第5話 村人は出会ってしまった
その朝、八百屋を営む村人・キリアンのおろしたての靴の革ひもは、ぷつりと千切れた。
キリアンは眉をひそめる。
「……革ひもが千切れるなんて。何だか嫌な予感がするな」
キリアンは思わず、窓の向こうに広がるレ・ケーリョの森を見つめる。
ここは森に最も近いレ・ケーリョ村だ。
森はうっそうとして気味が悪く、魔獣が出ることもあるが、それを除けば風光明媚で食べ物の美味い良い村だった。
生まれた時からずっとこの村で暮らすキリアンは、親から継いだ八百屋を大きくしようと、品ぞろえを増やすなどして頑張っていた。
「ははっ、俺らしくもない、ビビっちゃってさ。さっさと仕事、始めるぞ!」
嫌な予感は、靴の中の小石のように、終始キリアンを苛んだ。
それでも午前中の来客をさばきおえ、ほっと一息ついた、その時。
「ごきげんよう。少しお野菜をみつくろって頂きたいのですが」
鈴の鳴るような愛らしい声。この辺りでは聞くことのない、品性と高貴さを感じさせる話し方。
怪訝そうに顔を上げたキリアンは、その瞬間恐ろしいものを見た。
「ひいっ……!?」
令嬢だ。美しい金髪をポニーテールにまとめている。
琥珀色の瞳は長いまつ毛に縁取られ、好奇心たっぷりに店先の野菜を見つめていた。
着ているものこそ地味だが、磨き上げられた肌と髪、傷一つない指先が、彼女が侍女やメイドの類ではなく、貴族であることを告げている。
白いかんばせは上気し、可憐な少女の姿をいっそうみずみずしく見せている――のだが。
彼女の背中から発せられている、凄まじいまでの呪いの気配はなんだ?
キリアンは目を疑う。
美しい少女の背中からは、何か良くないもの気配がした。
いや「良くない」という次元を超えている。
あれは地獄の匂いを振りまくもの、人間にとって明らかに災厄となるものだ。
草食動物が、離れた場所からでも、肉食動物の匂いをかぎ取るように。
キリアンは令嬢からただならぬものを感じ、まなじりを吊り上げて少女を睨みつけた。
「……あの、もしかして私、お声かけしてはいけなかったかしら?」
「えっ?」
「怖いお顔をなさっていてよ。出直した方がよろしくて?」
「あ……いっ、いえ! 申し訳ございません! ええっと野菜でしたね、お好みはありますか」
「そうですわね、何でも好きですので、適当に包んで下さいますか? あと、はりねずみが食べられる果物があれば、そちらも」
頷きながら、キリアンは思考を巡らせていた。
この少女は村人ではない。錬金術師、魔術師の類でもないだろう。手が綺麗すぎる。
やはり最初の印象通り、貴族であるに違いない。
だとしたら、どうして貴族の令嬢が、供もつけずにたった一人で野菜を買っている?
野菜をみつくろいながら、キリアンはさりげなく尋ねた。
「その……。お嬢様はこの村にご滞在ですか?」
「いいえ、私は別の場所に一人で暮らしておりますの。この森をずうっといったところのお城ですわ」
「森? レ・ケーリョの森を抜けられて来たのですか!?」
「転移魔術を使いましたので、危険はありませんのよ」
「そ、そうですか……。レ・ケーリョの森に城なんてありましたでしょうか」
「ドラセナ城ですわ」
キリアンは一瞬、己の耳に飛び込んできた言葉が信じられなかった。
「ドラセナ……城……?」
令嬢はきょとんとした顔になって、それから恥ずかしそうに目を伏せた。
「あ、あの、一応あのお城にも畑があることは分かっていますのよ? ですけれど、その、お野菜はきっと、プロの方が作られたものの方が良いかと思いまして!」
「そんな……あんな呪われた場所に……!?」
「プロの方が作られたものに敬意を払う。これはとても大事なことだと母も言っておりまして、決して私が野菜を育てられないダメ人間というわけでは、」
「お体に不調はありませんか!? というかよくあの場に足を踏み入れられましたね……!?」
令嬢は再びきょとんとした顔になる。それからにっこりと、花が開くような笑みを浮かべた。
「この通り、心身共に健康ですわよ。幽閉されてからというもの、ストレスが一切なくて、むしろお肌も艶々といいましょうか!」
「……しょっ、少々お待ち頂けますか」
キリアンは店の裏手に引っ込むと、ちょうど通りかかった妻の手を強く掴んだ。
「どうしたのよキリアン。真っ青な顔して」
「今店に立っている令嬢を見ろ」
「ええ? ……普通のお嬢さんじゃないの。ちょっと寒気がするけど。っていうかあの子、お供がいないけど、もしかして貴族じゃないの」
「あのお方は、ドラセナ城で暮らしているらしい」
「……マジで言ってるの? ドラセナ城? あの魔王の住処だったダンジョンの上に建ってるお城?」
妻は眉をひそめる。
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