第5話

 (十五)

 少し早めに梅雨が明け、期末試験も終わり、後は夏休みに突入するだけとなった日。沙耶とラインでやり取りしている中で、彼女が横浜をあまり見て回ったことがないと告白してきた。とても行きたいそうである。そして、「貸しを返してもらう」と言ってきた。彼女に誘導されるように「じゃあ、横浜に行く」と送ると、すぐさま「うん」と返ってきた。

 あの病気にかかって完治かんちしていると診断されるまでの三週間、沙耶は牟田口と会っていなかったようだったが、ひと月もすると再び木曜と土曜日を彼に逢う日に当てるようになっていた。ただ、あの病気以来、沙耶は僕に牟田口への不平不満を度々漏らすようになった。

 大学二年である沙耶に比べれば、高校一年の自分はまだまだ子供であり、彼女の愚痴ぐちを受け入れるのに汲々きゅうきゅうとしている。だが愚痴を聞くことを拒否したことはない。胸の中がにがくなるのがたまらないのに、僕は沙耶の言葉を受け入れ続けていた。自分の許容量をどう増やすかが喫緊きっきんの問題だとも考えている。

 ともかく、夏休みに入った第一週目の金曜日、僕らは横浜へ遊びに行くことにした。その前の週から横浜の山下公園内で「世界のビール祭り」と題し、世界各地のビールが飲めるビアホールがもよおされているのを見つけていた。アルコールが嫌いではない彼女は、最後にここでビールを飲みたいがために、車ではなく電車で行くことになった。

 彼女の運転に若干じゃっかんの恐怖を覚えているため、電車で横浜に向かうのに異をとなえるわけがない。日中の暑さに考慮し、僕らは午後4時過ぎに横浜へ向かった。

 この日は猛暑日にせまる一日だった。沙耶は、黒いベレー帽を頭に乗せ、肩が大きく出た黒のタンクトップに薄水色のフレアスカート、ローヒールのパンプスで化粧を濃いめにしているため、いつも以上に大人びている。

 彼女は終始しゅうし上機嫌で、僕の手を握り続け、コロコロと良く笑った。

「すごい、手汗てあせ

 と言いながらも自分から繋いだ手を離そうとしないので、僕は完全に舞い上がってしまった。正直、周囲の景色をあまり覚えてはいない。どこを歩いてもフワフワとして、彼女がつないでくる手の感触だけで満足していた。

 それに、二人で歩いていると、通り過ぎる人の目が沙耶に向けられる。やはり彼女と一緒に歩くと目立つなと思いながら、優越感にひた街中まちなかを歩くのだが、少し頭が冷えてくるにしたがい、牟田口も自分と同じ優越にひたった気分でいるのかと思ってしまい、頭がさらに冷えてしまった。

 日が暮れるまで、元町、港の見える丘公園、中華街をそぞろ歩き、目的のビアホールに繰り出すまでの時間をつぶした。一年で日中が最も長い時期で日差しも厳しいため、肌に悪いから日陰を歩くか、涼しい所で日が暮れるのを待とうと提案しても、どうせ夏の間に海で焼くつもりだからといって気にも留めない。そう言えば、彼女は夏が終わるとと日焼けしていたことを思い出した。毎週のように海に行っていたらしい。「誰と」とは言わなかったが、そんなのは分かり切っている。

 中華街から徒歩で山下公園へ行き、係留されている氷川丸ひかわまるなどをながめながら、ビアホールに到着した。満席に近い状態であったが、何んとか二人分の席を確保し、約二時間ほど僕らはそこにいた。色々な話をしたが、とくに沙耶は、高校に入り一緒に帰ることの多くなった秋穂が気になるらしい。こまごまと秋穂についての質問をしてくるのだ。

 別に隠す事もないので、秋穂のことを説明していると、買い求めてきた何杯目かのベルギービールを一気に飲みし、沙耶は「さて本題です」とでも言う様に、いきなりこちらの腕をつかんできた。

「好きなんでしょ、その子が」

 何を言い出すんだと思った。

「いきなり何だよ」

「だから、聞いてんの。好きなんでしょ……」

 沙耶は少しむきになって、こちらの解答を得ようとしている。

「……うーん。好きか好きじゃないかと言えば、友達として好きかな」

「付き合いたい」

「いや、そんなこと考えたことない」

「じゃあ、考えてみて」

 彼女の瞳が少し、真剣みを帯びていた。

「……考えた」

 と僕がフランクフルトソーセージを一口齧がじりながら答えた。

「言って」

「ないかな」

 沙耶は暫く僕の目を見続けた。

「ふうん、そんな即答で良いの」

「いいよ」

 自分にとって、この世で誰よりも大事な人は沙耶である。それは断言できる。けれども、僕と沙耶が恋人同士になれるかどうかは、また別の話だ。

 これを最後に、沙耶の口から秋穂の名が出ることは無く、そのままとりとめのない話題で終始していった。ただ、人が話したり笑ったりする声が混ざって「わーん」という音に聞こえる中、沙耶はどこに居ても声を掛けられる。

 いわゆる「ナンパ」である。しかも、このビアホールは飲む人が各自でビールを買い求めなければならないため、沙耶はビールジョッキを両手に、長身の身体をひらひらといった感じで、人が密集している中を会場内を歩くので余計よけい声を掛けられるのだ。

 そういったやからを適当にあしらってはいるのだが、僕らが座っている席にまでやってきて「ナンパ」をする猛者も出てくる。

「俺たち、あっこで飲んでいるんだけど、来ない」

 と、多少イケメンを自負しているのか馴れ馴れしく、彼女に身体を寄せるように話しかけてくる奴もいた。大概たいがいは、「いいえ、結構です」とかなんとか言って断るのだが、たまにしつこく誘ってくる男もいる。そうすると、沙耶の目つきがスッと変化する。切れ長の瞳には冷たい色が宿やどり、声を掛けてきた男をまるで虫けらをみるように見上げるのだ。

「連れが居るんですけど」

 聞いた事のないようなドスのいた声が、彼女から発せられる。

「ええ、いいじゃん。この彼も誘ってさ、一緒にもうぜ」

 鈍感どんかんなバカだなと、いい加減こちらも思い始めており、残念なイケメンを見つめた。

「少しウザいんですけど。あなたと飲む気はない、そう言った、分からない」

 苛立ちのため、ますます凶暴さを見せ始めた瞳が、声を掛けてきた男にそそがれる。残念な男はやっと自分がお呼びではないことに気付いて退散するのだが、その肩を落とした姿を見送りながら、自分は沙耶を怒らせるような言動げんどうはするまいと心に留めた。

「はあ、ビールが不味まずくなっちゃう」

 そう溜息を吐きながらジョッキを口に運ぶ沙耶は、かなり男前である。

 そういった事を何度か経てビアホールを辞し、最寄りの田町駅に着いたのは十時を過ぎていた。帰りの電車では座ることができ、沙耶は僕の肩に頭を乗せたまま、鶴見つるみを過ぎたあたりから眠ってしまった。

 そのかんひまなので、いったい沙耶は何のつもりで僕とつるみたがるのかを田町に着く間考え続けていた。その答えの可能性があるもの何点かが浮かんだが、どれも釈然しゃくぜんとしないものばかりだ。都合の良い男子で在り続ける、それでも良いのではとも思う。

 風のない、むっとする夜である。駅を出ると日中に焼かれ続けた路面などから熱気がいまだにき上がっているようだった。辺りが暗いので、沙耶は急に僕の腕に自分の腕をからめてきた。

「今日、楽しかった」

 柔らかな甘えるような声だった。

「僕もかな」

「……かな。その程度」

「とても楽しかった」

「よろしい」

 水路を一本渡り、オフィスビルと中規模マンションの中をゆっくりと歩み続けた。オフィスビルには明かりが灯っている所が多く、まだ仕事をしているのだなと判る。街路灯(がいろとう)が明るくなり、彼女はスッと僕から離れた。

「でも、安心した」

「……」

「忠邦に彼女が居ないってわかったから」

「だから、安心」

「だって、そうじゃない。あなたに変な虫がついていないんだから」

 秋穂は変な虫の一人なのかと思う。

「今はだよ。いつか虫がつくかも」

「そうね、いつかはそうなるわね。あたしの眼鏡めがねかなえればいいんだけど」

「なんだ、そりゃ」

 そう応え、僕は彼女を見上げた。沙耶はクスクスと笑った。

「なにを言ってんだかよね。自分を棚に上げてさ……」

 おっ、急に自虐的じぎゃくてきになったな、と思った。

「いいよ、沙耶が良いっていう人と付き合うよ」

「あっ、久しぶりに沙耶って呼んでくれた。最近はさ、とか、とかしか呼んでくれないじゃない……」

「……それは、……もう家に着くよ」

 視界に見慣れた塀と工場と本社ビルが見えていた。昼夜問わず大型トラックが出入りするので、工場敷地の正門は開けはなたれている。工場やビルはセキュリティ会社に管理されており、出入りする社員や社宅に住む家族にはセキュリティカードを持たされる。

 本社正面玄関から少し離れた、社員たちが通勤に使う駐輪場近くの通用門つうようもんが社宅の出入り口の前で、僕は立ち止まった。

「じゃあ、また明日」

 と僕は財布から自分のセキュリティカードを取り出しながらそう言った。明日は土曜日だ、彼女は牟田口と会うのだろうと、一瞬頭をよぎる。

 そんなぼくを沙耶は見つめていた。突然距離を縮め、彼女の顔が迫ってきた。唇にキスされるのかなと瞬間的におもったが、ぎりぎりで軌道きどうを修正した沙耶の唇が、ぼくの右頬みぎほほに押し付けられる。火のように熱い唇だった。いつも付けている香水と酒の匂い、そして肌が香った。

 あっと云う間に彼女は身体を離し、「お休み」と告げ、一度もこちらを振り返らず自宅へ消えた。

 取り残された僕は、彼女が消えた辺りを見つめ続けていた。

(僕のファーストキスは、っぺたということかな)

 そんな考えが浮かんでいた。


 (十六)

 夏休みの間中、バイトに明け暮れていた。そのおかげで、九月からバイク免許取得のため教習所に通える目途めども経ったし、教習所を何事も無く修了できれば、稼いだ金をいくばくかバイクの購入に回すことができるほど稼ぐことができた。

 通うことになる教習所だが、月ヶ瀬社長が所属するロータリークラブの仲間が目黒区の碑文谷に教習所を経営しており、そこを紹介してくれると言うので、よろしくお願いしますと言っておいた。問題はバイクだが、静馬の兄貴が大学に入る前までバイクを乗っていて、懇意こんいにしているバイク屋があるから、そこで探してもらったらと言われている。

 ねらっているバイクに関しては、二百五十CCのオフロードであれば何でも良くて、事故車でなければ文句は言わないつもりだ。

 新学期が始まる早々、十六になった。十六になったら、バイクの免許を取ると言い続けていたので、沙耶は誕生日プレゼントに赤いストライプがワンポイント塗装とそうされた黒のオフロードバイク用ヘルメットをくれた。

 ヘルメットを入れた大きな袋とケーキを持って、午後十一時ごろ部屋にやってきた彼女は少し酔っていた。何でも大学の友達とコンパに行き、渋谷でついさっきまで飲んでいたらしい。

 酔っているせいで、いつも以上にパーソナルスペースが狭めで、呼吸も荒い。僕は、冷水を入れたコップを、ベッドのある部屋に勉強机用兼食事用として置いてある卓袱台ちゃぶだいの上に置くと、彼女はすらりと伸びた喉を見せて、コップの水を美味おいしそうに飲み干した。

 ネットで調べると彼女が持ってきたヘルメットは六万近くするもので、最初、こんな高価なもの受け取れないと断った。

「バイクの免許がないあたしにかぶれとでもいうの。かぶったとしても、精々せいぜい原付か自転車の時くらいよ。このヘルメットを被って自転車に乗った姿を想像してみてよ」

 と薄く日焼けした沙耶は笑って相手にしてくれなかった。申し訳ないとは思ったが、バイクを持つには色々と出費しゅっぴかさむのも事実だ。免許取得にかかる費用、バイク購入費用がもっとも掛かるが、ヘルメットも意外に高い。安全性の高い物となるとかなりの額になる。命を保証するためにもっとも必要なヘルメットの価格はピンキリである、沙耶からのプレゼントは「ピン」の部類に入るものだ。

「あなたに大怪我おおけがを負ってもらいたくないのよ。きちんとしたヘルメットは絶対に必要だわ」

 そう彼女は力説した。

「へえ、反対しているとばかり思っていた」

 中学卒業した日、バイクの免許が取りたいと沙耶に漏らした時、彼女は本気に反対した。色々と説得されたが、僕は首を縦に振らなかったのだ。

「反対よ。あなたが乗っているのを想像するのも嫌。この世からバイクなんか無くなれば良いと思う程……」

「……」

「でも、なんでかな、忠邦の選んだ道を邪魔じゃまするような気がするんだよね、それって」

 そう言う沙耶を見つめながら、僕は彼女がライダースーツに身を包んだ姿を見てみたいと思っていた。

「……」

 沙耶の言葉を聞いていると、バイクの免許を取ることに、後ろめたい気持ちが起きそうである。

「あっ、ケーキ一緒に食べよ。買った後飲みに行っちゃったから、どこかに置き忘れないようにするのに苦労した。ねえコーヒー入れ……、あっケーキなら紅茶が合うか。……入れてくるね」

 沙耶はそう言うと、手慣てなれた調子でキッチンに立つと、紅茶を入れ始めた。いつの間にか自分の部屋は、第二の沙耶の部屋になってしまったようである。

「ねえ」と電気ケトルのスイッチを入れながら、彼女が声をかけてきた、「やっぱり、免許取ったらバイクで日本一周するの……」

 バイクの免許を取る理由の一つであることを、以前沙耶に話したことがある。

「うーん、そのつもりだけど。高校生の時にしか出来ないかもしれないから」

「ほんとに大学いかないんだ」

 かすかに沙耶が立っているキッチンから紅茶の香りが漂ってくる。

「……そうだね。行かない」

 コーヒーカップに紅茶を注ぎながら、沙耶は僕を見つめていた。

「……やっぱり、此処ここに居るのが負担ふたんなの」

 それもある、いつまでも人の好意に甘え続けてはいけない。月ヶ瀬家の人達には世話になりっぱなしだ。

「すごく感謝してるんだ。沙耶や沙耶のお父さんやお母さん、お兄さんには。家族のように接してくれるのが心地よくて、いつまでもここで暮らしたいと思ってしまう。……それは許されないことだとは、分かっているんだけどね」

 僕は十七歳が住む部屋とは思えないほどの質素な景色を見回しながら言った。近い将来去らなければならない部屋だ、できるだけ簡素にしておきたい。

「だめよ、居なさいよ、……ずっとここに」

 コーヒーカップを載せた、茶色いお盆を流しの横のスペースに彼女が少し荒く置いた。

「ありがとう……でもさ」

「何を言ってるの、バカみたい、変な遠慮して」

「……バカって、僕は沙耶たちの本当の家族じゃないんだよ」

「違う、家族よ、忠邦は私達の家族なの、もう、そうなのよ」

 目つきが変わった。僕の見た事のない表情だ。

 沙耶はお盆を置いたまま、こちらに戻り、僕の前に来ると膝まづいた。両方のてのひらに爪が喰い込むほど強く握りしめている。

「二度と、出て行くなんて言わないの……」

 上体をそのまま叩きつけるように僕にぶつけてきた。彼女の身体を受け止めようとしたが、その勢いに負けて、僕らは畳の上に折り重なった。柔らかく大きな身体が、僕の腕の中にいた。

「寂しいのは嫌。誰も居なくなるのも嫌」

 僕の首に顔を押し付け、全体重をこちらに預けてきた沙耶の身体に手をやりながら、彼女が泣いているのを知った。沙耶が泣くのを見たのはこれで三度目だ。僕の父親が亡くなった時と病院の時と今。

「……どうしたの」

 あまりのことに、そう言うのがやっとだった。

 居なくなるのが嫌と彼女は言った。それは牟田口との別れをしているのか、僕との別れをしているのか、良く分からなかった。

「ごめんね、ちょっと泣かせてね」

 おそらく酔いのせいだろう、かなりの激しさで泣きながら僕のくちびるを求めてきた。否が応もなく、それを受け入れた。長い抱擁ほうようになった。彼女はそれ以上のことを求めていたのかもしれない、けれど僕はあまりのことに何もできないでいた。ただ、抱きしめられ、キスの嵐を受けるだけだった。

 気が済んだのか、やがて沙耶は僕の上に全身を預けてきた。彼女の身体を下から支えたまま、おずおずとだが髪に手を伸ばし、ゆっくりとで続けた。沙耶の太腿ふとももが押し付けられている部分がどんな状態であるのか、彼女は分かっているはずだ。獣のような衝動しょうどうが全身を駆け巡る。簡単なことだ、ただ身体を入れ替えれば、彼女を組みくことができる。彼女はこばまないだろう、未熟みじゅくな僕を受け入れてくれるに違いない。激情のまま、行動を起こそうとした。

「つまらない、以前のように彼は会ってくれないし……」

 沙耶がそう呟いた。彼女を下から抱き締めながら熱が冷めていく。

 なんだ、そういうことか。沙耶はまだ、牟田口を求めているのだ。現状、僕は代理に過ぎないのが良く分かった。自分の想いは夢に過ぎなかったのだ。めくるめくような感情に変わり、強い失望しつぼうと悲しみが胸にあふれてきた。

 でも、奴の代わりなんて、まっぴらだ。

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