第5話
(十五)
少し早めに梅雨が明け、期末試験も終わり、後は夏休みに突入するだけとなった日。沙耶とラインでやり取りしている中で、彼女が横浜をあまり見て回ったことがないと告白してきた。とても行きたいそうである。そして、「貸しを返してもらう」と言ってきた。彼女に誘導されるように「じゃあ、横浜に行く」と送ると、すぐさま「うん」と返ってきた。
あの病気に
大学二年である沙耶に比べれば、高校一年の自分はまだまだ子供であり、彼女の
ともかく、夏休みに入った第一週目の金曜日、僕らは横浜へ遊びに行くことにした。その前の週から横浜の山下公園内で「世界のビール祭り」と題し、世界各地のビールが飲めるビアホールが
彼女の運転に
この日は猛暑日に
彼女は
「すごい、
と言いながらも自分から繋いだ手を離そうとしないので、僕は完全に舞い上がってしまった。正直、周囲の景色をあまり覚えてはいない。どこを歩いてもフワフワとして、彼女が
それに、二人で歩いていると、通り過ぎる人の目が沙耶に向けられる。やはり彼女と一緒に歩くと目立つなと思いながら、優越感に
日が暮れるまで、元町、港の見える丘公園、中華街をそぞろ歩き、目的のビアホールに繰り出すまでの時間を
中華街から徒歩で山下公園へ行き、係留されている
別に隠す事もないので、秋穂のことを説明していると、買い求めてきた何杯目かのベルギービールを一気に飲み
「好きなんでしょ、その子が」
何を言い出すんだと思った。
「いきなり何だよ」
「だから、聞いてんの。好きなんでしょ……」
沙耶は少しむきになって、こちらの解答を得ようとしている。
「……うーん。好きか好きじゃないかと言えば、友達として好きかな」
「付き合いたい」
「いや、そんなこと考えたことない」
「じゃあ、考えてみて」
彼女の瞳が少し、真剣みを帯びていた。
「……考えた」
と僕がフランクフルトソーセージを
「言って」
「ないかな」
沙耶は暫く僕の目を見続けた。
「ふうん、そんな即答で良いの」
「いいよ」
自分にとって、この世で誰よりも大事な人は沙耶である。それは断言できる。けれども、僕と沙耶が恋人同士になれるかどうかは、また別の話だ。
これを最後に、沙耶の口から秋穂の名が出ることは無く、そのままとりとめのない話題で終始していった。ただ、人が話したり笑ったりする声が混ざって「わーん」という音に聞こえる中、沙耶はどこに居ても声を掛けられる。
いわゆる「ナンパ」である。しかも、このビアホールは飲む人が各自でビールを買い求めなければならないため、沙耶はビールジョッキを両手に、長身の身体をひらひらといった感じで、人が密集している中を会場内を歩くので
そういった
「俺たち、あっこで飲んでいるんだけど、来ない」
と、多少イケメンを自負しているのか馴れ馴れしく、彼女に身体を寄せるように話しかけてくる奴もいた。
「連れが居るんですけど」
聞いた事のないようなドスの
「ええ、いいじゃん。この彼も誘ってさ、一緒に
「少しウザいんですけど。あなたと飲む気はない、そう言った、分からない」
苛立ちのため、ますます凶暴さを見せ始めた瞳が、声を掛けてきた男に
「はあ、ビールが
そう溜息を吐きながらジョッキを口に運ぶ沙耶は、かなり男前である。
そういった事を何度か経てビアホールを辞し、最寄りの田町駅に着いたのは十時を過ぎていた。帰りの電車では座ることができ、沙耶は僕の肩に頭を乗せたまま、
その
風のない、むっとする夜である。駅を出ると日中に焼かれ続けた路面などから熱気がいまだに
「今日、楽しかった」
柔らかな甘えるような声だった。
「僕もかな」
「……かな。その程度」
「とても楽しかった」
「よろしい」
水路を一本渡り、オフィスビルと中規模マンションの中をゆっくりと歩み続けた。オフィスビルには明かりが灯っている所が多く、まだ仕事をしているのだなと判る。街路灯(がいろとう)が明るくなり、彼女はスッと僕から離れた。
「でも、安心した」
「……」
「忠邦に彼女が居ないってわかったから」
「だから、安心」
「だって、そうじゃない。あなたに変な虫がついていないんだから」
秋穂は変な虫の一人なのかと思う。
「今はだよ。いつか虫がつくかも」
「そうね、いつかはそうなるわね。あたしの
「なんだ、そりゃ」
そう応え、僕は彼女を見上げた。沙耶はクスクスと笑った。
「なにを言ってんだかよね。自分を棚に上げてさ……」
おっ、急に
「いいよ、沙耶が良いっていう人と付き合うよ」
「あっ、久しぶりに沙耶って呼んでくれた。最近はさ、あの、そのとか、ねえとかしか呼んでくれないじゃない……」
「……それは、……もう家に着くよ」
視界に見慣れた塀と工場と本社ビルが見えていた。昼夜問わず大型トラックが出入りするので、工場敷地の正門は開け
本社正面玄関から少し離れた、社員たちが通勤に使う駐輪場近くの
「じゃあ、また明日」
と僕は財布から自分のセキュリティカードを取り出しながらそう言った。明日は土曜日だ、彼女は牟田口と会うのだろうと、一瞬頭を
そんなぼくを沙耶は見つめていた。突然距離を縮め、彼女の顔が迫ってきた。唇にキスされるのかなと瞬間的におもったが、ぎりぎりで
あっと云う間に彼女は身体を離し、「お休み」と告げ、一度もこちらを振り返らず自宅へ消えた。
取り残された僕は、彼女が消えた辺りを見つめ続けていた。
(僕のファーストキスは、
そんな考えが浮かんでいた。
(十六)
夏休みの間中、バイトに明け暮れていた。そのおかげで、九月からバイク免許取得のため教習所に通える
通うことになる教習所だが、月ヶ瀬社長が所属するロータリークラブの仲間が目黒区の碑文谷に教習所を経営しており、そこを紹介してくれると言うので、よろしくお願いしますと言っておいた。問題はバイクだが、静馬の兄貴が大学に入る前までバイクを乗っていて、
新学期が始まる早々、十六になった。十六になったら、バイクの免許を取ると言い続けていたので、沙耶は誕生日プレゼントに赤いストライプがワンポイント
ヘルメットを入れた大きな袋とケーキを持って、午後十一時ごろ部屋にやってきた彼女は少し酔っていた。何でも大学の友達とコンパに行き、渋谷でついさっきまで飲んでいたらしい。
酔っているせいで、いつも以上にパーソナルスペースが狭めで、呼吸も荒い。僕は、冷水を入れたコップを、ベッドのある部屋に勉強机用兼食事用として置いてある
ネットで調べると彼女が持ってきたヘルメットは六万近くするもので、最初、こんな高価なもの受け取れないと断った。
「バイクの免許がないあたしに
と薄く日焼けした沙耶は笑って相手にしてくれなかった。申し訳ないとは思ったが、バイクを持つには色々と
「あなたに
そう彼女は力説した。
「へえ、反対しているとばかり思っていた」
中学卒業した日、バイクの免許が取りたいと沙耶に漏らした時、彼女は本気に反対した。色々と説得されたが、僕は首を縦に振らなかったのだ。
「反対よ。あなたが乗っているのを想像するのも嫌。この世からバイクなんか無くなれば良いと思う程……」
「……」
「でも、なんでかな、忠邦の選んだ道を
そう言う沙耶を見つめながら、僕は彼女がライダースーツに身を包んだ姿を見てみたいと思っていた。
「……」
沙耶の言葉を聞いていると、バイクの免許を取ることに、後ろめたい気持ちが起きそうである。
「あっ、ケーキ一緒に食べよ。買った後飲みに行っちゃったから、どこかに置き忘れないようにするのに苦労した。ねえコーヒー入れ……、あっケーキなら紅茶が合うか。……入れてくるね」
沙耶はそう言うと、
「ねえ」と電気ケトルのスイッチを入れながら、彼女が声をかけてきた、「やっぱり、免許取ったらバイクで日本一周するの……」
バイクの免許を取る理由の一つであることを、以前沙耶に話したことがある。
「うーん、そのつもりだけど。高校生の時にしか出来ないかもしれないから」
「ほんとに大学いかないんだ」
「……そうだね。行かない」
コーヒーカップに紅茶を注ぎながら、沙耶は僕を見つめていた。
「……やっぱり、
それもある、いつまでも人の好意に甘え続けてはいけない。月ヶ瀬家の人達には世話になりっぱなしだ。
「すごく感謝してるんだ。沙耶や沙耶のお父さんやお母さん、お兄さんには。家族のように接してくれるのが心地よくて、いつまでもここで暮らしたいと思ってしまう。……それは許されないことだとは、分かっているんだけどね」
僕は十七歳が住む部屋とは思えないほどの質素な景色を見回しながら言った。近い将来去らなければならない部屋だ、できるだけ簡素にしておきたい。
「だめよ、居なさいよ、……ずっとここに」
コーヒーカップを載せた、茶色いお盆を流しの横のスペースに彼女が少し荒く置いた。
「ありがとう……でもさ」
「何を言ってるの、バカみたい、変な遠慮して」
「……バカって、僕は沙耶たちの本当の家族じゃないんだよ」
「違う、家族よ、忠邦は私達の家族なの、もう、そうなのよ」
目つきが変わった。僕の見た事のない表情だ。
沙耶はお盆を置いたまま、こちらに戻り、僕の前に来ると膝まづいた。両方の
「二度と、出て行くなんて言わないの……」
上体をそのまま叩きつけるように僕にぶつけてきた。彼女の身体を受け止めようとしたが、その勢いに負けて、僕らは畳の上に折り重なった。柔らかく大きな身体が、僕の腕の中にいた。
「寂しいのは嫌。誰も居なくなるのも嫌」
僕の首に顔を押し付け、全体重をこちらに預けてきた沙耶の身体に手をやりながら、彼女が泣いているのを知った。沙耶が泣くのを見たのはこれで三度目だ。僕の父親が亡くなった時と病院の時と今。
「……どうしたの」
あまりのことに、そう言うのがやっとだった。
居なくなるのが嫌と彼女は言った。それは牟田口との別れを
「ごめんね、ちょっと泣かせてね」
おそらく酔いのせいだろう、かなりの激しさで泣きながら僕の
気が済んだのか、やがて沙耶は僕の上に全身を預けてきた。彼女の身体を下から支えたまま、おずおずとだが髪に手を伸ばし、ゆっくりと
「つまらない、以前のように彼は会ってくれないし……」
沙耶がそう呟いた。彼女を下から抱き締めながら熱が冷めていく。
なんだ、そういうことか。沙耶はまだ、牟田口を求めているのだ。現状、僕は代理に過ぎないのが良く分かった。自分の想いは夢に過ぎなかったのだ。めくるめくような感情に変わり、強い
でも、奴の代わりなんて、まっぴらだ。
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