第3話

(十)

 沙耶俯き加減にポツリと言った。

「……なんでこうなんだろう」

「……」

「汚い女だと軽蔑けいべつする……」

「しない、絶対に」

 沙耶は泣きそうな笑い顔をこちらに向けた。

「じゃあ、行ってくるね」

 沙耶はっしたようだ。

「一緒に行こうか、診察室まで一緒は駄目かもしれないけど」

「大丈夫」

「本当に……」

 僕の視線から沙耶が瞳をそらした。

「病院の前まで、一緒にきて」

「いいよ」

「じゃあ……」

 沙耶は車を降り、ほぼ同時に僕も車を降りた。パーキングから病院まで、ほんの数メートルだったが、沙耶は僕の肩に触れるよう身体を寄せて歩いている。病院は多少古ぼけた商業ビルの二階だった。僕たちは病院の看板を見つめ足を止めた。

「大丈夫かい」

「大丈夫、行ってくる」

 僕の手を彼女はスッと触れ、ビルに入ろうとした。冷たい指だった。

「ここで待ってるから」

「だめ。悪いわ」

 沙耶がビルに入りかけた足を止め、僕のもとに戻ってくると、さびしげな商店街を見渡みわたした。

「あそこに喫茶店がある。あそこで待っていてくれる」

 そういい、ビルから数十メートル先に見える茶色い店舗てんぽを指さす。確かに喫茶店らしい店構みせがまえだった。

「分かった」

 そう答えると、沙耶は複雑な表情を浮かべながら、足早あしばやにビルへと入っていった。今度は手を触ってはこなかった。

 彼女が言った通り、そこは喫茶店だった。レンガ色の色調に統一された店内にはボックス席が八つとカウンター席が設けられており、カウンターの向こうには店主だとおぼしき眠そうな顔をした年寄りが納まっている。

 店はいていて、僕は入口の左手にある窓際のボックスに座った。ここからだと、沙耶がいるビルの入口が見える。いかにもバイトだと分かるウェイトレスが注文を取りに来たので、取りあえずアイスコーヒーを頼んだ。

 一時間が経過したが、沙耶は出てこない。二杯目のアイスコーヒーを頼み、ビルの入口を見つめ続けた。「性病」と書いてあるのだから、それの専門だろう。沙耶はその手の何らかな病気をされた、もしくはされたかもしれないと考えたから、あの病院を選んだのだ。

 自宅からは遠く、ごみごみとしていて、良く言えば下町情緒したまちじょうちょあふれたまちにある病院の門を叩かなければならないなど、彼女の境遇とは正反対だ。この災難を持ち込んだのはあいつしかいない、牟田口だ。

 あいつが沙耶の面倒を見る責任がある。なのに、奴ではなく自分がこの場にいるということは、沙耶はあいつにこの状況を話していないということだろう。

(なぜ、言わないんだ。おかしいぜ、こんなの)

 そう思いつつも、沙耶のことが哀れでならなかった。彼女だけはこのような目にってもらいたくなかった。産婦人科のほうがはるかに良かった。

 僕から見ても、彼女は性格が良く、世話焼きで、飛び切りの美人である。本来ならば、その出自しゅつじあいまって、「良家りょうけのお嬢様」として順調に世を渡っていく人なのだ。でも、沙耶はその順調な道を渡っているとは思えなかった。そして、今は苦しみと恥辱ちじょくにまみれそうな状況である。とにかく、何でも無ければ良いのだけれどと僕は思い続けた。

 沙耶が病院をくぐってから、三時間がとうとしていた。僕はアイスコーヒーを三杯も飲む羽目はめとなり、胃がコーヒーでふやけてしまったような気がしていた。それにアイスコーヒーを三杯頼んではいたものの、三時間もねばっているため店の人の視線が気になる。

 ようやく、沙耶が姿を現した。その足取りは重く、心なしか背もちぢんで見える。その様子で結果は分かった。

(どんな顔をすりゃいいんだ)

 沙耶は窓際まどぎわに座っている僕に気付かないらしく、目の前を血の気がせた顔をして通り過ぎ、店に入ろうとしている。店のドアに付けられているベルが鳴り、僕が振り向くと、沙耶はこちらに気付き満面の笑みを浮かべたものの、顔色は真っ白でその瞳は赤く充血しているのが此処ここからでも分かった。

 彼女は懸命けんめい衝撃しょうげきを押し隠そうとしている。

「ごめんね、本当にごめん。こんなにかかるはと思わなかった」

 にこやかに笑いながら、沙耶は僕の目の前に座った。

 店に目立つ容姿ようしの女性が入ってきたためか、驚いた表情でウエイトレスが飛ぶように沙耶の注文を聞きに来て、そのままの表情で彼女を見つめている。

 沙耶は僕の半分ほど飲み残しているグラスを見て指さした。

「それ、アイスコーヒーよね、あたしも同じものを……」

 ウエイトレスにそう微笑ほほえみながら頼んだ。無理をした笑みだが、それでも魅力的だと僕は感じた。

「待たせちゃった。こんなにかかるんだったら、一緒に来てって頼むんじゃなかった」

 彼女はっていくウエイトレスの後姿を眼で追いながらそう言った。そして彼女は僕の目を見ようとしない。

「べつに、いって」

 僕は彼女の視線を捕らえようと、沙耶を見続けていた。

「……ほんとに、ごめんね」

 こちらに視線を向けず、ウエイトレスが持ってきた水が入ったグラスを見つめた。

「だから、いって、そっちこそ疲れたんじゃない」

 そう僕が言うと、沙耶は一瞬こちらに目を上げた。そしてまた、すぐに降ろしてしまう。彼女の細い両手の指がグラスをおおうようにつかんだ。小刻みにグラスが震えている。しばらく二人の間に沈黙が流れる。

「……あのね、クラミジアだって」

「……」

 クラミジアって何だ、たぶん性病の一つなんだろうけど、そんな病名、僕は知らなかった。だが、彼女は僕がそれを知っているとみなし話をしている。

「……まいっちゃうよね」

 沙耶はすがるような目で僕を見てきた。彼女は勇気づけられるのを待っている、だが、何て言ってあげれば良いのだろう。

「うん……」

 そう相づちを打つのが精いっぱいだった。

「……どうしたら良い、……あたし、どうなっちゃうんだろ」

 彼女の右目から涙が一筋こぼれ落ちた。力を振りしぼって押さえていた感情があふれ出たのか、手の震えが大きくなりグラスの水がこぼれおち、沙耶の指を濡らし始めている。

 考える前に、グラスを持つ沙耶の手に自分の手を重ね、もう一方の手でグラスを取り上げていた。そして彼女の手を握ったまま、テーブルを回って身体を寄せ合うように隣に座った。

「もう、嫌、こんなあたし、もう……ひどいよ」

 言葉に脈絡みゃくらくがなくなり、沙耶の全身はおこりのように振るえていた。

「……なんで、……あんまりよ」

 何か言葉を発していなければ、叫び出してしまいそうなのかもしれない。

「大丈夫だから」

 僕は彼女の大きく震える手を自分の方に引きつけながら、こちらを見るようにうながした。沙耶のくっきりとした切れ長の瞳から涙が滴っている。どう見てもパニック寸前におちいっているとしか見えなかった。

「忠邦、……どうしよう。ああ、どうしよう」

 沙耶の力がはいり全体が固くなってしまった背中にてのひらを置きながら、僕は彼女の瞳を捕らえ続けた。

「いいかい、深呼吸しんこきゅうして、まず、深呼吸しんこきゅうしよう」

 この言葉を何度も繰り返すと、混乱のきょくにいるような沙耶は、僕が何を言っているのか理解したようだった。おびえる鹿のような瞳でこちらを見、そして小刻みに首を縦に振った。そして息を大きく吸おうとし始めた。上手うまくは出来てはいないが、何んとか肺に空気をたっぷり入れることができたようだ。

「……必要なら何度も続けて」

 何度目かの深呼吸で、すくめるように上がっていた彼女の肩が少し落ちてきた。大分だいぶ自分を取り戻しつつある沙耶は、静かに涙を流し続けるくらいになった。僕は彼女の背中をさすり続けた。

 自分でハンドバックの中からハンカチを取り出し、自分で涙を拭えるほどに沙耶がなったのを見て、さする背中の手を止めた。ここまでおよそ十分ほど時間がたっていて、その間、店に居た数名の客の視線は僕らに集中していたようだ。そりゃそうだ、店内に人目もはばからず涙を流し続ける女性がいれば嫌でも目立つ。

 こちらはそれどころではない、彼女の肩甲骨辺けんこうこつあたりに手を置いたまま、どうしたら良いかを考え続けていたが、不躾ぶしつけに沙耶に触れ続けているのに気づき、慌てて手を退いた。

「……ごめん。大丈夫だから、ごめんね」

 少し声にも落ち着きが見えている。そして続けた。

「みっともない所みせちゃったね……」

 笑みをこちらに見せようとしたが、上手くできず、すぐに笑みを浮かべるのをあきらめたようだ。

 僕は首を横に振った。

 突然、僕の目の前に湯気の立つミルクがなみなみと充たされた白く大きなカップが置かれた。目を上げ見ると、カウンターにいたはずの店主が立っている。意外に小柄な老人であった。

「これをお姉さんに飲ませなさい。店からのおごり。蜂蜜を入れてあるので甘いよ」

 思いのほか低い声だった。礼を言い、ミルクのカップを沙耶の前に滑らせ、「おごりだって」とつぶやき、もう一度礼を言おうとしたが、店主はもうカウンターの向こうに戻ってしまっていた。ミルクと甘い蜂蜜の匂いがカップからただよい出ている。僕は元の席に戻り、沙耶はホットミルクに手を伸ばした。

 もう一度店主の方に目を向けたが、彼はカウンターの奥で何かをしていて、こちらを見てはいなかった。三時間以上もこの喫茶店に居続いつづけているわけだが、その間、店主がカウンターの奥から出てきたのは、これが初めてだなと気づいた。

 ふうふうとカップに息を吹きかけ、沙耶が一口ホットミルクに口を付けた。

「おいし……」

 と彼女が呟いた。

(お姉さんに、か)

 傍からはやはり姉と弟に見えるのだなと思った。

 喫茶店をしたのは午後二時を過ぎていた。車は置いて帰って明日にでも取りにくればと提案したが、沙耶は乗って帰ると言い張り、おかげで運転は行きより増して覚束おぼつかないものだった。その道中、彼女が罹患りかんした「クラミジア」がどんな病気かを、こちらが聞くともなしに話してくれた。

 簡単に言うとやはり性病の一つだそうだ。主に男女のセックスでかかり、ほとんどが無症状のため、重くなると様々な女性特有の病気を引き起こす。沙耶が異変に気付いたのは幸運だったと医者は言ったそうである。薬を処方するから一週間飲めば納まるし、四週間後に再検査して反応がなければ完治かんちと見なされるらしい。

 この病気にかかる男女は意外に多く、肛門こうもんに症状が出る場合もあると医者は述べ、「あなたはそちらでなくて良かったね」と余計な情報までくれたらしい。

「そこまで、乱れた関係じゃないわ」

 と沙耶は心外しんがいだという口調で言った。それよりも、こう明確に沙耶が牟田口と関係を持っていることを、彼女の口から直に聞くことがひどく苦しかった。牟田口への怒り、沙耶に対する悲しみとそれ以上の親しみ、まもってあげたいという気持ちが心の中で乱れ飛んでいる。少なくとも沙耶は真面目に恋をし、男と付き合っている。そのことに文句を付ける理由はないと混乱気味の頭で納得させようとしていた。今回のことも、真面目に恋愛しているがために引き起こされた一つに過ぎないと思い込もうとした。


 (十一)

 三十分ほどかけて港区に帰ってきた。沙耶は自分の部屋には戻りたくないと言い、そのまま僕の部屋に上がり込むと、朝起きたまま乱れたの僕のベッドの端に、疲れ切ったように腰かけた。

「本当にありがとうね。忠邦が居なければ、あたしどうなったか」

 本心とも照れ隠しとも思える言葉を僕にけてくれた。

「気にしなくていいよ」

 そう答えて、彼女のようにベッドには腰かけず、ベッドの脇の床に座り、背をベッドのマットレスにもたせ掛けた。

「あたしの横に座ればいいのに」

「この方が良いんだ」

 沙耶の横目で見つめながら答えた。彼女はベッドのシーツに意味なく手を滑らせている。

「なんか、疲れちゃった。横になっていい」

「え、良いけど、僕が寝ているベッドだよ、匂いが付いているし」

「全然、良いよ」

「じゃあ、ご自由に」

 彼女はベッドの端に腰掛けた姿勢からそのまま、僕のベッドに身を横たえた。マットレスが軽くしなった。沈黙が流れた。敷地しきちの外を走る車の音だけが聞こえている。

「……ねえ」

 と沙耶が呼びかけてきた。

「ん」

「……最近、どんどん無口になってきたんじゃない」

「そうかな」

「うん、そう」

 自分でも、今年の初めころから口数が少なくなってきたのではないかとは感じてはいた。

「無口はだめかな」

「あたしはそう思わないよ」

「うん」

 彼女が横たわったままの姿勢で、手を伸ばし、いつものように僕の頭に触れてきた。

「無口になったけど、その分、頼もしさは増したかな」

 沙耶が柔らかな口調でそう言ってきた。

「からかわないでほしいね」

「からかってないよ。頼もしくなったもの」

「背は全然伸びないけどね」

「それは、ある」

 たぶん今日初めて彼女が本当の笑い声をあげたのを聞いた。幾分いくぶんホッとした。沙耶は強い女性である、ずっと見つめてきたから知っている。今はずたずたかもしれないが、早く立ち直ってほしいと思った。

 また、沈黙が続いた。耐えられない沈黙では無い、むしろ好ましい沈黙で、部屋全体に柔らかで揺蕩たゆたい空気に包まれている感じがする。やがて沙耶の静かで規則正しい寝息が聞こえ始めた。見ると、長い髪をシーツの上にわせながら、彼女は顔の右側をベッドにせて眠っていた。初めて彼女の寝顔をみた。安心し穏やかで綺麗な寝顔である。寝姿は身体の線がはっきりと浮き出て、どきまぎするほど魅力的だった。

(けれど……、僕は男として見られてはいないんだよな)

 せいぜい弟止おとうとどまり、僕はそっと溜息ためいきいた。

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