金のわらじをはく
八田甲斐
第1話
(一)
「
「……小五です」
切れ長な
こんな
それに中学三年だという沙耶はおそろしく背が高い。当時の僕がせいぜい百二十センチぐらいで、彼女の
「沙耶よ。これからよろしくね」
そう言い、彼女は僕の頭を軽く触ってきた。この頭に手を乗せてくる動作は、自分が多感でめんどくさい年頃になる中学二年生まで、沙耶が僕へのあいさつ代わりに取る動作になる。
「よかったな沙耶、弟が欲しいといつもいってたものな」
彼女の反応を楽しむかのように、僕と父親を迎えに出てくれた月ヶ瀬社長がそう言った。沙耶はこの月ヶ瀬社長の娘で、彼女の上に一人兄がいる。彼女は長女であり末っ子なのである。
僕の父親、
僕ら親子は小二まで島根県の
僕は岡山で生まれたものの、物心がついた頃は出雲市で暮らしていたので、自分にとっては出雲が故郷ともいえる。この静かな街で暮らした小学二年生までの五年余りは楽しい思い出しかない。
ずっと暮らせると思っていたのだが、父親は東京で印刷会社を営む月ヶ瀬社長と島根県主催のあるイベントで知り合いになり、引き抜きという形で、三人で東京へと引っ越してきたのである。
そして小三の時、母親が病気で亡くなった。最後まで東京という街に
父親の務める会社は東京港区の工業地区と商業地区の境にあり、かなりの敷地面積を誇っている。印刷機が並ぶ工場が
印刷工場や製本工場は建て直して新しくなっていたが、戦後まもなく建てたという地上四階建ての本社ビルは古ぼけたままであったのを最近改築し、二階を社宅とし、一階と三階から上を事務所にした近代的な七階建てビルにしたばかりである。
僕らは母親を亡くしても、住んでいた品川区の古いマンションに住み続けていたが、会社に社宅ができたのを機に引っ越した。母親が亡くなり、これまで仕事と家事を一人で父親が
学校が変わり、友達とも離れ離れになってしまうことは嫌だったが、母親の思い出が残り続けているマンションから離れられると思うと少しホッとした。引っ越しは年明けで、僕が三学期から新しい小学校に通えるまでにと
引っ越し業者のトラックに加え、会社が大型のバンを一台出してくれ、父親の部下だと言う営業部社員三人も手伝ってくれたので、思いの
新しい環境になかなか馴染めない中、中学三年生の沙耶は僕を本当に弟と見なしているらしく、町内でイベントや祭などがあると引っ張り出し、自分の物を買いに出かける時には、僕を
僕と父親は社宅二階の
それも部屋に電話するでもなく、訪ねて来るでもなく、彼女は僕らの部屋のベランダ側にある駐車場に来ては、下から「ちょっと、お母さんがケーキ買ってきたから一緒に食べよ」とか、「あんたのお父さん今日残業で遅くなるようだから、夕飯食べにおいで」と呼び出すのが
沙耶の父親は社長だから、
そこで小学生の僕を夕食に招き、
「うわー、覗くなよ、お湯をかけるぞ」
と大声で慌てふためくのが彼女は楽しいらしい。コロコロと良い声で笑うのだ。
「また、忠邦君が入っているのを覗いたの、あなた、いい加減にしなさいよ」
と呆れたように沙耶の母親が言っているのが聞こえる。
「だって、面白いんだもの。子猫が怒ったような声出すのよ、あの子」
笑いながら沙耶は答えていた。
「もうすぐ、中学生になるのよ、あの子は」
とたしなめられても彼女は「平気よ、中学生になっても覗いてやる」と応える。
まあ、僕が中学に上がると覗くことはしなくなったが……。
(二)
中学一年の夏、父親が亡くなった。その日は横浜にある得意先へ
そういえば思い当たる
三時間目の現国の授業中、僕は職員室に呼び出され、校長室に連れて行かれた。校長室には、月ヶ瀬社長と月ヶ瀬専務が、どこか具合でも悪いのかと思うほどの顔色をし応接セットにすわっており、校長と向かい合って何やら話している
それからの事は、あまり覚えていない。
品川区にある大きな
「……忠邦、そろそろ帰るぞ」
と呼びかけてくる父親を親族の席に座ってずつと待っていた気がする。沙耶が
「さっ、お父さんを拾ってあげるんだ」
月ヶ瀬専務が僕を骨と灰になり横たわっている台の最前列に背中をおしてくれた。
僕はそう言われたものの、ステンレス製の台に載っている灰と骨が、どうしても父親だとは思えなかった。したがって、ここまで僕は一度も涙を流していない。
火葬場の係員が、「ここが頭です」「
ただ、細かいかけらになった父親の骨を拾う内に、いきなり僕の胸に
(……どうしたんだよ、父さん)
どういった感情なのだろう、たぶん一番近いのは怒りかもしれない。自分だけを残して
息ができない。周りがこげ茶と白のモノトーンになっている。
誰かが僕の手を掴み、少し離れた長椅子まで導いてくれている。柔らかな指の感触だけが
長椅子に座り、
(父さんなの、それとも母さん)
そうかもしれない、誰よりも自分を気にかけてくれている存在が僕の隣にいる。そんな気がしていた。
その反対側の左隣に大きな身体が座った。
月ヶ瀬専務が座っていた。僕を見つめているその目は真っ赤で、涙の流れた跡も見えた。
「……君が大人になり必要がなくなるまで、いつまでもあの部屋を使ってくれていい。それまでは僕らが君を……、おとうさんの代わりに……」
声が
僕は先ほどの姿勢に戻った。月ヶ瀬専務が何を言いたかったかは分かった、少しホッとした。これからも住み慣れてきた場所で暮らせるかもしれないと思ったのだ。右肩に手が置かれた。慣れ
(……そうか。沙耶さんだったんだ)
顔を右に見上げるように向けると、沙耶もまた、涙をいっぱいに浮かべて僕を見つめてくれていた。
(……
そう思った。同時に現実を受け入れられずにいた僕に、父親が永遠にいなくなったこと、もう誰もいなくなってしまった事実が脳内に流れ込んできた。
「……ひとりぼっちになっちゃったよ。どうすりゃ良いわけ」
少し笑って
沙耶は何も言わなかった。だがその代わり、肩に置いた手を外し、今度は両腕を僕の身体に巻き付かせ、
僕は声を上げて泣き始めた。彼女も
(三)
父親が亡くなっても、月ヶ瀬専務が
当たり前だが、
月ヶ瀬社長は僕の親族がそういった態度に出ることは、生前の父親から親族間の関係を聞いていて承知していたようで、淡々と親族には、「すべての面倒は
そしてこれまで以上に沙耶の家で朝食、夕食を採ることが増えていき、
「いらぬ遠慮は
沙耶の父親である月ヶ瀬社長も兄の月ヶ瀬専務もそう言ってくれた。
こうして僕はほぼ沙耶の家に厄介をかけることとなった。月ヶ瀬社長が夕食時にいないことは今まで通りであったが、高校二年になっている沙耶も、友達と夕ご飯食べてくるとか、部活で遅くなるということで、夕食の席にいないことがしばしばあるようになった。
沙耶のいない食卓は、どこか寂しい。自分がそう思うのだから彼女の母親はもっと寂しいだろうなと僕は思った。そして沙耶が夕飯時に帰宅しないのは、友達や部活のせいだけではないことが、僕と二人で夕食を採っている時に彼女の母親が、
沙耶に恋人ができたようである。
恋人の名前は、
僕の父親が亡くなった夏に、沙耶と牟田口の真剣交際が始まったようだ。彼女の牟田口へののめり込みは周囲が驚くほどで、普段あまり沙耶の行動に
沙耶に恋人ができ、どんどん夢中になっていくのを見るのは、僕自身全く嬉しくなかった。いつも親しく接してきてくれる沙耶が、その男には自分以上に親密な態度を採っているのだ。一方ではそれは仕方がないとも思う部分もあった。
僕は沙耶ほど綺麗な女性を見たことがない。ということは沙耶が好きになる男は彼女同等かそれ以上の魅力がなければならないはずだ。牟田口という男はそうなのだろう。
僕はたぶん、そうではない。
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