな火傷を負って……!」

「セルジオ様が……」


 アマリリスの顔が歪む。魔王はそれを興味深く見つめた。

 微かに垣間見えるアマリリスの感情は、雲間から差し込む朝日のように美しい。


「だけど大丈夫だって言って、セルジオ様は自分で逃げられるからって、あたしを転移魔術のある小さな部屋に押し込んだんです」

「緊急脱出部屋ですわね。万が一のために、魔力のない人間でも、私のいる場所に避難できるよう魔術を構成していますの」

「それで気づいたらここに……ここはどこですか? セルジオ様は大丈夫ですか?」

「ええ、セルジオ様は老いた猫のような方ですもの、大丈夫ですわ。――にしても、聖女様はトラフィの修道院がお気に召したようね」


 魔王は素早く地図に近寄り、トラフィの修道院がある場所に赤い丸をつける。

 これで二十の矢の魔術陣が出来上がったことになる。残りは十一。

 聖女は、新しく修道院を建てることが難しいのならば、今ある修道院を奪えばいいと判断したのだろう。

 もはやなりふり構わないその動きに、魔王は歯噛みする。


 だが――アマリリスは憎たらしくなるほど平静な表情を保っていた。


「関係のない人間を攻撃するなど、聖女も堕ちたものですわね。これ以上あの女を野放しにしたら、また被害が増えるかもしれませんわ」

『だがどうする? 聖女に殴り込みにでも行くか?』

「それで矢の魔術陣が消えるのなら、いくらでも殴り込みに行くのですけど! あなたが下さった指輪をつけて、ね」

『人の贈り物をメリケンサック代わりにするな』

「贈られた物をどう扱おうと、私の勝手ではなくて?」

『だめだ。大事にしろ』

「まぁ亭主関白! 私はりねずみの嫁になる気はありませんということを、念押ししておきますわよー!」


 魔王と軽やかに言葉を交わすアマリリスを、リーナが感心したような眼差しで見つめている。

 そのリーナの手を優しく握り、アマリリスは尋ねた。


「聖女は修道院を乗っ取った時、次はどこを狙うか言っていましたか?」

「え? ええと……特には言ってませんでした。あ、でも、部下の修道士に天馬の蹄鉄ていてつに注意しろと声をかけてたような」


 魔王とアマリリスが素早く顔を見合わせる。


「ということは寒冷地ですわね、あんまり強く天馬の蹄鉄を締めすぎると、寒冷地では外せなくなりますもの」

『寒冷地の修道院の候補は二つ。魔族を送らせて阻止しよう』

「聖女の前に魔族を見せたら興奮して収拾がつかなくなりそうですわね。生肉を前にした獣も同然ですわよ」

『だからといってお前一人で行かせはしない。せめてお前の兄に応援をよこしてもらうことはできないのか』


 アマリリスの身を慮るような魔王の眼差しに、リーナは密かに片眉を上げる。

 美しいが、恐ろしい見た目の男だ。魔王はさすがに黒い魔素の量もすごいのだろう、ひりひりした気配も感じる。

 人間とは永遠に分かり合えないような様子でありながら、アマリリスに対しては、人間らしい振る舞いを見せる。


「聖女相手に兵士を差し向けてしまえば、聖女とお兄様の対立構造が生まれてしまいますでしょう。それはあまりよろしくないことかと」

『密かに動かせる私兵くらいあるだろう』

「それ借りると、後からお兄様へ接待しないといけないのが面倒ですのよね……。具体的には肖像画のモデルとして五時間ほど拘束されつつ、お兄様のティータイムにお付き合いしないといけなさそうで……」

『それは身の安全と秤にかけるようなことか? いいから兄に連絡を取れ』

「ですから亭主関白は結構ですと申し上げているでしょうに」


 そう言いながらもアマリリスは、手早く荷物をまとめている。


「リーナさん。ご家族はいらっしゃる? そちらへお送りしますわ」

「あ、はい、ありがとうございます」


 リーナはアマリリスに連れられてサンルームを出る。

 なおも視線を感じるリーナが振り返ると、魔王は、アマリリスをじっと見つめていた。

 その眼差しは、どう考えてもアマリリスを案じているようにしか見えず。


「あの、アマリリス様。あの人は……」

「お気になさらないで。悪い人じゃありませんの」

「それは……何となく分かります。アマリリス様をとても心配しているように見えます」


 アマリリスはきょとんとしたような顔になって、それから苦笑を浮かべた。

 少し照れくさそうな、まんざらでもなさそうな笑みを見て、リーナはふと、アマリリスは意外と若いのかもしれないと感じた。

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