第29話 戦いのゴング
「ドラセナ城は、魔族たちがいるダンジョンの上にあるのですから、当然では?」
さり気なさを装って返す。
魔王と接していることがバレれば、加護だのなんだのと話が大げさになりそうだ。
だが聖女は瞳孔を開いたまま、
「いいえ、この黒い魔素を間違うことはありません。――魔王だ!」
と叫んだ。
その時の彼女の声をどう形容したらいいだろう。
押し殺した喜びをこらえられないような。歓喜に震えているような。
見れば聖女は、口元を歪ませ、目元にうっとりとした光を浮かべ、嘉悦の色を滲ませていた。
だがその表情は、見る見るうちに醜く歪む。
「ダンジョンに引きこもって姿をくらませるなんて卑怯者め。おかげで魔族は今ものうのうと生きている。
まなじりを吊り上げ、下卑た笑い声をあげる聖女は、聖女らしさのかけらもなかった。
豹変した聖女を見、兄が私をかばうように、さりげなく前に出た。
「聖女様、少し興奮しているご様子だが――」
「聖女? ……ああ、ああ、そうだった。私は聖女ですわね」
にっこりと愛くるしい笑みを浮かべる聖女。
だが、あの豹変ぶりを目撃してしまった私と兄は、その笑みを信じられない。
聖女らしい完璧な微笑みだからこそ、その内に秘められた禍々しさをより強く感じる。
「あなたは一体、何者ですの」
「聖女ですわ。魔族を滅ぼすことこそ我が使命であり、神が望まれていることです。そのため、時々感情が高ぶることもあるのです……。お許し下さいませね」
私は一呼吸おいてから、敵ではないことを示すため、穏やかな笑みを作って尋ねた。
「魔族を滅ぼすと仰いましたけれど、聖女様、不勉強な私に教えてくださいませんこと?」
「何でしょう」
「どうして魔族を滅ぼすのです? 彼らはダンジョンに封じ込められてろくに活動もできていないのに、今聖女様が懸命に滅ぼそうとする必要はないのではないかしら」
「……」
「それより他にもっとやることがあると思いますの。例えば治水工事には魔術が必要ですから、修道士を派遣しても良いですし、貧民への施しや海外の篤志家を招いた資金確保、それに災害防止のための魔術開発……」
「あっはははははは!」
聖女様が急に大口を開けて笑い出した。
お腹を抱えてげらげら笑い、時折引きつり笑いをする様は、場末の酒飲みを思わせた。
「ああ……失礼、
「滑稽でしょうか?」
「だって別に、貧民なんか何人死のうとどうでもいいじゃないですか。どうせ働けないし、病弱だし、そのくせ文句だけは一人前。なーんにもできないごく潰し」
「ごく潰しですか」
「ああそうやってこっちの発言を繰り返すのも止めて下さい。そうやって冷静になる時間を稼ごうとしてるんですよね、ほんとご苦労様です」
時間稼ぎのつもりではなかった。私は驚いていたのだ。
聖女というわりには、頭が悪い喋り方をするものだな、と。
「質問に答えて下さっていませんわ、聖女様。どうして魔族を滅ぼしたいのでしょう」
「目障りだからですよ。醜いし。だから”大侵攻”を仕掛けたのに、仕留めきれなかった」
「まるで聖女様が六十年前の”大侵攻”を始められたような言い方ですわね」
「私が始めたようなものです。私はあの方の遺志を受け継ぐと、そう決めたのですから」
子どものような、あっけらかんとした笑み。
私と兄は顔を見合わせる。
「あの方の遺志? どういうことだ」
「王族の方が忘れただなんて言わせませんよ。魔王を最も追い詰めた男、レオナルド・ラヴィーノです」
そう言って聖女は胸元から一冊の古びた手帳を取り出すと、愛おしそうに表紙を撫で、また懐にしまいこんだ。
レオナルド・ラヴィーノ。
それは魔王の首に最も迫った、タスマリア王国の武将の名だ。
記録では、彼は魔族を憎んでいたという。魔族であるというだけで、彼は殺した。
躊躇も慈悲もない、ただそうあるべきだという信念のもとに、魔族の屍の山を築きあげた。
女子供にも情けをかけず、命乞いをするものも容赦なく。その殺し方は、魔王を大いに怒らせた。
――結果、レオナルド・ラヴィーノは魔王によって殺された。
私はそう習った。
けれどその男の遺志を、どうして聖女が継ぐのだろう。
「私、前から思っていたのです。どうして聖女だからという理由で人助けをしなければならないんだろうって。何で貧しい人間を、修道院で助けなくちゃいけないのかしらって」
「――聖女様?」
「でも聖女だから。貧乏で汚くて惨めったらしい人間を助けなきゃいけません。それはそういうものとして受け入れます、だから代わりに、同じくらい汚くて惨めったらしい魔族を滅ぼそうと思ったんです」
その微笑みの影には、隠しきれない邪悪さが匂っていた。
そこに憎しみや怒りといった感情は見受けられない。
ただ、魔族は滅びるべきであるという主張のみが、人間には理解しがたいどす黒い闇をまとって、存在していたのだ。
「そうそうクリストファー殿下、アマリリス様は黒い魔素には侵されていないようです。ご安心を」
「待て、あなたの話をもっと……」
「お話することはもうありません。私はこれから、あの
私の耳が捨てがたい言葉を拾った。
「……怯懦? 魔王がですか?」
「ああ、会ったことがあるなら分かりますでしょう。結局のところ、あれはレオナルド・ラヴィーノ率いる人間に勝てないと知って、ダンジョンに引きこもる卑怯な手を使ったのです。薄汚いネズミみたいなやつ!」
聖女が笑うと、唇がぐちゃりと音を立てた。
「しっかしまあプライドってものはないのでしょうかね? もしも羞恥心があれば、ダンジョンに籠城するなんて手は取らずに、魔族全員で総攻撃をかけるべきでした! そうしたら全員虫けらみたいに叩き潰してあげられたのに」
瞬間、体が動いていた。
左足を強く踏み込み、右腕を引く。
それから素早く拳を繰り出し、聖女の顔面、鼻を砕かんばかりの勢いで叩き込んだ。
「ぎゃッ!」
無様な声を上げながら、聖女が後ろに倒れる。
呆然と私を見上げるその顔に、心の中で言葉を投げつける。
――魔王の、たった一人で魔族を守るという決意も知らないくせに。
こういった修羅場の応対は心得ている。
にっこりと、最上級の微笑みを浮かべ、私は言い放った。
「ごめんあそばせ、手が滑りましたわ」
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