第8話

 (二十四)

 沙耶を奥秩父から送り届けた翌々日、風邪をひいた。深夜のバイクがたたったのだろう、四十度近くまで熱が上がり、身動きもままならなくなってしまった。僕の具合ぐあいが悪いことを知った沙耶は、熱の引く四日後まで、病院の通院から、食事、汗で汚れた下着の着替えまで甲斐甲斐かいがいしく僕の世話をし、ほとんど四日間を僕の部屋で過ごして看病をしてくれた。

 とうの沙耶の方はというと、こちらの看病で気を張っていたためか、本来の身体の強さのためか、僕より寒い思いをして奥秩父から帰ってきたにもかかわらず、彼女は体調をくずした形跡がない。

 熱が下がり始めた三日目の夕、大学の課題をこちらに持ち込んでパソコンを打っていた沙耶に、「風邪を移したかもしれない」と伝えると、「あたしはあまり熱出したこと無いの」と答えた。そういえば、彼女と知り合ってこのかた、熱を出したとか、具合が悪くなったとかを、あの病気をされた時は以外聞いたことがないし、見たことがなかった気がする。

 それと熱を出して知ったのだが、沙耶はかなりの「キス魔」だということだ。こちらが熱でうんうん言っている時も、何かあれば口とか額、頬あたりを唇で触れてくるし、場合によっては手の甲や指にまでそれをしてくる。まるで母親が我が子を世話している姿を連想れんそうさせた。彼女が子供好きなのは知っていたが、弱っている者に対しても、面倒を見たがる性格でもあるらしい。彼女に世話されることは気恥きはずかしいが嫌ではない。

 熱が下がり、沙耶から寝ていなくてよいと許可が降りた。この日も沙耶は朝から部屋に来ており、何くれとなく世話を焼いている。

 その夕方、四日分のまった高校の宿題やプリントなどを持って秋穂が訪ねてきた。社宅入り口にあるインターホンを鳴らした彼女は、沙耶が応対に出たので驚いたようだ。

 沙耶が電子錠でんしじょうの解除ボタンを押して入り口のドアを開けると、少しして玄関先に制服姿の秋穂が現れ、沙耶と会話を交わしている。沙耶は上がれと誘っているようだが、秋穂は遠慮をし高校からの書類を沙耶に手渡して帰っていった。

「帰っちゃった」

 秋穂から受け取った大型封筒おおがたふうとうを手にし、僕の前に置きながらそう言った。

「うん、聞いてた」

「ばれちゃったね」

 と沙耶が面白そうに笑みを浮かべた。

「……ばれたって、何を」

 また、熱でも上がってきたのか、自分の顔が熱くなる。

「まあ、ばれても良いんだけど。あの子に悪いわ」

「だから何が悪いと……」

「忠邦とあたしが付き合っているということ。せっかくあの子をバイクにも乗せたのにね」

 そう言い、彼女は僕の横にしな垂れかかるように座った。秋穂をバイクに乗せたのを、まだ根に持っているようだ。

「付き合ってるって……、僕と、ということ」

「じゃあ、あの時の約束は、嘘なの」

「……嘘じゃないけど」

 そういえば、彼女に「好きだ、抱きたい」と言った。まるで、熱に浮かれるよう口走った記憶がある。本当に熱が出たのはそのせいかもしれないと思った。

「なら、付き合っているのよあたし達。だからあの子に悪いって言ってるの」

「だから、何で……」

 それって、「二股ふたまた」というのではと思いながら僕は尋ねた。

「えっ、気付いていないの、あの子忠邦が好きなのよ」

 寝耳ねみみに水である。高校に入ってから彼女とは仲良くしてもらっていた。ただそれだけだ、秋穂の少し子供ぽい顔つきを思い浮かべながらそう思ったし、自分は彼女を恋人対象として見ていない、彼女も同じだろうと思っていた。

「……秋穂には付き合っている奴がいるよ」

「あの背の高い、不良ぽい子ね。あたしと一度デートした。……本当に付き合ってるのかしら」

「少なくも、僕はそう思っているけど」

 そう答えると、沙耶はちょっとうれいをふくんだ目つきで僕を見つめてきた。

「女の子はね、誤魔化すのがうまいの。二人の間にもう一人の人間を引き込んで、自分の本心を隠すこともするのよ。……あたしもそうだったから」

「そう、でも彼女に好きでいられても、それに応えることはできないよ」

 そう沙耶に応えると、彼女は急に僕の背中に持たれ掛かってきた。柔らかな背中の感触が伝わってくる。

「……どうして」

 と、背中を通して彼女の声が聞こえてきた。

「……沙耶がいるから、……それだけだよ」

 しばらく二人に沈黙が続いた。

「うん……」

「高校二年のガキが何言ってると思っている」

 僕は前を向いたまま尋ねた。

「思わない。……あなた、子どもじゃないから」

「高校生と言えば、子どもだろ」

「忠邦は高校生だけど、中身は十分大人だとおもう」

 かなりの率で、「おっさんくさい」とは言われるが、沙耶からもそう思われているとなると、やはり「おっさんくさい」のだろうと考えざるを得ない。まあ、中学になって、感情の起伏きふくを抑え始めたことは事実だが、それが「おっさんくさい」と言われると何だか釈然しゃくぜんとしない。

「あのね……」

 沙耶のトーンが変わった。どこか相談でも持ち掛けようとしているトーンであった。

「何」

「……彼と別れる」

「……」

 どう答えるべきか、何を言ってもこの場にそぐわない気がした。

「……決めたんだ」

 沙耶の言葉には、迷いはないように思えた。

「それで、あっちには伝えたの」

「伝えた、納得はしてないようだけど。あっちは、山の中であたしを放り出したのが原因だと思っているみたい。……違うのに、一つ一つの積み重ねの結果なのに、わかっていないのよね。……それで可笑しいの、バイクであたしたち帰ってきたじゃない、それを物陰ものかげから見てたんだって、あの人。一人でここまで運転してきて、私が帰ってくるのを待っていたのよ」

 自己中心的で気持ちの悪い行動だと僕は思った。

「たぶん、あたしが一人で帰ってきたのなら、のこのこと出てきたと思うわ」

 そう言った沙耶の口調に、あきれと軽蔑がこもっているようだった。

「何を言うつもりだったのだろう」

「出てくればあたしが喜ぶとでも思っていたんじゃない。……俺が居なければお前は生きていけないからなって、良く言っていたし、本気でそう思っていたみたいだから。現れればあたしが飛び上がって喜ぶと思っていたのかも……」

「そりゃ……」

 その言葉の後に、「痛い奴だな」と続けたかったが、止めておいた。その痛い奴と四年間も付き合い続けていた沙耶も同じ人種であると告げてしまうことになるのではと思ったからだ。

「携帯ではそう話したけれど、面と向かっては言ってないから、明後日あさって話してくるわ」

 行くなと口に出かかったが、言わなかった。別れる決心をしていても、顔を合わせればその決意がらぐ恐れは大いにある。四年間の月日は大きいはずだ。牟田口と一緒にいて、楽しいことも多かっただろうし、そうでなければ長く付き合わないはずだ。

 慣れた日常とこれから新たに始める日常、どちらが楽かといえば、慣れた日常であるのは確かだ。

「そう決断してくれたこと、嬉しいよ」

 そう言うと沙耶は背中から僕を抱きしめ、首筋に顔を埋めてきた。

 じつところ、その感触を味わいながら、言葉で牟田口と発することさえ拒絶している自分に気づいた。それだけ彼に対し憎しみをいだいているつもりだった、だがそれは憎しみではなく嫉妬しっとであった。深い関係を結んだ恋人であったことは仕方しかたのないことだし自然でもあるが、そのことで沙耶を責めたい自分がいた。理屈ではないのだ、感情がそうしたがっていた。

 そこにこだわる自分は未熟だと思っても、どうしようもないどす黒い感情に揺さぶられている。顔をこの時沙耶に見られなくて良かった、たぶんその感情は顔にも現れていただろう。


 (二十五)

 翌日の金曜はのろのろとときを刻んだ。土曜に沙耶が牟田口に会うことへの緊張感は、まるで自分の事のように感じられ、病み上がりもあってきつい。

 やっとの思いで金曜日の授業を終え、帰り支度じたくをしていると、秋穂が意を決したように僕の席に近づいてきた。登校したときに、秋穂の席に行き、プリントを家まで持ってきてくれたことに礼を言ったのだが、彼女は何かを聞きたそうな顔をしたのを覚えている。だから、彼女が席まで来たとき、沙耶とのことを聞かれるのだろうと感じていた。

 秋穂と付き合っている静馬は部活で居残りらしいので、久々ひさびさに秋穂と二人で校門を抜けた。ゴールデンウイークが迫っている時期で、ここ数日二十五度を超える日が続いている。先週の土曜日の寒さとは嘘のようだ。新緑に彩られた木々は暖かな光彩こうさいを放っているように見える。

 やはり秋穂は沙耶とのことを聞いてきた、二人は付き合っているのかと。

「このままいけば、そうなるかもしれない」

 と僕は答えた。

「……そうなんだ」

 祝福するような言葉を掛けてくれるかと思ったが、秋穂は微妙な顔つきをしている。その表情にどういった意味があるのかは分らなかった。沙耶が秋穂に対して言っていた言葉が浮かんでいた。

 明けて土曜日。金曜日以上にときつのが遅い。バイク購入の金を稼ぐ必要が無くなったため、バイトは平日のみにしており、今日一日フリーである。

 昼の一時ごろ、沙耶から牟田口に会いに行くという連絡が入った。牟田口は江東区の門前仲町もんぜんなかちょうに住んでいる。彼女は車で行くのかと思ったが地下鉄を乗りいで行ったらしい。「駅に着いた」、「今家の前」「これから突入」などと矢継やつぎ早に連絡をくれた後、約二時間も音沙汰おとさたがなかった。

 悪い予想は度々頭に浮かぶものの、反面、必ずを付けてくると沙耶を信じていた。小学五年生から僕は沙耶と一緒だった、その間に知ったことは、彼女が「有言実行ゆうげんじっこう」の人であるということだ。「こうする」「こうしたい」「しない」「するつもりはない」そういった意思表示をしたことは必ず実行する。そういった意思表示を沙耶がするまで、熟慮じゅくりょ熟慮じゅくりょを重ねた結果であるので、そこはぶれないのである。

 ただ、目的を果たすため、最後に牟田口に抱かれることを条件に出されていたらどうしようという考えが、待つ間にしつこくまとわりついてきた。牟田口を納得させ、目的を達成するために取り得る手段の一つにならないとは言いきれないと、乏しい想像力から考えてしまう。それは絶対に嫌だった。

 四時を過ぎた。沙耶からの連絡はない。全く他のことには手がつかない、ただ、彼女からの連絡を待っていた。

 太陽がかたむき始めた頃、彼女から電話が掛かってきた。

「終わった。疲れた」

 暗くなく、軽い口調が電話口からでも分かった。無理に軽くしている、ということはないだろうか。

「お疲れ……」

「……別れてきた」

「そう、大丈夫だった」

 携帯からは、街の喧騒けんそうと彼女の息遣いきづかいが聞こえてくる。

「うん、大丈夫。……ねえ、門仲もんなかまで迎えにきてくれる。会いたいの……」

「いいよ」

「よかった」彼女が心底ほっとしたような口調で続けた。「駅の西口を昇って……。出口の上に喫茶店があるから、そこで待ってる」

 そう言い、彼女は携帯を切った。

 門前仲町もんぜんなかちょうまでは、都営地下鉄の日本橋駅で営団地下鉄に乗り換えればいいということは知っていた。こういうこともあろうかと、門前仲町までの経路けいろをチェックしておいたのである。

 薄いブルーのヨットパーカーをかぶると、携帯と財布だけを手に部屋を出た。外にでると、印刷機が稼働かどうする音が印刷工場から聞こえてきた。

 門前仲町までの地下鉄が長く感じた。時間的には乗り換え含めて二十分くらいなのだが、一時間近く乗っていたような気がする。ホームに降り、進行方向の最後尾さいこうびあたりの昇降口しょうこうぐちを昇る。西口はこちら側である。

 改札を抜け、最初左側の外に通ずる出口を昇ると、出口の上に沙耶が待っている喫茶店はなかった。地下鉄の駅は永代通えいたいどおりの地下にある、どうやら反対側の出口に上がってしまったらしい。目の前は大きな交差点で、道の反対側に二階が喫茶店となっている地下鉄出口が見えた。

 下にはくぐらず信号を渡って、地下鉄出口に向かい合った喫茶店のドアを押した。店舗は二階らしく、木製のかなり急な階段が設けられていた。

 階段を登り切ると店内はレジが店の中央にあるような少し変わった造りである。木製のはり煉瓦れんがの壁、そしてボックス席が多数ある古い喫茶店で、どうも古い喫茶店は茶色、木目調もくめちょう煉瓦れんがが共通でもあるかのようだった。照明は少なく、店内はほの暗い。

 その中で、店内を見渡すと、永代通えいたいどおりに面した窓際のボックス席に、沙耶が座って僕を見つめ笑みを浮かべていた。僕が近づいていくと、木製テーブルの上には白いコーヒーカップが一つのっていた。

「ごめんね。迎えに来てもらって」

 対面に座ると彼女はそう言った。嬉しそうだ、それがうまく別れられたことへなのか、僕が迎えにきたことなのかは判らない。

「別にいいよ、暇だったし」

 せたウェイターが注文を取りに来たのでアイスコーヒーを注文した。病院に付き合った時に喫茶店で頼んだのもアイスコーヒーだったなと思い出していた。あれからもう一年が過ぎようとしてるのだ。

 少しの間だけ沈黙が支配した。永代通りを走る車の音と、店内に流れるクラシック音楽、たまに漏れ聞こえてくる他の客の話し声が店内の床辺ゆかあたりを漂っているように聞こえた。僕らは互いの顔を見つめ合っていた。薄く化粧をした沙耶のほおが僅かに上気している。

「別れてきた」

 携帯で聞いた言葉であった。

「うん、そう」

 受け答えをしながら、別れてきたことを気にんでいるようには見えないなと思った。先ほどのウエイターがアイスコーヒーを運んで来て、静かに僕の前にグラスを置き、音もたてずに居なくなった。

 沙耶がくすくすと笑った。

「別れて正解だよとか、もうあんな男に遭わなくて良くなるねとかを言わないのね、忠邦は」

「……言って欲しい」

 一般的に今別れて来たばかりの女性が心に傷を受けていないはずはない、たとえ嬉しそうに見えても、たぶん心は乱れているだろうと思う。そんな彼女に掛ける言葉を僕は持っていなかった。

「いいえ……」

 と沙耶は首を振った。

「じゃあ、言わないよ」

 アイスコーヒーにストローを挿し、一口すすった。不味まずいのであわててコーヒーフレッシュをした。

「あの人とすれ違うようになったのはいつから何だろうって考えたことあるのね。……で、最初からすれ違っていたんじゃないかって……」

 それにしては四年も付き合い続けてきたじゃないかと、チリチリと嫉妬の炎が立ち昇りそうになり、僕はそれを押し殺すように話を聞いていた。

うと楽しかったんだけれど、それを同じくらい、何だか互いがずれたままでいると感じた。でも、好きだと思っていたから、そのことをあまり気にしていなかったな。……高校を卒業して、大学は違ったけどそれでも付き合って、心のずれはどんどん広がっていって、……好きなはずなのに、あの人の嫌いな所だけが見えるようになって拒絶する自分が居た。なんだろ、自分の中にもう一人のあたしが居るみたいで」

(その隙間を、僕で埋めていた……)

 はっとした、何を考えてるんだ、沙耶がそんな女性じゃないことは判っている。

「恋人を嫌いになったらおしまいよね」

「ほかに嫌いになるようなことをされていたのかい」

「もう、いっぱいに……浮気みたいなことをされたのも何度かあるし、あの人の友人の彼女とあたしを交換してみたいなんて言い出して、もう限界だった」

 こういうのをスワッピングと言うのだろうか、乱れた恋愛の中に彼女が取り込まれそうになっていたことも僕は知った。

「そういった事が積み重なったのね。でも、あの人、全然ぜんぜん判らないの。だから、最後にあの人から貰った物や思い出の品を返した。……やっとあたしが本気だと理解したわ」

「……うん、そうなんだ」

 何故か適切な返しが浮かばない。別れたとは言え、二人の間には四年もの長い期間があり、経験も積み重ねてきたのだ。僕と沙耶は、始まってもいない、その圧倒的な差に押しつぶされそうな気分だった。普段、あまり人と自分を比べることをしないが、この時ばかりはそういかなかった。

 沙耶は僕に何らかの変化を感じたのかもしれない、牟田口と別れの話はそこでぴたりと止めた。自分では平然へいぜんとしていたつもりだが、気持ちが顔に出ていたのかもしれない。

「……なんか、ごめん。あたし、自分のことばかり話してた」

 沙耶が下を向いた。顔は隠れたが長い睫毛まつげのぞいた。

「その話をするために僕を呼んだんだよね。それが分かっていて僕はここへ来た。沙耶が気に掛けることはないさ」

 氷が溶けかかってしまっているコーヒーをすすった。店の名が印刷されているコースターがグラスの表面から流れ落ちてきた水滴で濡れている。

「……機嫌、悪い」

 そう彼女はさぐるような、少しおびえたような声でたずねた。

「いいや、悪くないよ」

「嘘、なんか機嫌悪い」

「悪くないよ、なんでそう思うんだ」

「……本当。来た時から一度も笑ってくれないよ」

「……真剣に聞いていただけだよ。……こんな時、茶化ちゃかしちゃだめだろ」

 嘘だ。胸のもやもやが納まらない。

「……ごめんね。聞きたくなかったよね、こんな話」

 そう言い、沙耶は小さく溜息を吐いた。

「なんでこうなんだろ。……あたし、忠邦には迷惑しか掛けていない。あたしだけの問題なのに、何度も忠邦を巻き込んでいる」

 そう沙耶は続けた。

「話してくれて嬉しいよ、僕なんかにさ……」

「違う、そうじゃない。あなただから話しちゃうの。……誰より信頼できるから」

 そう言う沙耶に、僕は笑みを返した。

「……あたしね、忠邦を愛しいとずっと思っていた、初めて会った時から……」

 下を向いて、彼女がそう言った。じゃあ何故なぜ、牟田口と付き合っていたんだという想いと、もっと早い時期に言ってくれたらどうだろう、牟田口から彼女を取り返すために行動を起こしただろうかという想いが浮かんだ。この二つに対して満足する回答はないようだった。現実は彼女自らが考え、行動し、今この喫茶店で自分と向かい合っているのだ。僕が介在かいざいできたのは、極僅ごくわずかでしかない。

「そんなことはない。沙耶はずっと僕を気にかけてくれていたよ。義務でもないのに」

「でもそれは……」

「いいんだ。気にかけてもらっている方がそれで満足しているのだから、それでいいんだよ」

 彼女の濡れた瞳がこちらを見つめ続けている。僕は彼女の瞳が好きだ。

「そんな、忠邦だけが……」

「いいって、これからは二人の時間がもっとできるんだから、有効に使わなくちゃ」

 そして僕は、彼女に「帰ろうか」と言った。夕方の五時を過ぎていた。


 門前仲町から三田に戻るために乗った地下鉄は帰宅時間とも重なって混んでいた。その混雑を利用して沙耶は僕と身体を密着させ続け、僕の腕を抱え込むように自分の胸の部分に押し付けてきた。いつものことながら、高い身長にくわえ、人目を惹く容姿であるため、混雑した車内の至る所から視線を感じる。その都度つど感じるのだが、身長は自分の方が十センチも低いので沙耶と釣り合わない。だが彼女は一向いっこうに気にしない。沙耶への男たちの視線も、彼女には全く通用しないようだ。

 「スペイン行きたいな。そこで本場のフラメンコを見てみたい」

 日本橋駅から都営地下鉄に乗り換えた時、車内にフラメンコダンス教室の広告が掲示されており、沙耶はそれを見てそう言った。黒を背景にスポットライトを浴び、ダンサーがワインレッドのドレスを身にまといポーズをとっている広告で、千葉県にあるフラメンコ教室の広告らしい。東京の港区からは多少離れている。

「見たことあるの」

 と尋ねると、沙耶はつかんでいる手に力をこめてきた。

「それがないのよ、見たいのだけれど。とくにね、フラメンコギターのかなでるリズムがホントに素敵」

「へえ、映画好きとは知ってたけど、フラメンコも好きか」

「何か、異論でも……」

 沙耶が顔を近づけ、悪戯っぽく囁いてきた。

「……いえ、別に」

 フラメンコぐらい僕も知っている。スペインの伝統舞踊だったはずだ。しかし、フラメンコとは、五月末の彼女の誕生日の計画を練りなさなければならないようだった。

 地下鉄の三田駅から自宅まで、薄暗くなった黄昏時たそがれどきの道を僕らは腕を組んで帰った。沙耶と一緒に居るときは二人ともあまり喋らないことが多くなった、この時もほとんど会話を交わさなかった。一緒に居るのが沙耶だと、気分が落ち着き自然と口数が少なくなってしまう。

 ひと頃のように、暮れ始めると寒さが戻ってくるようなこともなく、昼の温さをそのまま保ってくれる季節になってきている。暮れなずむ景色を眺めながら、二人で歩くのが好きだった。

 十分ほどで沙耶の自宅に着いた。

「着いちゃった、もう少し歩いていたかったな」

 と沙耶が組んでいた腕を解きながら言った。

 土曜日であるため、自宅と社宅がある会社敷地内は静かだった。門前仲町に向かう時は動いていた印刷工場は仕事を止めたようだ。本社ビルのどの階も明かりは灯っておらず、本社ビルが大きな黒いシルエットを投げかけていた。

「……大丈夫、無理していない」

 長年付き合ってきた男と別れを告げてきたばかりなのだ、沙耶はかなりこたえているはずだった。

「平気……、でも、しばらくは忠邦にまとわりつくかもしれない」

 やはり、心のどこかで寂しさを感じているのだろう、そう思った。

「それは、構わないよ。むしろすごく嬉しい」

 嬉しいのは本心である。とにかく僕は沙耶が好きなのだ。苛立ちも、嫉妬もすべてそれが原因だ。

「ありがと、だから好きなの」

 と彼女は僕の手に触れてきた。その動作は昔からの恋人に対するような触れ方であった。

「それはそれは……」

 やはり照れる。彼女の柔らかな手の感触を受けて腕から背筋を熱い物が駆け抜ける。

「これからは、自由よ……それがとても楽なの」

「そうか……」

「ありがとう、決心させてくれて……」

「僕は、……僕は何もしていないよ」

「そう思っているのは忠邦だけ。ホントに頼もしかったんだから」

 そう自分で言って今度は彼女が照れている。素早く手を引っ込めると「夕ご飯できたら呼ぶね」と言い、くるりとかかとをつかって体の方向を変えて自宅の方向に歩き始めた。僕も同じように彼女に背中を見せ、数歩歩いた時だった。

「……忠邦って、高二よね」

 振り返って頷くと、彼女は僕を見つめていた。

「どうしたら、そんなに大人になれるの……」

「中身は十六のガキだよ。前話したよね、みんな僕のことを高校生の恰好かっこうをした中年て呼ぶって……」

 沙耶が声を上げて笑った。

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