第2話

 (四)

 中学三年となり、僕は都立高校へ進学が決まった。そして沙耶は大学二年生となっている。通う事になった学校は住いからほど近い港区内にある高校だ。義務教育ではなくなるので、僕自身は中卒で自分の学歴を終わらせるつもりだった。

「学費などは私達が出す。遠慮せずに進学を考えろ」

 と、中二の最後に、卒業したら働くと言った僕に対し、沙耶や沙耶の母親、月ヶ瀬社長、月ヶ瀬専務達は僕が働くことを許さなかった。

「成績も悪くないのだから、君はもっと上を目指さなければならない」

 と沙耶が通っていた進学校を勧められたが、それは固辞こじした。例え入学できる学力があったとしても、そんな申し出は受けられない。入学金および三年間の授業料、施設使用料諸々しせつしようりょうもろもろで、とんでもない額になる高校なのだ。

 その代わり同じ港区にあり、進学校としても名の通った都立高校を目指したいと僕は言った。東京タワーの近くにあり、その始まりは明治時代後期に女子校として創立された歴史のある高校で、自由な校風でも知られた所である。

「え、あそこに行きたいの。いいんじゃない、私が行きたかった高校の一つなのよね」

 と大学に入学が決まっていた沙耶が言ってくれたお陰で、盛んに私立高を勧めていた月ヶ瀬社長らが折れた。。

 僕の進路に対する援護射撃えんごしゃげきをしてくれた沙耶に、暗い影が見え隠れし始めたのがこの時期である。彼女は大学入学が決まるや、真っ先に運転免許を取得するため自動車学校に通い始めた。大学は新宿にあるため、車は必要としないのに、彼女は「いの一番」に運転免許を取ろうとした。そして、彼女が自由に使える貯金口座があるらしいのだが、その口座から二百万以上の金額が引き出された。その使い道に対して、彼女は頑として口を割らなかった。

 彼女の父親である月ヶ瀬社長や母親は、その使い道に何かしら牟田口という彼氏がからんでいると判断していたが、当の本人が明かさないため、「~ではないか」という時点に留まっている。

 僕自身もとても気懸きがかりではあったが、一歩後ろに下がった位置にいて何も言わなかった。牟田口と頻繁ひんぱんに会っているのは気に食わないものの、当の沙耶は普段通りの親しさで僕に接してくれるし、むしろ彼氏ができてからのほうが優しいのではないかと思う程だった。そして沙耶は今まで以上に綺麗になった。それが牟田口の影響が強いことを認めざるを得ないから、せめて自分だけは彼女を応援しようという気持ちが強かった。

 そのため、僕は沙耶が何をし、何をされ、何を思っていたのか知らなかった、いや、あえて知ろうとはしなかった。

 そして中学三年の正月明け、僕は希望した高校に推薦で合格した。一番喜んでくれたのが沙耶だった。

「良くがんばったわね」

 そう言いながら、何度も彼女は僕の頭を掻きむしった。「やめてくれよ」と迷惑気に言ったものの、内心は嬉しかったのを覚えている。

 彼女はそのころから、ひどく疲れた表情を浮かべるようにもなった。恋人がらみだなとは思ったが、僕は何も言えず、彼女を見守みまもる事しかしなかった。

 その日は真冬に季節であるが、風などは生ぬるく春の兆しを感じられる日曜で、僕は朝食を沙耶の家で済ますと、自分の部屋に戻ってゴロゴロと昼過ぎまで過ごした。夕方から雨が降ると予報では言っていたが、今のところ薄雲が空を覆っているだけで降る気配はない。

 朝食のとき沙耶の姿はなく、またデートかと少しがっかりした記憶がある。そのため午後一時ごろ、沙耶が部屋を訪ねて来たときはちょっと驚いた。

 ドアを開けると沙耶が立っていた。百七十五を超える長身に高価そうなジャケットを引っ掛けた姿は、彼女のプロポーションを一際引き立てている。ただ、暖かい日ではあるものの、少し薄着過ぎないかとは感じた。

「お昼は食べた」

 いきなりそう訊ねてきた。僕が「まだ」と答えると満面の笑みをうかべる。

御馳走ごちそうしたげる。忠邦、焼肉好きだよね、食べに行こ」

「どこ、駅前の焼き肉店」

「まさか、首爾苑そうるえんよ、六本木の。お父さんの行きつけ」

「あそこ、高くない」

 と、僕が言った。

「ばかね、なに気にしてんのよ、わたしはお金持ちよ」

 とつんと胸を反らして見せた。

「いや、それより、男女で焼肉食べるということは、二人が深い仲の証拠というけど」

 わざとニヤニヤしてそう指摘すると、彼女は全く意にかいしていないようだ。

「深い仲じゃん」

 と沙耶は事も無さげに答えた。

「へ……、違うでしょ」

 僕の方がドキドキしてしまった。

「違うの」

 と彼女が聞き返してきた。

「違うよ」

「違わないと思うよ」

「違うさ」

「違わないないのっ。弟みたいなものだから、忠邦は」

「ふん、沙耶姉の弟にしては、釣り合わないけどね」

 「あはは」と沙耶が綺麗な声で笑い、続けた。

「……だれ、そんな事言ったの」

「いや、自分、鏡見るとさ、いつも思う……」

「あたしはそうは思わないよ」

 あら意外というような顔をして彼女は僕をまじまじと見つめてくる。長い睫毛まつげ輪郭りんかくのしっかりとした瞳がまぶしくて、僕はそっと視線を外した。

「さっ、行こうよ。あたし、お腹が空いてるんだ」

 僕は慌てて奥に引っ込み、財布をジーンズの後ろに突っ込み、ハンガーに掛けてある濃いグリーンのジャンバーを羽織った。財布にはいくらも入っていないはずだ。


 彼女の車が駐車場に置いてあったので、車で行くのかと思ったら、「今日は飲むつもりだから」と言い、JRと地下鉄を乗り継いで六本木に向かった。行く道中、時折、遠い目をする沙耶が気になったが、それよりも一緒に吊革つりかわに掴まっていたり、乗り換えのため並んで歩いていると、通り過ぎる人たちの視線がまず彼女に注がれ、そして十センチ以上低い自分に向けられるのが居心地いごこち悪くて仕方が無かった。

(分かっているよ、不釣ふついなのは)

 と好奇の目で二人を見つめてくる視線に対し、そう言いたくなってしまう。同時に少し自尊心もくすぐられる。どうだ、俺はこんな美人と一緒だぞ、というバカみたいな自尊心だ。

「思うんだけど、沙耶は周りの視線に何とも思わないの」

 轟音ごうおんを上げて地下を走る車両に揺られながら、そう訊ねた。

「……仕方ないもの、好きでこんなに大きくなった訳じゃないし」

 僕の聞きたかったこととは少し違う返答がきた。背の高さもあるが、それを含めた容姿が目を引くのだから、その視線をどう思うのかという部分を聞きたかったのだ。

 彼女は自分の背丈が皆の関心を引くだけと考えているのだろうか。そんなことはないと思う、彼女は自分がどのような女性であることを気付いていない筈がない。僕は良いようにはぐらかされただけなのだろうなと思った。

 六本木の駅では僕らを含めかなりの人が降りた。その人の流れに合わせながら地上に出ると、空は雲が厚くなっているようだった。

 六本木には何度か中学の友達と遊びに来たことがあるが、同級生とおとすれる六本木と沙耶とおとずれる六本木とは、こうも違うものかと感じる。同級生と来た時の六本木は何だかふわふわと曖昧あいまいで賑やかな街に見えたが、彼女と一緒だと、街の輪郭が硬質こうしつではっきりとしていて、それでいてはなやかな街に見える。

 その印象のまま六本木の交差点を北に少し進んだ大きな商業ビルの二階に焼き肉店はあった。沙耶と同年代と思しき店員に彼女が名を告げると、すぐさま店の奥に設けられている二人用の個室に案内された。沙耶は来る前に予約を入れておいたらしいが、一通り飲み物と肉を注文し終えると、注文を聞いた店員とはちがい、明らかに店トップの人間らしい男性がやってきて沙耶に、まるで上得意じょうとくいの客に対するような挨拶あいさつをした。

 それに対して、沙耶はきりっとした表情を浮かべ、優雅ゆうがに男性と受け答えをしている。完全に大人の女の、それもかなり場馴ばなれした対応で、僕の知らない女性を見ているようだった。男が去ると、また普段の表情へと彼女が戻っていった。

「さっ、挨拶は済んだ。お父さんの名を出して予約したから、面倒くさかった。早くビール持ってきてくれないかしら」

 手拭きの袋を破り、手を拭きながらそう言う彼女は、先ほどの大人びた雰囲気は無くなり、いつもの沙耶が戻ってきた。彼女は生ビールの大を頼んでおり、どうやら本格的にんで食べるつもりらしい。

 生ビールと僕が飲むウーロン茶に、サシのしっかりと入った大盛の肉と野菜、そしてキムチが運ばれてくる。沙耶はさっそく、「乾杯」と僕のウーロン茶のグラスを合わせると、綺麗な喉を見せながら一気に半分ほど飲み干した。

「おい、ひげになってる」

 と僕は自分の鼻の下に触れて、彼女に附いたビールの泡を指摘した。彼女はそれを人差し指で拭い、そこに付いた白い泡を僕の方に差し出してきた。

「つけてやろうか」

 昔から僕をからかう時に発する、しわがれた声でそう言ってきた。

「ああ、はいはい。肉が来てる、早く焼こうよ」

 それを受け流し、僕は熱せられた鉄網の上に取り箸を使って上カルビを乗せ始める。

「チェッ、のりが悪いんだから」

 そう言う彼女に、僕はにやりと笑って見せた。たちまち彼女が破顔はがんし満面の笑みを浮かべる。

「なんだか、このごろ忠邦、妙に大人びて来ていない」

「うん、言われる。学生服を着た中年男と言われたことがある」

 肉を並べたり、ひっくり返したりしながらそう答えた。彼女はコロコロと大きな声で笑い、箸を使う手を止め、ビールを豪快に飲み干した。沙耶の恋人はこんな彼女の姿も知っているのだろうか、それとも僕だけなのかな、そう思った。


 (五)

 二時間後、膨れた腹を持て余しながら焼き肉店を出ると、外はすでに薄暗くなっている。空を覆う雲はさらに厚みを増し、今にも降ってきそうな按配あんばいだし、気温も急激に下がっているようだ。

 最初から飲むピッチが速かった沙耶は、大ジョッキ二杯を忽(たちま)ち開けると、次にはレモンチューハイを二杯、梅チューハイ一杯の都合五杯を上機嫌で飲んでしまった。アルコールは弱くないようだが、明らかに飛ばし過ぎだ。それと出てくる肉の焼く手を休めず僕にどんどん食べさせ、肉ばかりだとバランスが悪いから野菜も食べなければだめと、甲斐甲斐しいほど世話を焼いてくるので、たぶん沙耶本人はそれほど肉を食べていない筈だ。

 相当酔ってるのではないかと思ったが、店の会計などを済ませている姿は、それほど酔った感じはなく、少し瞳がトロンとして頬のあたりが少し上気しているだけに見えた。だが、人通りと車通りの多い外に出た途端とたん、様子が変わった。まず、顔が一気に赤くなり、明らかに足に来ているような足取りになったのだ。

「あー、気持ちいい」

 と沙耶は相変あいかわらず上機嫌である。

「やっぱり、気を使わない人と食べるのは良いわね」

 沙耶が少しふらついて僕の肩に身体を寄せた形となった。

「そうかい、……タクシーで帰ろうか。地下鉄はきついんじゃない」

 僕は足を止めてタクシーを探そうとすると、沙耶は僕のひじのあたりを掴んだ。

「ちょっと、酔い覚まさせて、西麻布の交差点まで出て、そこからタクシー拾いましょうよ」

「いいけど、なんだか雨が降ってきそうだよ」

「平気平気、よし、歩こう」

 僕らは六本木の交差点を六本木トンネルの方向に進み、路地伝いで外苑西通がいえんにしどおりに向かうことにした。

 路地に入ると辺りは住宅街である。人通りがぐっと減り、街灯も少なくなった薄暗い路地をゆっくりとしたペースで歩いた。いつしか沙耶は僕と腕を組んできている。彼女が着ているジャケットの腕から彼女の体温が感じられ、それが心地よい。人通りの少ない路地を二人で歩いていると、僕は沙耶をひとめにしているような感覚におちいっていた。

(でも、沙耶にはあいつがいるんだよな)

 僕らは会話もせず、寄り添うように歩き続けた。

 やはり雨が降ってきた。冷たい雨だった。

 着ていたジャンパーを手早く脱ぐと、それを彼女の肩に思わず羽織はおらせた。今思えば気障きざな行動だった。

「……ありがと」

 でも沙耶は、僕の行動に拒否もせず、自然に受け入れ、そう言ってくれた。

「風邪ひかれると、困るから……」

 自分の行動に照れてそう言うと、嬉しそうに沙耶は僕のジャンパーに袖を通している。

「やっぱり男の子ね、このジャンパー、肩幅なんかあたしよりぜんぜん大きいし」

 そう言い、ふと何かに気付いたかのようにクスリと笑った。

「忠邦の匂いがする」

「えっ、そんなに臭い」

「ううん、違う。……きらいじゃない」

 彼女は足を止め、さらに身体を寄せてくる。彼女の香りとアルコールの匂いが混ざっている。

「なんか、あった」

 そうたずねた。恋人と何かあったと思ったのだ。

「ううん、何にもないよ」

 いつもの様に僕の頭に手を乗せてくると髪をくしゃくしゃと撫で、寄せていた身体をさらに傾け、しなだれかかるように自分の頬を僕の髪に押し付けた。ここまではされたことがない。どんな意味があるのだろうと、胸がときめいた。

 そうしてきたのはほんの十秒くらいだった。沙耶はさっと僕から三十センチほど離れると、表情を硬くし歩き出した。この先の筋違すじちがい気味になっている交差点を抜けると外苑西通りである。

 嫌いじゃないと彼女は言った。それが体臭になのか、僕自身になのか、外苑西通りの歩道でタクシーを拾う間考え続けた。沙耶は家に帰るまで、ほとんど口を利かなかった。

 後から聞いたところによると、丁度ちょうどこのころ牟田口の浮気が発覚はっかくした時期だったようだ。


 (六) 

 高校に入学した早々、青地静馬あおちしずま八嶋秋穂やしまあきほという友人ができた。八嶋秋穂とはクラスは一緒になったことはないが同じ中学で、顔だけは知っていた。静馬は別の中学だったが、帰る方向が近かった。

 秋穂の母親は中学で保護者会の会長を務めるなどしていたはずだ。僕の記憶だと、秋穂は小柄で子供っぽい体つきの奴だなとしか認識していなかったが、高校の入学式に見た彼女は、それなりに成長していた。

 周囲の男子は可愛いと評価されていたが、こちらは沙耶を見慣みなれているせいで、恋の対象にする女子とは考えられなかった。静馬の方は、背が百八十はあり、中学時代はバスケットボール部に所属していたらしいが、高校では軽音楽部で音楽活動がしたいらしい。

 入学式には、月ヶ瀬社長夫妻が来てくれており、式の最中さいちゅう、何かの拍子ひょうしに僕と目が合うと、月ヶ瀬社長は軽く頷くだけだったが、社長夫人の方は、かなり大きな仕草で手を振ってきたので、少し恥ずかしく思いつつも、ありがたいと感じていた。本当は沙耶も入学式に行きたかったらしいのだが、牟田口に呼び出されて、そちらに行ってしまったようだ。

 入学式と最初のホームルームが終わった。クラスは話し声が重なり、すこし煩いぐらいだ。その中、帰る準備をしていた。この煩い連中の中に静馬もいて、彼と親しくなるのはもう少し後からである。

 教壇近くで、女子と何やら話していた秋穂がトコトコといった足取あしどりで近づいてくると声を掛けてきた。努めて快活かいかつに声を掛けてきたのだが、本人は緊張しまくっているのが分かる。彼女の背は低いほうで、僕が百六十五に届くか届かない程度であるが、秋穂はその僕より十センチ近くは低い。

「中学と違って、一年生から同じクラスだね」

 秋穂は固い笑顔を張り付かせてそう言った。後から聞いたところ、男子に自分から話しかけるのは初めての経験だったらしい。

「中学時代は一度も同じクラスにならなかったね」

 そう答えると、秋穂は少し緊張が解けたような顔をした。

「うん、ほんと……」

 そこで言葉が固まった。他に何か言いたかったのかもしれないが、僕の方があまり表情を変えないので、言えなくなってしまったようだった。

「八嶋さんは、高校までバス」

 真新まあたらしい学生カバンを机の上に置きながら、そう訊ねた。

「ううん、歩き……にしようかなって」

「じゃあ、同じだ。家の方向も同じだよね」

「う、うん、そうかも……」

「じゃあ、一緒に帰ろうか」

 彼女が驚いたような表情で僕を見つめた。

「……」

「あっ、他に用事があるの」

「ない、用事はないです……」

 彼女は両手と首を同時に横に振った。その様がとても好ましいと僕は思った。

 高校は緩やかな起伏がある丘の途中にあり、周辺には東京タワーや外国大使館などが点在しており、どちらかというと高級住宅が立ち並ぶ界隈である。自宅からは高校の前まで通ずるバス路線もあるが、そう遠い距離でもないので、迷わず徒歩で通学することを選択した。歩いても精々せいぜい二十分ほどなのだ。八嶋秋穂の家もそのバス路線沿いにあった筈だ。

「そんじゃ、帰ろ……」

 ズッと音を立てて、僕は椅子を引いた。

 なぜ彼女を誘ったのだろう。秋穂は可愛い方だが、僕の好みではない。それに自分は積極的に人と接点を持とうとするタイプでもない。ただ単に、帰り道が同じなら一緒に帰ろうかと思っただけというのが正解ではなかろうか。

 まだ入学式の看板が出たままの校門を抜け、僕たちは他の学生に混ざりながら坂を下り始めた。これまで親しくしてきたわけではないので、会話がはずまない。それと、彼女の歩調は意外に遅いので、その歩調に合わすようにした。

 なんで一緒に帰ってんのかなと思い始めた時、秋穂がこちらを見つめ訊ねてきた。

「……向島君は、よく背の高い綺麗な人と一緒にるよね。……あの人、彼女」

 背が高い人というと沙耶を指しているのだろう。

「いや、違うよ。まあ、昔からの知り合い、……なのかな」

 そう面と向かって聞かれると、何と答えてよいか分からないし、こちらの事情を話すつもりもない。

「すごく仲良さそうに見えるけど」

 彼女は話す時、「ほんわか」調で話すのだが、それが少し間の抜けた感じが可愛かった。

「仲は良い方かな」

「そういうのを、彼女さんと言うのでは……」

「言わないよ。少なくとも僕と彼女は、そうじゃない。……あのさ、彼女は四歳も上の大学生だし、高校時代から付き合っている彼氏がいるよ」

 この間の連休初日、沙耶は恋人の牟田口を両親に引き合わせている。彼女が大学を卒業したら正式に婚約することが決まったようだ。それを聞いた時、「チェッ」とつばを吐きたい気分になり、しばらくは「やさぐれた」感情に悩まされた。

 沙耶の車でやってきた牟田口をちらりと見たのだが、背は彼女より高く、見るからにスポーツマン風に見えた。ただ、絶えずニヤニヤと笑みを顔に張り付けているような男で、僕は全く気に入らなかった。

「そうなんだ……」

 と秋穂はまだ釈然しゃくぜんとしないとでも言いたげに首を傾げてみせた。

「そんな風に見えるんだ」

 と僕は訊ねた。

「ずっと気になってました。でも聞く機会もなかったもので」

 坂を下りきると片側二車線の道にでる。この道が国道一号線で、左に折れれば東京タワーに行けるし、右に只管ひたすら進めば、いつか大阪に着く。僕らはその大阪方向へ足を向けた。

「釣り合わないと思っていたでしょ」

 と僕は言った。国道と交差する路地の奥に、寺が見えている。

「違います。二人とも仲が良いし、あの方、とても綺麗な方なので、なんだかあこがれるというか、お会いしてお話してみたいというか……」

 ははあ、秋穂が近づいてきたのはそれが目当めあてかと、僕は勘付かんづいた。沙耶以外、入学早々珍しく女性がで関わってくるなと思えば、これである。

「タイミングが合えば、紹介するよ」

 多少傷つきながら、僕はそう答えた。

「本当ですか、ぜひっ」

 JRの田町駅に出る為、細い路地の様な道に店が並ぶ商店街を抜けると、国道十五号線に突き当たる。その対面が田町駅である。橋上駅きょうじょうえきである田町駅の西口からコンコースを抜け、東口のバス乗り場に抜けながら、僕はある疑問を秋穂に問いかけた。

「気になっていたと言っていたけど、いつから」

「うーん、ちょっと言いにくいんですけど。……向島君のお父さんのお葬式の時から、なのかもしれません」

「……何で」

「火葬場の外からたまたま見ちゃったんです。二人が抱き合って泣いているのを……」

 ああ、あの時か。火葬場の長椅子での事を思い出した。あれは抱き合っているというのかとも思う。

「そうなんだ」

「付き合っているんだって、ずっと思ってました。でも今、そうじゃないってわかりましたから……」

「……付き合ってはいないよ、……姉弟兄弟みたいなものだよ」

 と僕は笑いながら答えた。

「……ですね。……それでも、ちょっと疑問はあるのですけど」

 そう考え込むように言ったが、すぐに秋穂は笑いながら僕の顔を見つめてきた。

 その素振りが可愛いなと思ったし、秋穂は笑顔が魅力的なのを知った。

 これが秋穂と放課後一緒に帰るようになる最初であった。互いに帰宅部であるし、彼女は沙耶に興味があるので、より親しくなるのはすぐであった。

 秋穂の自宅は駅を抜けると、真反対であり、バスロータリーのところで別れた。学生ズボンのポケットで携帯がライン通知を知らせてきた。たぶん沙耶からである。


 (七)

 中学時代は持っていなかったスマートフォンを持つ事を許されたのも高校入学が決まってからである。中学の頃から欲しいと思っていたし、仲間で持っていないのは僕だけであったので、多少疎外感そがいかんも感じていたから、型落ちの安いスマホであったが手にした時はなんだか嬉しかった。

 キャリアや機種を決めるのに付き合ってくれたのは沙耶で、彼女は自分と同じ機種を勧めたかったらしいが、その機種だと通信料に加え機種代を月々返さなければならない。通信料などはバイトで払うつもりでいたため、丁重ていちょうに固辞した。「頑固なんだから」と文句を言いつつ、型落ちでも性能の良い機種を時間かけて選んでくれたのも沙耶である。

 買ってその場で、彼女のラインアドレスを登録させられ、以後、盛んに沙耶はラインをよこしてくるし、スルーをしていると怒る。そのうち、僕が誰と友達登録をしているかを知りたがるようにもなった。

「なんだ、女の子に人気ないのね」

 などとからかうのだが、ある日秋穂と友達登録をしているのを知って、秋穂について色々訪ねてくるのには閉口へいこうした。

 沙耶とのラインは、牟田口と会っている時はともかく、それ以外は日々の行動や僕が何をしているのかなど、事細ことこまかにいてくるかと思うと、逆にその間隔がかなり空く場合も起こるようになり、やがて内容に、少しずつ牟田口の愚痴ぐちが含まれるようになった。顔を合わせて話している時は、そのような話は出ないのだが、面と向かわないラインだと話しやすいようだ。

 そういった内容を知らされるこちらは、良い気持ちでは無い。沙耶というフィルターがんでいるとはいえ、少しずつ牟田口という男が分かってくる。承認欲求しょうにんよっきゅうが強く自己中心的らしい。

 そんな男に、なぜ沙耶はのめり込んでいるのだろう、別れてしまえば彼女にとっても良いだろうとは思うのだが、僕はそれを口にすることはしなかった。それを決めるのは沙耶だと思っていた。彼女自身が決断しなければ、何も起こらない。

 それに沙耶から来るラインを読んでいるうちに、彼女と牟田口が深い男女の関係となっていることも分かってしまい、余計よけいに口をはさめなくなってしまった。

 恋愛について、あまり分かっていない時期であったが、付き合っている男女がどのような関係になるのかは分かっていた。だが、男女がどのような行為におよぶのかという知識と、親しい人が実際にそういった行為を行っていることを知るのは、まったく別物である。 

 小さい頃から知っている弟のようなだけの男子に、将来を約束した彼氏の愚痴を漏らすというのは、沙耶からしてどのような認識なのだろうか。

 それでも沙耶と牟田口の深い関係を知ったことは、好むと好まざることなく、何時いつの日か沙耶が僕の前から去っていくであろうことを明確に宣言されたのと同じだと思った。


 (八)

 高校に入学してすぐ、平日の放課後と日曜、近くのファミレスでバイトを始めた。高校に入ったら、生活費や遊ぶ金はできるだけ自分でまかなおうと思ったためだ。

 そう思ったとは言っても、毎日の食事は沙耶の母親に作ってもらっているし、高校の授業料、部屋の電気、ガス料金は沙耶の父親の月ヶ瀬社長が出してくれているから、それほど頻繁ひんぱんにシフトを入れなくても良いのだが、バイトの目的の一つにバイクの免許を取ることがあった。

 現在の相場そうばだと、普通二輪の免許取得に二十万はかかるので、いくらこんめて働いても教習所に通えるようになるのは十六の誕生日を迎える九月を過ぎるだろうと考えていた。

 小学生の頃からバイクに興味があった。出雲に居た頃、父親はスーパーカブを通勤や仕事で使っていたからだと思う。僕のアルバムには父親のカブにまたがっている写真が何枚か残っている。

 父親は東京に出てくるとき、長年親しんだカブを持ってこようと思っていたらしいが、諸般しょはん事情じじょうあきらめたようだ。乗った事も無く、いたずらに跨っただけのカブだが、グリップを握った感触、ロータリー式のシフトペダルを踏んだ感覚はとても良く、それ以来バイクが好きになっていた。

 問題は金額の件に加えて、月ヶ瀬社長達の承諾しょうだくを得られるかという面があったが、こちらは意外にあっさりと許された。何でも社長もその長男の専務も若い頃はバイクに乗っていたという過去があるため、「自分の金で乗れるなら、乗っておいても良い」と許してくれたのだ。

 まあ、それには条件があり、ロータリークラブの友人が営む教習所で免許を取ってほしいとのことである。教習所は目黒の一等地にあって、沙耶も免許は此処で取ったという。取らせてもらえるのなら何処どこでも良いので、二つ返事で了承りょうしょうした。後は働いて、通うための金を貯めるだけである。


 (九)

 その日はゴールデンウイークの明けた日曜の朝で、空はすっきりと晴れ渡っていた。九時前だっただろうか、バイトへ行く準備をしていると、沙耶が部屋に浮かない表情でやってきた。どこか具合でも悪いのかと思った。

 肩にブランド物のポーチを下げ、海老茶色えびちゃいろのフレアスカートに薄いピンク地のブラウス姿であったが、全身から沈んだ雰囲気が現れている。いつもなら遠慮なくずかずかと部屋に上がり込んでくるのだが、この日は玄関に立ったまま、出掛でかける用意をしている僕を見つめていた。

「……どうしたの」

 ジーンズの後ろにスマホを押し込みながらそうたずねた。

「うん、……あの、付き合ってほしいのだけど」

 いつもの言いようでは無い。いつもなら「ちょっと付き合って」とくる筈だ。

「いいけど、これからバイトなんだ」

「あっ、そう、そうよね。ごめん、じゃあ良いわ……」

 彼女は少し狼狽うろたえた表情を浮かべ、自分の気持ちを取りつくろうようにそう言った。

「なに、どうしたの」

「いいの、……大丈夫だから」

 僕はじっと沙耶を見つめた。泣きだすのではないか、そう感じた。

「大丈夫じゃないだろ、……どこに付き合えば良い」

「……病院に」

「どうした、どこか悪いの」

「言えない。でも一緒に病院に行ってほしい」

 ひょっとして産婦人科かと脳裏のうりをよぎった。ない事は無い上に、こんな弱々しい沙耶を見るのは初めてで、僕の心に保護本能が湧き上がってくる。

「分かった、行こう。何処どこ、病院は」

 そう言った僕に、彼女はホッとした色を浮かばせた。

「……大森おおもりの先なんだけど」

「うん、いいよ。電車で」

「あたしの車で、それで良いかな」

「もちろん。病院は開いてるのかい。今日、日曜だけど」

「ええ、日曜日の午前中は診察しているらしいから」

 ますます、産婦人科の目が強くなったなと僕はスニーカーに足を突っ込んだ。そして「行くよ」と彼女をうながした。

 沙耶の車は紺色のコンパクトタイプのベンツである。大学生となった昨年に沙耶自身が自分の金で購入したもので、用途はもっぱら牟田口とのデート用だ。そのうち牟田口が勝手に乗り回すようになったので、業をやした月ヶ瀬社長は沙耶が使う時以外利用を禁止すると牟田口に告げたといういわく付きの車である。

 何度も乗せてもらっているが、沙耶の運転は僕から見てもあまり上手うまくない。今日は特にそうだ。心、此処ここにあらずのていであり、ナビで案内されてはいるものの非常に心許こころもとないし、ハンドルきは恐怖すら覚えるほどである。

 いつもは沙耶の運転技術に関して下手へただと指摘してきするため、二人で口喧嘩みたいになるのだが、ハンドルを握っている今日の彼女があまりにも普通ではないので、ナビが案内する画面を見ながら僕が指示し目的地へと車を進める役を引き受けていた。今日の彼女は驚くほど素直で、僕の指示に従い黙々もくもくと車を走らせている。

 箱根駅伝はこねえきでんのコースでも知られている国道を南下し、環状かんじょう七号線に入ると、二車線の道の左車線を走るよう彼女に指示しながら、すぐの信号を左折させる。そこからしばらくは直進で蒲田かまた方面に二キロほど走り、再び細めの道を左折させた。そこは商店街らしいが、外れの方であるためそれほど賑わっていない。

 目的の病院はこの近辺きんぺんらしく、沙耶は車の速度を落とし、左右の看板に目を走らせている。

「……あった」

 と沙耶が聞き取れないような小声でつぶやいた。

 僕も病院の看板を見つけたが、それが目的の病院だとは思わなかった。沙耶はその看板が出たビルの前に車を停めた。

「……ここだわ」

 再びそう呟き、苦しそうに溜息ためいきを一ついた。

「コインパーキングがこの先にあるよ。そこに停めたら」

 病院の入っている小振りな商業ビルの二軒ほど先にコインパーキングの看板を見つけ、僕はそう伝えた。

「うん、……そうね」

 後退と前進を繰り返し、えらく苦労しながら車を五台ほどのスペースのある駐車場に停めた沙耶はエンジンを止めたまま、じっと前を見続けている。目的の病院を見つけたものの、それでも行くか行かまいかで逡巡しゅんじゅんしているようだった。

 沙耶程ほどではないかもしれないが、こちらもひどく動揺どうようしていた。なぜ、彼女はこんな目にっているんだ、こんな所に足を運ぶことのないはずの人だ。

「今日は、止めとく」

 と、彼女にたずねた。沙耶は左手で自分のこめかみを触りながら小さく首を横に振った。

「……何の病院だか、分かったでしょ」

 沙耶がそう訊いてきた。

 病院の専科は性病科だった。衝撃と疑問が脳裏を渦巻いている。

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