第9話
(二十六)
五月下旬が迫っていた。三十日は沙耶の誕生日だった。ここ数年、沙耶の誕生日は彼女が
誕生日には触れず、三十日の土曜日は空いているかと沙耶にラインを入れると、すぐさま「空いてる‼」と強めの返事が来た。夕方から時間を空けておいてくれないかと送る、あっと云う間に「何かしてくれるの」と返ってきた。で、「フラメンコを見に行こう」と提案すると、「行こう行こう」と返ってきた。
ラインを沙耶に入れたのは、六時限目の授業中であり、夕食はいつものように沙耶の家で採った。夕食中は何も三十日のことに触れず、夕食後何か問いたげの沙耶を残して自室に戻ると、僕の後を追う様に沙耶が部屋に来た。
「なあに、
宿題のノートを広げて取り掛かりはじめた時だった。
今夜は薄桃色のスエットの上下で、これまではそんな格好ですっぴんの状態でやってきていたのだが、最近は分からない程度に薄化粧を
数カ月前までは、僕を住まわせてもらっている社宅には他に二組の社員家族が住んでいたのだが、そのどちらも立て続けにマンションを買ったり、アパートを借りたりして引っ越してしまい、今住んでいるのは僕だけになっていた。
月ヶ瀬社長は、空いた部屋をこれからも社宅として使うつもりはないらしく、現在三部屋が空き部屋となっているため、そこに会社の業務に関連する大判プリンタ部門、データ管理部門を入室させていた。ゆくゆくはこのどちらも子会社として独立させる予定だと言う。
そういうことで、社宅として使っている本社二階は夜ともなると人気が少なくなるので、沙耶は、牟田口と別れて以来、以前にも増して
社長や彼女の母親などの目があるのであまり来ないように言っているのだが、彼女は気にしないらしく、何かに付けてやってくる。どうやら、父親の月ヶ瀬社長も、母親も容認をしているとのことである。相手が小学生から家族同様に暮らしていた僕なので、何か良からぬことを
そういった点では、沙耶の家族から信頼を勝ち得ているともいえるが、僕ら二人が最後の一線にまで
この時も、部屋に入ってくるなり僕に抱き付いてきて「なあに、
「だから、三十日の土曜日、フラメンコを見に行こうということだよ」
甘い彼女の体臭と、形の良い胸の
「どこ。……千葉」
「あれは、フラメンコ教室の広告だったろ、渋谷でフラメンコのライブレストランがあるのを見つけたんだ」
「渋谷にそんな店があるんだ」
「探せば結構あるよ。でも一番近いのが渋谷だった。……そういった店、行ったことあるかい」
沙耶を引き離しながら訊ねた。彼女は瞳を
「ないわ、お父さんは若い頃、銀座でシャンソンのライブが聞けるレストランに良く行ったって言ってたわね。もうその店、
「……シャンソン、聞いたことないかな」
「あたしも聞かない。でもシャンソンって、
「そうだね」
彼女の父親は良い趣味をしているのかなと思いながらそう答えた。
「で、フラメンコの店はなんていう名」
「うん、バル・アンダルシアという店。今、そこのホームページ見せるよ」
僕はスマホを取り出し、「バル・アンダルシア」のホームページを彼女に見せた。
「夕食を食べながらフラメンコが聞けるとあるだろ。フラメンコのライブがあるのは土曜だから、良いんじゃないかなって」
「行きたい、フラメンコにスペイン料理、
沙耶の顔全体に笑みが広がり、僕とスマホの画面を交互に見つめてくる。
「じゃあ、そこ予約するよ。ライブ席って言って、フラメンコを間近にみれる席があるからそこにする」
スマホを触る彼女の手が止まった。
「ちょっと待って、ライブ席の値段出てるけど、……忠邦、あたしの分も出すつもりなんじゃない」
「そうだけど。……予約いれちゃうからスマホをこっちに返してよ」
「だめよ、あたしが出す」
「今回は僕が出すよ。こっちが誘ったんだし……」
「お金、大変でしょ」
二人で一万円を超えるのできついといえばきついが、バイクも買い終え、現在は週二にシフトでバイト入れているし、取りあえず高価な買い物をする予定もないので、
「大丈夫、バイトしてるから」
「それは知ってるけど……、本当に良いの」
甘えるように沙耶は少し首を
「良いよ。こっちがそうしたいんだ」
身体を伸ばし、僕は沙耶の
「もっとキスさせて」
「……」
ここではだめだと言いたかったのだが、彼女の柔らかく、長身であるにも関わらず細くて
「キスだけ……、本当にキスだけだから」
そう
(二十七)
五月三十日は
午後七時に「バル・アンダルシア」へ予約を入れていたので、六時半に渋谷で沙耶と待ち合わせすることにした。
渋谷に向かったのは夕方の五時過ぎで、ヒカリエで買い物をしてハチ公前に着くにはぎりぎりの感じである。渋谷という街はあまり行かない。人の多さもあるが、街の雰囲気が自分には
何とか買い物を終え、待ち合わせのハチ公の像がある駅西側に向かおうとしたのだが、案の
結局、待ち合わせ場所に十分ほど遅れて到着した。
その大勢の人の中でも、沙耶はすぐに見つかった。今日は髪をポニーテールにはせず、長めの髪を下ろしており、長身のスリムな体に、七分袖で明るいグレーのトップスに黒い膝上十センチのニットスカート、淡いオレンジ色のソックスに黒いパンプスといった大人っぽい
男はかなり
「ごめん、遅れた」
と急いで彼女と男の間に割って入った。
「あ、彼氏さんですか」
突然現れた僕を意外な物を見たというような口調で、僕と彼女を見比べた。ヒールの低いパンプスを履いているものの、沙耶と自分とは十センチ近くも差があるのだ。本当に彼氏かと疑っているのが分かる。
「そうです」
と僕が答えるより早く、沙耶が低く怒りを
「えー、うちの事務所はタレントのプライベートにはあまり踏み込まないので、大丈夫で……」
彼氏持ちであっても大丈夫なことを盛んにアピールし始めたところで、沙耶が口をはさんだ。
「先ほどから言ってますように、興味ありませんので」
そういう彼女は瞳を僕にちらちらと向けてくる。ここから連れ出してくれと言っているようだった。
「もう行かないと、予約の時間に遅れる」
僕はまだ名刺を持っている沙耶の手を
「たぶん大丈夫。……遅れてごめん」
交差点を渡り終えると僕は手を離した。すると沙耶が腕を
「気にしないで、このぐらい遅れた内に入らないから」
「うん、……でも、ごめん」
「いいの……」
と答え、強い力で身体をぶつけてきた。バランスを崩して前から歩いてきた男にぶつかりそうになった。
「ところで、さっきの男、何だい……」
「タレント事務所のスカウトらしいわ、本当かどうかは分からないけど」
そしてまだ手にしていた名刺を
「すごいね、事務所から声を掛けられたんだ」
「ろくな事務所じゃないでしょ、たぶん……」
彼女は「もう、うんざり」という顔をしている。こういった事は、
109《いちまるきゅう》のある上り坂の
木製の扉を開けると、蝶ネクタイにスーツのウエイターが現れ、僕は予約した名前を告げた。予約客の名前を暗記しているのか、そのウエイターは「お待ちしておりました」と
スペインのバルやレストランはかくやあらんといった店内は、すでに何組かの客がおり、店の奥まったところに小ぶりのステージが設けられていた。
ステージの上にはマイクと椅子が二つ置かれている。スペインの民族音楽がBGMに流れる中、店内は照明が落とされ、ところどころに灯っている
「ステージが目の前なのね」
と沙耶が期待に瞳を輝かせている。
「
シェリー酒というのだろうか、
スペイン人と思われる深紅に黒い水玉を催した派手な衣装を身にまとった、三十過ぎの妖艶な踊り手と、ギター、歌い手が舞台に登場し、フラメンコが始まった。
(二十八)
料理は次々に出てくるので、要は早めに食事を終えて、酒を片手にたっぷりとフラメンコを
シャーベットのデザートが運ばれ、僕は沙耶の前に先ほど購入した小箱を差し出した。
「これ、プレゼント」
ワインとシェリー酒で上気した沙耶の表情が素直な驚きと喜びに輝いた。
「……いいの」
「いつも渡してるじゃん。大したものじゃないよ」
「なんで、……この店も出してくれるんでしょ。だめよ……」
まあ、こういったやり取りは、日本人の
「本当に大した物じゃないよ」
「見ていい……」
僕は頷いた。彼女の細い指が震えながら小さなリボンを解き、
「ね、大したもんじゃないだろ」
「そんなことない、嬉しい。まさか、忠邦からこんなプレゼントもらえるなんて……、ありがとう」
沙耶はいそいそと右の細い手首にブレスレットを付けている。
「……誕生日おめでとう」
と僕は言った。
ステージ上の踊り手が、その様子を見ていたらしい。激しい踊りを続けながら、僕らの席近くに近寄り、まるで祝福するような動きをする。沙耶が踊り手に
フラメンコライブは九時近くに終わり、僕らも店を出た。沙耶は店を出るや、恋人繋ぎをしてきた。そして、自分が先に立ち、僕を道玄坂通りにではなく、反対側の路地の奥に誘い始めた。
あの
沙耶はもともとその気であったし、自分もそうなるかもしれないと思っていたが、いざ、ホテルに入ってみると、まったくどうして良いか分からない。部屋の空き状況を見ることのできるパネルの前で立ち
取った部屋は三階で、何やら不思議な色をした照明のエレベーターに乗り、ドアの上の赤いランプが点滅している部屋に入った。意外に広く、白と茶色を
沙耶は荷物を置いた瞬間、僕に振り向き抱きしめてきた。僕もそれに応えながら抱きしめ、唇を重ね合った。
「……恥ずかしい、本当は忠邦に誘われるまで我慢するつもりだったんだけど……。自分が抑えられなくなっちゃった」
そう
全身に火が入った。彼女は何度かこういった所を利用しているのだ、彼女の行動がそれを示していた。火は嫉妬の
沙耶は僕の白いTシャツを脱がし、自分の背中に手を回し白とブルーのブラを外した。形良い
最初の行為はごく普通に
バスルームで互いの濡れた体を拭き合い、ふたたびベッドに転がり込み、熱を
帰りはタクシーを使った。時刻は午前零時を過ぎていたにも関わらず、渋谷の街にはまだ活気が残っている。
僕は沙耶に夢中になっている。激しい一時を終えたばかりなのに、もう彼女が欲しくなる。深夜を走るタクシーの中で、僕は吹き上がってくる欲望を
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