第39話 春愁 其の一

「──はあっ……。はあっ……」


 視界が霞む。もうすぐ訪れるはずの春の日差しの暖かさはどこにもなく、息を吸う度に肺がキリキリと軋み、痛みに耐えかねて吐き出した浅い息は、温度を奪われて白い靄となり、やがて空気中へと溶けていく。生命活動が危ぶまれるほどの極寒。さっきまでかじかんで痛かった身体も、すでに感覚を失っている。

 ──眠い……。

 脳髄が凍り付いていくのを感じる。もう何も考えられそうにない。瞼が落ちていく。霞んでいた視界が、徐々に暗くなっていく。

 もう、良いや……。このまま眠っちゃおう……。

 そのまま目の前を完全なる闇が覆い、どこまでも深く、安らかな眠りに落ちていく──。


「──クロエさんっ!!」

「──っ!?」


 耳をつんざく悲鳴。私の名を呼ぶ誰かの声。それが、冷たい水の底から、すんでのところで私の意識を引っ張り上げる。

 いま……なにしてたんだっけ……?

 呼び声に反射で顔を上げると、そこには一筋の光が見えた。数秒にも満たないほんのわずかな間隙。脳が覚醒を迎えた頃には、網膜がとらえたその光が、既に剣の像を成していた。走馬灯でも見ているかのようにスローモーションでシーンが進む。

 眼前に迫る刃。腕を掲げるのも間に合わない。抵抗するすべがないことを悟ってしまった脳が、段々とその光景を現実の時間と同期させていく。閃く切っ先が、私の首を捉える、その瞬間──。


 ──ガキィィ……ン!


 甲高い金属音が鳴り響く。目の前に赤い火花が散り、その火花よりも鮮烈な赤が剣と私の間に立っていた。


「──はあぁっ!」


 裂帛の気合とともに大剣を薙ぎ払うソフィア、薙ぎ払った慣性をものともせずに私の横にまでバックステップし、相手に鋭い視線を向けたまま、声だけをこちらに投げかける。


「動けるか?」


 返事をしようと口を動かすも、上手く声が出ない。残り僅かな力で首を横に振ると、気配で感じ取ったのか「分かった」と返すソフィア。

 すると彼女は、何を思ったか突然私の身体を脇に抱えだした。


「援護を頼むっ!」


 そして、そのままくるりと後ろに振り返り、後衛陣の元へと一目散に駆け出す。


「ベラ!二人に近寄らせないで!シロナは目くらまし!」


 装備に仕込まれた金属プレートと剣の鞘がぶつかり合いガチガチとうるさい中、指示が聞こえた。

 退避する私達を逃がすまいと気配が迫ってくるが、纏っていた影を脱ぎ捨てたベラがそれに応じる。極寒の領域の中心へと魔力が集まり、私達の背中を打ち抜く魔法が放たれる瞬間、一つの魔力の塊が弾け、光が爆発する。私達を捕捉していた魔法が乱れたその一瞬の隙を逃さず、複数の小さな雷撃が放たれる。まるで決定打にはなり得ない、微量の魔力が注がれたその魔法はしかし、水属性の魔力で満ち溢れていた極寒の領域を蹂躙し、術者の意識を乱すことに成功したようだ。

 何とか後衛陣の下にたどり着いたソフィアは、私をゴロンとその場に投げ捨て、今度はベラの援護に向かう。


「シロナはクロエの治療を。私もベラの援護に集中するわ」

「はい!」


 そう言うと、また魔力を集中させたカペラは走り出した。地べたに横たえられた私の腹部に小さな手が当てられる。


「深呼吸してください。今『検査サーチ』しますから」


 シロナの優しく静かな声が、温度をとり戻した耳朶に響く。当てられた手から魔力が注がれ、私の体内魔力と混じりあい、血流の様に体の隅々まで循環していく。少しの異物感に吐き気がこみ上げるが我慢する。循環をおえた魔力が再び彼女の手に戻っていった。


「皮膚の裂傷、極低温による感覚麻痺、それから……」


 魔力から流れ込んでくる情報を読み取り、独り言のように症状を述べていく彼女。少しの間をおいて、また魔力を流し込まれる。今度の魔力は、私の体内魔力に似ていて、先ほどのような気持ち悪さはなかった。


「少し痛みますよ」

「うっ……!」


 その言葉と同時に、患部から激しい痛みが起こり、失われた体温が戻ってくる。一分もしない内に、体の全機能が正常となった。素早く立ち上がり、拳を開いて閉じてを繰り返す。

 ──うん、問題ない。


「ありがとう、行ってくる」


 そして、仲間の元へと走り出した。


 ◇


「止めっ!」


 父さんの声に、その場の全員がピタリと動きを止める。


「休憩の時間だ。怪我はすぐに処置すること。シロナさんが対処できない場合は医務室に相談。それとシロナさんも無理しないこと。良いね?」


 私達は父さんの指示に従い、休憩に入る。体のあちこちに切り傷や痣があり、まだ血も止まっていないものもあるが、幸いシロナの手に余るものはなかった。無事に全員の治療が終わり、一息をつく。

 周りを見渡せば、私達と同じかそれ以上に傷だらけの生徒達でいっぱいだった。咽るような血の匂いに、もはや学校の面影はどこにもなく、パーティーで回復魔法が使える人が忙しなく走り回っている姿は、私に元の世界の歴史の教科書で見た野戦病院の写真を思い出させた。

 まだ十歳にも満たない子供達が受ける訓練にしては過酷に思えるかもしれないが、私達の意思でここに残っている以上、私達には生き残るために強くなる義務がある。

 先程まで私達のパーティーと模擬戦をしてくれていた父さんと母さんに目を向けると、二人共にっこりと笑みを返してくれた。だけれど、その奥には少しの気疲れが見える。それは私のわがままの所為だろう。

 年が明け、本格的な訓練が始まった当初、二人は違うパーティーの子達の相手をする予定だった。話を聞くに、私達に本気で剣を向けるのが嫌だったらしい。

 そりゃそうだ。戦時中だからと言って、喜んで自分の子供に武器を突きつける親はそうそういないだろう。私だって殺す気で剣を向けられるのは嫌だ。だけれど、別の人達が相手になっても、二人以上に信頼できるようになる気がしなかった。私のことを溺愛してくれている二人なら、私のことを死なせないように、私のことも、私と背中を預けあう仲間のことも、本気で鍛え上げてくれるだろうと思ったからだ。

 そして私は、話を聞いたその夜に二人が寝泊まりしている宿舎を訪ねて頼み込んだのだ。すると二人は、困ったように笑い、私のわがままを引き受けてくれた。初めて二人の親心を利用したことに、胸が少し痛んだ。

 お礼を言って寮に帰ろうとしたら、今度は二人が「帰る前にもう少しだけ話をしよう」とお願いをしてきた。そのお願いを二つ返事で聞き入れた。

 その日は、そのまま二人と一緒に寝た。私のことを抱きしめる母さんの腕が、少し震えていたのを忘れられない。

 こんなに私達のことを想って、心を鬼にしてまで訓練してくれているのだ。たとえ戦火の中だろうが、生き残って天寿を全うする以外の選択肢があるはずもないだろう。


「おーい、ご飯食べながら反省会するぞー」


 そうこうしている内にフィードバックの時間になり、母さんが私達を呼ぶ声が聞こえてくる。

 魔族との戦争において、攻めに回る冒険者の戦闘のほとんどは複数パーティーでのゲリラ戦であるため、訓練で自分のパーティーの強みを知ることで、臨時で組む味方との連携が強固な物になりやすく、その訓練の中で最も重要なのがこのフィードバックの時間だ。

 皆で食卓に着き、消費したエネルギーを補充しながら、戦術や個々の技量に至るまで話し合う。


「ソフィアは力任せに振りすぎ。せっかくの筋力が活かしきれてない。特に振り抜いた後の重心が傾きすぎだね。あれじゃ余計な体力を使っちゃって長く戦えないよ」

「はい!」

「カペラさんの判断は良かった。魔法の選択もタイミングも相手の連携を邪魔したり、逆に相手の魔法を利用したり。今日の課題は……強いて言えば威力調節くらいだろうか。余力を残すことは大事だが、使いどころを見失っては本末転倒だよ」

「確かに……」

「ベラは気配を隠すのは上手くなったけど、今度は隠そうとしすぎだね。相手はモンスターじゃなくて知能のある魔族さ。不意打ちと正面での戦闘で駆け引きができないと、こっちの神経だけすり減らされてジリ貧さ」

「わかった」

「シロナさんの回復魔法は日に日に上達している。速度も精度も文句のつけどころがない。ただ治癒の他にも色々できることがあるのにやらないのは勿体ない。魔力操作の精度が高いことに自信をもって策を提案できると尚良し、かな」

「ありがとうございます!」


 二人が交互に所感を述べていき、最後に私の番がくる。


「「クロエは」」

「遠慮しすぎ。獲物も軽くて機動力があるんだから、もっとガンガン攻めな。回避できる動体視力ももってるし、いざとなれば今日みたいに味方が援護してくれる」

「魔法が活用できてない。戦場では手札が多いほど有利になる。威力も実践レベルといって問題ないのだから使わない手はない。不安だというならまず訓練で使うことを意識しなさい。それが一番の不安の解消法だよ」

「「それから──」」


 そこから丸々三十分、まるで呪文の詠唱のようなアドバイスが続いた。

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