金のわらじをはく

八田甲斐

第1話

 (一) 

忠邦ただくに君だっけ。今、何年生」

 月ヶ瀬沙耶つきがせさやは開口一番、僕にこう尋ねた。

「……小五です」

 切れ長な沙耶さやの瞳が、柔らかな笑みをたたえてこちらを見下ろしているので、僕は目を遭わすことができず、横に視線を外しながらそう答えた。

 こんな綺麗きれいな人を僕はそれまで見たことがないかもしれない。全身からとするようなオーラが発せられているが、そのたたずまいは自然でかざり気がない。けれどもその存在感は圧倒的あっとうてきだ。

 それに中学三年だという沙耶はおそろしく背が高い。当時の僕がせいぜい百二十センチぐらいで、彼女の背丈せたけは自分より五十センチは高かった。化粧気の無い健康そうな肌と驚くほど整った顔の造作ぞうさく、髪はゆるいウェーブの掛かった明るい茶色で、それをポニーテールにしている。ほっそりと見える身体全体はゆるやかな曲線で形作かたちづくられており、中学の制服からすらりと伸びた長い足が眩しかった。

「沙耶よ。これからよろしくね」

 そう言い、彼女は僕の頭を軽く触ってきた。この頭に手を乗せてくる動作は、自分が多感でめんどくさい年頃になる中学二年生まで、沙耶が僕へのあいさつ代わりに取る動作になる。

「よかったな沙耶、弟が欲しいといつもいってたものな」

 彼女の反応を楽しむかのように、僕と父親を迎えに出てくれた月ヶ瀬社長がそう言った。沙耶はこの月ヶ瀬社長の娘で、彼女の上に一人兄がいる。彼女は長女であり末っ子なのである。

 僕の父親、向島健一郎むこうじまけんいちろうは月ヶ瀬社長が経営するビジネスフォーム印刷会社の営業マンである。

 僕ら親子は小二まで島根県の出雲市いずもしに住んでいた。その頃は母親も元気だった。当時父親は岡山県に本社を置く印刷会社の社員として島根県出雲市の営業所に勤めていた。父親と母親の出身は鹿児島だそうで、どうやら二人はち同然で岡山に流れ着き、そこで印刷会社の職を得たらしい。

 僕は岡山で生まれたものの、物心がついた頃は出雲市で暮らしていたので、自分にとっては出雲が故郷ともいえる。この静かな街で暮らした小学二年生までの五年余りは楽しい思い出しかない。

 ずっと暮らせると思っていたのだが、父親は東京で印刷会社を営む月ヶ瀬社長と島根県主催のあるイベントで知り合いになり、引き抜きという形で、三人で東京へと引っ越してきたのである。

 そして小三の時、母親が病気で亡くなった。最後まで東京という街に馴染なじめずに終わったようだ。以来いらい父親と二人で暮らしている。

 父親の務める会社は東京港区の工業地区と商業地区の境にあり、かなりの敷地面積を誇っている。印刷機が並ぶ工場が二棟ふたむね、製本工場が一棟ひとむね、本社ビルと月ヶ瀬社長家族が暮らす平屋ひらや家屋かおくがあっても、まだ工場を増築できる余地が残っていた。

 印刷工場や製本工場は建て直して新しくなっていたが、戦後まもなく建てたという地上四階建ての本社ビルは古ぼけたままであったのを最近改築し、二階を社宅とし、一階と三階から上を事務所にした近代的な七階建てビルにしたばかりである。

 僕らは母親を亡くしても、住んでいた品川区の古いマンションに住み続けていたが、会社に社宅ができたのを機に引っ越した。母親が亡くなり、これまで仕事と家事を一人で父親がまかなっていたから、住いと仕事場が一緒となれば、多少なりとも負担が減るだろうことを、社長やその長男である専務に勧められ決めたという経緯がある。

 学校が変わり、友達とも離れ離れになってしまうことは嫌だったが、母親の思い出が残り続けているマンションから離れられると思うと少しホッとした。引っ越しは年明けで、僕が三学期から新しい小学校に通えるまでにと日取ひどりを決めた。

 引っ越し業者のトラックに加え、会社が大型のバンを一台出してくれ、父親の部下だと言う営業部社員三人も手伝ってくれたので、思いのほか引っ越しは早く終えることができた。そして最後の荷物をバンに積み込んで父親と手伝ってくれた三人の社員とともに、新しい住居兼仕事場にやってきて沙耶に出会ったのである。

 新しい環境になかなか馴染めない中、中学三年生の沙耶は僕を本当に弟と見なしているらしく、町内でイベントや祭などがあると引っ張り出し、自分の物を買いに出かける時には、僕をおごり付きの荷物持ちに駆り出すことしばしばで、僕らはあっという間に、口喧嘩するほど親しくなっていた。

 僕と父親は社宅二階の角部屋かどべやで、ベランダからは沙耶たちが住む社長宅が見下ろせる位置にあった。互いの家が近くであったため、沙耶は僕を社長宅に良く呼ぶようになった。

 それも部屋に電話するでもなく、訪ねて来るでもなく、彼女は僕らの部屋のベランダ側にある駐車場に来ては、下から「ちょっと、お母さんがケーキ買ってきたから一緒に食べよ」とか、「あんたのお父さん今日残業で遅くなるようだから、夕飯食べにおいで」と呼び出すのがつねになっていた。

 沙耶の父親は社長だから、大概たいがい夜は会合かいごうやら付き合いやらで不在であり、会社の跡継あとつぎでもあるである専務の兄はすでに独立しているので、沙耶は母親と二人で夕食を採ることが多い。

 そこで小学生の僕を夕食に招き、にぎやかに過ごすのがどうやら嬉しいらしいのだ。さらには風呂まで貸してくれるのだが、小学生の僕が風呂に入っているのを、沙耶がなにかの理由を付けてのぞいてくるのは大分閉口だいぶへいこうした。

「うわー、覗くなよ、お湯をかけるぞ」

 と大声で慌てふためくのが彼女は楽しいらしい。コロコロと良い声で笑うのだ。

「また、忠邦君が入っているのを覗いたの、あなた、いい加減にしなさいよ」

 と呆れたように沙耶の母親が言っているのが聞こえる。

「だって、面白いんだもの。子猫が怒ったような声出すのよ、あの子」

 笑いながら沙耶は答えていた。

「もうすぐ、中学生になるのよ、あの子は」

 とたしなめられても彼女は「平気よ、中学生になっても覗いてやる」と応える。

 まあ、僕が中学に上がると覗くことはしなくなったが……。

 

(二)

 中学一年の夏、父親が亡くなった。その日は横浜にある得意先へ社用車しゃようしゃでかけた父親であるが、その途中の高速で単独事故を起こしたのである。事故で社用車はボロボロになったものの、安全装置があったおかげで車内に影響は無かったという。だが、ハンドルを握っていた父親は怪我けが一つないのに事切こときれていた。死因はくも膜下まくか出血による脳へのダメージであったようだ。

 そういえば思い当たるふしがあった。前日の夜から頭が痛いといっていたし、事故を起こした日の朝になると、さらに頭痛はひどくなっていて、頭痛に対して効き目の強いと言われる薬を飲んで出社していったのを覚えている。

 三時間目の現国の授業中、僕は職員室に呼び出され、校長室に連れて行かれた。校長室には、月ヶ瀬社長と月ヶ瀬専務が、どこか具合でも悪いのかと思うほどの顔色をし応接セットにすわっており、校長と向かい合って何やら話している最中さいちゅうだった。そこで僕は校長から父親の死を聞かされた。

 それからの事は、あまり覚えていない。

 品川区にある大きな葬儀場そうぎじょうで葬儀がり行われたのだが、通夜つや告別式こくべつしきと進む中、僕はふ抜けていて、まるでしっかりとした実感がない。

「……忠邦、そろそろ帰るぞ」

 と呼びかけてくる父親を親族の席に座ってずつと待っていた気がする。沙耶が度々たびたび僕に話しかけたり、世話を焼いてくれたのは不思議に覚えていた。その時、彼女は高校二年になっていて、有名進学校の制服をりんと身にまとい、いつもより真剣で控えめな表情で絶えず僕のすぐそばにいてくれたのである。

 何時いつの間にか、通夜と翌日の告別式が終わっており、父親の遺体は広い無機質な火葬場かそうばで骨になっていた。僧侶そうりょ読経どっきょうの中、白い灰と骨の塊となった父親が炉から引き出されてくる。

「さっ、お父さんを拾ってあげるんだ」

 月ヶ瀬専務が僕を骨と灰になり横たわっている台の最前列に背中をおしてくれた。  

 僕はそう言われたものの、ステンレス製の台に載っている灰と骨が、どうしても父親だとは思えなかった。したがって、ここまで僕は一度も涙を流していない。

 火葬場の係員が、「ここが頭です」「太腿ふとももです」と静かに流れるように説明するのを聞きながら、僕は沙耶の父親である月ヶ瀬社長とともに骨を骨壺こつつぼに収めて始めた。まわりに誰がいるのかも、まったく感知できない。

 ただ、細かいかけらになった父親の骨を拾う内に、いきなり僕の胸にはじけるような衝撃がきた。母親の時もそうだったのだ。姿のない骨と灰に母親はなってしまっていたのを僕は思い出していた。

(……どうしたんだよ、父さん)

 どういった感情なのだろう、たぶん一番近いのは怒りかもしれない。自分だけを残してってしまった両親に向けてだろうか、大声で絶叫しそうになり、思わず木製のはしを父親の骨の上に落としてしまった。その衝動を抑えるため、僕は父親から離れ、手で口を押えながらその場を離れた。

 息ができない。周りがこげ茶と白のモノトーンになっている。

 誰かが僕の手を掴み、少し離れた長椅子まで導いてくれている。柔らかな指の感触だけが鮮明せんめいに心に残っていた。

 長椅子に座り、うずくまる様な姿勢で、どのくらい座り続けたのだろう、かなり長い時間、それとも少しの間か、それも分からなかった。僕の右隣に誰かが一言も発せず居続いつづけてくれていた。

(父さんなの、それとも母さん)

 そうかもしれない、誰よりも自分を気にかけてくれている存在が僕の隣にいる。そんな気がしていた。

 その反対側の左隣に大きな身体が座った。何故なぜか顔を上げなければならないと思った。

 月ヶ瀬専務が座っていた。僕を見つめているその目は真っ赤で、涙の流れた跡も見えた。

「……君が大人になり必要がなくなるまで、いつまでもあの部屋を使ってくれていい。それまでは僕らが君を……、おとうさんの代わりに……」

 声が湿しめっているし、震えて先が続けられないらしい。「ちょっとトイレ」とその場から逃げ出すように月ヶ瀬専務が立ち上がり、足早にどこかへ行ってしまった。

 僕は先ほどの姿勢に戻った。月ヶ瀬専務が何を言いたかったかは分かった、少しホッとした。これからも住み慣れてきた場所で暮らせるかもしれないと思ったのだ。右肩に手が置かれた。慣れしたしんだ感触だった。

(……そうか。沙耶さんだったんだ)

 顔を右に見上げるように向けると、沙耶もまた、涙をいっぱいに浮かべて僕を見つめてくれていた。

(……綺麗きれいだな。こんな時でも綺麗って思えるんだな)

 そう思った。同時に現実を受け入れられずにいた僕に、父親が永遠にいなくなったこと、もう誰もいなくなってしまった事実が脳内に流れ込んできた。

「……ひとりぼっちになっちゃったよ。どうすりゃ良いわけ」

 少し笑って軽口風かるくちふうに言ったつもりだった。でも、彼女を見つめる僕の目から涙が知らず一筋こぼれ落ちていくのを感じた。

 沙耶は何も言わなかった。だがその代わり、肩に置いた手を外し、今度は両腕を僕の身体に巻き付かせ、おおいかぶさるように上半身を密着させてきた。

 僕は声を上げて泣き始めた。彼女も嗚咽おえつをもらし、涙を僕の首筋に落とし続けた。

 不謹慎ふきんしんかもしれないが、初めて女性の身体からだを意識したのは、この時である。


 (三)

 父親が亡くなっても、月ヶ瀬専務がげたとおり、僕は社宅を追い出されることはなかった。

 当たり前だが、疎遠そえんとなっていた父親や母親の親族からは、誰一人僕を引き取るとは言ってこなかった。月ヶ瀬社長と専務が父親に代わって僕を面倒みると宣言してくれたのだが、葬儀に来た僅かな数の親族は、一様にほっとした表情で社長と専務のもうを受け入れた。

 戸籍上こせきじょう父方ちちかたの祖父母(すでに亡くなっている)の家に養子としてはいることにはなるが、生活はこれまで通り東京でということになった。

 月ヶ瀬社長は僕の親族がそういった態度に出ることは、生前の父親から親族間の関係を聞いていて承知していたようで、淡々と親族には、「すべての面倒は私共わたくしどもで見ます。金銭の請求もしないのでご安心を」と告げたのである。僕はただ黙って見ているしかなかった。

 そしてこれまで以上に沙耶の家で朝食、夕食を採ることが増えていき、しまいにはほぼ食事は彼女の家でということが既成きせい事実のようになっていた。あまりにもそれは図々ずうずうしいと固辞こじしようとしたこともある。

「いらぬ遠慮は非礼ひれいだぞ」

 沙耶の父親である月ヶ瀬社長も兄の月ヶ瀬専務もそう言ってくれた。

 こうして僕はほぼ沙耶の家に厄介をかけることとなった。月ヶ瀬社長が夕食時にいないことは今まで通りであったが、高校二年になっている沙耶も、友達と夕ご飯食べてくるとか、部活で遅くなるということで、夕食の席にいないことがしばしばあるようになった。

 沙耶のいない食卓は、どこか寂しい。自分がそう思うのだから彼女の母親はもっと寂しいだろうなと僕は思った。そして沙耶が夕飯時に帰宅しないのは、友達や部活のせいだけではないことが、僕と二人で夕食を採っている時に彼女の母親が、愚痴ぐちのようにこぼすのを聞いていると分かってきた。

 沙耶に恋人ができたようである。

 恋人の名前は、牟田口春馬むたぐちはるまというらしい。同じ高校の同学年で、バレー部の副主将を務めているそうである。

 僕の父親が亡くなった夏に、沙耶と牟田口の真剣交際が始まったようだ。彼女の牟田口へののめり込みは周囲が驚くほどで、普段あまり沙耶の行動に干渉かんしょうしない月ヶ瀬社長が、やんわりと意見するほどになっていた。

 沙耶に恋人ができ、どんどん夢中になっていくのを見るのは、僕自身全く嬉しくなかった。いつも親しく接してきてくれる沙耶が、その男には自分以上に親密な態度を採っているのだ。一方ではそれは仕方がないとも思う部分もあった。

 僕は沙耶ほど綺麗な女性を見たことがない。ということは沙耶が好きになる男は彼女同等かそれ以上の魅力がなければならないはずだ。牟田口という男はそうなのだろう。

 僕はたぶん、そうではない。

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