第8話 村人はまた出会ってしまった




 キリアンはろうそくの明かりのもとで、帳簿を睨みつけるように目を細めた。

 経営は上向きだ。それでも油断はできないので、販路を増やそうとあれこれ知恵を巡らせる。

 考え事をしていたキリアンは、だから、気づかなかった。


 ――店の中に忍び込む一筋の影に。


『キリアン・サミュエル』

「ひいっ!?」


 地獄から這いあがってくるかのような声に、キリアンは飛び上がった。

 振り返った瞬間、顔をつかまれ、壁に押しつけられる。

 こうもりか、鳥の足のような、鋭い爪のついた細い手が、彼の顔を物凄い力で握り締めているようだ。

 その影は地面から首をもたげると、キリアンの身長の二倍ほどにも膨れ上がって、キリアンを覗き込んだ。


「顔が、く、砕けるッ……」

『砕くものか。お前には大切な用事がある』

「大切な、用事?」


 言うなり影はするりとマントのようにほどけ、代わりに一人の男が現れた。

 年齢は二十代後半ほどに見える。キリアンの顔をぎりりと掴む手には、幾何学模様きかがくもようのような刺青が見えた。

 白磁のような肌に、月の光を写し取ったかのような銀の髪。

 同性でもどきりとするほどの玲瓏な美しさに、生活の苦労を知らぬかのような出で立ちは、男の身分の高さを物語っていた。

 貴族か、もしかしたら王族に連なるものかもしれない。

 そう考えていたキリアンだったが、禍々しい深紅の眼差しに射抜かれ、身をすくめた。


『お前の目に私はどう映る』

「ど、どうって……」

『人間に見えるか。髪や目の色は』

「人間の男に見える。銀色の髪、赤い目……その入れ墨を見るに、魔術師か何かか」


 恐る恐る告げるキリアンに、男はなぜか安堵したような表情を浮かべた。


『やはりそうか。――とすると、あの娘の視覚か、認識が乱れているのか。いや、だとしたら目線の説明がつかんな』


 男はキリアンの顔を掴んだまま、ぶつぶつと一人で何か言っている。


『私がはりねずみに見えるのならば、もっと屈みこんで話すはずだ。私のつま先に向かって話していてもおかしくはないのに、あの娘は正確に私の目を見て話していた――。どういう理屈だ? 何があの娘をそうさせている?』


 はりねずみという言葉がキリアンの頭に引っかかる。

 確か、昼間もその単語を聞いたような気がした。

 だがそれを思い出すより前に、男が乱暴にキリアンを椅子に放った。


「っ!」

『お前はもう用済みだ。安心しろ、殺しはしない』

「……ったく、昼間の令嬢といいあんたといい……千客万来だな」


 キリアンがそうぼやくと、男は片眉を器用に上げた。


『昼間の令嬢とはもしや、金髪で、背中に巨大な呪いの気配を背負った娘ではないか』

「そ、それだ! あんたたち、知り合いなのか?」


 それには答えず、男はくっと笑った。鋭い牙が露わになり、キリアンは椅子の上で縮み上がった。


『あれほどの呪いをまとわりつかせておきながら、その体は聖女のように清らかだ。まったく、忌々しいほど興味深い娘だよ』

「……あんた、何か企んでいるのか」


 キリアンは嫌な予感を感じて尋ねる。

 正直に言って、昼間の令嬢からは恐ろしいものを感じた。化物かと思ったくらいだ。

 けれど十代でありながら、森の中の城で、たった一人で暮らしているのだ。

 そう思うと、恐ろしい相手であっても、一言言わなければならない気がした。


「あまり酷いことはするな。彼女は多分、行くところがないんだ。王位継承権争いに敗れたと聞いた」

『そうもいかん。何しろあの城は私の住処だ』

「えっ? それはどういう意味……」


 キリアンが何か言うより早く、男は音もなく後ずさり、暗闇に姿を消した。

 耳を澄ませても、目をこらしても、店の中にはもう男の気配はなかった。


「な……何だってんだよ……」


 しがない八百屋の店長は、毒づくことしかできなかった。

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