第6話

 (十七)

 日がますます短くなり、同時に寒さが街を覆うことが多くなった。

 十一月中旬、予定より少し遅れてしまったがバイクの免許を取得できた。次はバイク探しである。静馬とたまに秋穂も入れて、近場のバイク屋巡りと豊洲のバイクショップへしばしば出掛けていた。

 静馬は沙耶とのデートで痛い目にあった後、それを多少引きずりながら文化祭期間中、秋穂に告白した。

「いいけど」

 と頬を染めて彼女はそう答えてくれたらしい。静馬は変わり身の速い幸せな奴だ。  

 沙耶とはしょっちゅう会っている。僕の態度も今までのようにしようと努めていた。あの夜、僕が沙耶とそれ以上の関係にならなかったことを良い意味に捉えているようで、僕に対する信頼感、親密度はさら増しているようだった。

 以前は牟田口の愚痴ぐらいは聞いても良い、それで沙耶の気分が晴れるのならと思っていた。だが状況は大きく変わってきた。沙耶が手に届く所にまで降りて来た感じがするのだ。それと同時に、沙耶から牟田口との男女のまじわりを想像させられる話は一切聞きたくないと思うようになっていた。

 しかし、沙耶は時折ときおり、そういった類の愚痴や経験ともとれる話をしてくる。そんな話は聞きたくないと言えば済むことなのだが、それが何故かできない。僕は沙耶の言葉に打たれ続けている。


 バイクの方もなかなか思うように見つからなかった。また、乗りたいと思っているバイクはすでに製造を中止しており、中古市場では新車価格より高く取引されている場合もあるので、現時点では手が出ないのが現状である。資金も免許のために二十万近くを使い十万足らずしかない。このままバイトを続けざるを得ないと決めた。

 それから学業はそこそこにし、バイトに明け暮れた。静馬と秋穂の中が深まっていくのを横目に、接客と調理に努め、いつしかバイトの副リーダーと言われるほどのベテランになり、クリスマスもなく、大晦日おおみそかも年が変わるぎりぎりまで働いてしまった。それでもバイクの購入予算には届かなかった。

 そんなバイトけの毎日でも沙耶からのラインは頻繁ひんぱんに届き、顔を合わせない日があるとビデオ通話で掛けてくる。そんな日が数日続くと、夜に「陣中見舞じんちゅうみまいじゃ」とかなんとか言って顔を見せに来ては、深夜になるまで彼女が借りてきたDVDを二人で見たり、彼女の話に付き合って過ごすことが多くなっていた。大学も冬期休暇となりクリスマスイブは牟田口と出掛けたが、どうやら毎週のように牟田口と会うことはしていないようである。

 彼女の口からはその理由を聞かなかったが、話題に牟田口の話が出る頻度ひんど次第しだいに減り、僕と二人で来年はここへ行ってみたいねとか、これをしてみたいといったたぐいの話が増えてきている。

 ほっとしているものの、これまで蓄積していた痛みは、一向に軽くならない。むしろ、痛みを増してきている。この痛みはいつまで続くのか、そんなおもいにられていた。


 (十八)

 年が変わった元日の朝。

 お屠蘇とその準備ができたからいらっしゃいと沙耶があざやかな振袖ふりそでを身に着けて呼びに来た。ここ数年、彼女は大晦日、元日にかけて牟田口や牟田口の家族と正月を迎えることが多く居たことがなかったが、今年はどこにも行かなかった。少し照れたような表情を浮べて玄関口に立つ沙耶は、正月のはなやかさを一身にまとっているように思えた。

 僕はジャージー姿だったので、あわててTシャツの上に深緑のタートルネックセーターを着込み、下はジーンズに着替え、予め用意しておいた五百円玉入りポチ袋をポケットにねじ込むと、振袖に包まれ優雅ゆうがに動く沙耶の尻に視線を走らせながら、彼女の自宅に向かった。

 沙耶の両親に月ヶ瀬専務夫妻と五歳の娘を筆頭ひっとうとする三人娘たちが我々を迎えた。娘三人とも顔なじみで、僕にやたらなついている。広いリビングで沙耶と二人で三人を相手にしていると、いつものように沙耶の父親の月ヶ瀬社長が少し長い新年の訓示くんじを述べ始めたので、姿勢を正し神妙しんみょう面持おももち(三人娘以外)でうけたまわった。隣で沙耶が僕の耳に「これって仕事始めの時に社員に話す訓示の予行練習なのよ」と悪戯いたずらっぽくささやいた。

 ここ二、三年不在だった沙耶が今年はおり、三人の孫も来ているものだから、月ヶ瀬社長は終始しゅうしご機嫌で、酒をかなりのピッチで飲み始めている。月ヶ瀬家では、三がさんがにちの内に関東近辺に散らばる親戚が大勢集まる日もある。年末はその準備で沙耶の母親はてんてこ舞いだ。沙耶も大晦日の日中ぎりぎりまで母親の手伝いをして牟田口に会いに出かけていたが、その沙耶がどこへも出掛けず正月の準備を終え、遅めの年越しそばを食べながら何年振りかで「ゆく年くる年」を家族全員で見れたことが嬉しくてならなかったようだ。

「みんながそろうなんて、何年ぶりかしら」

 などと言っては、沙耶を複雑な表情にさせていた。

 酒の飲めない僕は、エネルギーの有り余っている三人娘を一手いってに引き受ける形となった。元日に沙耶がいる嬉しさのあまり、父親と専務の二人が彼女を放そうとしないからである。  

 頃合いを見て、五百円玉が入ったお年玉を三人娘に渡したのだが、一番上の子はすでに貨幣かへい価値を理解しているのか、ポチ袋の中にあるのが五百円玉だと分かり、少し顔をくもらせたが「もうすぐ小学校だろ、小学生になればもう、立派なお姉さんだ。そうなったら、お年玉は値上げだよ」などと鬼が笑うような話で誤魔化ごまかした。

 下の二人はお年玉を貰ったことだけでも嬉しいらしく、二人競い合うように渡したお年玉を彼女らの母親に見せに行くので少し心苦こころぐるしく感じながら見ていると、専務の奥さんから丁寧ていねいなお礼を受けた。月ヶ瀬社長の会社より遥かに規模も社格も上の貿易会社の娘さんなのだが中々しっかりしていて、沙耶や沙耶の母親からも評価が高いし好かれてもいる。

 雑煮ぞうにとおせちで腹がふくれた元日の昼近く、月ヶ瀬家は会社からほど近い稲荷神社いなりじんじゃに初詣にまいるのがならわしである。ビル群のかたわらにちんまりと鎮座ちんざしているお稲荷さんなのだが、月ヶ瀬社長の父親である創業者そうぎょうしゃがこの会社をおこ軌道きどうに乗るまで、毎日のようにお参りを欠かさなかったという。そのため、今でも沙耶の実家は、事あるごとにこのお稲荷さんにもうでるのを止めたことが無い。

 なんでも、お稲荷さんというのは、一度縁を結べばこちらに功徳を与えてくれるが、名を上げたり、希が叶った後、お参りをしないようになると祟る神様だと、月ヶ瀬社長の父親は言い、社を大きくして、地位も高くなっても、この稲荷のお参りは欠かさなかったらしい。そのため、創業者である父親が無くなっても、月ヶ瀬家は父親の言葉を受けて、何かに付けお参りを続けているのである。

 初詣だけは僕も一緒に詣でるのが正月の決まり事で、一旦部屋に戻り、厚手のジャンパーを羽織って、初詣に行く月ヶ瀬家面々と合流した。稲荷神社まで徒歩で十分ほど。沙耶もいるので今日はいつもに増して賑やかで華やかな初詣である。

 暖かそうなショールを羽織った晴れ着の沙耶は、高い身長にも関わらずしとやかで優美ゆうびに見える。合流した僕の横に並んで歩く彼女に「綺麗だね」と素直な感想を述べると、お屠蘇とそ火照ほてった顔に満面の笑みを浮かべた。

「何も言ってくれないのかと思ったじゃない。苦労して着たんだから」

 と軽く身体を僕の肩にぶつけてきた。

「うん、まあね。……言おうとは思っていたんだけどね」

「そういう時は、素直に言うもんよ、成人式に来なさいって仕立ててもらったんだけど、家族以外に見せるのは、忠邦が初めてなんだから。だから何を言ってくれるか期待してたんだぞ」

「そうなんだ、……すごく似合ってる」

 そう答えながら、年末までに歩道の修復しゅうふくが間に合わなかったらしく、歩道が掘り返されたままになっていて車道へ誘導ゆうどうされているので、沙耶の手を取って車道に作られた仮の歩道に降りるのを手伝った。

 そうか、昨年彼女は二十歳になったのだなと思った。

「ありがとう」

 足元が少し不安なのか、その車道を歩く間、沙耶は僕の腕に腕を絡ませていた。

(成人式か、あいつとも会うんだろうな)

 気持ちに影が差した。正月早々しょうがつそうそう、シャレにならない。

「成人式は行くの」

 と、暗くなりそうな気分を誤魔化しながらそう訊ねた。

「わからない、その日、約束もあるし……」

 やはり晴れ着を着た沙耶を牟田口は見逃さないだろう、そう思うとさらに気分が落ち込んできた。

「……そう」

 こちらの表情を読んだのだろう、彼女は慌てて「大学の友達達と集まるから」と答えたが、その友達が誰であるかは言わなかったし、その場に振袖で行かないとも沙耶は言わなかった。

 先頭で月ヶ瀬社長と手をつないでいた一番上の孫娘が、僕らの方を見て手を振ったので振り返すと、するりとお祖父ちゃんである社長の手から逃れるように、こちらにやってきた。

 どうやら、沙耶と手を繋ぎたいらしい。二人の間に入り、沙耶の手を握り、もう一方を僕におまけというように伸ばし、手を握ってくる。冷たいが小さな柔らかな手の感触が伝わってきた。


 (十九)

 二月の終わり、頼んでいたバイクが届いた。二万キロを走ったホワイトとグリーンの模様に金色のホイールをいたセローで、新しいナンバーと自賠責保険代も込みで予算の五十万以内に抑えることができた。セローは中古でも人気が高く、たまが少ないので、手に入れることができて幸運だった。ただ、年式が古く、二万キロ以上も走っているため、車体にヘタリが出ているらしい。ショップからは安定性を高めるパワービームの装着そうちゃくすすめられたので、それも頼むことにした。

 バイクを引き取ったのは火曜日の夕方で、自力で戻ってくると、沙耶と月ヶ瀬社長が待っていた。沙耶にだけ火曜日の夕方に乗って帰ると伝えていたのだが、彼女から社長に話がつたわったらしく、月ヶ瀬社長は日本酒のびんを片手にかかえて沙耶と二人肩を並べている。仲の良い父娘おやこである。

 寒い夕暮れ時にも関わらず、バイクにおはらいをしてくれるようだった。おごそかな表情をしたまま、バイクの前輪後輪に日本酒を振り掛け、沙耶が家から持ってきた粗塩あらじおと白米をバイク全体にき、続いて僕の頭にも塩と白米を振りかける。そして「一緒に」と言いながら、柏手かしわでを二度打ち、深々と頭を下げた。十数台ある社の車の全て月ヶ瀬社長がみずからおはらいをするらしく、父親の事故以外は、一台も大きな事故を起こしたり、巻き込まれたりしたことがないという。

 くれぐれも危ない運転をしてはならぬと僕に伝えると、仕事を片付けなくてはなどと呟いてビルに戻っていった。残された僕は、沙耶と互いの顔を見合わせながら、クスリと笑いあった。社員二百人以上を抱える企業の社長で、分刻みで忙しいはずなのに、居候いそうろうのために時間を割いてくれるふところの深さを僕は尊敬する。

「あたしもヘルメット買おうかな、後ろに乗せてくれるでしょ」

 彼女は唐突とうとつにそう言ってきた。

「残念だけど、免許取って一年の間、ニケツ(二人乗り)は駄目だとされてるんじゃなかったかな」

「そうなの」

 と沙耶は驚いたような顔をした。

「それに、社長も言ってたじゃない。危ない運転はするなって、ニケツもそれに含まれると思うよ」

「じゃあ、あたしもバイクの免許取ろうかな」

 車の運転でさえ危なっかしい彼女がバイクを走らせる。考えたくもないことだ。

「一年経ったら、乗せるから。免許取るのは止めた方がいいよ」

「なんで……」

「何でもだよ……」

「一年て、ずいぶん先じゃないの、それまで忠邦一人だけでバイクを走らせているのよね。心配だわ」

 彼女の顔を思わず見上げた。からかっているのかと思ったが、本当に心配してくれているようだった。

「……心配なんだ」

「当たり前よ。心配するわよ」

「ふうん、……なんで」

「なんでって……」

 急にどぎまぎし始めたのがおかしかった。沙耶はお祓いのため散らばったコメ粒を片付けなくてはと言い、ほうきと塵取ちりとりを取りにいくため家の方に消えていった。

 ニケツはだめだと言ったが、案外早く、沙耶を後ろに乗せる日が近づいていた。


 (二十)

 四月、高校二年になるとクラス替えがあり、静馬は理数系のクラスに行き、僕と秋穂は文系を選択したためか、また同じクラスとなった。沙耶も就職活動が始まる三年である。

 沙耶は月ヶ瀬専務の友人が社長を務める、大手オフィス用品販売会社に内定ないていが決まっていたが、きちんと就活しゅうかつなるものを経験したいと、他の学生とともに就職活動をするつもりのようで、就活用のスーツも購入済みらしい。

 自分はというと、バイトとバイクの毎日である。暇さえあればバイクを走らせていた。ソロではあるがロングツーリングも結構場数けっこうばかずを踏んでいた。その間、立コケを含めた単独の転倒を何度か経験もしたが、さいわ対物対人事故たいぶつたいじんじこには遭っていないし、乗っているセローがオフロード車ということで転倒を考慮に入れた設計であるためか、多少転倒してもしたる被害は無かった。また、バイクの特性も分かりつつあった。

 都内の桜はとうに散り、八重桜が咲く頃となった土曜日、三浦半島をバイクで一周して帰ってきたのは午後六時近くであった。この日は四月とは言え、冬型の季節配置となっていて、温暖おんだんな三浦半島辺りでも気温は十五度を少し上回る程度だった。そして午後五時を過ぎると、真冬並みの寒さとなっていた。

 バイクを停めさせてもらっている会社の駐輪場から沙耶の車を探したが、車はなかった。今日は牟田口と会っているようだ。少し不機嫌な気分で自分の部屋に戻り、ヘルメットをベッド脇の棚に置き、冬用の黒いライダージャケットを脱いだ。

 沙耶と牟田口は、以前のように頻繁ひんぱんに会ってはいないが、まだ関係は続いている。彼から性病をされ、ひどい思いをしたにも関わらす、なぐめの言葉一つなく、牟田口は病気を彼女のせいにした。沙耶がどれだけ傷つき、悲しんだかを僕は知っている。

 その一つをとっても、沙耶に適した男ではないとは思っているが、いまだに沙耶は男に引きずられるように付き合いを続けていた。当然、セックスを伴った付き合いであることは承知しているが、何のために牟田口と関係を続けているのか、彼女の気持ちが分かり切れないでいる。

 沙耶の居ない夕食を月ヶ瀬家で頂き、自室に戻ったのは午後九時前である。テレビを付けようかと思ったが、そんな気にもなれず、ベッドに転がっていた。何もしなければ、考えるのは沙耶のことである。大切な存在である彼女が、男とセックスをしている。そう思うだけで、苦しみと怒り、そして彼女への欲望が湧き上がってくるのだ。

 九時半を過ぎた時、沙耶からラインが入った。確認すると「車から降ろされちゃった」とある。さらにやり取りすると、彼女と牟田口は桜が見ごろになっている埼玉県さいたまけん秩父ちちぶに行っていて、山越えで帰る際に喧嘩けんかとなったらしい。それで、彼女は強制的に車から降ろされ、牟田口の運転する車は山を下って行ってしまったという。

 僕はビデオ通話に切り替え、直に連絡を取った。街灯がいとうもない山の中で、本当に降ろされてしまったようだ。彼女の声が寒さか、それとも恐怖で震え、話す沙耶の口から白い息が流れている。泣いたのか瞳の周りの化粧がくずれているのも分かった。

 僕は激怒していたが冷静な部分もあり、牟田口が戻ってくるだろうから動かないようにと伝えた。

「いやっ」

 と沙耶は叫んだ。彼女にしてはこれほど感情をあらわにするのは珍しい。それほど、彼女も激怒しているということだ。

「もう、顔も見たくない。他の車が来たら乗せてもらう」

 彼女はどこに続くか分からない山道の影に身を潜め、迎えに来るかもしれない牟田口を拒否するつもりのようだ。

「こんな時間に山中で車を走らせる人なんていないよ。それに夜に山道を走っている奴にロクな者はいないと考えたほうがいい。人家のある所まで降りた方が良い」

「そうか、そうよね。頂上近くの牧場の脇に車を停めてたのだけど、一台も通らなかった」

 牧場の脇で何してたのだとは聞かないでおいた。

「スマホの地図を見て。今、どこにいるか判るかい」

 そう訊ねた。「ちょっと待って」と言い、沙耶は地図アプリを立ち上げたようだ。

「今、地図みているけど、ここが何処どこなのかさっぱり判らないの」

 どうやら彼女も地図が読めない女性の一人らしい。余程よほど寒いらしく、沙耶は鼻水を盛んに指でぬぐっている。

「何処に居るのか判らないけど、山道を降りてみる。」

 と画面が切れた。

(バカ、動くなよ。危ないだろ)

 そうは思ったが、あせる気持ちを抑え、山道に残された沙耶がスマホを持っていることは判っているので、そのスマホの電力が持つ間に何らかの対策を立てる必要にせまられていると感じた。

 しばらくして彼女からビデオ通話での着信があった。

「少し歩いてみたんだけど、真っ暗な森が続くだけ。とても不気味……」

「動かない方が良いと思う。……僕が何とかする」

 この言葉を沙耶は待っていたようだ。

「……ごめん。助けて」

「分かった、確認したいんだけど、警察に助けを求めるていうのは……」

「それも嫌、ごめんね、本当に嫌なの」

 こういった時の彼女は非常に頑固がんこになる。つまり僕に助けろということなのだ。その点に関して異論いろんはない、僕はみずからの手で彼女を助け出したい。……では、どうするかである。

 ただ、今すぐ飛び出して、秩父、山の牧場の近くというヒントだけで闇雲やみくもに向かうのはまずい。

「何とかする、一旦いったん切るよ」

 と通話を切ろうとした。

「切らないで。……ここ、真っ暗で怖いのよ。さっき、斜面の下で何か物音がしたし。忠邦の声を聞いてないと泣きそうなの」

「……分かった。でも、バッテリーは大丈夫」

「……まだ半分近く残っていると思う」

 半分か、心許こころもとないな。気温が低いとバッテリーの持ちが悪くなると聞いたことがある。

「ライトは点けてないよね」

「点けてる……」

「できれば消して」

「……消さないとだめ」

「なるべく消して、何かあれば点ければいいんだし、バッテリーを持たすためだから。僕の顔は見えるよね」

「見える。……分かったわ、今消した。……本当に真っ暗なのよ、ここ」

「大丈夫だよ」

 何が大丈夫なのか自分でも分からないが、そう言った。

 スマホのマップアプリは非常にすぐれていると聞いた。GPSとAIが組み合わされて、少し古いカーナビなど問題にならないと、バイクを購入したバイクショップの店員が言っていた。確か、住所も分からない任意の場所を選択してもプラスコードという座標ざひょう表示ひょうじしてくれるはずだ。

 沙耶が地図を読めなくても、アプリでは彼女がいる位置を指し示しているから、そこをタップすればそこの経度けいど緯度いどなどの座標コードが表示されるのだ。少し分かりにくいかも知れないが、彼女にやってもらわなければならない。

「地図アプリを見て」

「えっ、地図アプリね、……今見てる」

 沙耶の顔がさらに白くなっているように思えた。

「画面に自分が今いる場所に青い玉のようなマーカーが出てるよね……」

「……出てる」

「それをタップしてみて」

 画面は真剣な表情で画面を見つめる沙耶が映し出されている。鼻水は絶えず流れてくるようだ。それをぬぐうのも忘れている。

「した、何だか判らない画面が出てきた。いつも、何だろうなと思っていたのよ」

「で、その出てきた画面に、アルファベットと数字と多分、埼玉県といった文字があると思うんだけど、あるかい」

 暫く沈黙が流れる。その間でも沙耶が必死に画面を食い入るように見つめているのが映し出されていた。

「うん、あった。これ何なの」

「プラスコードというのだけど、今は詳しい話は抜き。そのコードをコピーしてみて」

「ええ、ちょっと待って。……あっ、そこをタップしたら、クリップボードにコピーしましたと表示されたけど……」

「えっ、コピーできた。……じゃあ、コピーしたコードを僕のスマホに送ってくれる。メールでもラインでもいいから」

「……ラインで送ってみる」

「うん、頼む」

 ものの一分もしないで、コードが送られてきた。どうやら彼女は埼玉県の東秩父村ひがしちちぶむらあたりにいるようだ。それをコピーしマップアプリに張り付け検索を掛ける。……出た、えらく山の中だった。それも電波の関係か、道ではなく山の斜面途中に沙耶が居ることになっている。

 まあ、すぐ近くに道があるので、彼女はそこにいるのだろう。続いてそこまでのナビを指定する。

(高速使って、二時間近くか)

 沙耶が居る筈の場所まで、首都高しゅとこう関越道かんえつどうを使って行けるようだ。

「場所が分かったよ。これからバイクで行くから」

「ありがと、どのくらい、一時間くらいで来れる」

 沙耶は心の底からホッとしたような顔をし、笑うのかと思ったが、彼女はぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「二時間はかかると思う」

「……そんなに。でも……待ってる」

「とにかく急いで行くから」

「うん、待ってる……」

 沙耶の声は縋りつくような、甘えるような色合いが増していた。

「寒いだろうけど、頑張がんばれ」

頑張がんぱる、お願い、絶対来てね」

「ああ、運転している時は連絡できないけど、状況を見て連絡するから」

「うん、待ってる。気を付けてね」

「ああ、気を付ける。じゃあね」

「ありがとう、だっ……」

 僕は気が急ぐあまり、ビデオ通話を沙耶の言葉が終わらない内に切っていた。

 やることは多いのだ、クリーニングに出さなければなと思っていたオレンジ色のダウンジャケットをクローゼットから引き出しながら、まずは静馬に連絡を入れた。彼の兄貴がバイクに乗っていた筈だ。

 携帯に掛けると直ぐに静馬が出た。秋穂とデートから帰って来たばかりだと言った。

「お兄さんのヘルメットを貸してくれないか」

 そう頼むと、「お前、持ってんじゃん」と答えた。状況を説明するのももどかしく、沙耶が秩父の山中に取り残されていてバイクで迎えに行かなければならないと伝える。

「なんで、そんな事になってるんだ」

「詳しい話は、帰ってから話すよ。ニケツで連れ帰るつもりだ」

「そのためのメットか」

「そうだ」

「よし、待ってろ」

 スマホを持ったまま兄貴の部屋へ突入とつにゅうするらしい、どたどたという足音とともに、「兄貴、メット借りるぞ」と叫ぶ声がスマホから聞こえてきた。彼の兄は「なっ、なっ……」と驚いているが彼はかまわず兄の部屋に入り込み、ヘルメットを強奪ごうだつしたようだ。

「いいぞ、俺がそっちに行くか」

 と静馬がいった。

 いや、これから向かうと言い、通話を切り、冬用のライダースーツを手に取った。

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